無人宿と波導使い
約束の日まではまだ日にちがあるが、僕はミオシティへ向かうことにした。といっても、何をするというあてもない。このまま家にこもっているのも気が塞ぎそうだったのと、ただ何となく、出た先に何かが待っている気がした。
必要なものをバッグに詰め込み家を出る。ポケギアとクレセントボールは首からかけておいた。窓やドアに鍵をかけるのも忘れない。
ミオシティについてすぐ、僕はクレセリアの言っていた波止場の宿の前に行った。町のはずれの海沿いに佇む小さな一軒家で、入り口には小さな金属の看板が立っていた。
『ここは波止場の宿』
かろうじてこれだけは読み取れたが、そのあとは文字が掠れて読むことができなかった。よほど古いのだろう。試しに、ドアをノックしてみた。耳を澄ませてしばらく待ってみるが、何の返事もない。ドアノブを握って捻ろうとするが、錆びついているのか動く気配がない。やはり誰もいないのだ。心の中で膨らんでいた期待がしぼんでいく。
「そこで何をしているんだい?」
不意に背後から、大人の男性の声が聞こえた。同時に、空間がゆらりと歪んだような感覚に襲われた。振り返ると、青いスーツにこげ茶のズボン、鍔の広い青の帽子を身に着けた男性がいた。その隣には、二足歩行のオオカミのようなポケモン、ルカリオが立っている。鋼鉄島のゲン。シンオウ地方では有名な波導使いだ。空間の揺らぎの感覚も、彼と彼のルカリオの持つ波導によるものだろう。僕が答えあぐねていると、ゲンはさらに言葉を重ねた。
「そこは50年ほど前から空き家だそうだ。今では好んで近づく人間の方が少ない場所なんだけどね」
「ええ。そのようですね。かつてはいい夢が見られる宿と言われて、結構有名だったはずですが」
「知っているんだね。ここが無人と知っていて、君は何故ここにいるんだい?」
「興味が湧いたのと、あとは下見です。数日後にここに来てくれと頼まれたので」
「誰に頼まれたんだい?」
僕はすぐには答えなかった。あまり他言したい内容ではなかったし、広まってはいけないのではないかという認識を持っていた。
「……他の人には言わないでいただけますか?」
「内容によるね」
僕の問いに、ゲンはすっぱりと答えた。ピリピリした空気が、あたりを包んでいる。返答次第では容赦しない。そんな気迫が、ゲンからもルカリオからも静かに漂ってくる。僕は答える前に、首からかけていたクレセントボールを外して、ゲンに見せた。
「これは?」
「友人に作ってもらった、特注のボールです。中に三日月の羽が組み込まれています」
真剣な表情で、ゲンはしばらくボールを眺めていた。それから僕にボールを手渡して言った。
「詳しい話が聞きたいのだけれど、鋼鉄島の私の家に来てもらえるかな?」
「知らない人についていくなと、親には言われていますが」
冗談のつもりで言った僕の言葉にゲンは目を丸くして、それから声をあげて笑った。
「まあ、無理もないか。君と会うのは、これが初めてだからね」
「いえ、こちらこそすみません。罪のない冗談です」
張りつめていた空気が、少し和らいだ気がした。不思議な笑顔を浮かべるゲンにつられて、僕も思わず笑顔になった。
「私の名はゲン。普段は鋼鉄島で修業をしている者だ」
「たしか、波導使いの方でしたね。鋼鉄島のゲンという名は、色々なところで耳にしました」
僕はゲンの目をしっかりと見つめて言った。
「僕はアキ。あんなこと言った後で厚かましいですが、連れて行ってください。そこで全てを話します」
鋼鉄島までは、ゲンの小型クルーザーで移動した。鋼鉄島の鉱山の入り口に立つ小さな小屋。そこへ僕は案内された。僕は今まで満月島と新月島であったことを、ひとつ残らずゲンに伝えた。
「なるほど……君はダークライの悪夢を抑えるためにそのボールを作った。次の新月の夜にクレセリアと波止場の宿で待ち合わせて、新月島へ行くことになっている。間違いないかい?」
