風になる
本編
01









 こんな夢を見た。
 どこまでも続く緑の草原を、自分の足で歩いていた。草は腰のあたりにまで伸びている。一歩足を進めるたびにガサガサと音がする。それが、自分が動いた時の音なのか、草むらに潜む別の誰かが動き回っている音なのかはよく分からなかった。
 ふと遠くに目をやると、何かがこちらに向かって走ってくる。初めは点のようでしかなかった何かは見る見るうちに大きくなって、気付いた時には橙色の影がすぐ横を通り過ぎていった。真正面にいた訳でもないのに、体の中心を一陣の風が突き抜けていく。そんな感覚だった。
 振り返ると、その何かは最早見えるか見えないか分からないくらい遠くを走っていた。その姿をこの目にとらえることはできなかったが、自分もあんなふうに走ってみたいと心からそう思った。





 それが現実には叶わない夢に過ぎないと知りながら尚、少年は星に願った。





*風になる





 
 少年シュウは生まれつき足が弱く、小さい頃からずっと車椅子での生活を余儀なくされていた。シュウの両親は少しでもシュウの足が良くなればと全国の名医を訪ねたが、誰もが皆、見込みなしとして匙を投げる始末だった。補助器具を使って歩く練習をするように勧めた医者もいたのだが、それでも自分の足で歩くことは叶わなかった。
 保育施設でも学校でも、休憩時間になると一人だけ部屋の中で本を読んで過ごしていた。もちろん、車椅子で外へ出ることもできた。だが、保育施設の庭は車椅子で走り回るには狭すぎ、そのほかの場所でも人にぶつかって危ないからということで、全力で走り回るなんてことは出来なかった。時々、元気に外を駆け回る他の子供たちを眺めては、自分もあんな風に自分の足で走り回りたいと願っていた。

 そんな願いが形になったのかどうなのか、シュウは毎日のようにこんな夢を見た。

 広い草原を、シュウは一人走っていた。他に人間は見当たらなかったが、草の影から顔を覗かせる小さなポケモンたちがシュウを孤独にはさせなかった。ポケモンたちと戯れ、誰に気兼ねをすることもなく自分の足で思い切り走り回る。夢の中だけの世界だと分かっていても、シュウはこの場所が大好きになった。毎晩のようにその場所に行けるように願いながら布団に入って、夢の中で駆け巡る。保育施設や学校にいる間も、夜に眠る時間が楽しみで楽しみで仕方がなかった。



 ある時、シュウがいつものように夢の中の草原を走り回っていると、どこか遠くから何かが走ってくる足音が聞こえた。
 音のする方へ目を向けた時には、その何かはシュウのすぐ隣を通り過ぎていた。
 もの凄い速さだった。巻き起こった風圧だけで飛ばされてしまうかと思うほどだった。
 シュウは何かが走り去っていった方向を見た。その何かは小麦色の尾をなびかせながらぐんぐん遠ざかっていく。追いかけようと走り出して、すぐにそれが無駄な努力だということが分かった。いくら夢の中であるとはいえ、人間の足には限界がある。全力で走っても到底追い付けそうもないスピードで走る何かは、もう視界のはるか向こうに姿を消そうとしていた。
 シュウは走ることも忘れて、何かが走って行った方を見つめ続けた。夢の中で夢を見ているような心地がした。あんなに早く走る生き物を、現実でも見たことがなかった。小さなポケモンたちがシュウのズボンの裾を引っ張って遊ぼうとせがんでも、シュウは動かなかった。夢から覚めるまで、茫然とそこに立ち尽くしていた。



