絵本と記憶
クレセリアとの約束の日まで、僕はフタバタウンの実家で過ごすことにした。実家といっても、両親は仕事で別の地方へ行っているため、家には誰もいない。旅暮らしの僕には関係ないことではあったけど、いざ家に帰って何の音も声もしなかったのを確認すると、さすがに寂しさを感じた。
久々に入った僕の部屋は、本やゲームが机の上やら床やらに乱雑に置かれた、お世辞にもきれいとは言えない部屋だった。昔から片づけるのが苦手で、よく母に怒られていた。全てが家を出た時そのままに、知らない間にずいぶんと埃を被っていた。
ここにいる間だけでもきれいにしておこうと、部屋の窓を開けてはたきで埃を払っていく。フローリングの床はからからに乾いたウエットシートで拭き、カーペットは粘着力の弱いテープでペタペタとゴミを取る。ゲームは収納ケースに収めて机の引き出しに突っ込み、本は大きさごとにまとめて本棚に入れていく。文庫本などの小さめの本は上の方に、絵本や図鑑などの大きめの本は下の方に。
絵本をまとめて一番下の棚に入れようとした時、見覚えのある表紙が目に映った。
それはミオシティの図書館でも見た、ダークライがポケモンの王国を支配しようとする物語だった。
(何でこんなところにあるんだろう?)
疑問に思いながらも、その本を本棚に戻そうとして、手が止まった。僕の中で何かが蠢いている。ポケモンの王国、黒い支配者、4匹の勇者。僕の記憶の中で、欠けていたピースがかちりとはまったように、失っていた何かが僕の中に流れ込んでくる……
それは僕がまだ幼い頃。僕は幼稚園で、友達とよくごっこ遊びをしたものだった。その中で、一番よく遊んだのが、この絵本のストーリーをなぞっていくものだった。
遊ぶ人数は5人、“勇者”は4人。この勇者役を取り合って、よくケンカをしていた。でも、僕が勇者役になることはなかった。
「アキは、ラスボスの役やってよ」
「えー、僕も勇者がいいよ。小さいけど、強くてかっこいいじゃん!」
「頼む、今回は俺らにやらせて!」
「なあ、お願いだよアキ」
「ラスボスがいないと、この話できないから」
友達の頼みを断れずに、最初は渋々“支配者”の役になった。
「知らないの?ラスボスって、一番強いんだぜ。もしかしたら、4人の勇者よりも強いかもよ」
こんな友達の言葉に、無知だった僕は何度も踊らされた。“支配者”の役は毎回僕に割り振られた。そして、僕は毎回“負けた”。
「ボスって、一番強いんじゃなかったの?」
「そりゃあ、途中まではな。勇者は最後に、絶対に悪を倒すんだよ」
途中で気付いて反抗したけど、まるで歯が立たなかった。その頃から腕っぷしが弱かったから、遊びの中でもケンカでも、友達に勝てなかった。彼らにとって、弱い僕が悪者役をすることは都合がよかったのだろう。“勇者”は“支配者”を一方的に蹂躙した。
ごっこ遊びで出来上がった関係はエスカレートして、そのまま日常生活にまで適応されるようになった。小学生になって、ごっこ遊びをしなくなってからも、4人の“勇者”はことあるごとに僕に突っかかるようになっていた。何か仕返しをしたら何倍にも返ってくるのは分かりきっていたから、僕はその4人を避けるようになっていた。そして、暇さえあれば、図書室の書庫に隠れて本を読んだ。あの絵本以外のいくつかの物語にも、“支配者”は登場していた。‟支配者”として登場していないこともあった。むしろ、その方が多かった。そして、いつも“負けて”いた。
(どうしてこのポケモンはいつも悪者なのだろう?)
(どうしてこのポケモンはいつも負けてしまうのだろう?)
そんな考えが、頭の中をぐるぐる巡っては消えていった。
そのうち、図書室も安全な場所ではなくなった。あの4人が、僕が図書室に隠れていることを知って、図書当番に立候補し始めたのだ。本を読む僕に嫌がらせを仕掛け、僕が大声を上げると「静かにしろ」と言って僕を殴った。泣く声すらも上げることができずに、僕は図書室にさよならを言った。
図書室の代わりは、校庭の隅にある大きな木陰がしてくれた。図書室からも、あの4人のクラスの教室からも遠いその場所は、静かで心地が良かった。あの4人にひどい目にあわされたり、嫌なことがあるたび、僕はその木の下へ行って一人で過ごした。時折木の葉を揺らす風が、僕を慰めてくれているように感じた。この場所にいることは、あの4人にもなかなか見つからなかった。この場所に通うようになってから、あの4人が僕に突っかかる回数はずいぶんと減った。
そんなある日のこと。僕がその木陰へ行くと、珍しく先客がいた。
そこから先は、砂嵐がかかったようにぼやけて思い出せない。誰だっただろう?とにかく、嫌なことを思い出してしまった。図書館ではこんなことはなかったのに、何故だろう?あれこれ考えてみたけど、結局答えは出なかった。
その後あの4人とはいつの間にか和解が成立していた。あれだけいじめる側と避ける側にはっきりと分かれていたのが嘘のように、中学生になる頃には仲のいい友達になっていたはずだ。だが、記憶というのは残酷なものだ。悪い思い出はいつまでも残るのに、いい思い出はすぐに記憶の底に埋まってしまう。4人との楽しかった記憶は、もはや思い出すことすらできなかった。
気を取り直して、クレセントボールを首からかけておくための紐を探すために僕は机の引き出しを探った。引き出しの中はいろいろなものがごった返していて、せっかく片付けた部屋の床が、引き出しの中身でいっぱいになった。
「あっ」
そのがらくただか何だか分からないものの中から、僕は銀色に輝く細い鎖を見つけた。クレセントボールのフックに通して首からかけると、ちょうどビー玉大のボールが心臓のあたりにくるいい長さだった。僕は他の物を再び引き出しに突っ込んでから、ボールを上着の下に隠した。
その夜、僕は小さい頃の夢を見た。僕の逃げ場所になったあの木陰で、記憶で見た砂嵐の向こうの“誰か”と、一緒に座っていた。特に何か話をしたわけではなかった。でも、僕はその“誰か”といて心が落ち着いた。意地悪だった4人に追い回されたことも、その“誰か”と一緒に木陰で座っているだけで、忘れられる気がした。あまりに心地が良くてうつらうつらし始めた時、隣にいる“誰か”が僕をゆすり起こした。
「 」
“誰か”が僕に何かを言った。何を言われたのか分からないままに目が覚めた。
目を開けてしばらく、僕はぼーっとしていた。まだ夢の中の映像が頭から離れない。できれば、覚めてほしくない夢だった。もっと話がしたかった。誰なのか知りたかった。でも同時に、あのまま夢の中にいたら、誰と何を話していたのか分からないまま夢の中に閉じ込められてしまうような、不吉な予感にも似た感覚があった。
結局、夢は夢でしかない。突拍子もないものでも、記憶の一部が流れ込んでもそれは変わらない。だから、いつまでも囚われているわけにはいかない。僕にはまだ、やらなければならないことがあるのだから。
小さくなった胸元のボールを握りしめて、僕は祈るように目を瞑った。