なのかのきせき
この世界において、夏の風物詩ともいえる生き物、セミ。生涯の大半を土の下で眠って過ごし、成体となって地上で生きていけるのはわずか七日。それを過ぎれば、待っているのは死。今や70年80年を平気で生き抜くようになった人間から考えれば、何とも短く残酷な生涯である。あのやかましい声も、彼らが好き好んで出している訳ではない。あの声を上げるのはオスのみで、それはメスへの必死の求愛行動なのだ。オスは七日間という短い期間に何とか子孫を残すために鳴く。メスはその鳴き声に惹かれてオスと結びつく。そして役目を終えれば、その命は儚く散っていく。
ポケモンの世界にも、セミのように七日間しか留まっていられないポケモンがいる。テッカニン?いや、テッカニンはセミとは違い、もっと長い間地上に留まっていられる。私が話したいのは、もっと数奇な存在であったりする。
わずか七日間。それは変わらない。違うのは、千年に一度だけ目覚め、七日間だけ本来の姿で過ごすということだ。
*
少年は
齢十四にして、この世界に嫌気がさしていた。学校へ行けば虐められる毎日。自分は何も悪いことをしていないのに、何かにつけて絡んでくるクラスメート。家へ帰れば両親からの過度な期待。満点以外のテストを持ち帰った時の顔は、如何にも嫌味っぽくしかめられる。
そんな日常から少年が逃げ出す唯一の手段が、ポケモンのゲームだった。
親にねだってやっと買ってもらえたのは、十数年も前に発売されたGBA用のソフトだった。DSに三次元技術が取り入れられてからもう三年になろうかという時期に少年の親が古いソフトを買ったのは、通信機能の制限とメニュー表示ボタンの特性に目を付けたからだった。
少年もDSを持っているものの、最新式のものではない。GBAカードリッジの挿入口がついた、最も古い型だった。GBA版のポケモンは通信ケーブルを使用しなければ通信ができないため、同じ機種のソフトを持っている友達とは通信交換や対戦などができない。通信対戦をすることがなければ、それほど躍起にならずともクリアできる。
更に、GBA版のポケモンは、メニュー画面を開くときにスタートボタンを押さなければならない。少年の持っているDSは、スタートボタンを押すときにカチカチと音がする。ゲームをやっていればその音が必ずと言っていいくらいするので、両親にとっては少年がゲームをしていることが把握しやすかったのだ。
両親がそんなことを考えていることも知らず、少年は毎日のようにゲームに明け暮れた。勿論、勉強はちゃんとする。テストの点が悪かったりすると、折角買ってもらったソフトを隠されてしまう。時々部屋を覗きに来る親に隠れて、少しずつ、少しずつシナリオを進めていく。ライバルとの競争、悪の組織との戦い、ジム戦、ポケモンリーグ、伝説と呼ばれるポケモンとの邂逅。友達がする横で見ているしかなかった少年にとって、自らの分身を自ら動かして壮大な物語の中を駆け巡ることは一つの憧れだったのだ。山や川へ行くときは必ず、どこかにポケモンがいやしないかと探し回る。結局一匹も見つけられずに終わるのだが、自然の中を駆け巡る心地よさを、少年は体で学んだ。気が付けば、ゲームの中の世界を、自らの足で駆け巡ってみたいと思うようになった。
願いをかなえるポケモンと聞いて、少年はそのポケモンに会いたいと願った。だが、二重の意味で叶わなかった。
一つは、ポケモンが現実世界に存在しないということ。もっとも根本的で、至極当たり前のことであったが、それでもいつかはと少年は心のどこかで願っていた。
もう一つは、そのポケモンが配信でしか手に入らないポケモンであるということ。しかも、少年が持つソフトへの配信は十年前に既に終わっているということ。チート機器を使えば容易いことであるのかもしれないが、少年がそんなものを持っているはずもなく、そのポケモンに出会うことはゲームの中でさえ叶わなかった。
*
一筋の光が空を駆ける。塾の帰りに暗い夜道を一人で歩いていた少年は、その光を捉えるや否や、届かないはずの願いを心の中で呟きながら、祈るように目をキュッと瞑って両手を重ね合わせた。
(ポケモンのいる世界に行きたい)
(願いを叶えてくれるポケモン、――――に会いたい)
少年が再び目を開けた時、光の筋は既に、幾千の星の海に消え去っていた。
ふう、と溜息をつく少年。無理もない。叶わないと分かっている願いを、それでも諦めきれずに流れ星に願っているのだ。
(所詮は
