砂漠の精霊と心の楽譜
いつかの時代、砂漠の真ん中のとある街での物語。
そこに、一人の少女が住んでいた。
父親と母親と三人で、この街に暮らしていた。
誰かの奏でる音楽を、聴くことが大好きな少女だった。
そして何より、歌うことが大好きな少女だった。
街には時々、旅の一団が通りかかることがあった。
商人の集団だったり、芸人の一座だったりした。
団体の中には大抵、一人か二人音楽に通じた人間がいた。
そんな人たちの奏でる楽器の音や歌を聴くのが、少女の何よりの楽しみだった。
少女の父親は、街では名のある探検家だった。
街の探検隊に所属して、色々な場所を巡ってきた。
ひとたび街を出ると、一日で帰ってくることもあれば、数日、数週間、数ヶ月帰ってこないこともあった。
そして、必ずといっていいほど何かを見つけて帰ってくる。
それは古代の王の墓だったり、珍しい宝物だったり、砂漠に住むポケモンだったりした。
少女はそんな父親が大好きだった。いつか自分も、父親のようにあちこち飛び回ってみたいと思っていた。
そんな時だった。少女の父親が砂嵐に呑まれて行方不明になったという知らせが、少女の元に舞い込んで来たのは。
少女の父親と共に街を出た一団は、みんな少女の父親の失踪を悔やんだ。
少女の父親は、街の探検隊の中でも一目置かれたリーダー的存在だったのだ。
探検隊の一人が、少女にゴーグルを手渡した。
少女の父親が愛用していた、赤いレンズのゴーグルだった。
探検隊が少女の父親を捜索したとき、そのゴーグルだけが見つかったのだった。
少女は涙を流さなかった。
悲しくなかったかと言われれば、そうではなかった。
それ以前に、心が真っ白になって何も考えることができなかった。
少女の母親は娘を抱きかかえて泣きに泣いた。
それでも、少女は泣かなかった。
空っぽの少女には、涙を流すことすらもままならなかった。
少女の父親が失踪してから数日があったある日のこと。
砂嵐の向こうから美しい歌声が聞こえてきた。
人間の女性のような声だった。
楽譜なんて存在しないはずの場所で、歌は様々な感情を運んできた。
少女はその歌に耳を傾けた。歌は傷ついた少女の心を揺さぶった。
ある時は優しい歌だった。ゆったりとした温かい歌声だった。
聞いている少女も、その日は何だか暖かい気持ちになった。
ある時は荒々しい歌だった。怒りに満ちた、激しい歌声だった。
聞いていた少女も、その日は何だか怒りっぽくなった。
ある時は悲しい歌だった。優しいけれど、どこか寂しげな歌声だった。
聞いていた少女も、その日は何だか悲しくなった。
ある時は心弾む歌だった。明るく楽しい歌声だった。
聞いていた少女も、その日は何だか楽しくなった。
歌声は、からからに乾いた少女の心に流れ込んで、隅々まで染みわたっていった。
歌声は、真っ白だった少女の心に色を与えていった。
毎年ある時期になると、この歌声がどこからか聞こえてくるこの歌を、少女はそれまでに何度も聞いていた。
だが、今回はそれまでとは少し違うような気がした。こんなにたくさんの感情をくれる歌は初めてだった。
大人たちは、砂漠の精霊が歌っているのだと少女に教えてくれた。
その歌声の主に会ってみたいと、子供心に少女は思った。
大人たちは猛烈に反対した。
ある者は、砂漠に住むポケモンに襲われてしまうからといって。
ある者は、砂嵐に体を傷つけられるだけだといって。
