歌声を貴方に
それは暑い夏、月明かりのない真っ暗な夜の事だった。
美しいソプラノの歌声が、夜の森に響く。コンサート会場で聞こえてきてもおかしくないような、透き通った声だった。
その歌声は森を飛び越え、草原を駆け抜け、近くの街にまで聞こえてきた。
普段は滅多に聴く事の出来ないその歌声に、街の皆が聴き惚れた。
子供たちも、この時ばかりは騒ぐのをやめて歌に聴き入った。
そして翌日。
街の住人の多くが、原因不明の眩暈に襲われた。数日後には皆何事もなかったかのようによくなったのだが、この街の医者もたまにやってくる外部の医者でさえも、これといった原因を見つけ出すことはできなかった。
原因不明の眩暈は、新月の夜が明けた日に街の人々を襲った。そしてその前日の夜には、いつもあの歌声が聞こえてきたというのだ。命を失った者はいないとはいえ、あの歌は呪いの歌だと判断した町の人は、夜になると窓もドアも閉め切ったり、壁に防音材を張ったりして、歌が聴こえないよう対策を施した。それでも、歌声はどこからか聞こえてくる。人々は新月の日が来るたびに、怯えたように家に閉じこもるようになった。
一部の好奇心旺盛な人間を除いて。
*
アヤネとコトハは仲のいい姉弟であり、どこにでもいる普通の小学生である。これといって特別な能力があるわけでもなければ、何かに飛びぬけて秀でている訳でもない。
ただ、やりたくてもできないことがあるだけだ。
二人の住む家は学校からそこそこ距離のある場所に立っていて、すぐ近くには名もない深い森があった。親には子供だけで近づくなと言われていて、二人だけで森に入ることは無かったのだが、親と一緒に木の実を取りに行ったりキャンプをしたりしていたので森には慣れ親しんでいた。
その森の奥深くには、今は誰も住んでいない古い屋敷があった。親には近付いてはいけないと言われていたのだが、アヤネとコトハは一度だけ、親の目を盗んで屋敷の中に忍び込んだことがあった。
鍵のかかっていない玄関の扉の向こうは広い部屋で、左手側には立派なグランドピアノが置いてあった。長い間使われていなかったであろうピアノは盛大に埃を被っていたのだが、アヤネが蓋をあけて弾いてみると、ちゃんと音が鳴った。家以外の場所でピアノが弾ける、それもグランドピアノが。あまりに嬉しくて、アヤネがピアノを弾きコトハが歌を歌っている所を親に見つかり、こっぴどく叱られた。以来、その屋敷には近付いていない。
その屋敷が、近頃アヤネとコトハの通う学校で話題になっていた。なんでも、夜な夜な聞こえてくるあの歌声は、その屋敷の中から聞こえてきているというのだ。
夕方。学校帰りの子供たちが犇めく通学路を、アヤネとコトハはいつものように二人並んで歩いていた。
「綺麗な歌声なのに、なんで聴いちゃダメなんだろうね」
掠れた声でアヤネは言った。夜に聞こえてくる歌声の事である。アヤネ自身はもともと歌を歌うのが好きな少女なのだが、今は喉を傷めて歌うことができない。その代わりピアノやリコーダーなど、他の楽器は大抵演奏できるのだが、今のアヤネにとっては歌えることだけでも羨ましいことだった。
「うん。僕もあんな声が出せたらなって思う」
隣で聞いていたコトハが言った。コトハも歌を歌うのが好きな少年だ。しかし、変声期が他の少年たちよりも早く訪れたために、高い声が出せなくなってしまった。今のコトハにとっては、出せなくなった高い声で歌えるということが羨ましいことだった。
「いいじゃん。コトハはまだ歌えるんだから」
「でも、僕はアヤネみたいにピアノを弾けないよ」
互いに顔を見合わせて、二人は笑った。くよくよしていても仕方がない。そのことを二人ともよく分かっていた。
「ねえ、今夜って新月の夜よね」
唐突に、アヤネが切り出した。少しだけ間を置いて、コトハが答えた。
「そうだね。前に歌が聞こえてから、ちょうどひと月くらいだから」
言ってアヤネの顔を見たコトハは、思わず「げっ」と溢しそうになった。アヤネの瞳は好奇心に輝いていたのだ。こういう時には決まって厄介ごとを持ち出して、コトハを巻き込んでいくのだ。今回は噂の件もあって、大体見当がついた。
「今夜、あの屋敷に行ってみようよ」
やっぱりそうか……と、コトハは思った。小さい頃からこうしてアヤネに振り回されていたコトハにとっては慣れたものだが、そのたびに止められなかったコトハも一緒に叱られるのはあまり歓迎できることではない。