夢幻なのか?そうじゃない。僕の中では、いつだって、何だって現実なんだ)
願いは形を持たないまま、心の中をぐるぐると回る。だが、どこかで、本当にそうなのかと疑う自分がいた。
(いや、現実ではない。所詮は僕が描いた絵空事でしかないのかもしれない)
ひゅるるるるるる……
どこからか、音が聞こえた。何かが落ちてくるような音。それが、だんだん近づいてくる。
何か光るものが一つ、少年めがけて降ってくるのだ。あまりに突然のことで、少年は避けることも忘れてその光に見入っていた。その光は真っ直ぐに――――
どがっ
鈍い音を立てて、少年の腹にぶち当たった。少年は見事な「く」の字に体を折り曲げて、立っていた場所から数メートル先まで吹っ飛ばされた。少年が無事だったのは、丁度飛ばされた先に粗大ごみ置き場があって、その中に汚れてはいるがスプリング式のベッドが立てて置いてあったからだった。ベッドがなければ、少年は間違いなく生涯を終えていただろう。少年がぶつかった衝撃で斜めになっていたベッドがずり落ちて、ちょうど少年が仰向けに寝転がる体勢になった。
「いててて……」
痛みに腹をさすろうとする少年は、その手に全く触れたことのないものがちょこんと乗っかっていることに気付いた。
黄色い星形の頭、三か所に張り付いた短冊、白い体に、羽衣のような柔らかな羽。少年が会いたいと願ったポケモンが、何故かそこにはいた。
『ありがとう、助かったよ』
そしてあろうことか、人間の言葉をしゃべった。いや、テレパシーというやつだ。頭の中に直接声が聞こえる。
『何をそんなに驚いているんだい?』
あまりに驚いて口をパクパクさせるだけの少年に、そのポケモン――――ジラーチは言った。
少年は恐る恐る尋ねる。
「ポケモン、だよね」
『そうだけど』
「君は、ジラーチ?」
『そう呼ばれているね』
やっと現実が飲み込めた時、少年は我を忘れて飛び上がった。
*
「ポケモンって、想像の世界の生き物だと思ってた」
『そうだろうね。君たち人間には、僕らの姿が見える奴はほとんどいないみたいだからね』
「ポケモンは、この世界にもいるの?」
『ああ、いっぱいいるね。現にこうして僕がここにいるだろう?』
「うん……本物のポケモンを見たのは今日が初めてだから、まだちょっと信じられなくて……」
星明りだけが照らす真っ暗な家路を、少年はジラーチを抱きかかえてゆっくりを歩いた。ゲームの中ですら出会ったことのないポケモンが、そこに確かに存在することを確かめるように、ゆっくりと。
「どうしていきなり降って来たの?」
『ああ、ちょっと戦闘機に追われてね。人間の居住区なら、向こうも手を出せないかと思って。いい加減、逃げるのも疲れたし、この辺りで眠りに着けたらと思ったんだけど、丁度良く君が通りかかったから、匿ってくれないかななんて』
何をしでかしたんだ、と少年は心の中で突っ込んだ。その心の声を知ってか知らずか、ジラーチはいししと笑って、
『今日で最後だからさ』
と呟いた。聞こえるか聞こえないかの小さな声だった。
「最後?」
『僕は七日間しかこの姿でいられない。この国の日にちでいう七月一日に目覚めたから、今日で丁度七日目。今日が終われば、また千年の眠りにつくんだ。僕を追いかけてきた奴らは、最後に僕に何かさせようとしていたみたいだけれど』
空を見上げて笑うジラーチの顔には、寂しさなど微塵も感じられなかった。
「寂しくないの?」
『さあ。生まれた時からそうだったからね。いつ生まれたのかも忘れたけど。君たちの世界のセミといっしょさ』
「セミ?」
少年は首を傾げた。唐突に少年の世界の、しかも全く違う生き物の話を振られたからだった。
『長い間土の中で過ごして、大人になって地上で生きていられるのは七日だけ。眠っている間土の中にいるかいないかと、七日地上で生きた後死ぬか死なないかだけの違いさ』
「ふーん。僕なら、もっと起きていたいけどな」
『ふふふ。人間って、欲張りだね』
ジラーチの言葉に、少年はむっと唇を尖らせる。ジラーチは特に慌てた様子もなく、それでも損ねてしまった少年の機嫌を繕うように言った。
『誰だってそうだよ。永遠を望むのは君だけじゃない。でも、だれにでも限界とか、守らなければならないルールがあるんだ。君たちが長くても百年とちょっとしか生きられないように、僕にとってそれが、千年に一度、七日間だけしかこの姿でいられないってことなんだ』
「願いを叶えられるから?」
少年が尋ねて、