ある者は、風に飛ばされてしまうからといって。
ある者は、少女の父親のようにどこかへ消えてしまうかもしれないからといって。
そして、少女の母親はもちろん反対した。
愛する夫を失った今、愛しの我が子まで失いたいとは、誰も思わないだろう。
それでも少女は砂漠へ行った。
父親が残したゴーグルをかけ、全身を砂除けの布で覆って、母親に内緒でこっそり家を抜け出した少女は一人、砂漠へ向かった。
吹き荒れる砂嵐は、容赦なく少女を襲った。
まるで意思を持っているかのように少女を拒む。
それでも少女は前へ進んだ。憧れの歌の主に会うために。
諦めるなんて言葉は、少女の頭の中には無かった。
吹き荒れる風で、辺りの風景は知らず知らずの間に変わっていった。
砂が吹き飛ばされ、そうかと思えば新しい砂の山ができている。
目印になるようなものなど無いに等しい。
真っ直ぐ歩いていたつもりでも、気付けば自分がどこにいるのかさえ分からなくなってしまう。
それでも少女は前へ進んだ。憧れの歌の主に会うために。
引き返すなんて考えは、少女の心には浮かばなかった。
途中で何度も、砂漠に住むポケモンを見かけた。
砂色の体にくりくりとした黒い目を持つ、ねずみポケモンのサンド。
小さな丸っこい体に鋭い棘をたくさん生やした、サボテンポケモンのサボネアの群れ。
すり鉢状の穴の底から顔を出した、ありじごくポケモンのナックラー。
どのポケモンも、少女を遠目に眺めるばかりで襲い掛かっては来なかった。
代わりに、巨大な竜巻が少女の前に立ちふさがった。
真っ赤なゴーグルと全身を覆う布のおかげで少女の体が傷つくことは無かったけれど、巻き上がる砂のせいで視界は随分と悪かった。
歩くだけでも体力を消耗し、なかなか進むことのできない砂の上で、向かい風は容赦なく小さな少女の体を押し戻す。
吹き飛ばされはしなかったが、随分と長い時間が経っても、少女はほとんど前へ進むことができなかった。
やっぱり駄目だったのかと、少女がため息をついた時だった。
竜巻の向こうに何かの影が見えた。
そこから、あの歌声が聞こえてきた。
少女がそこまで来たことを祝福するかのように穏やかで、優しい歌声だった。
聞いている少女も、優しい気持ちになる歌だった。
砂除けの布の下で口を動かして、少女は自分の歌声を重ねようとした。
布の下でくぐもった少女の声を、砂嵐が容易くかき消していく。
意地悪な砂嵐に負けまいと、少女は声を張り上げた。
布の隙間から砂が入って、少女の喉が悲鳴を上げた。
程なくして、少女の歌声が止んだ。
けほけほと咳き込む少女を、巨大な砂嵐が包み込んだ。
それはあっという間の出来事だった。
もうだめなのか。大人たちの言っていたように、私一人では無理だったのか。
駄目なら駄目で仕方がないけれど、お母さんに謝らないと……
そんな考えが少女の頭を埋め尽くしていった。
少女は目を閉じて、自分を待ち受けているであろう運命の足音に耳を澄ませた。
けれども、最期の瞬間はいつになっても訪れなかった。
砂を巻き上げる竜巻の真ん中でゆっくりと目を開いて、少女は息をのんだ。
風も、襲い来る砂もない円い空間がそこにあった。
少女の目の前では、赤いレンズで目を覆った緑の竜が、目にもとまらぬ速さで羽ばたいていた。
その羽から、あの美しい歌声が聞こえてきた。
あなたが精霊さんなの?
