幸せの呪文
槐大学病院のベテラン医師、須藤巌治の元にやって来たのは、一人旅を始めてもよさそうな年齢の少年とその母親だった。
「最近、この子が何をするにもつまらないというのです。何でも、一度『幸せの呪文』というものを聴いて幻覚を見たようでして」
母親の言う通り、少年は虚ろな目をしていた。目に映るものが何もかもつまらないもののように思えてならない、そんな印象を受けた。
この手の患者を、須藤は毎日のように相手していた。今日もこれで四人目だ。ここまで若い子供がどうして、とは思わない。こうした症状を訴える患者の年齢層は、子供から大人まで幅広いものだった。
「来年には、この子も旅に出るので……それまでにどうにかしてやりたいんです。……今までの、何事にも好奇心をもって接するこの子に戻してやりたいんです」
母親は必死だった。それほど我が子のことを想っているということが、かつて同じくらいの年齢の息子を旅に送り出した須藤にはよく分かった。
「……分かりました。治療は苦痛を伴うことになりますが、それでも大丈夫ですか」
「息子が元に戻るのなら、どんな方法でも構いません。お願いします。どうか息子を……」
母親の覚悟は本物だと考えた須藤は、懐から徐にモンスターボールを取り出した。
「では、治療を始めます。お母様はこのヘッドホンをつけて、私が手を叩くまで絶対に外さないでください」
少年の母親がヘッドホンを装着したのを確認してから、ボールのスイッチを押す。中から出てきた長年の相棒を優しく撫でてから、須藤は自分用のヘッドホンを耳に当てた。
「では、始めます」
少年は震えていた。突然のように目の前に現れた惨状が、少年の心を恐怖のどん底に叩き落とした。
それまで目の前にあったすべてのものが、音を立てて崩れ去っていく。机も、椅子も、目の前にいた人間も、後ろで待っている母親も。何もかもが壊れて荒れ果てたその場所に、残ったのは少年一人だけだった。
「やめて……」
かすれた声は、誰にも届かない。代わりに、呪文のような高い声がいつまでも耳の奥で騒めいている。全ての始まりはその声を聞いてからだ。
幸せになる呪文と聞いてやってきたのに。
こんな絶望を味わわせるなんて。
バチン!と少年の目の前で鋭い音がした。その音が、少年を支配していた全てを吹き飛ばした。
少年の周りの風景が一瞬にして崩れ去った。白衣を着た頑固そうな顔の男――須藤が、少年の顔を覗き込んでいた。あれほど耳に残っていた不愉快な呪文も、少年の目に宿っていた虚ろな光も、いつの間にか消えてなくなっていた。
「もう大丈夫だ。これからは呪文なんかに頼らず、自分で幸せを見つけなさい」
須藤は顔に似合わぬ優しい手つきで少年の肩をぽんと叩く。それから、後ろで待機していた少年の母親に小さな紙きれを渡した。
「精神安定剤を三日分出しておきます。一日三回、毎食後に服用させてください」
少年の母は何も言わずに処方箋を受け取って、須藤に深々と頭を下げた。それから今にも消えてしまいそうな声で「ありがとうございました」と告げて、未だに震えが収まらない息子の手を引いて診療室を出ていった。心なしか、治療を受けていない母親自身も震えているように須藤には見えた。それがヘッドホンの不具合によるものなのか、息子の苦しむ姿を見ていられなくなったのかは、須藤には分からなかった。
*
「いいですか?『幸』という漢字は、『辛い』という漢字に一本棒を足してできるものなのです。つまり、幸せと辛いことは表裏一体なのです」
ある言語学者兼ポケモン学者がこう言って、あるポケモンの図鑑に書いてあった紹介文に訂正を施した。元々一部の人間のみが好んで連れていたポケモンだったが、図鑑訂正のニュースが流れたその日のうちに、世界中でそのポケモンを手に入れようとする者が続々と現れ始めた。需要が高まったからといって個体数が一気に伸びるわけもなく、そのポケモンはとてつもない額で取引されるようになった。中にはそのポケモンを連れて店を開き、訪れた人やポケモンを幸せにするという謳い文句で商売を行う者まで現れた。
そのポケモンは――――――
呪文のような 鳴き声を 出して 耳にした 相手を 頭痛や 幻覚で 苦しめる。
