新月と孤独
数分後、僕は夢で見た島の入り口にいた。
「できれば今からでも、彼と話がしたいのだけれど」
と僕が頼むと、クレセリアは
『わかった。新月島まで連れていくわ』
と言って、僕を背中に乗せてくれた。
クレセリアは、夜の静かな海の上を音もなく飛んだ。聞こえたのは、風が耳元で唸る音くらいのものだった。
今夜の新月島は霧がかかっていなかった。あのときは夢の中だったから霧に包まれていただけかもしれない。あるいは、彼が意図的に悪夢に入って来られないように囲っていたのだろうか。
『彼はいつもあそこに隠れているの。姿を見せてくれるかは分からないけど、私も一緒に行くから』
僕が背から降りると、クレセリアは島の奥の木々のアーチを指して言った。僕は夢の中で見たから知っていたけど、黙って頷いた。怖い訳ではないけれど、クレセリアが一緒に来てくれるのは心強かった。
空洞の水たまりの真ん中には、誰もいなかった。木々のひらけたところから、まだ満月が見える。
クレセリアが進み出て、誰もいない空間へ向かって鳴き声を上げた。しばらくは何も起こらなかったけど、水たまりの真ん中に影が差したかと思うと、その影の中からさっと彼が飛び出した。
『何故人間を連れてきた、クレセリア』
低い彼の声が僕の頭に入ってきた。名を呼ばれたのがクレセリアだけなので、クレセリアが彼の声を僕と共有してくれているのだと分かった。
『あなたの力になりたいと言ってくれたの』
『できる限り誰かを悪夢に巻き込みたくないと、あれだけ言っただろう』
『今日は満月よ。私もいるから、この子は大丈夫』
『……』
ダークライは訝しげにこちらを見た。相変わらず、その瞳は悲しげな光を帯びていた。僕は無言で彼の前に進み出た。
『……何の用だ?』
「君の悪夢を終わらせたい」
僕は真っ直ぐに彼の目を見て答えた。ダークライは呆れたように目を伏せる。
『これは私自身の能力だ。私が望もうと、私以外の誰かが望もうと、抑えることはできない。クレセリアを除いてだが』
そんなことは分かっている。言い方がまずかったのだろう、勘違いをされている。僕の言う悪夢は、彼の能力のことではない。
「能力じゃなくて、君にとっての“悪夢”だよ」
何を言っている、とでも言いたげに、ダークライは僕を見た。僕は彼の目を見つめたまま続ける。
「君にとって、誰かを自分の能力で傷つけてしまうことそのものが“悪夢”なんだと思った。だから、それを終わらせたい」
『クレセリアに説得されたのか?』
「関係ないよ。確かに話はクレセリアから聞いたけど、これは僕の意思。それに、君が周りの人やポケモンに、悪夢を見せなくて済むかもしれない」
『ならないかもしれない。違うか?』
空色の瞳が、僕の目をじっと見つめている。心の底まで見透かされているような気分になったけど、目は逸らさない。ここで逸らせたら、クレセリアの思いがすべて無駄になってしまう、そんな気がした。一瞬とも数十分とも思える静寂の中を、木々が風に揺れる音だけが通り過ぎていく。
『私は悪夢を“見せない”ためにここに来た。本土からも、ポケモンの生息域からも外れたこの島に。それでも悪夢に苦しむ人やポケモンは後を絶たない。クレセリアにさえ抑えきれないことのある私の力を、人間に抑えられるものか』
「それじゃあ、君はひとりぼっちじゃないか。すぐそばの満月島にクレセリアがいるとはいってもさ……」
『……仕方のないことだろう』
僕の言葉に、ダークライが一瞬だけひるんだような気がした。
「君は優しい。誰かが傷つくたびに、責任を感じて傷ついていた。誰かのことを思って、自らを遠ざけた。そんな優しい君が、誰かと一緒にいられないはずがないじゃないか」
『一緒にいる誰かが悪夢で傷つくなら、同じだろう』
「……僕は可能性があるなら、それに賭けてみたいと思うんだ。君が誰かと一緒にいても、その誰かが悪夢を見なくて済むのなら、君が苦しむ理由も、一人でいなければいけない理由だって、なくなるんじゃないかと思って……」
ダークライは再び目を伏せた。今度は何か深く考え込んでいるように見えた。
「君が傷つくのを見て傷ついている誰かもいるんだよ。君に傷ついてほしくないって、クレセリアは願っているんだよ、ダークライ」
