答えと応え
ゲンと別れてミオシティの宿で一晩を明かすと、もう約束の日だった。昼間は特に何もすることが無かったので、図書館で本を読みふけった。以前見たもの以外にダークライに関する記述がないか探してみたが、どうにも見当たらなかった。
古い蔵書の匂いに囲まれて、いつの間にか眠っていた。目を覚ますと、もう夕方だった。図書館の係員が、「閉館のお時間です」と言って、図書館内を見回っている。係員に見つからないように、僕はそそくさと図書館を後にした。
波止場の宿の前に行くと、固く閉ざされているはずの小屋の窓から光が漏れていた。一般の民家と変わらない、電灯による光。窓は摺ガラスで、中が見えないようになっていた。初めて来たときと同じように、ドアをノックする。しばらく待っていると、ガチャリと何かの外れる音がして、扉が音もなく開いた。
『入って』
頭の中で声がした。久々に聞くクレセリアの声。声に従って、僕は宿の中に入った。
ぼろぼろの外見とは裏腹に、宿の中は綺麗にしてあった。物が散らかっているどころか、埃の一つも見当たらない。床一面物だらけだった僕の部屋とは大違いだ。一つしかない部屋にはベッドのほかに、キッチンスペースや冷蔵庫、今では使われなくなったブラウン管テレビに、机と椅子。それに、よく手入れされた観葉植物があった。
クレセリアはベッドの横に浮かんでいた。何時になく真剣な表情をしているように見えた。月が完全に隠れているからか、満月の夜と比べて弱弱しい光を放っていた。胸元のボールが、その光に呼応するように、小さく光り始めた。
『そのボールに私の羽を使ったのね』
「うん。君のおかげで、何度も命拾いをしたよ。ありがとう」
『……』
クレセリアは僕の言葉に答えず、僕にベッドを勧めた。
「新月島に行くんじゃないの?」
『今は外からは入れないから、夢の中で会いに行くしかないの』
なるほどと思ったのは、あの夢を見たからだろう。周りに深い霧の立ち込めた、外界と切り離された島。その奥に佇む黒い影。あの場所で、ダークライは待っている。
『私はここで、あなたが夢に呑みこまれないように見守っているわ。彼の――――ダークライのこと、よろしくね』
笑顔で頷いた僕に、クレセリアは目を細めた。僕はふかふかのベッドに横になる。とてもいい寝心地だった。図書館で眠ったはずなのに、新月島でダークライに催眠術をかけられた時のような眠気が僕を襲った。意識が、ずぶずぶと底なし沼にはまった時のように沈んでいく……
気が付くと、新月島の入り口に立っていた。周りを見渡すが、クレセリアはいない。でも、感じることはできた。首からかけたボールが、微かな熱を帯びて仄かに輝いている。この夢の外で、僕を見ている。だから不安はなかった。
木々のアーチの向こう、円形の水たまりの真ん中に、ダークライは立っていた。僕が水たまりの手前まで来た時、ダークライは伏せていた目を開いてこちらを見た。
『君の答えを聞かせてもらおう』
低い声が頭の中に響いた。僕は迷わず、胸元のボールを掴んでダークライに示した。
『……それは?』
「三日月の羽を使ったボールだよ。君の悪夢を終わらせる“可能性”」
ボールを開いて中を見せながら、内部の構造を説明していく。
「内部に闇の石の力を閉じ込めて、その周りを三日月の羽で作った網で包んでいるんだ。三日月の羽の力を月の石で補助している。月の力で、悪夢は外へは漏れない。闇の石の力で、君は月の光を直接受けなくて済む。周りにとっても君にとっても快適になるように考えて、友達のボール職人に作ってもらったんだ。月の石のことはその友達が思いついたんだけどね」
ダークライは何も言わずに僕の説明を聞いていた。それから訝しげに僕を見た。敵意はない。何かを期待するような、それでいて疑いを捨てきれていないような目だった。僕はボールを閉じて首にかけ、僕なりの“答え”を彼に告げた。
「僕と一緒に、来てくれないかい」
『……』
静寂が辺りを包んだ。風や波の音すらも、島を囲む霧に遮られているかのように聞こえない。周りに余計な光のない空を、幾千もの星が埋め尽くしていた。その星明りに照らされた僕の目を、影の中から心の奥まで見透かすような深い空色が映す。その瞳に吸い込まれてしまいそうだと思ったが、目だけは逸らさなかった。彼の心の悲しみの向こうにある何かに触れることができるような気がして、僕は彼の瞳をじっと見つめた。
『……あの時と変わらないな』
ダークライは目を伏せて、ほとんど聞き取れないほど小さな声で呟いた。声と言っても頭の中に直接流れ込んでくる声だ。ダークライの考えていることがそのまま伝わったのだろう。でも、あの時とはいつのことだろう?クレセリアに連れられて、新月島で出会った時のことだろうか?もしそうなら、応え方は決まっている。
「変わらないよ。あの日伝えた通りさ。ちっぽけな可能性でも、君の悲しみが少しでも和らぐのなら、僕が傍にいる。クレセリアも見守ってくれる。もう、君をひとりぼっちになんてさせない」
ダークライは長いこと目を閉じて動かなかった。眠っているのではないだろうか。そう感じるほど長い時間だった。永遠とも思える時間の中で、この場所だけが時が止まったかのように思えた。
やがてダークライは目を開けて、静かに僕の方へとやってきた。僕の目の前で止まった彼は、僕よりも頭一つ背が高かった。何をするのだろうと見ていると、
徐に右手を僕に差し出してきた。
『人間は、こういう時に手を握り合うのではなかったか』
ためらいがちな言葉には、それでもそれまで彼が閉ざしていたものが詰まっているような気がした。握手を求められることは全く予期していなかったけれど。僕はダークライの手を握った。炎タイプ以外のポケモンはほとんどが人間より体温が低いと聞いたことがあったけれど、初めて触れた彼の手は、僕が忘れていたものを教えてくれるような暖かさで僕の手を包んでくれた。
「来てくれるんだね」
『……ああ、信じさせてもらう』
ダークライは僕の手を放すと、僕の胸元にぶら下がったボールを手に取って、開閉ボタンを押した。赤い光線が彼を包み込み、小さなボールの中に吸い込まれていく。ボールがゆらゆらと何回か揺れ、それからカチリと音がした。
周りの風景がゆっくりと暗転していく。ダークライの作り出した夢の世界が終ろうとしているのだと分かった。ゆっくりと沈んでいく夢の中で、僕の意識はさらに深く深く沈んでいく。
「おやすみ、ダークライ」
遠のいていく意識の中で、ボールを口に近づけて、僕は呟いた。
「Have a nice dream」