三
顔も名前も知らない誰かが言っていた通り、私はニンゲンの元で生まれた。それが誰なのか、どんな姿をしていたのかは思い出すことができなかった。
灰色の毛の犬の姿で、性別はオスだった。ニンゲンは名乗らなかったので、なんという名前なのかは分からなかった。とりあえず、このニンゲンを仮にAと呼ぶことにした。
生まれたばかりの私を見て、Aは言った。
「なんだ、メスじゃないのか」
私の性別が望んでいたものでなかっただけで、こんなにも露骨に嫌がるとは。Aの失望感が心に突き刺さって、私は何も言えなかった。ならばなぜ私はAの元に生まれたのか。考えたところで答えが出るはずもなかった。
「まあ、一応能力値だけ見てもらうかな」
そんなことを言って、Aは私に赤と白の二色で彩られた球体を押し当てた。真っ赤な光線が私を包んだかと思うと、私の体はみるみるうちに縮んでいった。赤と白の球体が真ん中の黒い帯のところで二つに割れて、私はその中に吸い込まれた。
私が完全に球体の中に入ったことを確認すると、Aは別の球体から厳つい顔をした灰色の巨大な鳥を呼び出した。Aがその背に乗ると、巨鳥はバサバサと翼を羽ばたかせて飛び上がった。地面は急速に離れていき、十分に高い所まで来たところで、どこかへ向かって一直線に進んでいった。
Aの腰につけられた球体の中から、私は外の様子を眺めていた。はるか下で豆粒のようになった街や森は、どんどんと後ろへ流れていった。
降り立ったのは、何やら巨大なテーマパークのような場所だった。
Aは地に足をつけると、灰色の巨鳥を赤白の球体に収めて歩き出した。
巨大な門を抜け、賑やかな広場を抜け、たどり着いたのは天まで届くのではないかと思えるほどに高い、ガラス張りの塔だった。
Aは周りにいる別のニンゲンや生き物には目もくれず、真っ白な服を着たニンゲンの元へと真っ直ぐ歩いて行った。
「このポチエナの能力を見てください」
Aは白衣のニンゲンに私が入った球体を渡した。白衣のニンゲンは球体の外からじろじろと私を眺めていた。それから顔を上げてこう言った。
「ふむ、このポチエナはまずまずの能力を持っている。ちなみに、一番いい感じなのは防御だね。まあまあの力を持っているとジャッジできました」
「……ありがとうございます」
Aは苦々しい顔をして、白衣のニンゲンに礼を言った。それから私の入った球体を受け取ると、踵を返して塔を後にした。
「ちっ、能力値もカスかよ」
私を見ただけで、私も知らない能力値を見極めた白衣のニンゲンには驚きだった。
だが、私の能力値はそれほど良い物ではなかったらしい。
落胆のせいか別の原因があるのか、Aの顔には疲れ切ったような暗い影が差していた。
その後すぐに、私は野生に返された。
と言えば少しは聞こえがいいのだろうが、要は捨てられた。どこかも分からない場所にひとり、いや、一匹で放り出された。生まれたばかりで何も知らない私は、何をしていいのか、どうやって生き延びていけばいいのか分からなかった。
待って。
鳴き声で訴えても、Aは振り返らなかった。
どうして置いて行くの?