苦しめるもの だけでなく 幸せにする 呪文も ある。
*幸せの呪文
「全く……これで何件目だ……」
つい先ほど出ていった患者のカルテを整理しながらも、須藤は頭を抱えたいような気持ちに苛まれていた。あのポケモンの記述が書き換えられて一ヶ月が経とうとしていた頃、突如として無気力を訴える患者が急増したのである。体を検査しても原因は一切見当たらなかった。それもそのはず、原因は彼ら彼女らの頭の中にあったのだから。
人間は度を越した状況に一度遭遇すると、それよりも軽い状況に対する反応が薄れてしまう。そして、同じレベルの状況には、次第に飽きが来てしまう。これは恐怖にも興奮にも言えることである。そして、もちろん快楽にも。
そのポケモンが呟く呪文は、確かに「幸せの呪文」であるようだった。聴いた者に一時的な快楽を与えるとの報告が上がっている。一度その呪文を聴いて快楽を得た者は、更なる快楽を求めて呪文を聴かんとする。そして快楽が得られないと分かると、途端に無気力状態に陥ってしまうのである。
要は、麻薬の類と同じなのである。初めは少量でも大きな効果を得ることができるが、次第に体に耐性がついて、摂取量が増えていく。それが自らの体を蝕んでいるとは知らずに。
全てはあのポケモンのおかげだ。と言いたいところだが、彼ら彼女らは人間たちに利用されて今の状況を創りだしたに過ぎない。全ては人間の身勝手が引き起こした弊害だ。自業自得である。須藤が嘆いているのは何も仕事が面倒だからではない。多くの人間が、幻覚に囚われている現実を嘆いているのだ。
「何故、そんなにも楽をして幸せを得ようとするかね……」
何度目になるか分からない溜息を盛大に溢しながら、須藤は次の患者を呼んだ。
「先生、私はもう耐えられません」
次に診療室に入って来た患者の若い女は言った。
「どんなに楽しいことに遭遇しても、まるで楽しいと感じられないのです。自分は悲しい人間です。あの時の幸せ以上のものが、見当たらないのです」
「きっと疲れているのでしょう。……何か打ち込めることを探してやってみるのもいいかもしれない。薬を処方しておくから、まずはゆっくり休むことだ」
「どこのどんなお医者さんに相談してもそう言われて追い返されたのです。先生ならきっと直してくださると信じてここに来たのです。どうにか、どうにかしてください!」
「……」
無気力を象徴するような鈍い光をたたえる目をした患者の女は必死に訴えかける。危うく溜息を落としかけて、慌てて咳払いをした。医者として、患者を不安にさせるような表情や仕草を見せるわけにはいかなかった。
須藤は仕方ない、と言った顔で、懐からモンスターボールを取り出した。スイッチを押すと、赤い光と共にそのポケモンは姿を現した。
つばの広い魔女のような帽子を被った彼女を見た患者の女は、それまでの無気力が嘘のように目を輝かせた。もうそれだけで、治療は終わりだと言っても遜色ないくらいの豹変ぶりだった。
「治療には苦痛を伴いますが、それでも治療を受けますか?」
「お願いします」
よく考えてから答えるべき質問にも、患者の女は即答だった。それほどに待ち望んだことなのか、それともちゃんと聞いていないだけだったのか。須藤には後者のように思えてならなかった。
(期待をするのはよしてくれ……)
心の中ではそんなことをぼやきながらも、須藤はこれから行う治療のアフターケアを用意する。通常よりも効能を小さくした精神安定剤。
「先に処方箋を渡しておきます。一日三回、食後に飲んでください。それから、薬を受け取ったらすぐに誰か信頼できる人のところへ行ってください」
「そんなものはいいんです。早く、治療を……」
「そういうわけにはいきません。治療は苦痛を伴いますので、終わり次第すぐに薬局へ行くことをお勧めします」
頭上にクエスチョンマークを浮かべる患者の女に処方箋を半ば強引に押し付けて、須藤は外部からの音を遮断するヘッドホンを耳に当てる。それから隣に浮かぶ彼女の頭を軽く撫でて言った。
「頼む」
須藤の言葉に反応して、彼女は低い声でなにやら呟き始める。最初は期待の眼差しで彼女を見つめていた患者の女の表情が、少しずつ恐怖に歪んでいく。
「や、やめて……やめてぇぇぇっ!!!」