少女は尋ねようとして、自分の声が出ないことに気付いた。
どんなに頑張っても、掠れたような声しか出せなかった。
緑の竜は静かに少女を見つめた。
慈しむような優しい目だった。
それでいて、何かを失くしたかのような悲しげな目だった。
緑の竜は、羽ばたく速度を少しずつ落として、ゆっくりと地面に舞い降りた。
辺りを包んでいた砂嵐が、少しずつ止んでいった。
お前は……
誰かがそんなことを言った。低い男性のような声だ。
少女は辺りを見回すが、自分以外の人間がいるようにはとても思えない。
そんな中で、また声がした。
こんな所にどうして一人で来たんだ。きっとお母さんが心配しているだろう。
ゴーグルの奥で目を凝らすと、緑の竜の口が言葉を紡いでいるのが見えた。
少女は信じられないという目で緑の竜を見た。
それまで少女は、人間の言葉を話すポケモンを見たことがなかったからだ。
自分を心配するような言葉に、少女はどこか懐かしさを感じた。
いくら考えても、その懐かしさの正体は掴めなかった。
乗りなさい。私が近くまで送って行こう。
緑の竜は少女に近付いて背を低くした。
声が出せない少女は小さく頷いて、緑の竜の背中に跨った。
しっかり掴まっていなさい。
少女が自分の首に腕を回したのを確認して、緑の竜はゆっくりと飛び立った。
来るときは進んでいるかどうかさえ分からなかった周りの景色が、今はどんどん後ろへ流れていく。
蟻地獄の底のナックラーも。
地面を跳ね回るサボネアの群れも。
地面から顔を出すサンドも。
吹き荒れる風で次々と形を変えていく砂の山も。
あれほど進むのが大変だった、意地悪な砂嵐さえも。
気付けば、緑の竜に跨った少女は街のすぐそばにあるオアシスにいた。
それくらい、何もかもが一瞬のうちに過ぎ去ってしまったのだった。
ここからなら歩いて行けるだろう。
さあ、早く行きなさい。
行って、お母さんに元気な顔を見せてあげなさい。
少女が地面に降り立つと、緑の竜は少女に背を向けた。
もう会えないの?
少女は掠れた声で尋ねた。
緑の竜は応えた。
君が望むのならば、この場所で会おう。
ここなら街からそう遠くない。
自分がどこにいるのか分からなくなることもない。
ただし、お母さんにはちゃんと、ここに来ることを伝えるんだ。
心配をかけてはいけないよ。
私と君との約束だ。
約束できるなら、また明日もここに来よう。
少女は緑の竜と指切りをした。
この場所に来ることと、緑の竜のことを母親にちゃんと伝えること。
行ってはいけないと言われたら来ないこと。
少女が約束を破ったら、緑の竜は二度とこの場所には来ないということ。
最後に、少女の喉が治ったら、一緒に歌おうという約束もした。
指切りを終えて、緑の竜はどこかへ飛び去った。
少女は緑の竜が見えなくなるまで見送った。
それから、母親の待つ家に向かって歩き始めた。
家に着く頃には、少女は声が出せるようになっていた。
母親は少女が帰ってくるなり、どこへ行っていたのか、どうして何も言わずに出ていったのかと少女を問い詰めた。
少女は母親の質問に、一つ一つ正直に答えていった。
母親はとても心配していたのだと言って少女を抱きしめた。
母親が落ち着いてから、少女は砂漠で出会った緑の竜のことを話した。
オアシスで会う約束をしたことも話した。
そして、明日からその場所に行っていいか尋ねた。
母親は少しの間答えるのためらって、それから静かに言った。
行ってきなさい。その代わり、きっと帰ってくるのよ。
母親は涙をこぼしながら話を続けた。
あなたのお父さんもそうだったの。
危険を顧みずにどこかへ行って、何かを見つけて帰ってくる。
あの人はいつも自慢げに笑っているの。
あなたが生まれる前も、そして、生まれた後も。
そして、とうとう戻ってこなかった。
あなたにはそうなってほしくはないから。
それから、もう二度と、大切な人を失いたくないから。
少女は約束をちゃんと守った。
緑の竜との約束も、母親との約束も。
それから毎日、少女はオアシスに行った。
緑の竜はいつも、少女より先に来て待っていた。
緑の竜は沢山の音を奏でた。
優しい音、勇ましい音、暗い音、明るい音。
竜の奏でる旋律に合わせて、少女は歌を歌った。
心にあふれた旋律を、たくさん込めた歌を歌った。
毎日がとても楽しかった。
空っぽになった心を満たすほどに。
父親がいなくなった悲しみを忘れてしまうほどに。
そうして月日は過ぎ去った。
ある日のこと、いつものようにオアシスを訪れた少女は緑の竜に問うた。
私のお父さんを知らない?
砂漠で砂嵐に呑まれていなくなってしまったの。
緑の竜は答えなかった。
代わりに、竜は少女に問うた。
私が答えを言ってしまったら、二度と君とは会えなくなるんだ。
それでも答えを聞きたいかい?