Aが自分を捨てた理由が分かっても、捨てられたという事実が理解できなかった。
望まれていないのなら、生まれた意味はあるのだろうか。
必要とされないのなら、生きている意味などあるのだろうか。
そんなことを考えた矢先、何かが私の首筋に噛み付いた。
私の思考を読み取ったのか、単純に獲物として襲ったのかは分からなかった。
鳴き声を上げる暇も、痛みを感じる暇もなく、私の意識はぷっつりと途絶えた。
*
巨大な歯車のような赤い輪の端に、無数に備え付けられた椅子。その一つに、私はちょこんと腰掛けていた。灰色の毛の犬の姿だった。
私はここで餌を待っていたわけではない。主人を待っていたわけでもない。私の番が来るのを待っていた。何の順番かはよく分からなかった。ただ、行くべき場所が思いつかなかったから、どこかに連れて行ってくれそうなその椅子にじっと座っていた。
輪は欠伸が出そうなほどゆっくりと回っていた。時々動きを止めたかと思うと、またゆったりと動き出す。その繰り返しだった。それでも、何故だか私が退屈を感じることは無かった。心が酷く空虚で、今この瞬間にどんなことが起ころうとも、何の感情も芽生えそうもなかった。
周りには誰もいなかった。私一人――――いや、一匹だけが、この椅子に座っていた。私の視界のはるか向こうに同じような椅子があって、そこに誰かが腰掛けているのが見えた。腹の底から声を上げても届きそうにない場所だった。
輪が進む先に、観覧車の乗降口のような場所があるのが見て取れた。私の前の椅子に座っていた誰かが降りていく姿が見えた。その間だけ、輪の回転が止まっていた。
途中で止まる輪の秘密が暴かれたというのに、感動の「か」の字も浮かばなかった。ただ、もうすぐ私の番が来ることだけが、空っぽの心をうずめていった。
止まっていた輪が再び動き出した。それまで何とも感じなかった待ち時間が、この時ばかりは随分ゆっくりと進んでいるように思えた。
乗降口の前で椅子が止まった。私は椅子から腰を上げて飛び降りた。
乗降口では背中に大きな蓮の葉を背負った、私と同じくらいの大きさの生き物が待っていた。
「随分と早いご帰還で」
開口一番、訳の分からないことを蓮の葉の生き物は口走った。ここに来るまでに随分と待たされた感覚があるにもかかわらず「早い」とは、皮肉にも程がある。そもそも、来たことのない場所に帰ってくるということがあるだろうか。
「どういうことでしょうか。私はここに来た覚えがないのですが」
「……そうでしたね。失礼しました」
蓮の葉の生き物は目を伏せてぺこりと頭を下げるのだが、元々頭の位置が低いため頭を下げているようには見えなかった。口調も淡々としていて、そういう対応をするように定められた機械のような印象を受けた。
頭を上げた(ようにも見えない)蓮の葉の生き物は、仰々しく咳ばらいを一つしてからこんなことを言った。
「おめでとうございます。あなたの転生が決まりました」
本来ならば喜ぶべきことなのだろうが、その口調のせいでおめでたいことのようには思えなかった。私がその言葉に込められた意味を模索しているうちに、蓮の葉の生き物は自らの話を続けた。
「簡単に説明させていただきますね。あなたは一度死にました。そして、ぐるりと一周回ってここに戻ってきました。上からの指示により、あなたはもう一度命を全うしてもらいます」
「待ってください。それは一体どういうことでしょう」
私は思わず口をはさんだ。いきなり転生などと言われても、何のことやらさっぱり分からなかった。蓮の葉の生き物は冷ややかな目でじろりとこちらを睨んで、
「後が閊えているので、質問は受け付けません」
と言う。声に圧力は感じなかったし、蓮の葉の生き物ににらまれたところで怖くもなんともなかった。それなのに、膨れ上がった不平不満がすごすごと萎んで、それ以上何を言う気にもなれなくなった。
私が黙ったのを確認して、蓮の葉の生き物は続けた。
「あなたは今から新しい命を受け取って、剣闘獣としてニンゲンの治める国に生まれます。種族名はバルキー。ニンゲンと似た姿を持つ、格闘タイプのポケモンですね。私から申し上げることができるのはそこまでです。あちらの扉をくぐってください」
蓮の葉の生き物は短い前足で私の背後を示すと、回れ右をして何も言わなくなった。赤い輪が再び回り出す。もう私が座っていた椅子には戻れない。先ほど質問を断られたため、今から蓮の葉の生き物に何を聞いても答えてはくれないのだろう。
仕方なく、私は扉へ向かって歩き始めた。一歩足を進めるごとに、私の体からふさふさの毛が抜け落ち、四本の脚は細く、長くなっていった。地面についていた前足を上げると、自然と後ろ足だけで歩けるようになった。鶏冠のような三つのでっぱりが頭にできているのが、触ってみて初めて分かった。両手首と腰には包帯のような模様、足は茶色の靴を、腰は同じ色のパンツをはいているように丸く膨れ上がった。
扉の前に来た時には、すっかり二足歩行に馴染んでいた。細い両腕で軽くジャブを打ってみた。細く軽い腕はその見た目に反して力強く、一秒間に数十発ものパンチを撃ち出せそうな気がした。
戦いの衝動に駆られながら、私は扉をくぐった。扉の向こうの闇の中でも自分を見失うことはないという自信が、私を強く後押ししていた。