四
私が生まれたのは、石のブロックを積んで作られた建物の一室だった。鉄格子で仕切られたその場所は、部屋というよりは牢獄だった。
鉄格子の向こうは通路になっていて、その向こうに同じような部屋が並んでいた。おそらく、今いる部屋の左右にも同じように部屋がいくつも並んでいるのだろうと思われた。
真向かいに見える部屋には、私よりもたくましい体つきの、腕が四本ある二足歩行の生き物がじっとこちらを睨みつけていた。負けじと睨み返してやると、四本腕はいきなり笑い始めた。何が可笑しくて笑ったのか、私には皆目分からなかった。ただ、無性に腹が立った。四本腕の表情が、私を嘲っているかのように思えてならなかった。
どこかで気の抜けたラッパのような音がした。通路の右奥からぞろぞろと足音が聞こえてきた。ガチャンガチャンと金属がぶつかり合うような音と、獣の吠え声のような音が一緒に聞こえてきた。
音のする方から近付いてきたのは、大勢のニンゲンと、ニンゲンが手に持つ鎖に繋がれた獣たちだった。
尻尾に蔦の葉を生やした、手足のある小蛇。
ひらひらと薄桃色のリボンをなびかせて歩く、四本足の獣。
見るからに凶暴そうな顔をした、空中を泳ぐ長魚。
蛇のような三つの首と、六本の細い翼を持つ竜。
茶色の襟巻を一杯に広げた、黄色いトカゲ。
私よりも小さいものから私よりもはるかに大きいものまで、様々だった。
その誰もが首に黒い輪を嵌めていて、そこから伸びる鎖でニンゲンに引っ張られていた。
その誰もが苦しげな、助けを求めるような表情をしていた。
誰一人として、ニンゲンに反抗しようとはしなかった。
ニンゲンの一人が、私の部屋の向かいの部屋の鉄格子も開け、中にいた四本腕に手に持っていた黒い輪を投げつけた。四本腕が受け止めようと構えた腕に、黒い輪は手錠のようにかみついた。するとどうだろう。四本腕は急に腑抜けたような顔になって、先に歩いて行った獣たちと同じように、ニンゲンについて行く。途中で四本腕は私の檻の前まで来て、鉄格子に拳を思い切りぶつけた。狭い通路に音が反響して、酷くうるさかった。思わず飛び上がった私を見て嗤う四本腕の背後から、人間が細い何かで背中を打った。ビシッと痛そうな音がして、顔をしかめた四本腕はそのままニンゲンに連れていかれた。
いい気味だ、と思いながら四本腕を眺めていると、ガチャリと音がして私の部屋の鉄格子が開かれた。私が身構える前に何かが投げつけられ、私の首にはまった。瞬間、全身から力が抜けた。立っているのがやっとの状態だった。獣たちが反撃できない理由は、この首輪にあるようだった。
来い。来なければあいつと同じ目に遭うぞ。
言葉には出さなかったが、首輪を投げたニンゲンは手に持った鞭を見せ、鎖を引いて私に意思を伝えた。私は渋々、そのニンゲンに従う他なかった。
私が連れていかれたのは、石造りの高い壁に囲まれた円形の広場だった。私より先に連れていかれた獣たちも、皆そこにいた。
ニンゲンたちは獣に掛けた黒い輪を外して、そそくさと広場を後にした。残されたのは六匹の獣と私。広場の端に円を描くように並んで互いに睨み合いながらも、何かを待ちわびるように各々が身構えている。
何も言われずとも、本能で感じ取っていた。こんな場所に連れ出されてやることと言えばただ一つ。戦いだ。
壁の上でぷわわわ〜ん、とラッパの音が聞こえた瞬間、私以外の六匹の獣は一斉に動き出した。
私に真っ先に襲い掛かってきたのは、向かい側の部屋にいた四本腕だった。他の獣には目もくれず、真っ直ぐにこちらへ走ってきた。体格差も戦闘経験も歴然の四本腕は、初めての戦いにはかなり分が悪い相手だ。だが、私の本能は四本腕から逃げるという選択肢を持っていなかった。相手がどんな技を使ってきてもいいように、体を低くして身構えた。
だが、この時私は忘れていた。私が気にすべき相手は、目の前の四本腕だけではなかったのだと。