「駄目だよ。お父さんとお母さんに怒られちゃうよ」
「こっそり出てくれば大丈夫だって」
「でも……」
「あの眩暈歌をだれが歌っているのか、確かめたくないの?」
「そりゃあ、確かめたいけど……」
「じゃあ、決まり。今夜、八時に家を抜け出そう」
アヤネに強引に話を進められて、コトハは渋々頷くしかなかった。
夜。こっそり家を抜け出したアヤネとコトハは、月明かりのない暗い森を懐中電灯片手に歩いていた。本来はポケモンも持たずに夜の森に入ることは自殺行為に等しいのだが、小さい頃からよく森に行っていたせいか、アヤネもコトハも森のポケモンたちの習性をよく知っていた。
ナゾノクサたちは足元をガサガサと動き回る。こちらから危害を加えなければ安全だ。昼間は巣に近付いただけで襲ってくるスピアーは、夜は巣に籠って眠っている。夜行性のズバットやゴルバットは明るい光が苦手で、懐中電灯の光を向ければそうそう襲ってこない。眠っているポケモンたちを起こさないように、かつ、起きているポケモンたちに自分たちが襲われないように、二人は森の中を進んでいった。
二人が古い屋敷の前まで来た時、明かりのない屋敷の中から美しい歌声が聞こえてきた。壁に窓に蔦が蔓延り、とても人が住んでいるようには思えない。昼間ならまだしも、こんな真夜中にこんな所を訪れる人間は、普通はいない。それでも、歌声は確かに屋敷の中から聞こえてくる。
アヤネとコトハが窓から中を覗き込むと、中では一匹のポケモンが歌を歌っていた。茶色のジャック・オ・ランタンに一本角が生えたような体に、角の先にかわいらしい黄色の目と口、三日月形にはねた寝癖のような部分と、薄桃色の髪の毛のような腕。人間の世界ではパンプジンと呼ばれるポケモンだ。目を伏せて両手を祈るように組み、高らかに声を響かせるその姿は、さながら歌姫のようだ。のびやかで美しいその歌声を聴く者は、アヤネとコトハの二人以外に誰もいないようだった。心なしか、その歌声は悲しげに聞こえた。
「やっぱり、綺麗な歌声だね。これが眩暈を起こすなんて信じられないや」
「うん。でも、なんだか寂しそうね」
気付かれないようにひそひそ声で話す二人は、ちょうど歌い終えて伏せていた目を開いたパンプジンと目が合った。
見つかった。そう思って咄嗟に隠れようとしたのだが、パンプジンの表情の変化を見てそうは思えなくなった。パンプジンは笑っていた。それまでの悲しげな表情は一転、ぱっと太陽のように明るい笑顔の花が咲いたのだ。
ギシギシと軋む音がして、屋敷の扉が開いた。何かと思って見てみると、扉の向こうからパンプジンがひょっこり顔を出して、二人を手招いている。屋敷の中に入ってきて欲しいようだった。
「どうする?」
コトハが聞いて、
「決まってるじゃない。眩暈歌をあの子が歌っていることが分かったんだから、行って眩暈歌をやめるように説得しなきゃ」
アヤネはきっぱりと答えた。コトハの手を取って、屋敷の入り口へと歩を進める。
「でも、本当にあの歌のせいなのかな?」
小さく呟いたコトハの疑問は、足音と共に暗闇に溶けていった。
屋敷の中は、二人が小さい頃に訪れた時と全く変わっていなかった。それどころか、長い間放置されてきたとは思えないくらい掃除が行き届いているように見えた。
どこからか、パンプジンが椅子を二つ持ってきた。お金持ちの邸宅に置いてあるような立派な椅子だった。それを広いエントランスに並べて、二人に座るように促す。
二人が椅子に腰掛けると、パンプジンは二人の前に立って歌を歌い始めた。先ほど二人が屋敷の外で聴いたのとまったく同じ旋律だった。だが、雰囲気がガラッと変わっていた。悲しげだった旋律は、今は生き生きとして張りのある声で彩られ、二人の心を震わせる。悲しみに打ちひしがれた心を優しく包み込んでくれるような、そんな歌声だった。
パンプジンが歌い終えると、アヤネもコトハも自然に立ち上がって手を叩いていた。歌を聴いてこれほど心が揺さぶられたのは、二人とも久しぶりだったのだ。二人の拍手に応えるように、パンプジンは右手をかぼちゃの顔の辺りに当ててぺこりとお辞儀をした。
「歌が好きなんだね」
コトハの言葉にニコリと笑って、パンプジンは息を吸い込んだ。もう一曲聴かせてくれるつもりなのだろう。だが、
