人影
「では、お預かりしますね」
随分長い間降り続いた雨が終わりを告げようとした頃、残念そうな顔をした家の主人に挨拶をして、私はその場所を去ろうとした。
小さなポケモンが、私の足にしがみついた。
私は引きはがして帰ろうとしても、そのポケモンは何度でもしがみつく。
家の主人がやめろと言っても、一向に放そうとしない。
私がそのポケモンの親を連れていこうとしていることを、そのポケモンは知っていた。
親ポケモンが病気を抱えていることをそのポケモンが知っているのかどうかは、私には分からなかった。
「だめだ。一緒にいたら、お前まで危ないんだぞ」
私はきっぱりと言う。
だが、そのポケモンは分かってくれそうもない。
お母さんを返して。そう言いたげに私を見つめる。
そのポケモンの大きな瞳が涙で潤む。が、私が仕事を放棄する理由にはならない。
そのポケモンの親は、重い病気を患っていた。一緒に過ごしていては子供にも影響が出るかもしれないという上の判断で、私は親ポケモンを回収しに来た。
仕方なく、私は懐に忍ばせていた麻酔銃を抜く。
「失礼します」
ぱん。
「がっ……うぅぅ」
小気味のいい発砲音の直後、小さな唸り声を上げて、そのポケモンは目を閉じて眠り始めた。
少しの間そのポケモンを眺めた後、家の主人に一礼して、私は一人と一匹に背を向けて歩き出した。
*人影
ひた…ひた…ひた…
雨上がりの夜の街。仕事帰りに家路を辿る私の背後で、何かが歩いてくる音がした。
咄嗟に立ち止まって振り向くと、足音もそこで止まった。視線の先には誰もいない。足音も消えている。何かの気配はするのだが、肝心の姿は見えない。
が、手掛かりはあった。建物と建物の隙間から伸びる、黒い影。少し歪な、人間のような形をとったそれは、誰がどう見てもそこに誰かがいることを物語っていた。隠そうとしない辺り、そこにいる誰かは私が気付いていないとでも思っているのだろう。
私は大して気にも留めないふりをして歩き始める。足音はまた、私を追って近づいてくる。
私は歩く歩幅を少し広げた。普段よりも少しだけ早く歩くことにした。普通に歩いても到底追い付けないくらいのスピード。にもかかわらず、足音は変わらず私の後ろをついてくる。
ひたひたひたひたひたひた……
私の歩くスピードに合わせるように、足音の間隔が短く、回数は多くなる。
私はまた立ち止まって、後ろを振り向いた。足音は止まった。ぼんやりとした明かりの中に、先ほどと同じ人影が伸びていた。
「隠れていないで出てきたらどうなんだ」
声をかけてみても、出てくる様子はない。
私を尾行するということは、私に何かしらの因縁があるということなのだろう。
心当たりがあるかと問われれば、無いとは言えない。
私はポケモン保護局の局員の仕事をしている。虐待を受けているポケモンを救出するとか、危険な病原菌を持ったポケモンを隔離するといった名目で、人様のポケモンを保護局に連れていくという仕事だった。どちらにせよ、ポケモンと人間との間を引き裂くのだから感謝されることよりも恨まれることの方が多い仕事だ。
特に、私は仕事に忠実な人間だった。局員の中にはポケモンの飼い主に同情したり、悲しげなポケモンの姿を見ていられないと仕事を延期しようとしたりする者もいた。だが、私にはそんなことは無かった。仕事だからと割り切って、情けの欠片も見せずにポケモンを連れていく。それ故に、ポケモンを連れていかれる側からすれば、私は冷酷な鬼のように映ったのかもしれない。その時の復讐心を抱いている人間も、少なくはないはずだ。
時には苦情や嫌がらせの電話や手紙が局に殺到することもあった。ただ、局員個人への嫌がらせは前例がなく、局員を尾行して身代金目当てで攫ったり、ましてや殺したりするなんてことは今まで聞いたことがない。
自分が最初の被害者になるのではないかと勘ぐってみたりもしたが、相手は後をつけてくるばかりで襲い掛かろうという気配は全く感じられない。そもそも、尾行する相手にわざわざ自らの影をさらすことがあるのだろうか。
