忘れないで
「君は、誰だい?」
ベッドから体を起こした少年は、私を見てこう言った。これでもう何度目だろうか。
私は少し落ち込みながらも、短い手でベッドの横の台を指し示す。そこにはA4用紙大のカードが一枚置いてあった。
僕の名前は アラタ です
僕の傍にいるポケモン、――――は、僕の友達です。
と、黒の油性マジックで大きく書かれていた。二つ目の文章の最後に、私の絵が描いてある。彼に面会が来た時の自己紹介と私の紹介に、また、少年が自分の事と私を思い出せるようにと、彼の主治医が作ったものだ。少年――アラタはそのカードを見て「ああ」と呟く。
「そうだ。君は僕の友達だったね」
アラタは笑ってくれた。私は笑顔で頷いた。でも、私は少しだけ悲しい気持ちになる。私の種族は、人の気持ちを感じ取って同じ気持ちになるから、アラタはきっと心の中では悲しんでいるのだろう。
「ごめんね。僕は覚えるのが苦手みたいなんだ」
そういってアラタは私の頭を撫でてくれた。
思い出してほしいけど、気にしないで、と私は思う。でも、伝わらない。アラタの気持ちはわかるのに、私の気持ちはアラタに伝えられない。鳴き声としてしか発せられない私の声は、人間のアラタには理解できない。それがもどかしくて仕方がなかった。
*忘れないで
私はアラタの手持ちのポケモンだった。というか、家族同然だった。お母さんとはぐれてひとりぼっちだった私を、アラタが拾ってくれたのだ。何をするにも一緒で、アラタの母親には、アラタと私が兄妹みたいと言われるくらい仲が良かった。時々ケンカもしたけど、すぐに仲直りをした。お母さんに会えなくなったのは寂しかったけれど、その寂しさも忘れるほどに、毎日がとても楽しかった。少なくとも、あの日までは。
あの日以来、アラタは大きな病院に入院していた。私を庇って、自動車に轢かれたのだ。私の力では止めようもないスピードで走ってきた自動車は、アラタの体をいとも簡単に突き飛ばした。アラタは私を抱えたまま、数メートル先の道路に頭から叩き付けられた。アラタが抱えていてくれたおかげで私は無事だったけど、アラタは無事なんてものではなかった。
私は必死に助けを呼んだ。テレポートを使うなんて考えは、私の頭から吹っ飛んでいた。仮に思い付いたとしても、私の力ではアラタの体を支えきれなかっただろう。
私に気づいた誰かが救急車を呼んでくれた。すぐに駆けつけた救急隊が、アラタと私を病院に連れて行った。
病院で治療を受け、数日後に目を覚ましたアラタは私を見て、
「君は誰だい?」
と言った。主治医が私のことをアラタに教えたけど、アラタは覚えていなかった。アラタの母親が見舞いに来た時も、同じ反応しか示さなかった。
私はアラタのベッドで、アラタとずっと一緒に居た。それなのに、アラタは目を覚まして私を見るたびに、
「君は誰だい?」
と尋ねた。主治医曰く、命をとりとめただけでも奇跡的だったようだ。アラタはそれまでの記憶を全て失っていた。それだけではない。覚えたことを、次の日には忘れてしまうのだ。アラタのケガは日に日によくなっていったけど、記憶が元に戻る気配はなかった。主治医の用意したカードを見て、私のことを思い出してはくれるようになったけど、やはり長くは続かなかった。紹介カードなどのきっかけがなければ、思い出せなかったのだ。
アラタはいつも本を読んでいた。アラタの母親が、近くの図書館から借りてきたものだ。私はアラタの隣で一緒にアラタの持っている本を眺めていた。記憶を失っても、字は読めるようだ。アラタが笑うと、私も笑った。アラタが泣いたら、私も泣いた。
「この本のことも、すぐに忘れてしまうのだろうね」
一冊の本を読み終わって、アラタは寂しげに言った。
「本の中なら、いろんなポケモンと出会えるよね。僕もいろんなポケモンに会いたい。でも、出会ったとしても、きっとまたすぐに忘れてしまうんだ。会いたいと思ったことすら、すぐに忘れてしまうんだ」