「待って」
と、アヤネはそれを止めた。
「どうせなら、一緒に歌おう。あなただけで歌うよりも、一緒に歌う方が楽しいはずだから。ね、コトハ」
コトハが頷くのを確認して、アヤネは左手側のピアノに歩み寄った。鍵盤の蓋を開けて、端から端まで音を鳴らす。驚いたことに、音は全くずれていない。鍵盤の硬さもちょうどいい。調律も整備も完璧になされているようだった。
「私が伴奏をするわ。コトハはパンプジンに合わせて」
アヤネはピアノの前にあった椅子に浅く腰掛けて、パンプジンが歌っていた歌の伴奏を弾き始めた。楽譜があるわけではない。それでも、何度も耳にした歌に合うように、即興で指を動かしていく。
「パンプジンは、今まで通りに歌ってね」
前奏と思われる部分をアヤネが引いている間に、コトハはパンプジンに言った。いきなりなり始めたピアノの音にきょとんとしていたパンプジンも、今まで自分が歌っていた歌の伴奏と分かったのだろう。顔を輝かせながらアヤネとコトハを交互に見た。
前奏が終わって歌の部分に入ると、パンプジンは透き通った声で主旋律を歌い始めた。そこに、コトハが低音を合わせる。時に重なり、時に追いかけっこをして、ソプラノとテノールが歌詞のない歌を紡ぐ。アヤネの弾くピアノは、一人と一匹の歌を支え、包み込むように流れていく。
アヤネの歌が歌えないことを悔やむ心も、コトハの高音が出せないことを憂う気持ちも、今この場には存在しなかった。そこにいる全員が、それぞれの持つ音を奏でることを楽しんでいた。
しばらく同じ歌を繰り返して、歌うのをやめたのは日が変わる一時間ほど前のことだった。
「私たち、そろそろ行かなきゃ」
「とっても楽しかったよ。また一緒に歌おうね」
屋敷を去ろうとするアヤネとコトハを、パンプジンは大きな腕で引き留めようとした。二人が帰らなければならないことは何となく分かっていた。それでも、久しぶりに歌を聴いてくれて、一緒に歌ってくれた二人の人間と、もっと一緒に居たかったのだ。
昔はもっと多くの人やポケモンが、自分の歌を聴きに来てくれていた。時間が経つにつれてその数は徐々に減っていき、今では誰も聞きに来てくれなくなっていた。思いを歌に込めて届ければ、また誰かが来てくれると思っていた。でも、誰も来なかった。歌に乗って飛んでいく思いはいつしか悲しみに変わり、それを聴いた人やポケモンが苦しんでいることを、彼女は知らなかった。
だからこそ、
「また、次の新月の日に来るから」
というコトハの言葉がじんわりと暖かく感じた。
本当?そう尋ねるように、パンプジンはコトハに迫る。人間には理解できないはずのパンプジンの声を理解したかのように、コトハは左手の小指を差し出した。パンプジンがどうしていいのか分からずにあたふたしていると、コトハはパンプジンの手を取って、自分の小指とパンプジンの指を絡ませて言った。
「約束。君が、もう悲しい歌を歌わなくて済むように、何度でも来るから」
瞳を潤ませるパンプジンに別れを告げて、アヤネとコトハは屋敷を後にした。二人が来たことがよほど嬉しかったのだろう。二人から姿が見えなくなるまで、パンプジンはずっと手を振って見送ってくれた。
「この時間にここに来ること、あんなに反対していたのにいいの?あんなこと言って」
森を出た辺りで、アヤネはコトハに尋ねた。コトハは屋敷に向かう時とは違った、晴れ晴れとした顔で答えた。
「うん。きっと、あの子は寂しかっただけなんだよ。みんな呪いの歌声なんて言うけど、あの子が寂しくなくなれば、みんなも歌を聴いて眩暈なんて起こさなくても済むんじゃないかって思ってさ」
「ふ〜ん」
何気なく相槌を打ったアヤネは、隣を歩くコトハの横顔を眺めた。暗くてよく分からなかったが、誰かに引っ張られるばかりでなかなか自分の思っていることが言えなかった頃と比べて大人びて見えるような気がした。
仲良く並んで夜道を歩く二人を勇気づけるような、屋敷で聴いたのとは違う歌声を風が運んできた。きっと、二人の住む街にも届いていることだろう。
翌朝、目覚めた街の人々は、いつもは襲い掛かってくる眩暈が全くないことに気付いた。防音をしてでも聞こえてきた歌声に何故か別の声とピアノの音が混ざっていたような気もしたが、防音壁の中で微かに聞こえただけの音など、誰もはっきりとは覚えていなかった。