ひた……ひた……ひた……
踵を返して歩き始める私を、足音は追いかけてくる。
元々人通りの多いはずの道も、夜遅くにはそれほど人が出回っているわけではない。だからこそはっきりと、尾行者の足音を捉えることができる。
私を誘拐でもしようというのかなどというくだらない考えが浮かんでくる。そもそも私を誘拐したところで何になろう。脅されても重大な機密を私が持っているわけではないし、身代金を請求されても払う人間がいない。親に勘当されて独り身で何とか食いつないでいる状況の私を誘拐するメリットがない。
ひったくりならば気を付けなければならない。が、やはり私が気付いていては成立しがたい。それなのについてくるのは不自然に思える。
ひた……ひた……ひた……
私は歩き続ける。足音は私の背後から聞こえ続ける。
ちょうどいい時間の電車に間に合わんとするサラリーマンらしき人が時折私を追い抜いていく以外に、人の姿は見られない。もちろん、後ろをついてくる誰かを除けばである。
そこで私はふと、自分の影に目を落とした。
街灯の明かりが作り出す丸い光の中で、影は私が一歩足を進めるごとに、光と反対側に真っ黒な姿を映す。後ろから前へ滑って来たかと思えば、すぐに次の街灯に照らされて後ろに逃げる。街灯の間隔が狭い場所では、いくつかの影が私の足元から伸びて、同じように前へ後ろへと動き回る。
子供の時分にはこれが面白いといって、夜の街を駆け回ろうとしたものだった。勿論、親が黙っている訳でもなく、夜の一人歩きを許されたのは、そんなことに興味を示さなくなってからだったが。
ひた………ひた………ひた………
足音は相変わらず私の後ろをついて来た。時々振り返ると、やはり姿は見えないし足音もぴたりと止まる。ただ歪んだ人影だけが、建物の陰から真横に伸びているだけだ。
もしかして、今まで後ろにいたのは幽霊なのではないかと疑ってみて、すぐに自ら出した答えを否定する。そもそも、幽霊なら足音など立てないはずである。
「姿を見せてくれないか」
声をかけるが、やはり誰も出てこない。
そもそも、見つかっていると分かった時点で尾行を諦めなかった理由が分からない。
最初に声をかけた時に、私が尾行者に気付いていることは分かったはずである。それなのに、足音は聞こえ続ける。
冷酷だった過去の時分への罪の意識が幻聴を引き起こしているのかもしれないとも思ったが、またすぐに否定する。幻聴だけなら、あの人影の説明がつかない。幻覚を見るほど病んではいないと自負しているし、違法なドラッグに手を出したこともない。
幻覚と幻聴が同時に起こっている可能性も考えてみたが、過去にトラウマがあったわけでもなく、ここで落ち着いて考えることができる時点でそんなおかしなものが見えたり聞こえたりするはずがない。私が気付いていない間に見えるはずのないものが見えたり、聞こえるはずのないものが聞こえたりするなんてことになっているなら今すぐに精神科に世話にならなければならないが。
ひた…………ひた…………
歩いているうちに、街の明かりが少ない場所に差し掛かった。足音はまだ、私の後をついてくる。心なしか、足音と足音の間隔が長くなっているように感じた。歩き疲れたのだろうか。それならばいい加減諦めればいいものを、私が歩き続ける限りにおいて足音が消える気配はない。
私はまた後ろを振り返った。そこで、おかしなことに気付いた。
相変わらず、建物と建物の隙間から黒い人影が伸びている。その影を生み出していると思しき光が、路地の随分と低い位置にあるように見えたのだ。
私が通りかかった時、その場所には光源らしき光源は見当たらなかった。それまでは街灯の光が影を生み出しているのではないかと思っていた。だが、どうやら違うらしい。毎回同じ方向に影ができるのは、流石に都合が良すぎるのである。ましてや、街灯のないこの場所でも、低い位置から光が漏れ、影ができているとすれば、私を尾行している誰か自身が光源を持っていることになる。