私の背中に猛スピードで何かが激突した。後ろからの攻撃に対しては何の対策も施していなかった私は、簡単に地面に倒されてしまう。同時に、私の上にのしかかった何者かのすぐ上を、今度は目でとらえられる程度の(といっても実際はかなりの)スピードで暴れ魚が通り過ぎていった。暴れ魚はそのまま壁に追突した。土煙が視界を覆った。
私を押し倒した何かは地面に抑え込んだ私の上から降りると、キラキラと輝く光を撒き散らしながらどこかへ消えてしまった。土煙の中だったので姿は確認できなかった。
ずんずんと重い足音が聞こえて、私は咄嗟に地面を転がった。つい先ほどまで私がいた場所に、鍛え上げられた腕が突き刺さった。あの場から動かなければ、確実に命を落としていたことだろう。ひやひやとしながらも、私は神経を研ぎ澄ませて周りにいる獣の気配を探った。
背後から風切り音がした。地面を蹴って前に跳ぶが、背中が浅く切り裂かれた。浅いとは言っても、細く鋭い何かで切り付けられた背中はじくじくと痛む。振り返って見れば、薄くなり始めた土煙の向こうに、緑の蔦蛇が細長い葉を剣のように構えていた。体は小さいが、あの一瞬で私に近付いて斬撃を浴びせた素早さはなかなか侮れない。お返しにと地面を蹴って飛びかかろうとした時には、蔦蛇は土煙の中へと姿を消してしまった。
隠れた蔦蛇を炙り出すかのように、三つ首の竜が全ての口から紅蓮の炎を吐き出した。尻尾に火が付いた蔦蛇が、慌てた様子で土煙の中から飛び出した。私もその炎に巻き込まれ、やっとのことで火の手から逃れて地面を転がった。全身に大やけどを負ってしまったようで、地面に触れなくとも体中がひりひりと痛んだ。
私が標的を三つ首竜に変えて走り出そうとした時、キラキラと輝く光が土煙の中から放たれ、三つ首竜を打った。三つ首竜は地面に倒れ込んで、そのまま動かなくなった。それ以上火を噴く気配は全く感じられなかった。
壁の方からブクブクと音がしたかと思うと、先ほど壁に追突した暴れ魚が、その大きな口から勢いよく水流を吐き出した。水流は土煙を少しだけ晴らすと同時に、三つ首の竜が吐き出した炎を消し、周りにいた獣たちを吹き飛ばした。運よく私には当たらなかった。火傷を負った部分は冷やすべきだったが、水流の勢いはあまりにも激しく、一度まともに食らえば動けなくなってしまいそうなものだった。
今度はバリバリと何かが弾けるような音がした。私が音のした方に体を向けた直後、襟巻を広げたトカゲの体中から稲妻が走った。稲妻は私の左腕を撃ち抜き、勢い余って私の後ろにいた暴れ魚にぶち当たる。何かが焼け焦げたようなにおいが辺り一面に立ち込めた。主には私の背後からするものだったが、私の左腕も似たようなにおいを発していた。ひどく焦げ臭かった。
襟巻を広げてエネルギーを集め始めた雷トカゲを、鍛え上げられた腕が殴り飛ばした。あの四本腕だ。その背後から蔦蛇が振り下ろした草の刃を、振り向きざまに二つの手を用いて白刃取りの容量で受け止め、残りの腕で蔦蛇を薙ぎ払った。蔦蛇も雷トカゲも壁に激突して糸が切れたように動かなくなった。暴れ魚は既に雷トカゲの電撃でこと切れている。三つ首竜も、先ほど何者かに撃ち落とされてから動く気配はない。残されたのは、私と四本腕。もう一匹いたような気がしたが、その獣の存在は既に私の思考の中には無かった。
私が気にすべき相手は、憤怒の表情を浮かべながら既に私の方へと走り始めていた。既に多大なダメージを負っていたが、逃げようとは思わなかった。
四本腕が拳を繰り出す。私は避けてカウンターパンチを打つ。みぞおちを狙って思い切り打ち込んだはずなのに、四本腕は涼しい顔をしていた。パンチを繰り出したのとは別の二本の腕で私を持ち上げると、そのまま飛び上がって私を頭から地面に叩き付けた。ぼろぼろの腕で頭が直接地面にぶつかることだけは避けたが、立ち上がることはできても腕を持ち上げることはできなくなった。