ヘッドホンがなければ耳にキンキンと響いていつまでも残りそうな悲鳴を上げて、患者の女は診療室を飛び出した。須藤が渡した処方箋は、その手に握りつぶされていた。
須藤はもう一度彼女の頭を撫でて、
「もういいよ。お疲れ様」
と呟いた。彼女は須藤に頬ずりをして、自らボールの中に戻っていった。
彼女らの能力は、現時点では麻薬の横行の沈静化には大きく貢献している。だが、麻薬が体を蝕んできたように、この能力――――幸せの幻覚を見せる能力は、見る者の心を蝕んでいった。麻薬と同じく、使っている本人も全く気付いていない間に。
そして、その沈静効果もほんの一時でしかない。呪文の効果が得られなくなった者は、また麻薬に走ってしまう。麻薬にもポケモンにも頼らなくて済むように指導するのが須藤たち医者の役目なのだが、できることといえば、精神に作用する弱い薬を処方することと、患者と話をすることくらいのものだった。それが麻薬の抑制力に繋がるのかどうかは分からない。ただ、その時その時にできる最善を尽くすばかりだった。
須藤は彼女の能力を利用した治療を行っていた。といっても、幸せな幻覚を見せるわけではない。むしろその逆である。
彼女の呪文は、聴いた者に苦痛を伴う幻覚を見せる。むしろそれが彼女の種族の本質である。幸せになる呪文があるというのは見る幻覚の捉え方の違いによるものであり、誰にとっても辛かったり、幸せになったりするものではない。呪文が引き起こす幻覚がもたらすものが幸せであろうが苦痛であろうが、所詮は幻覚。そうと割り切れない人間の心の弱さが、須藤の元を訪れる患者たちのような無気力を引き起こしてしまうのである。
先にも述べた通り、一度絶望的な状況を経験してそれを乗り越えれば、絶望的な状況に対する耐性がつく。そして、その後に起こったことは経験した絶望と比べればなんてことないと思うだけでなく、ちょっとしたことにも幸せを感じるようになる。
須藤が自身の経験から編み出したこの治療法は、他の医者からは随分と批判的な目で見られている。苦しんでいる人間を更に苦しめる方法なのだから。実際に須藤の元を訪れた患者のほとんどが、無気力の症状が改善したという結果があるため、あまり強くは出られないようであった。
須藤が患者に精神安定剤を処方したのは、幻覚の苦しみをある程度抑えるためである。絶望したままでは立ち直れなくなる場合があるし、逆に完全に苦しみを取り去ってしまう薬では、患者が薬に依存してしまう可能性がある。また、仮に無気力症状が治まったとしても、幻覚の恐怖が後に残ってしまうといった副作用も考えられる。患者の精神状態に合わせて効果を微調整するのはなかなか骨の折れる作業であったが、須藤がそれを苦に思うことは無かった。
それもそのはず、須藤自身がこの治療法の被験者だった。
須藤が彼女と出会ったのは、彼がまだ大学に入ったばかりの頃だった。胆礬市とサファリパークを結ぶ断崖の洞窟を訪れた時に、ふらふらと須藤について来たのが彼女だった。その時はまだ現在の姿ではなく、真珠のような赤い首飾りを付けた小さな姿だった。
岩陰から飛び出しては何度も須藤を驚かせて笑っていた彼女は、須藤が洞窟を出た後も背後にぴったりとついて来た。最初は驚かされることに不快感を覚えていた須藤も、ケラケラと可愛らしい声を上げて笑う彼女に毒気を抜かれて、最終的には家に連れて帰る形となった。
よほど須藤のことが気に入ったのか、単に驚かせるのが面白かっただけなのか、小さな彼女はどこへ行くにも須藤と一緒だった。そしてことあるごとに須藤や周りの人間を驚かせては、にこにこ顔で飛び回る。驚かされる側からすればいい迷惑であるが、慣れてしまえば可愛いものである。彼女は須藤と彼の属していたコミュニティの中にごくごく自然に溶け込んでいた。
その彼女が、闇のように暗い光を放つ石に触れて姿を変えた。赤い首飾りは弾けて胸元に散らばり、髪の毛のようだった頭は鍔広のとんがり帽子に、小さかった体はひらひらとなびくスカートのように。一回り大きくなった彼女はまるで絵本に登場する魔女のようだった。外見は大きく変わってしまったが、好奇心を携えた赤い瞳は姿を変える前と変わらなかった。