『そうかもしれないし、そうでないかもしれない。僕を創造した神様にでも聞けばわかるかもしれないし、神様にさえ分からないかもしれない』
ジラーチは淡々と答えた。
『いずれにせよ、日が変わる頃には僕は眠りにつかなければならないんだ』
そこで一度口を閉ざし、ジラーチは少年の目を見て言った。
『折角だから、君の願いを一つかなえてあげよう』
少年の顔がパッと明るくなった。だが、それも一瞬のことだった。普段通りの顔に戻って、
「ごめん、もう、叶っちゃった」
頭を掻きながら言った。
少年が願ったのは、ポケモンのいる世界に行きたいということと、願いを叶えるポケモン、ジラーチに会いたいということ。ジラーチの話によれば、少年が気付いていないだけで既にポケモンは存在しており、後者は言わずもがなであった。
「ただ、欲を言うなら――――」
少年が口を開いたその時、
「<ruby><rb>I found it!</rb><rp>(</rp><rt>みつけたぞ</rt><rp>)</rp></ruby> <ruby><rb>Jirachi is there! </rb><rp>(</rp><rt>そこにジラーチがいる</rt><rp>)</rp></ruby>」
英語で何か叫ぶ声が聞こえたかと思うと、少年が歩く道の向こうから、迷彩柄の服を着た軍人が四人、少年の方に走ってくるのが見えた。少年は英語がまだ分からなかったが、咄嗟に回れ右をして走り出した。このままここにいてはいけない。少年の本能がそう告げていた。
『さっき僕が言っていた奴らだよ。まったく、どこからどうやって着陸したんだか』
少年の腕の中で、ジラーチは褒めているのか呆れているのか分からない口調で言った。その間にも、少年と軍人たちとの間はどんどん詰まってくる。いくら少年の反応が素早くとも、所詮は子供である。訓練を積まれた大人に足で敵うわけがない。少年の周りを、たちまち軍人たちが取り囲んだ。
「<ruby><rb>Hey,boy! </rb><rp>(</rp><rt>おい、少年</rt><rp>)</rp></ruby> <ruby><rb>Give me it!</rb><rp>(</rp><rt>そいつをよこせ</rt><rp>)</rp></ruby>」
軍人の一人が、息を弾ませながら言う。だが、少年には何と言っているか分からない。
「なんて言っているの」
『僕を渡せってさ』
少年は言葉を失った。ジラーチの言葉が本当なら、この軍人たちはきっとよからぬことに願いをかけるのだろうとしか思えなかった。
『いいよ、渡してしまいなよ』
それなのに、しれっと言ってのけるジラーチ。少年には理解できなかった。
「駄目だよ、そんなの」
『大丈夫。ちょっと懲らしめてやるだけだから。君の願いもまだ叶えていないしね』
青ざめた顔で震える少年に、ジラーチはそっと耳打ちをした。少年は驚いたような顔をしたが、しぶしぶ頷いて、ジラーチを軍人の一人に渡した。他の軍人たちの注意が少年から逸れ、ジラーチに向けられる。その隙をついて、少年は軍人たちの間を突っ切って走り出した。軍人たちは追ってこない。目的を果たしたから、少年に用がなくなったのだろう。
『僕を渡したら、彼らの注意が逸れるはずだ。そうしたら、できるだけ遠くに逃げるんだ。でなければ、君も巻き込んでしまうからね』
少年の頭には、ジラーチに耳打ちされた言葉がまだ残っていた。何をする気かは分からなかったが、それが軍人たちにとってよくないことだけは理解していた。
ひゅるるるる……
何かが落ちてくる音が聞こえて、少年はつい振り向いてしまう。軍人たちがいた辺りにめがけて、巨大な赤い光が猛スピードで降ってくる光景が目に焼き付いた。
ずどん
刹那、もの凄い爆音がして、砂煙がもうもうと舞い上がった。その砂煙の中から、けほけほと可愛らしい咳をしながら、ジラーチが飛び出してきた。
砂煙が晴れた時、その場所には巨大なクレーターができていて、さっきまで立っていた軍人たちは皆地面に倒れ込んでいた。
そして、自分から捕まることを提案してクレーターを作った張本人はというと、
『ふぅ、すっきりした』
けろりとした顔で、少年の腕の中に飛び込んできた。
*
『よかったよかった。鬱陶しい取り巻きは撃退できたし、これで邪魔されずに眠りにつけるし。一件落着だね』
「全然よくないよ。あのクレーターと倒れている人たちはどうするのさ?」
『大丈夫。夜が明ける頃には直っているよ。そういう風に技をかけたからね』