尾行者は子供ではないか。そんな考えが頭の隅を掠めた。それならば、光源が低い位置にあるのも頷けるのではないかと思って、すぐにそれは無いと気付いた。仮に懐中電灯を持っていたとして、隠れている誰かの影がこちらに見えるのはおかしい。それに、私に気付かれたくないのなら、私が足を止めている間だけでも懐中電灯の明かりを消すべきである。にもかかわらず、私を追う誰かは、まるで自らの存在を見せつけるかのように影を私にさらしている。
保護局の仕事の上で、子供に喚かれることもあった。だが、それだけで子供がこんな時間に私を追おうとすることを、その子供の親が許すとは思えない。仮にこっそり家を抜け出してきたとしても、そこまでして追いかけてくるメリットはあるのかが分からなかった。
オカルトの類は信じていないつもりだったが、私は段々と気味が悪くなってきた。
一度は否定した幽霊説が蘇る。私が仕事をしてきた中で、無念のうちに息を引き取ったポケモンが、私に復讐をしようとついてきているのではないかなどという考えを、私は信じようとしていた……
ポケモン保護協会で保護してきたポケモンはそのほとんどが野生に返されるか、里親に預けられることになっている。だが、ごく稀に保護局で預かったポケモンが息を引き取ることがあった。
そんな時には毎度のように、死に目に会えなかったという元飼い主の苦情が殺到した。多分、元の飼い主に大切にされていたポケモンなら、同じことを我々保護局員に訴えたかったのだろう。死んだポケモンの声を聞くことはおろか、生きているポケモンの言葉すらも理解することのできない私には、死んでいったポケモンが何を思っているのかは分からない。だが、せめて死に目には大切な誰かと一緒にいたいと願うのが、生きるものとしての性なのだろうか。
「呪うなら、正々堂々と私の目の前で呪えばいいだろう」
立ち止まって背中越しに言ってみても、そこにいる誰かが出てくることはなかった。
ひた…………パチッ……ひた…………パチッ……
足音に交じって、何かが弾ける音が聞こえた。こんなじめじめした雨上がりに、誰かが爆竹でも鳴らそうとしているのだろうか。そんな人間がいるのなら言ってやりたい。こんな夜中に爆竹を鳴らすなど、騒音で訴えてくれと大声で叫んでいるようなものだと。
だが、その考えもすぐに否定した。いくら湿っぽい空気の中だとはいえ、爆竹ならもっと派手な音を鳴らすはずだ。
静電気だろうか。あるいは、電気タイプのポケモンを連れているのだろうか。それもない。パチパチと爆ぜるような音は、もっと別の、例えば燃え盛る炎に水を一滴たらしたような音のように聞こえた。
そこまで考えて、一つの考えに至った。
自分を尾行しているのは、人間ではなくポケモンではないか。
だとすれば、保護局で死んでいったポケモンの血縁だろうか。
保護局が引き離したのは、人間とポケモンだけではない。ポケモンとポケモンの間を引き裂くことすらもあった。
新しくポケモンが生まれた場合、生まれてすぐに健康診査に掛けられる。そこで何らかの病気が見つかった場合、一時的に親から隔離しなければならないことになっている。
健康診断に連れていくことにすら、猛反対する親ポケモンもいるくらいである。病気だからしばらく会えませんなどと言われて、黙って見過ごすだろうか。
自らの子供を見捨てる人間は何度も目にしたが、自らの子を捨てようとするポケモンを私は見たことがない。それは親が連れていかれる時の子供ポケモンも同じである。つい先ほども、嫌がる子供ポケモンから病気の親ポケモンを引きはがしてきたところである――――
嫌な予感がした。
ぼとり
雨水が滴り落ちる音が聞こえて、
じゅわっ
私の耳が、背後から聞こえたそんな音を捉えた。
かまどの火に水をぶっかけたような音だった。
思わず振り返ると、もう足音は聞こえなかった。それまで見えていた影も見えなかった。
そして、影ができるはずだった場所をぼんやりと照らす光も、そこには無かった。
予感が確信に変わった。
私は咄嗟に、影ができるはずだった場所まで駆け戻った。