「ええ」
「君はそのボールで、本当にダークライの悪夢を止められると思っているのかい?」
「分かりません。僕の考えたこの方法は、一つの可能性でしかありません。でも、できる限りダークライの力になりたいのです」
僕の返事に、ゲンは目を伏せて笑った。
「覚悟はできているんだね」
僕はゲンを真っ直ぐに見つめて頷いた。
「クレセリアが望んだのは、悪夢をどうにかすることだけではなかったのだと思います。ダークライが安らげる場所を作ること。そして、ダークライを孤独から解放すること。頼まれて、やると答えた以上、途中でやめようとは思いません」
「話は分かった。そういうことなら、私も力を貸そう」
ゲンは椅子から立ち上がると、「ついてきなさい」と言って小屋を出ていった。ゲンの隣に静かに座っていたルカリオが、音もなくゲンの後に続く。僕も立ち上がって、小屋の外に出た。
鉱山の入り口で、ゲンは待っていた。ルカリオもゲンの隣に立っていて、何故か身構えている。僕がゲンの正面に立ったところで、ゲンは閉じていた目を開いた。
「来たね」
「あの、何をするんですか?」
「まず、君を試させてもらう」
ゲンがそう言った直後、ゲンとルカリオからとてつもないプレッシャーが放たれた。波止場の宿で会った時とは比べ物にならない、その場に立っているだけで押し潰されてしまいそうな強い圧力だった。自分の心臓の脈動が、ひどく大きく感じられた。でも、ここで怯むわけにはいかない。震える足に力を込めて、一人と一匹に一歩一歩近づいていく。
最初に開いていた距離が半分ほどになった時、ルカリオの耳がピクリと動く。突然に地を蹴り、拳を振り上げて、僕に飛びかかってきた。ほんの一瞬のことだった。反応の遅れた僕に避ける術はなく、反射的に目を瞑った無防備な僕の顔に、ルカリオの拳が叩き込まれ――――なかった。
僕の顔の前で拳が止まっていた。それどころか、ルカリオの体が不自然に浮かんでいる。次の瞬間、ルカリオは何かに弾かれたように宙を舞い、もといた場所にひらりと舞い降りた。ゲンが驚いたような顔で僕を見た。
「なるほど。君はそのボールの羽によって、クレセリアと繋がっているんだね」
ゲンの言葉に、僕は首から下げていたクレセントボールに目をやった。ボールはうっすらと光を放っており、何らかの力が働いているのか、重力に逆らって浮かんでいる。ゲンの言うことが正しいならば、クレセリアがボールの向こうから力を送ってくれていたのだろう。
ゲンが真剣な表情を解いて笑顔を作った。それまで空間を支配していたプレッシャーが一瞬にして消えた。同時にボールの周りの光も、音もなく空気に溶けていった。力を失ったように、ボールは僕の胸を叩いた。
「それなら、君もダークライも大丈夫だろう。クレセリアは君たちを見守ってくれている。」
ゲンは僕に近づいて、僕の胸のあたりに手をかざした。僕は何も感じなかったけど、ゲンは何かを感じたように言った。
「体型は悪くない。しかし、君はルカリオの攻撃に反応できていなかった。ポケモンを持っていない以上、自分の身は自分で守らなくてはならない。たとえ、どんな状況においてもね」
「……」
僕は何も言い返せなかった。ボールを通じてクレセリアに助けてもらっていなかったら、僕がルカリオの一撃で沈んでいたことは明白だったからだ。僕自身が弱いのはよく分かっていた。そして、それを変えようとしない弱い自分が、心のどこかに潜んでいることも。
「君の言う約束の日まで、私とルカリオで稽古をつけよう」
僕は顔を上げてゲンを、ルカリオを見た。4つの瞳が、真剣な表情で僕を見つめている。答えを出すのに、躊躇いは必要なかった。僕は一人と一匹に深々と頭を下げて言った。
「よろしくお願いします」