真実を知っているアヤネとコトハは、分かっていることを二人だけの秘密にしておくことにした。そしてひと月ごとに訪れる新月の夜には、親に内緒でこっそり家を抜け出して、森の中の古い屋敷へ足を運んだ。そのたびにパンプジンは盛大に歓迎してくれた。
何度も訪れるうちに自然と、森に棲むポケモンたちが二人と一匹の歌を聴きに来るようになって、古びた屋敷が簡単なコンサート会場のようになっていた。中には一緒に歌い始めるポケモンや、どこからか楽器を持ち出して演奏し始めるポケモンもいて、しまいにはオーケストラのようになることもあった。
アヤネとコトハが屋敷を訪れるようになってから、街の人々は月一で襲い掛かる眩暈に苦しむことがなくなった。みんな大いに喜び、どこからか聞こえてくる歌声に耳を傾けるようにさえなっていた。
十月一日の夜。
「お願い、行かせて。私たちを待っている子がいるの」
いつものように家を抜け出そうとしたアヤネとコトハは、偶然にも帰りが遅かった父親とばったり出くわしてしまった。どうにか説得しようとするのだが、
「駄目だ。夜中に子供だけで出歩いてはいけないと、さんざん言ってきただろう」
と言って父はかぶりを振るばかりだ。
「今までだって、こうして二人で行って来たんだから」
「運が良かっただけかもしれない」
「行かなきゃまた、みんなが眩暈を起こすかもしれないんだ」
「起こさないかもしれない。違うか?」
何を言っても、父は頑として聞き届けてくれなかった。
家に戻ると、今度は母親にずいぶん長い時間説教を食らった。心配しているというのはよく分かったのだが、それ以上にアヤネもコトハも両親の心配をしているということは、両親には伝わらなかった。
その日は、いつも聞こえてくるはずの歌が聞こえなかった。代わりに、誰かを呼んでいるような悲しい叫び声が、風に乗ってどこからかやってきた。声は段々と近付いてきて、しばらくすると頭にキンキンと響くほどに大きくなっていた。
アヤネとコトハはそれぞれの部屋の窓を開けて、目を疑った。一か月前まで一緒に歌っていたパンプジンが、呼び声を上げながら街の中をふらふらと歩いているではないか。
アヤネもコトハも同時に部屋を飛び出した。階段を駆け下り、両親の制止の声も聞かずに表通りへと走る。
アヤネもコトハも、ポケモンが鳴き声で何を訴えているのかは分からない。それでも、どんな気持ちなのかを想像することはできた。自分たちが約束の場所に行かなかったから、彼女は悲しんでいるのだと。
街の中心にある噴水の前に、パンプジンはいた。アヤネとコトハが名を呼ぶと、パンプジンは振り向いて、喜びと悲しみが混じったような表情で走ってきた。短い脚が石畳の隙間に引っかかってこけそうになったところを、二人が抱き留めた。
パンプジンは泣いていた。アヤネとコトハもつられて一緒に泣いた。嬉しいのか悲しいのかよく分からなかった。二人だけではない。パンプジンの鳴き声、いや、泣き声を聞いた者は皆、何故だかよく分からないままに涙を流していた。
泣きながらアヤネは考えた。言葉が通じなくとも、このパンプジンは声を通して気持ちを直接相手の心に伝えることができるのではないか。テレパシーとはまた違った形で、意思の疎通ができるのではないか。コトハが言っていた、「悲しい歌を歌わなくて済むように」。あれは、パンプジンのこの能力を理解したうえで、彼女の歌を聴いた人が眩暈を起こしてしまわないようにしようと考えていたのではないか。考えれば考えるほど、パンプジンの声が心に突き刺さって、涙が溢れ出た。
だからこそアヤネは言った。涙を流しながら、それでも無理矢理に笑顔を作って。
「歌おう、パンプジン。私は歌えないけど、楽しい歌を歌おう」
アヤネは近くの街路樹の葉を一つ取って、口に当てた。素朴な音色が夜の街に響く。パンプジンと一緒に何度も歌った歌。そのメロディーにアレンジを加えながら、アヤネの草笛が存在しない譜面をなぞっていく。
アヤネの草笛に合わせて、コトハが低音を歌った。震えていた声が、次第にしっかりとしたものに変わっていく。
二人の奏でる音に、泣き止んだパンプジンがソプラノを重ねた。
夜中だからといって、誰も咎めはしなかった。むしろ、街の人々は家の窓を開け放って、二人と一匹の路上ライブに聴き惚れた。その中には、あれだけ夜中に出歩くことに反対していたアヤネとコトハの両親の姿もあった。
