六
いくつもの蓮の葉や花が浮かぶ小さな池の底で、私は生まれた。
水の中は一面土色に染まっていて、ほとんど何も見えなかった。水質は悪いとは言えないのだが、泥で濁った水はお世辞にもきれいとは言えなかった。
卵の殻を破った瞬間に、頭を何かに掴まれたようにぐいぐいと全身が浮き上がるのを感じた。頭の葉が水の浮力で浮き上がったのだと、教えられてもいない事実が頭の中にはあった。
水面まで浮き上がった私は、顔を水の外へと出した。泥水で暗かった視界に、外の光は眩しすぎるくらいに明るかった。
目が慣れたところで、池の周りを見渡してみた。池自体は円形ではなく、二つの円の一部分が重なった形をしていた。池の外には様々な種類の草花が所狭しと並んでいた。小さな花、大きな花、背の低い草木、高い草木。南国の植物から北国の植物まで。ありとあらゆる環境で育つ植物が一堂に会し、活き活きと育つこの場所は、植物の楽園と呼んでも過言ではない様子だった。
私は岸を目指して短い脚をじたばたと動かした。水に住む生物とはいえ、いつまでも水の中に潜っていられるわけでもなかった。それほど大きくはない池の岸にたどり着くのはたやすいことだった。
私がのそのそと池から上がると、驚いたような声が頭上から聞こえた。顔を上げると、あちこちに染みのような跡が目立つ白衣を着た年若い男が、声に違わず驚いたような表情で私を見ていた。この男がこの場所の管理人だということはすぐに分かった。男の白衣からは、周りに生えている草木と同じ匂いがした。
男はしゃがみ込んで、私にこんなことを訪ねた。
「君は……もしかして、生まれ変わってここに来たのかい?」
私はつい先ほど生まれたばかりだ。生まれ変わったかどうかなど、知る由もなかった。だからこそ何も言わず、ただ男の目を見つめて返事とした。
「まあ、分からないよな」
はじめから期待していなかったような言葉だったが、男の声は少し残念そうだった。私が首を縦に振っていれば、男の顔は晴れていたのかもしれない。だが、嘘をついてまで男に希望を与える義理など持ち合わせてはいなかった。私が答えを持っていない以上、私がどんな答えを返しても男のためにならないことは分かりきっていた。
白衣の男は顔を上げて、眩しいばかりの笑顔を見せた。見た目は大人なのに、子供のような雰囲気を漂わせる笑みだった。
「私は<ruby><rb>天道廻</rb><rp>(</rp><rt>てんどうめぐる</rt><rp>)</rp></ruby>。植物や生物と、輪廻転生の関係を研究している者だ」
何の変哲もない自己紹介のはずだったのだが、私の頭の隅では何かが引っかかった。それが何なのか、その時は見当もつかなかった。それでいいと思った。世の中には分からなくてもいいことがたくさんあるのだから。
「君のことはリンネと呼ぶことにするよ。よろしく」
男はそっと手を差し伸べた。敵意は欠片も感じられなかった。私がその手を拒む理由は、これといって見当たらなかった。
こうして共に暮らすことになった天道廻は、この世界では「変わり者」とか「異端者」などというレッテルを貼られた人間だった。なんでも、庭の植物たちは皆、ポケモンが生まれ変わったものだというのだ。ポケモンの死骸を見つけるたびに埋葬し、その場所に生えた植物と埋めたポケモンとの関係を調べてきたのだとか。命を失った者を埋葬すること自体は自然なことではある。が、それを研究のために行ったということが、他の研究者たちから見れば非人道的だったのだろう。
廻がどんな扱いを受けていようと、私は痛くもかゆくもない。ただ、彼の研究には興味が湧いた。
私に与えられた「リンネ」という名は、彼が研究している「輪廻転生」から取ったものだと、後に廻は語った。
とある宗教の世界には、逆境の中で心を磨き、魂を昇華させることであの世へ行けるという考え方がある。そのために何度も生まれ変わるというのが輪廻転生である。
蓮は、濁った泥水の中から美しい花を咲かせる植物である。これが輪廻転生の考え方と似ていることから、私が背負う蓮は輪廻転生の象徴ともいえる存在であると廻は言った。加えて、私が一度死んで、池の泥水の中で別の命に生まれ変わってきたものと、廻は思い込んでいるようだった。
輪廻転生の際に送り込まれる世界は六つ。
多くの苦しみと少しの楽しみの中で、自らの意思で生きる人間道。
生前に犯した罪を償う地獄道。
本能のみに従って生きる畜生道。
戦いの中で生きる修羅道。
飢えと渇きに苦しみながら生きる餓鬼道。
そして、快楽の中に生きる天道。
生まれる前の記憶が残っている訳ではないが、廻の自己紹介を聞いた時に引っかかったのは、自分がこれらの道を巡ってきたからなのではないかと勝手に納得してしまった。そして、この場所で廻と巡り合ったこともまた必然だったのではないかと思った。
勿論、真相は闇の中だ。だが、それを知ったところで一体何になろうか。
廻曰く、天道に生きる生物はみな頭に蓮の花を咲かせ、通常の生物よりも長く生きるのだという。そして私の頭には、私と同じ姿の別の個体にはない蓮の花が咲いている。廻の話が本当ならば、私は普通の蓮の葉の生物よりも多くの出会いと別れを繰り返していくのだろう。そしていつかは廻を見送る日が来るのだろう。快楽の中に生きる世界だとはいっても、自分一人が残される孤独を感じながら生きることが果たして快楽なのかどうなのか。これから生きていく中で答えは自ずと出てくるのだろうが、答えが出るのが先か、私が朽ち果てるのが先か。生まれたばかりの私にとっては、分からないことだらけだった。
ならば答えが出るその日まで、生きてやろうではないか。
そう心に決めて覗き込んだ、私が生まれた池の奥底に、横倒しになってゆっくりと回る、紅の水車を見た気がした。
******
巨大な赤い輪が止まる。輪の外側に取り付けられた椅子から、蓮の葉と花を背負った生き物が降りてくる。
おや、お久しぶりですね。
覚えていない?これは失礼しました。
私はよく覚えています。
もう随分と前の話ですが、あなたは手違いで数日の間に五回も死んだ方でした。
確かあの時は、最後に天道に転生したはずなのですが……
と、今のあなたには関係のない話でしたね。コホン、それでは……
おめでとうございます。あなたの転生が決まりました。
あなたはこれから新しい命を受け取って、人間として生まれます。
くれぐれも交通事故には気を付けてくださいね。
それから、別の人間が持つ球体から急に飛び出す生き物にも。
始まりはいつも突然に、偶然の連続から生まれるものですから……
私から申し上げることができるのは以上です。
それでは、あちらの扉へお進みください。
どうかあちらでもご達者で。
ぎしぎしと音を立てて、巨大な扉が開く。
ここへ来たばかりの生き物は人間へと姿を変えて、ちょうどいい大きさになった扉をくぐる。
新たな世界への期待を胸に、新たな命を全うするために。
赤い輪は回る。
命は廻る。
命ある者が心の迷いを振り切るまで、永遠に、永久に――――
完