 その何かは、次の日にも夢に現れた。どこからともなく現れ、シュウのすぐ隣を通り過ぎる。この日はその姿を辛うじて目の端にとらえることができた。小麦色のたてがみと尻尾、胴体は橙色に黒い模様が入った四足歩行のポケモン。名前は確か、ウインディ。
「待って!」
 シュウは咄嗟に叫んでいた。聞こえるかどうかも考えることなく、言葉が口から飛び出した。もう遠くに行ってしまっているのではないかと思って振り向いて、目の前が小麦色に染まった。
 気が付いた時には、ウインディに押し倒されていた。口から覗く鋭い牙が鈍く輝いていた。
――――食われる。そんな思考が一瞬で頭を染めた。がたがたと震えるシュウの顔を、ウインディは大きな下でぺろりと舐めた。
「えっ?」
 訳が分からないといった顔のシュウに、ウインディはにこりと笑った。それから、シュウを開放して上体を屈め、しきりに自分の背中を見る仕草をする。背中に乗って。そう言っているようだった。恐る恐る近付いて、背中に跨るシュウ。ウインディはシュウがしっかりと掴まったのを確認して、勢いよく走り出した。

 風が質量を持って体に体当たりをかましてくるようだった。体を低くして、小麦色のふさふさした毛をしっかり掴んでいないと振り落とされてしまいそうだった。
 ウインディは放たれた一本の矢のように草原を駆ける。時折シュウの方を振り返っては笑顔を溢した。
 ウインディの体の動きに合わせて動く感覚に、広いウインディの背中に密着するようにしがみつくシュウは、まるで自分がウインディと一つになったように感じた。叩き付けるような風はいつの間にか、代わり映えしないはずの景色と共に体を伝って後ろへ後ろへと流れていく。
 瞳を輝かせながらもシュウは願った。自分もこんな風に走ることができたら。
 そんなことを考えるシュウの顔を見て、ウインディの笑顔が少しだけ曇ったことに、シュウは気付いていなかった。



 次の夜。ウインディはまた、シュウの夢に現れた。
 シュウが背中に乗せてと頼むと、ウインディはガウ、と一声鳴いた。それが肯定なのか否定なのかは分からなかったが、背中を下げてくれない辺り駄目だと言っているのだろうとシュウは思った。
 少しだけがっかりしたような顔のシュウに、ウインディは優しく口づけをした。

 体中がむずがゆくなる。突然の口づけにびっくりして火照ったせいだけではないような気がした。それを証拠に、それほど大きくなかったシュウの体が、ぐんぐん大きくたくましくなっていく。気付けば全身はふさふさの毛に包まれ、二本の足で立つのが難しくなっていた。前のめりに倒れて咄嗟に両手を地面につけば、それはいつの間にか獣の足に変わっている。四本の足で立って、いつもより少しばかり高い位置から眺めた草原は、何故だかいつもと違って見えた。
 シュウが振り返ると、ウインディと目が合った。それまで見上げなければ目が合わなかったのに、今はシュウの目の高さにウインディの顔がある。ウインディは嬉しそうに笑って見せた。それから、こっちへ来てとでもいうように、踵を返して走り出した。
 シュウはウインディを追いかけた。ウインディは時々こちらを振り返りながらも、ぐんぐんスピードを上げていく。今までは走っても全く敵わなかったのだが、今は違った。前を走るウインディと同じスピードで走っている。置いて行かれることもなく、かといって追い抜くこともない。
 小麦色の毛に日の光が映える。飛ぶように軽やかに走るウインディの姿は、シュウがそれまでに見たどんなポケモンよりも美しいと感じた。
 心を満たすのは、最初にウインディに出会った(正確にはすれ違った)時に感じた、体の中心を風が突きぬけていくあの感覚。今はそれを通り越して、シュウ自身が草原を駆ける風になったかのようだった。

 できなかったことができる喜びと興奮が混じり合って、爆発を起こす。全力で走りながらも、シュウは心の底から思い切り叫びたくなった。それくらい、今のような状況を心が渇望していたのだと気付いた。