言われて見てみれば、クレーターのある部分が徐々に膨れ上がり、元通りの道ができていく。倒れている男たちも、外傷は全く見られなかった。
『さて、邪魔もいなくなったし、君の願いを一つ聞こうかな』
「うん……」
少年は、先ほど言いそびれた言葉の先を、思い切って口に出した。
「君と、もっと一緒にいたいかな……」
『うーん、物理的な意味じゃ無理だね。僕はこのまま眠りにつくんだ』
「だよね……」
しょんぼりと肩を落とす少年の肩をジラーチが優しく叩く。
『でも、叶えることはできない願いじゃないかな』
「それって、どういう……」
少年が尋ね終わる前に、ジラーチが一本指を少年の口に当てる。それ以上は聞くなということだ。
『家に帰って、いつも通りに過ごしていれば分かるよ。最後にお願いなんだけど』
本来は誰かの願いを叶えるはずのポケモンから何かを頼まれることを想像していなかった少年は、目を丸くしてジラーチを見た。だが、少年は今日が最後だという言葉を信じることにした。
かさりと、何かが落ちる音がした。音のした方を見ると、まだ小さなオスのセミが、地面に落ちて動かなくなっていた。
(こいつも、七日間頑張って鳴いてきたんだろうな……)
セミでさえ、子孫を残すために限られた生涯を精一杯生きてきたのだ。七日間しかいられない中でいろいろな人(や、もしかするとポケモン)の願いを叶えてきたであろう願い星の願いなら、願いを叶えてもらう側も最後に一つ聞いてあげるべきではないかと、心から思った。
「なぁに?」
『子守唄を歌ってほしいんだ』
それまでのジラーチからは拍子抜けしそうなほど可愛らしいお願いにも、少年はにっこりと笑って言った。
「僕の歌で良ければ」
月が空の頂上を通り過ぎる頃、静かな通りに、拙いけれど優しい子守唄が聞こえてきた。その場所から一筋の光が空へ登っていったことを知る者は、かの少年を置いて他にはいなかった。
*
「……ウタ、起きなさい。ソウタ!」
聞き覚えのある声に、少年――――ソウタはガバッと体を起こした。そこはソウタの自室ではなかった。眩い光と共にジラーチがソウタに追突した時、吹き飛ばされた粗大ごみ置き場のベッドの上だった。目の前ではソウタの母が、心配半分呆れ半分といった表情で立っている。空はまだ暗かった。腕時計を見れば、まだ朝の2時である。
話によると、いつまでも返ってこないソウタの身を案じて、父と母が二人で手分けしてソウタを探していたという。こんな時間に警察に頼むのは、流石に気が引けたらしい。
「いくら疲れているからって、ゴミ捨て場のベッドで寝ることないじゃない。連絡入れてくれれば、いつでも迎えに行ったのに」
「いや、ちがくて。帰り道に……」
ソウタは本当のことを言おうとして、やめた。夢でも見たのだろうといってどうせ信じてもらえないに決まっているし、もし本当のことを言ったら、ゲームの世界に取り憑かれたとか言われて、折角いいところまで進めたポケモンのソフトを取り上げられてしまうかもしれない。
それに、実を言うとソウタ自身も夜中にあった出来事が夢なのか現実なのかはよく分かっていない。現実にポケモンがいるはずはないということはうすうす気づいていたし、かといって、腹や背中の痛みが嘘であったとはいえなかった。
「あんまり寝心地がよさそうなベッドだったから、ちょっと寝てみようと思ったら、こんな時間まで寝ちゃうなんて。ごめんなさい」
嘘はついたが、ソウタは素直に謝った。その方が穏便に事が済むと、それまでの経験から知っていたからだ。
「そう……今度からちゃんと連絡しなさいね」
相変わらず不機嫌そうな母に、ソウタは苦笑いを返す。すっかり暗くなった夜道を、二人で並んで歩いた。何だか小さい頃に戻ったみたいだなとソウタは思った。
だが、その時ソウタは忘れていた。
ジラーチが、彼の最後の願いを叶えていったということを。
*
後日、ソウタが愛用のポケモンを起動すると、五匹しかいなかったはずの手持ちのポケモンが一匹増えていた。何か捕まえた時にすぐに使えるようにと、一匹手持ちの枠を開けていた場所だった。
ジラーチ Lv77
おや/ソウタ IDNo.×××××
タイプ
エスパー/はがね
とくせい
てんのめぐみ
わざの ついかこうかが でやすい。
ここまではそれまで持っていたポケモンと何ら変わりないテキストだ。
だが、次の文章はそうではなかった。
きまぐれな せいかく。じゅくの かえりみちで
Lv.77のとき うんめいてきな であいをした。
この記述を見て、ソウタが喜びに飛び上がったのは言うまでもない。