そんなことない、と言いたかったけど、言えなかった。言ったとしても伝わらない。
きっかけがあれば思い出せるはずだ、と伝えたかった。でも、伝える手段がない。
「僕の名前はアラタです。――は僕の友達です。……こんな単純なことすら忘れていたんだから。ほんと、どうしようか」
アラタの顔がさらに暗くなる。私の気持ちも、一緒に暗くなる。
『ヤメテ、ソンナ、カオ、シナイデ。』
頭の中で繰り返す。願いにも似た感情が、私の中に生まれる。
「えっ?」
素っ頓狂な声に私が顔を上げると、アラタが不思議そうな顔で私を見ていた。
「今、喋った?」
『ワタシ?ワタシ、ハ』
「やっぱりそうだ。君、喋れるんだね」
アラタはにっこり笑った。
『ワタシ、ノ、コエ、ガ、キコエルノ?』
「うん、聞こえる。君の声が聞こえる!」
アラタの感情が伝わってくる。私の頭のツノが熱を帯びていくのがわかる。嬉しいんだ。私も、アラタも。やっと伝わったんだ!
気が付いたら、私はアラタの胸に飛び込んでいた。こんなに嬉しくなったのは、初めてだった。アラタはそんな私を、優しく抱きしめてくれた。そう、あの事故の日のように……
私が使えるようになった言葉は、テレパシーというものだった。エスパータイプのポケモンがよく使う対話手段だけど、エスパータイプ以外にも使えるポケモンはいるみたい。相手の頭の中に直接言葉を伝えるから、初めての相手にはびっくりされるけど。
私がテレパシーを使えるようになってから、アラタと話す時間がずいぶん長くなった。本を読んでいる時のアラタも好きだったけど、一緒に喋っている時のアラタはもっと好きだった。なんというか、本を読むだけだった頃とは比べ物にならないくらいいきいきしていた。ただ、相変わらず記憶は長くは続かなかった。私のことも、紹介カードを見ないと思い出してくれなかった。
『マタ、オモイダセナイノ?』
「うん、ごめんね」
『ダイジョウブ、アラタ、ハ、ワルクナイ』
「ありがとう」
こんな日常が、いつまで続くのだろう?事故に遭うまでは想像もしていなかった。ずっと今まで通りだと思っていた。でも、現実は違った。時の流れは残酷にも、アラタと私から平穏な毎日を奪い去っていったのだ。
お願い、忘れないで。
アラタに聞こえないように、そっと心の中で呟いていた。
それから一か月経った。片言だった私のテレパシーは上達して、自然に人と会話ができるようになった。アラタのケガはもうすっかりよくなって、次の日には退院できると主治医から聞いた。だが、相変わらず記憶の方は短かった。初めよりは伸びたのだろうが、それでも二日に一回は「君は誰だい?」と聞かれた。
その日の朝、私は主治医の部屋に呼ばれた。
「ごめんな。人間の記憶に関しては、我々も手の施しようがないんだ」
主治医は申し訳なさそうに私に言って、溜息を一つつく。
『でも、だいぶよくなってる。きっとなおる!』
「私もそう信じたいよ。」
私の願うような言葉に主治医は力なく笑うと、「あの子を、支えてやってくれ」と言い残して部屋を出ていった。
そして夜。
私は真っ白な空間にいた。それまでいた病室とは違う、ただ何もない空間。
隣にはアラタがいた。私を見てにっこり笑う。
『アラタ、わたしのこと、おぼえてる?』
「ああ、覚えてる。ずっと一緒にいたじゃない」
よかった、思い出したんだ!私は嬉しくて、アラタに飛びついた。
途端、アラタがふっと消えた。私は何もない地面に頭から落っこちた。起き上ってきょろきょろとあたりを眺めるけど、自分以外にこれと言って目立ったものはない。アラタの姿もそこにはない。
『どこにいったの、アラタ?』
呼びかけるけど、返事はない。私は寂しくなった。また忘れられてしまうの?またひとりぼっちになってしまうの?