四本腕はまだ私に向かってくる。私は四本腕の脛を狙って蹴りを放ったが、これも効果薄だった。四本腕は全く怯んだ様子を見せずに私に拳を突き出した。殴られた腹から激痛が全身に広がり、私は成す術もなく吹き飛ばされた。使い物にならない腕では受け身を取ることすらもままならなかった。意識を保つことだけで精一杯だった。
やっとのことで立ち上がった私に、四本腕は拳を振り上げながら迫った。
終わった。もう次の一撃で私は沈むという確信があった。
それでも一矢報いてやろうと、震える足で地面を蹴ったその時だった。
耳をつんざくような轟音が私の耳を打った。頭がくらくらして、何が起こったのかよく分からなかった。四本腕は一瞬硬直した後、そのまま何もできずに倒れ込んだ。
私よりもタフなはずの四本腕が簡単にやられたのだ。私が耐えきれるはずもなかった。
眩む視界の端にとらえたのは、ひらりひらりと桃色の光を放つ二本のリボンをなびかせる、四本足の獣だった。辺りに漂う光の粒を見て、最初に自分にぶつかったのはこの獣だったのだと直感した。攻撃しようとしたのか、あるいは暴れ魚から私を庇ったのか。分からないままに私の目の前が真っ暗になる直前、リボンの獣の空色の瞳が、私を憐れむような目で見ていた気がした。
次に目を覚ましたのは、生まれた時にいた部屋よりも大きく、先ほど戦った広場よりも小さな、円形の部屋の隅だった。体を起こそうとすると、全身がずきずきと痛んだ。このまま寝ておくべきだと判断して目を閉じると、ビシバシと何かで何かを打つ音が聞こえてきた。
部屋の真ん中に目を向けると、リボンの獣を複数のニンゲンが取り囲んでいた。ニンゲンはそれぞれ細長いムチを手に持って、何かを叫んでいた。そしてリボンの獣がそっぽを向くたびに、ニンゲンはムチでリボンの獣を打った。リボンの獣は苦しげなうめき声を上げた。その様子を愉しむかのように、ニンゲンは更に強くムチを振るった。
やめさせなければならないと本能が叫んだ。戦いの衝動に心が震えた。体は自然と動いた。
一番近くにいたニンゲンの首筋を、背後から思い切り殴った。体は小さくとも、ニンゲンを殴り倒すくらいはわけなかった。驚いた別のニンゲンがムチを振るう。私はお構いなしに飛びかかり、殴り、蹴り、頭突きを食らわせ、ありとあらゆる手段を用いて攻撃した。途中で何度もムチに打たれた。殴られ、蹴られ、投げ飛ばされた。円形闘技場で戦った時と同じ痛みがあちこちに走った。それでも、私がニンゲンたちに立ち向かうことをやめる理由にはならなかった。四本腕には全くと言っていいくらい通用しなかった攻撃が、今はよく似た姿の生き物を打ち倒している。そこにいた全てのニンゲンを地に這いつくばらせても、煮え立つ感情を抑えることはできなかった。
部屋の四方の通路から騒ぎを聞きつけたニンゲンたちがぞろぞろと集まってきた。ガチャガチャと音を立てて、黒光りする筒のようなものを私に向けて構えていた。それが何なのか分からなかった。ただ、ニンゲンは打ち倒すべき敵であるという意識に囚われて、私は猛然とニンゲンたちに襲い掛かった。
背後からやめろと忠告が飛んだ。リボンの獣の鳴き声だった。
存在しない後ろ髪を引かれたように振り返った瞬間、胸元に鋭い痛みが走った。目をやると、私の指の太さよりも小さな穴が開いて、そこからだらだらと血が流れ出していた。
全身から力が抜けて、私は地面に膝をついた。心臓が脈打つたびに、真っ赤な血液は際限なく溢れ出した。体を支えることもできず、私は地面に倒れ伏すしかなかった。
目の前が真っ暗になった後で、闘技場で聞いた衝撃波にも似た鳴き声が聞こえてきた気がした。だが、私にはもう何の関係もなかった。
