終わりとそれから
それからというもの、シンオウ地方で悪夢にうなされ続けるという被害が報じられることはなくなった。新月島から近い満月島にクレセリアがいても防げなかったものが、何故防げるようになったのかはよく分からない。ダークライの負の感情が大きいほど、悪夢を引き起こす力も強くなるのではないかと考えたけど、そんなことどうでもよかった。何がどうあれ、悪夢による人体やポケモンへの被害がなくなったのだ。そもそも、夢とは脳がため込んだ記憶が、眠っている時に無意識のうちに崩れ落ちる際に現れるものである。嫌なことばかりが心にたまってしまえば、ダークライがいなくても悪夢を見ることはある。何もかも誰かのせいにするのは、筋違いというものだ。
狭いボールの中にずっと閉じこめておくのは心苦しかったので、ダークライをボールから出して、外にいる時は僕の代わりにボールを持っておいてもらった。クレセントボール――夢守(ゆめもり)は、それ自体が一種のバリアアイテムとしての役割を果たしていたので、この方法でも悪夢を振り撒かずに済む。これで、誰も悲しまなくて済む。
ダークライと折り合えたこと、悪夢を止めることができたことをゲンに伝えると、ゲンは祝福の言葉をくれた後で、「修業は心を鍛えるために行った」と言っていた。いくら強くても、心が弱ければ前には進めない。強く大きな心を持つことで、どんな壁にぶち当たっても乗り越えられるように、どんなことでも受け止められるようになって欲しかったのだという。ダークライを説得するのに戦いの技術は必要なかったけれど、あれはあれで、今の僕の日常生活に大きく役に立っている。相手の呼吸を読むことは、ゲンの言っていた通り、人間関係を築くうえで大いに役に立った。そして――――
『遅いぞ、アキ』
「ごめんごめん。じゃあ、始めようか」
軽い準備運動を済ませて、僕はダークライと向き合う。修業でやっていた組み手を、今度はダークライとするようになった。ダークライは中距離から遠距離における攻撃が得意で、なかなか近寄らせてもらえないから、組み手と言えるかどうかは怪しいが、気にすることはない。ダークライにとっても僕にとっても、いい運動だ。
ダークライの放つ波紋のような黒い波動をしゃがんで躱す。近づこうとすると、地面にいくつもの黒い穴が現れる。少しでも触れると引きずり込まれて眠ってしまうので、細かいステップで避けながらダークライに近付いていく。僕の動きが制限されたのをいいことに、ダークライは悪の波動を僕に向けて放つ。黒い穴だけは正確に避けながら、迫りくる悪の波動は最小限に受け止める。教わった全てを試すように、僕は黒と土色のコントラストの中を駆ける。
どうにか目の前までたどり着いて繰り出した回し蹴りや掌底を、ダークライは体を引いていとも簡単に避けてしまう。そしてすぐに、鍵爪のような手に闇の力を込めて攻撃してくる。本体を避けても受け止めても、たまった力の余波でダメージを受けるので気を抜けない。遠距離だけでなく近距離戦の対応も上手い。僕は自然に唇が吊り上がるのを感じる。心臓の拍動が感じられるくらい思い切り動いて、本気でぶつかり合うのはとてつもなく楽しかった。この感情も、ゲンとルカリオとの修業の副産物と言えた。
結局ふっとばされて、また近づくところからやり直し。それでも息を整えて、僕は何度も挑み続ける。これが日課になっていた。
数日後、僕はまた旅に出ることにした。勿論、ダークライも一緒に。シンオウ地方はほとんど見て回ったから、今度はどこか別の地方に行こうと思った。別の地方にいる両親にはポケギアで連絡を入れておく。僕の旅好きは両親の知るところなので、止められることはなかった。その代わり、
『気を付けてね、アキ』
ポケギアの向こうから、僕を心配してくれる人の声が聞こえた。
テツにもポケギアで連絡を入れたけど、仕事中のようで出てこなかった。仕方がないので、留守電にメッセージだけ残しておいた。
出発はミオシティだ。船着き場から北の海を見た。ここからでは見えないが、あの海の向こうに、仲良く寄り添う双子の島がある。
今になってやっと分かったことだけれど、僕はずっと一人ではなかったんだ。誰かに見守られて、誰かに支えてもらって、ここまで生きてきたんだ。そして、これからも――――
『足りない』
頭に流れ込んでくる低い声。ダークライだ。僕に何かを伝えようとしている。そうだ、何か大切なことを忘れている。見守られる側は一人じゃないけれど、見守る側は――――
はっとして、僕は首から下げたポケギアを手に取る。履歴の三番目にある名前をタップして通話ボタンを押す。電話がつながったのを確認して、僕はポケギアの向こうに声を飛ばす。
「すみません、ゲンさん。もう一度船を出してもらえませんか?」
僕はシンオウ本土の北西にある双子島の一つにいた。ゲンに事情を簡単に説明して、大急ぎでここまで連れてきてもらった。三日月形の水たまりのある空洞で、僕は彼女の名を呼んだ。
『何故戻ってきたの?』
頭の中で声がして、木々の奥から彼女が姿を現した。僕はバッグを下ろして中を漁り、目当てのものを引っ張り出す。それから真っ直ぐに彼女に向き直って言った。
「一緒に行こう、クレセリア」
完