彼女が姿を変えてから数日が立ったある日のこと。いつものように大学へと向かう須藤の後ろをついて来た彼女が、ぶつぶつとなにやら言葉を呟き始めたのである。須藤は耳を澄ませてみるのだが、なんといっているのかはさっぱり分からなかった。
ところが、しばらく彼女の声を聞いているうちに、須藤の顔色はどんどんと悪くなっていった。何か悪いものでも食べただろうかと考えてみるが、どうもそうではないらしい。頭の中を何かがぐちゃぐちゃにかき回していったような眩暈に襲われて、須藤はその場に倒れ込んだ。
見開かれた須藤の目に映ったのは、まさに地獄絵図だった。辺り一面が火の海で、黒く焼けただれた生き物だったものがそこら中に転がっていた。苦しげなうめき声が、前から後ろから須藤の耳に入ってくる。焦げ臭いにおいがそこら中から漂ってきて、須藤の鼻孔に突き刺さる。燃え上がる炎は徐々にその輪を狭め、須藤の身を焼かんと舞い踊る。その焔の影に、人間のような形をした真っ黒な何かが須藤に向かって手を伸ばしていた。
た す け て
ぼろぼろと崩れ落ちる口は、確かにその言葉を紡いでいた。だが、恐怖に支配された須藤に、手を差し伸べる余裕などありはしなかった。その黒い塊はやがて、熱風に吹かれて崩れ落ち、後には何も残らなかった。
「おい、大丈夫か?おい!」
誰かに肩を強く揺さぶられて、須藤は我に返った。
顔を上げると、がっしりとした体格の男が須藤の顔を覗き込んでいた。その肩越しに、彼女の赤い目が申し訳なさそうに覗いていた。
「そいつが狂ったようにくるくる回り始めたものだから、どうしたものかと思って来てみたんだが、大丈夫か、あんた」
男の言葉を噛み締めて、周りをよく見回して、須藤はようやく平静を取り戻した。
火なんてどこにもなかったし、苦しんでいる生き物も見当たらない。何もかもがいつも通りの、騒がしい道だった。
須藤が倒れた後、彼女が助けを求めて飛び回り、今目の前にいる通行人の男が気付いて須藤を正気に戻した。頭の中を整理しているうちに、須藤の目に涙が浮かんだ。
道端に突然倒れて震える狂った人間は、関係ない人間からすれば迷惑千万である。そんな自分を助けを呼んでくれる彼女がいて、助けてくれる人がいた。何でもないことのはずなのに、自分は幸運な人間だと、須藤は心からそう思った。仮に助けてくれる人が誰もいなければ、須藤はそのまま絶望の淵に立たされていたかもしれないのだから。
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
その言葉は自然に須藤の口から溢れた。男は「よかった、よかった」と言いながら、優しい手つきで須藤の背をさすってくれた。
須藤の無事を確認して男が去っていった後も、ぼろぼろと零れ落ちる大粒の涙が止まってからも、彼女はいつまでも須藤に優しく寄り添っていた。
後に須藤は大学を卒業して医師の資格を取り、大学に残って病気の研究に明け暮れたのだが、不思議なことに周囲の人間がつらいと言っていることに対して、須藤が苦痛を感じることはほとんどなかった。須藤が見た幻覚が彼女の唱える呪文によるものだと分かった時、須藤はその時の経験を何かに活かせないかと考えて、彼が今行っている治療を思い付いたのであった。
須藤が結婚して家族を持った後も、須藤は彼女に幻覚を見せることだけはやめるように釘を刺していた。自分の子供に、妻に、患者と同じような状況になってほしいとは、これっぽっちも思わなかった。
須藤の治療法はあくまで方法の一つでしかない。患者に苦痛を与えずに苦痛や無気力を取り除くよりよい方法は、医者ならば誰もが現在も模索している。そして勿論、須藤もその一人である。
須藤は今も、幻想と現実の狭間で苦しむ人々を救うべく、治療法の研究に励んでいる。
彼女は今も、幻想に取り憑かれた人々を救うべく、苦痛の呪文を唱えている。
矛盾しているように思えても、今できる最善を尽くして、彼らは戦っている。
誰かが言っていたように、「幸せ」と「辛いこと」は表裏一体だ。辛いことを乗り越えてこそ、幸せを掴むことができる。
何もせずに幸せがやってくるのを待ち続ける人間が、自らの力で幸せを掴めるように。
現代科学の申し子と紫の魔女は今日も患者に向き合い続ける――――