少女は迷うことなく頷いた。
あなたと会えなくなるのは寂しいけれど、お父さんが心配なの。
いなくなったと言われただけで、死んでしまったとは言っていなかったから。
お父さんが無事だってわかったら、お母さんも安心すると思うから。
緑の竜は俯いて、それから少女に目を向けた。
ひどく悲しげな目だった。
それから急に、竜は少女を腕に抱いた。
ああ、運命とはなんと残酷なのか。
我が身を呪うだけでは飽き足らず、愛しの家族からも引きはがすというのか。
許しておくれ我が娘よ。
私はもう、ここにはいられない。
緑の竜はそう言い残し、少女に背を向け飛び立った。
残された少女は言葉を失った。
後には戻れないもどかしさに苛まれながら。
残酷な真実に打ちひしがれながら。
その日の夜、人々がみな、寝静まった頃。
巨大な砂嵐が少女の住む街を襲った。
街の住人はみんな家の中にいたため無事だった。
街への被害もそれ程大きくは無かった。
強い風の音に少女は目を覚ました。
窓の外では風が吹き荒れ、あちこちに砂が舞っていた。
街中にあふれる音の中で、少女は緑の竜の歌を聴いた。
いつになく、寂しげな歌だった。
気付けば部屋の机の上に、小さな手紙が置いてあった。
この街では珍しい、真っ白な紙だった。
封を切って中身を取り出し、手紙を読んだ少女は思わずあっと声を上げた。
紛れもない、それは少女の父親の字だった。
愛しい我が娘 ×××××(少女の名前だ)へ
君がこの手紙を読んでいる頃には、私はもうどこか遠くへ飛び立っているだろう。
君がオアシスで会い続けた緑の竜、あれが私だったのだ。
あれは私が古代の王の墓を暴きに行った時だ。
触れてはならない緑の宝珠に、私は思わず触れてしまった。
その時は何も起こらなかった。
しかし、墓から外に出たとたんに、私の周りで砂嵐が起き始めた。
探検隊の仲間たちと私を切り離すように、砂嵐は私を包んで離さなかった。
砂嵐が晴れた時、探検隊の仲間はもうそこにはいなかった。
そしてその時には、私は緑の竜に姿を変えていたのだ。
緑の宝珠を見つけた場所に、こんな文字が書かれていた。
宝珠に触れし者、竜の力を得ん
汝の正体、暴かれることを禁ず
真実を求めて孤独を選ぶか
孤独を恐れて真実から目を背けるか
選ぶは汝
背くも汝
おまえに真実を問われた時に、この文字の意味をやっと理解した。
私はおまえに真実を告げて孤独を選んだ。
もうそばにはいられない。
だが、忘れないでほしい。
私はいつでも、おまえとおまえのお母さんの心の中にいる。
いつかまた、砂漠の精霊の歌を聴いた時は、私を思い出してほしい。
己の欲に身を滅ぼした、身勝手で愚かな私を許してほしい。
そして最後に。
お母さんをよろしく頼む。
×××××(父親の名前だ)より、愛を込めて
追伸
お母さんに真実を告げるか秘密にするかはおまえ次第だ。
お前はまだ珠には触れていない。
私が身を滅ぼすことがあっても、現時点でおまえが姿を変えることはない。
手紙を閉じて、少女は泣いた。
心に満たされた感情を吐き出すように。
あの日泣くことができなかった分を、取り戻すかのように。
翌朝、少女は母親に行って、いつものオアシスへと向かった。
父親の残した手紙をポケットに詰め込んで。
緑の竜は、もういなかった。
いくら待っても、緑の竜は現れなかった。
日が暮れる頃、少女は夕日に向かって歌を歌った。
それまで緑の竜がくれた感情を込めて。
それは少女の心という名の楽譜に刻まれた
楽しくて、激しくて、優しくて、悲しい
お別れの歌だった。
夕日の向こうから、少女の声に応えるように、美しい歌声が聞こえてきた。
それが少女の父親によるものなのか、別の砂漠の精霊が奏でたものなのか。
少女が知る由もなかった。
数年後、少女は一人旅に出た。
絶対に無事で帰ってくると、母親と約束を交わして。
その後少女がどうなったのかを知る者はいない。
Fin