追い打ちをかけるように僕は言い放った。責めるつもりはない。ただ、気付いてほしかった。クレセリアの優しさに。そして、彼自身の優しさに。
再び静寂が訪れた。僕はじっと彼の応えを待った。しばらくして、彼が伏せていた目を開いてこちらを見た。
『お前は、三日月の羽を持っているのだったな』
唐突に、ダークライはこんなことを言った。僕は胸ポケットから布袋を取り出し、中に入れておいた羽根を引っ張り出す。淡い光を放つその羽を見て、ダークライは言った。
『次の新月の夜に、お前の“答え”を聞かせてもらう。私がどう応えるかは、お前の“答え”次第だ』
ダークライは僕の顔に手をかざす。途端に、それまで我慢していた眠気が、僕の意識を刈り取っていく。視界の隅に、クレセリアが驚いた顔で僕とダークライを交互に見ているのが見えた。
『今日はもう遅い。おやすみ、アキ』
ダークライの声が、頭の中に優しくこだました。そういえば、一度も名乗っていないのに、なぜ彼は僕の名を知っているのだろう?考えている余裕は既になかった。
『Have a nice dream』
最後に彼のこんな声が聞こえた気がした。僕の意識はそこで途切れた。
『起きて、アキ。アキってば』
頭の中で声がする。夢でも見ているのかと思ったら、いきなり体が宙を舞った。何事かと思って目を開けた時には、僕は完全に目を覚ましていた。
そこは、僕がクレセリアと出会った満月島の空洞だった。三日月形の水たまりが、白み始めた空に浮かぶ星を映している。
僕はゆっくりと、足から地面に降り立った。どうやら、僕を起こすためにクレセリアがサイコキネシスを使ったようだった。クレセリアは心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
『ごめんなさい、彼があなたに催眠術をかけるなんて……』
「あれ、催眠術だったんだ。道理でよく眠れたわけだよ」
『悪い夢は見ていない?』
「……分からない。そもそも、夢を見ていないのかも」
僕が答えると、クレセリアは何かを考えるような仕草をした。何か不安でもあるのだろうか?少しでもクレセリアの気が晴れればいいなと、僕は笑顔で言った。
「眠っている間に運んでくれたんだね。ありがとう。迎えがいつ来るか分からないから、日の出までに帰らなきゃと思っていたんだ。助かったよ」
僕が言うと、クレセリアは安心したのか目を細めた。
僕は左手を開いた。新月島で取り出した三日月の羽が握られていた。羽は僕の手の中で、まだ淡い光を放っていた。
「この羽は、加工しても効果を発揮し続けるの?」
三日月の羽を示して、僕は尋ねる。クレセリアは不思議そうな顔で僕を見た。
『ええ、燃え尽きて灰にならなければ大丈夫ね。……いったい何をするつもりなの?』
「例えば……首からかけられるように紐をつけるとか、紡いで糸にするとか」
クレセリアは首をかしげた。おそらく、二つ目の方への疑問だろう。でも、僕の頭の中には既にいくつかの方法が駆け巡っていた。
遠くから、水をかき分ける鋭い音が聞こえる。船乗りが僕を迎えに来たのだろう。残念だけど、説明している時間はなさそうだ。
「そろそろ行かなきゃ。次の新月の夜、僕を迎えに来てくれない?」
『いいわ。ミオシティの、波止場の宿の前まで来て』
にこりと笑った(ように見えた)クレセリアは水たまりの真ん中で目を閉じた。その体が小さな光となって、木々の奥へと漂っていく。その光が完全に見えなくなるまで見送って、僕は島の入り口へ向かって歩き始めた。
「“答え”か……」
僕は三日月の羽を布袋に入れて胸ポケットに収めた。ポケットの周りがじわりと暖かくなるのを感じた。
昨日僕を満月島まで連れてきてくれた船乗りが、僕を見つけて「おはようさん」と言った。僕も「おはようございます」と笑顔で返した。
船に乗り込んでからミオシティに着くまで、船乗りはやはり何も尋ねなかった。ただ、
「お前さんにも、三日月の加護があるといいな」
と言ってくれた。三日月とは、おそらくクレセリアのことを言っているのだろう。
「ええ、本当に」
と僕は返した。