 前を走るウインディは、大きな泉の前で立ち止まった。シュウが追い付くと、見てみろとでもいうように前足で水面を示す。
 シュウは泉を覗き込んで、歓喜の声を上げた。その声すらも、もはや人間のものではなかった。
水面に映っていたのは、二匹のウインディだった。一匹はシュウを先導して走っていたウインディ。もう一匹は、まぎれもないシュウ自身だった。

 シュウは喜びに飛び上がって、そのままウインディと一緒に草原を駆けまわった。追いかけて、追われて、じゃれ合って。知らず知らずのうちに、今度はシュウがウインディを地面に押し倒していた。
はっとして跳び退いたところで目が覚めた。最後に見たウインディの細い目が、どこか物足りなそうに見えた気がした。



 翌日の晩。夢の草原にやって来たウインディに、シュウはまた一緒に走ろうと声をかけた。
ウインディは首を横に振った。それから、口にくわえていた何かをそっとシュウの目の前に置いた。小さくて丸っこいそれは、どこからどう見てもタマゴだった。どこから持ってきたものなのかは、シュウには分からなかった。
ウインディは頼んだよとでも言うようにガウ、と一声上げたかと思うと、シュウに背を向けて一目散に走り去っていった。
 シュウは追いかけようとした。が、できなかった。何かに繋ぎ留められたかのように、足が動かなかった。あれほど自由に駆けまわっていた夢の中で、今は去って行くウインディの背中をただ見つめることしかできなかった。
「待って!」
 シュウはウインディに向かって叫んだ。言葉にならない獣のそれは、最初に出会った時のようにウインディを振り向かせることはなかった。











    *











「シュウ、シュウ。起きなさい」
 そんな母親の声で、シュウは目を覚ました。部屋の壁に掛けられた時計を眺めれば、もう七時半だった。急いで学校に行く支度をしなければならない。
 できることなら目覚めたくはなかったと、いつもなら思うのだろう。だが、その日はそうは思えなかった。何だか、それまで夢の中で隣を走っていた、最後の最後でどこかへ行ってしまったウインディに、もう二度と会えないような気がしてならなかった。
体を起こそうとしてふと、懐に何か丸いものがあることに気付いた。布団をどかせてそれを見たシュウはどきりとした。
それはタマゴだった。夢の中でウインディにもらったタマゴが、何故かそこにはあった。耳を寄せると、中でとくん、とくんと脈打つ音が聞こえた。
「あら、それどうしたの?」
 シュウが抱えていたタマゴを見つけた母が尋ねる。シュウはどう答えていいものやら分からなかった。
「よく分からない。今見たらここにあった」
「どこかで拾ってきたんじゃないでしょうね?」
「違うよ。学校の行き帰りは送ってもらってるのに、どこにそんな暇があるのさ」
 少々ムキになって反論すると、「それもそうね」と言って母は車椅子をベッドの横まで押してきた。母の助けを借りてシュウは車椅子へ座る。両腕で車輪を回しながら部屋を出ていくシュウの背後で、タマゴが微かに揺れ動いていた。





 この後この卵が孵って、橙色の体に黒い模様と小麦色のふさふさの毛を持つ小さなポケモンが生まれて、そのポケモンが大きくなって、少年シュウを背中に乗せて広い草原を駆けることになるなんて、誰が想像しただろう。



 即ち、シュウの夢が一つ現実になるわけなのだけれど、それはまた別のお話。
 シュウが夢の中であの草原を訪れることはあれから一度もなかったけれど、シュウは気にすることもなく毎日を過ごしている。これまでも、そして、きっとこれからも。













    *
















 もう、彼はこちらへ戻ってくる必要はないだろう。
 いつまでも夢に囚われていてはいけない。きっと彼は分かっているだろう。
 私の言葉は彼には分からないかもしれないけれど、彼はきっと、私の子を大事に育ててくれるだろうから。



 ――――そうしたら、自ずと彼の夢は叶うはずだから。

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円山翔 ( 2018/04/21(土) 07:12 )