それから地球の影に隠れて見えない月が夜空のてっぺんに昇る頃まで、歌声と草笛の音は止むことなく響き続けた。
パンプジンと別れて家に戻ると、まだ明かりが灯っていた。父も母も無言で二人を出迎えると、入り口の鍵をかけてそそくさと寝室に帰っていった。家を飛び出したことをとがめられると思って俯いていた二人は拍子抜けしたが、両親の就寝の邪魔をしないように静かにそれぞれの部屋に戻っていった。
次の日も、その次の日も、アヤネとコトハが夜に家を抜け出したことに両親は言及しなくなった。その代わりに母の寝る時間がいつもより遅くなった。二人が抜け出さないように見張っているのかと思ったが、どうもそうではないらしかった。
いつも通りの毎日が刻々と過ぎ去り、気付けばまた新月の日がやって来た。
十月三十一日。世間ではハロウィンと呼ばれる、収穫を祝い悪霊を払うお祭りの日だ。アヤネとコトハの住む街でも例に漏れず、子供たちは魔法使いやゴーストポケモンの仮装をして家々を回る行事が行われる。アヤネとコトハも参加するつもりだったのだが、パンプジンとの約束の日に重なっていることに、その日になって気付いた。学校の友達に誘われているから一緒に回りたい。でも、約束をすっぽかしたくはない。一日中悩んだ末に出した結論は、
「ごめん、ハロウィン、一緒に回れない」
と友達に頭を下げることだった。パンプジンの悲しい声をもう聴きたくなかったのと同時に、せっかくのお祭りの日に街の人たちまで悲しい気持ちになってもらいたくはなかったからだった。
夜。夕食が済んでアヤネとコトハが自分の部屋に戻ると、珍しく父も母も出かけてしまった。誰もいないのにこそこそと家を出る必要はないと思い、アヤネとコトハは堂々と家の入り口から出ることにした。
玄関前のリビングを通るとき、二人は先ほどまで母の料理が並べられていた食卓に何やら大きな袋が二つ置いてあるのを見た。傍には小さな白い封筒が一つ置いてあった。外側に、『アヤネとコトハへ』と、母の字で書かれていた。
今晩はハロウィンだね。
お祭りに行くのか、別のところへ行くのかは聞きません。
どちらに行くにしても、この袋の中のものを着ていってください
母より
追伸
虫よけスプレーを一緒に入れておきました。
森へ行く時、必要なら使ってください。
「スプレーなんて必要ないのに」
愚痴を溢しながらも手紙に従って袋を開けた二人は、中に入っていたものを見て言葉を失った。
茶色のフードと肩まで広がる襟飾りに、薄桃色の胴には穴を模した黄色い円が二つ。襟飾りと同じ色のズボンとスカートが一本ずつ。パンプジンの進化前、バケッチャと同じ格好だ。どれも店では売られていない手作りのものだった。自分たちのために寝る間も惜しんで作ってくれた……縫い針を片手に二人分の衣装を用意してくれる姿を想像して、二人は胸がいっぱいになった。
部屋に戻って早速着替えると、二人は喜び勇んで家を飛び出した。
屋敷で二人を待っていたパンプジンは、二人の格好を見て大いに喜んだ。パンプジンだけではない。歌を聴きに集まったポケモンたちも、二人を歓迎しているようだった。
一緒に歌おうと言わんばかりに二人の手を引くパンプジンを引き留めて、アヤネは一つ提案をした。その言葉をパンプジンがそこにいるポケモンたちに伝えると、一瞬だけしんと静まり返ったポケモンたちの中から次々と賛同の声を上がった。
アヤネはコトハに目配せをすると、服の中に忍ばせていたリコーダーを取り出して、誰も聞いたことのない曲を即興で吹き始めた。明るい
行進曲に合わせてコトハは手拍子でリズムを刻みながら、そこにいるポケモンたちに大声で呼びかけた。
「みんな、行こう!」
屋敷の扉を開け放って、アヤネとコトハが先頭を切って歩き始める。パンプジンが手招きをして、大勢のポケモンたちが二人の後に続く。コトハが先駆けて歌い始めると、後を追うようにパンプジンのソプラノが響いた。歌声の輪は瞬く間に、後に続いて歩くポケモンたちに広がっていく。メロディーを奏でる者、他の旋律に重ねて歌う者。中にはボイスパーカッションを始めるポケモンや、楽器を持ち出して演奏し始めるポケモンもいた。
森を闊歩する賑やかな
百‟奇”夜行は、アヤネとコトハの街を目指して進んでいった。