『そんなに忘れられるのが怖いの?』
突然、私の頭の中で声がした。それは懐かしい声だった。
振り向くとそこに、一匹のポケモンがいた。すらりと高い背。緑の頭に赤い目。腰元からのびる白は、長いスカートを履いているように見える。
『おかあさん!』
私は駆け寄って声の主に抱き付いた。今度は、アラタのように消えたりはしなかった。
『久しぶりね』
『あいたかったよ〜』
私は泣いていた。周りに誰もいないから、これは私の感情だ。
声の主――私のお母さんは私の頭を撫でてから、私を引き離した。
『おかあさん?』
『いい、今から大事な話をするから、よく聞いておいてね』
お母さんは真剣な表情で言った。私は口を一文字に結んで頷いた。
『あなたは、アラタさんといて楽しかった?』
『うん、アラタといっしょにいて、わたし、たのしかった!』
『じゃあ、その時おかあさんの事を覚えていた?』
『……あ』
覚えていた、とは言い切れなかった。初めのうちは毎日のように思い出していたけど、アラタとの生活が楽しくて、何時からか考えなくなっていた。
『ごめん、とちゅうから、わすれてた』
『いいの。それは自然なことなのよ』
お母さんは微笑んだ。あたりの空気が、少し暖かくなった気がした。
『人も、ポケモンも、目の前にあることに集中してしまうと、他の事を忘れてしまうの。アラタさんの場合は、事故の後遺症だから仕方のないことだけれどね』
『でも……わすれられたら、さびしいから……』
『そうね。でも、忘れたなら、また作ればいいの』
『つくる?』
『そう。楽しい思い出を忘れてしまったなら、今度はもっと楽しい思い出を作ればいいの。よくないことは、忘れてしまってもいいの。アラタさんの事故のこと、思い出したらどんな気持ちになる?』
『かなしい。アラタがおおけがして、わたしのせいで……』
『だから、思い出さなくていいの。よくない事なら心の底にしまっておいていいの。もちろん、よくない事にも学ぶことがあるから、すべて忘れていいなんて言えないけどね。』
『まなぶこと?』
『例えば、あなたは何で轢かれそうになったの?』
『わたし、あのとき、アラタとボールであそんでた。ボールがころがっていって、それおいかけて……』
『道路に飛びだしちゃったんでしょう?』
『……そう』
『じゃあ今度から飛び出さないように気を付けようねって。これが学ぶこと』
私は少しつらくなった。私が飛び出さなければアラタはケガをしなくて済んだんだと。記憶を失わずに済んだのだと。
『だから、自分を責めなくていいの。終わってしまったことは元には戻せない。でも、新しいことは次々やってくるわ。あなたには未来がある』
お母さんは目を伏せた。その体が、徐々に光の中に溶けていく。
『おかあさん!』
『あの子を、支えてあげてね』
お母さんは、あの主治医と同じことを言っていた。
私は跳ね起きた。アラタはもう既に布団から出て、服も着替え終わっていた。
「おはよう、ラルトス」
少し驚いた。今日は最後に「君は誰?」と聞かれて三日目だったはずだ。いつもなら「君は誰」と聞かれるはずだった。
『おぼえてるの?』
「覚えてるよ。僕はアラタ。君は僕の――だよ」
今日は退院の日。アラタは私を連れて家に帰った。主治医が作った紹介カードは念のためにと持って帰っていた。そこに書かれた文章は、初めのものに少しだけ訂正が加えられていた。
僕の名前は アラタ です。
僕の傍にいるポケモン、ラルトスは、僕の”家族”です。
「行こう、ラルトス!」
アラタが私を呼んでいる。私はアラタを追いかける。
アラタは私を連れて、本で読んだポケモンたちを探す旅に出た。
紹介カードは、アラタの鞄の中に眠っている。
願わくば、もうあのカードを使う日が来ませんように。
『忘れても、また思い出してね。忘れても、また思い出を作ろうね』