声を聞いても、私の目が開かれることはなかった。
感覚も、意識も、既に私の体から離れていた。
*
どこまで続いているのか分からないほどに巨大な赤い輪。その外側に無数に備え付けられた椅子に、私は座っていた。ニンゲンのようでニンゲンでない生き物の姿をしていた。
輪はゆっくりと回っていた。時々音もたてずに動きを止めて、しばらくするとまた動き始めた。
待ちくたびれてしまいそうなほどに長い時間、私はここで私の番が来るのを待っていた。何の順番かは分からなかった。ただ、止まったり動いたりを繰り返すこの椅子に座って待っていれば、いずれ何かが起こるだろうという気がしてならなかった。
何が起こるのかはさっぱり分からなかった。だが、それでいいと今は思えた。随分前には次に何が起こるのかとビクビクしていたような気がするが、それが正しい記憶なのかどうかさえ、私には分からなかった。そして、しばらくは何も起こらなかった。何かを期待している訳でもなく、私はただぼんやりと、椅子が進む先を眺めていた。
輪の回転が止まった。私の椅子のはるか前にある椅子から何かが降りていくのが見えた。電車のプラットホームのような場所だった。もうすぐ自分の番が来る。分かってはいても、何の感動も覚えなかった。
「何度ここに来れば気が済むのでしょうね……」
椅子が動きを止めてすぐに、誰かにこんなことを言われた。
プラットホームにたどり着いた私を待っていたのは、蓮の葉を背中に乗っけて地面に這いつくばった奇妙な生き物だった。それまでに来たという記憶がないにも関わらず、出会い頭に恨み言のようなことを言われるのは不本意だったが、蓮の葉の生き物は早くしろとでもいうように短い脚で私を招く。私は椅子から立ち上がってプラットホームに降り立った。
私が立ち止まったのを確認して、蓮の葉の生き物はこんなことを言った。
「おめでとうございます。あなたの転生が決まりました」
それからほとんど間髪を入れずに続けた。まるで私が口を挟むことをかたくなに拒んでいるかのように思えた。
「あなたは死にました。そしてこれから新しい命を受け取って、植物として野に生まれます。種族名はカイス。あちらの世界に存在する植物の中では比較的大きく、甘みの強い実をつける木です。代わりと言っては何ですが、あなたは成長するために大量の水を必要とするでしょう。私から申し上げることができるのはそこまでです。あちらの扉をくぐってください」
私の背丈とほとんど変わらない大きさの扉を目で示しながら、蓮の葉の生き物は相変わらず淡々とした声で言った。木でできた、小さい割に重厚な造りの扉だった。
「待ってください。植物に生まれるって、扉をくぐった後はどうやって――――」
「後が閊えているので、質問は受け付けません。とりあえず、扉をくぐれば分かりますので」
私が言い終える前に、蓮の葉の生き物が釘を刺した。ここへ来るまでの長い待ち時間の間にこんな態度の生き物に出会ったら、すぐにでも殴り掛かってやろうかという気持ちが沸き起こったことだろう。だが、そんなことをしても仕方がないだろうと思うと、不思議と反抗心は起こらなかった。蓮の葉の生き物に向かい合っている間は、何故だか冷静でいられた。
私は踵を返して、扉へ向かって歩き出した。一歩一歩扉に近付くにつれてニンゲンのようだった体は段々と膨れ上がり、手足はもう必要ないとでもいうように、体に取り込まれて消えていった。背は見る見るうちに縮んで、扉をくぐる直前には変化する前の三分の一くらいの大きさの球になっていた。
私が扉の前まで来ると、ギシギシと音を立てながら扉はひとりでに開いた。私は自分の力でそれ以上進むことができなかった。
背中に何かがぶつかった。犯人が蓮の葉の生き物であることは、その姿を見ずとも明らかだった。
私は何の抵抗もできないまま、扉の向こうの闇の中へと転がっていった。