細い路地を覗き込むと、そこには一匹のヒトカゲが倒れていた。
そして、ヒトカゲにとって命の火ともいえる尻尾の先の炎が、黒い煙を上げてくすぶっていた。
そこでやっと気づいた。
ヒトカゲの影は必ず前方にできる。その尾に火を灯しているからだ。
その尾は影に映らない。手も足も、体の影に隠してしまえば陰には映らない。だから影が人の形に見えたのだ。
私が見た人影の正体は、このヒトカゲだったのだ。
親を連れていった私を追って、ここまでついて来たのだ。
「おい、しっかりしろ!」
私は私の後をずっと追いかけてきた小さな蜥蜴を抱き上げた。体温はまだそれなりにある。くすぶっているとはいえ、尻尾の火もまだ完全に消えたわけではない。
私はヒトカゲを抱えたまま走り出した。目指すのはポケモンセンター。私の家とは真反対の方向だが、そんなことを気にしている場合ではない。
(何故、もっと早く気付いてやれなかった)
滲み出る後悔をはねのけるようにスピードを上げる。帰宅途中のサラリーマンらしき人だかりの波をすり抜け、一人だけ逆方向に走る。
(何故、振り返ってやらなかった)
腕の中の温もりが、少しずつ少しずつ冷めていくように感じた。急がなければ、本当に命が危ない。
(何故、私は走っているのだ)
私の中の何かが私に語り掛けた。
(このポケモンを助けたいからだ)
私は迷いなく答えた。
(私には関係ないポケモンだろう。放っておけばよかったじゃないか)
声は私を責めたてる。
(死にかけのポケモンを放ってはおけない)
心を折ろうとする声に反抗するように、私は声なき声で応える。
(今まで保護局でも、死にかけのポケモンにそうやって手厚い看病をしてやったことがあったか)
ふと浮かんだ思考に、足が止まりそうになった。
保護局で預かったポケモンの全てを救えるわけではない。
そんなときは、厳しい決断ではあるが、元の飼い主の同意を得て安楽死を選択することもあった。
可哀想だと微塵も思わなかったわけではない。
同情の余地が無かったわけではない。
ただ、今まで私が仕事に、自らの信念に忠実過ぎただけである。
(それとこれとは話が別だ)
頭の中の声を一言で切り捨て、止まりそうになった足を必死で動かす。
小さく、薄くなっていくヒトカゲの呼気を腕に感じながら、私は赤い屋根の建物に飛び込んだ。
「この子を、お願いします」
ぐったりとしたヒトカゲを受付の看護師に預けて、私はロビーに備え付けられた椅子に倒れるように座り込んだ。
そのまま、私は眠り込んでしまったらしい。
目を開ければ既に、建物の外には光が差し始めていた。
立ち上がって伸びをしたところで、カウンターの奥から、昨晩ヒトカゲを預けた看護師が出てきて私を呼んだ。それから、ヒトカゲが一命をとりとめたこと、衰弱しているのでしばらく入院が必要だということを聞いた。
ポケモンセンターの外に出て、私は携帯電話を取り出した。昨日仕事で訪れた家の主人に連絡を取ると、主人が飼っていたヒトカゲが行方不明になっているという話を聞いた。私はヒトカゲを預けたポケモンセンターの住所を告げて、お宅のヒトカゲが入院しているので数日後に迎えに来るようにと伝えておいた。
そのまま家にも帰らず出勤して、いつも通り仕事をこなし、いつも通りの時間に退勤した。
その日は快晴で、昨日の雨に濡れた地面はすっかり乾いていた。
いつも通りの帰り道。私が歩いていると、背後で何かが吠えるような声が聞こえた気がした。
ズン……ズン……
いつになく重い足音が、私の後ろをついてくる。
私が振り向くと、昨晩とは比べ物にならないくらい大きな人影が、建物と建物の隙間から伸びていた。
否。人影と呼ぶには、その影はあまりに異形だった。
『つい先ほど届いたニュースです。ポケプラズマウイルスに感染したリザードンが、ポケモン保護局から脱走した模様です。このリザードンは子供が生まれて間もなくポケプラズマウイルスへの感染が確認されたため、ポケモン保護局によって飼い主および子供から隔離されたポケモンで、大変気性が荒くなっているとのことです……』