第四十一話 それぞれの歩むべき道
どれくらいたっただろうか。沈み続けるのに慣れ始めた身体を急に突き上げられたような心地がして、リュウは文字通り跳ね起きた。
「!こ、ここは……っ!」
勢いに任せて起き上がったのもつかの間、全身を鈍痛が駆け抜け、耐えきれずにまたしても仰向けに倒れてしまった。痛みを堪えてなんとか左腕を持ち上げてみると、ところどころに包帯が巻かれていたり、傷薬が塗られたりと応急処置が施されている。瞬間移動の負荷によって気絶している間、キトラ達や「FLB」が手当てをしてくれたのだろう。
楽な姿勢をとったことで痛みがだいぶ和らぎ、仰向けの状態のまま首だけを動かして辺りを見回してみる。仄かに薄紫色を帯びた岩壁にひんやりとした地面。最初は洞窟の中かと思ったが、どうやら天井がぽっかりと開いたドームのような形状をした岩場のようだ。空気もほんのり冷たいが、「空虚の地」の大半を占めていた氷雪地帯とは比べるほどでもない。むしろあの寒さにすっかり身体が慣れてしまったのか、変な心地よさまで覚えた。
「リュウ?」
また意識を手放してしまいそうになったところで、慣れ親しんだ声が耳に入る。声の主が分かっていても、どうしてだか跳ね起きて身構えそうになり、またぞろ激痛が身体中を駆け巡る。
「キ、キトラ」
「わ、まだ動いちゃダメだって!……イテテ」
キトラもあわてて駆け寄るが、彼自身もまた痛みに顔をしかめていた。リュウほどではないが彼の身体にもところどころ治療痕があり、治りかけの火傷がなんとも痛々しい。この火傷の原因は間違いなく自分だと分かっていても、どうしてこんなことをしてしまったのかはリュウの中で未だに記憶上空白のままだった。
「あのさ、キトラ」
「ねぇ、リュウ」
とりあえずこの気まずい沈黙を振り払おうとした矢先、切り出しが見事に被ってしまいさらに空気が凍り付いてしまった。果てには、
「「ごめん……」」
重要な謝罪の言葉までハモる始末。
「な、なんでキトラが謝るんだよ?今回の件、悪いのはどう考えたってオレだろ?」
「違うよ!リュウはボクのために一人で街を出て行ったんでしょ?手紙にもそう書いてあったじゃないか」
それなのにボクが……と言いかけたところで、キトラは項垂れてしまった。「氷雪の霊峰」で戦った時も手紙の趣旨は理解していたようだけど、戦闘が終わった後のキトラは今まで自分が何をしていたのか分からないような口ぶりだった。だからあの言動も行動も、どこまで本気だったのかが見当もつかない。
「キトラ、よかったら聞かせてもらえるかい?オレが街を出た後、何があったのか」
辛いことを思い出させることになるかもしれないが、ここまでの情報共有はしておきたい。それにリュウの中には、キトラの行動の要因についてある仮説が浮かんでいた。
「リュウが出て行った後、ボクはしばらく普通に救助活動をしていたんだ。何度か救助隊が基地に押しかけてきたこともあったけど、しばらく経ったらみんなリュウの討伐に向かっちゃって」
「じゃあ、今の『サルベージタウン』は救助隊がほとんどいないのか」
「そうだね。災害が頻発するからわざわざ遠いところから派遣されたのに、『キュウコン伝説』が広まってからはみんなリュウを倒すことに躍起になっちゃってさ」
キトラが皮肉めいた物言いをするなんて珍しいが、その言葉はごもっともだ。目の前の目的を果たすことに躍起になるあまり、本来の使命を忘れてしまう者達。しかも元凶の件は濡れ衣だったと判明した今、それも徒労に終わってしまうなんて皮肉としか言いようがない。
「冬に入ったあたりかな。いつものように救助に出ようとしたら、誰かの声が聞こえてきたんだ」
「声?」
「うん。基地の中は誰もいないはずなのに、そもそも気配すらしないのに、まるで近くで話しているようにはっきり聞こえたんだ」
――これ以上、変わってしまっていいのか?
リュウは背中が一層冷えるのを感じた。謎の声にこの言い回し。「氷雪の霊峰」でリュウに語りかけてきたあの声と特徴が一致する。
「その声が聞こえた途端、何かが押しつぶしてきたみたいに急に体が重くなって。倒れたことは微妙に覚えているんだけど、それ以降の記憶は全然ないんだ。気がついたらあの雪山にいて、それまで何があったのか、何をしていたのかも思い出せない……」
必死に思い出そうとしているのか、頭を抱えてうなるキトラ。これまでのキトラの行動は、すべて彼自身の意思で起こしたものではないようだ。無意識下で動いていただけなのか、或いは何者かに操られていたのか。
「キトラ。その声、どんな声だった?なんというか、男とも女ともつかない中性的な声じゃなかった?」
念のため、ここで声の主の名を明言はしなかった。そもそもリュウが聞いた声も、まだ可能性の段階であって、あの白狐――ベアトリスとは判明していないのだから。
「うーん……あれは、どう聞いても男のヒトの声だったよ。すっごく低かったもの」
ハズレか。
リュウが聞いたものと同じ声なら、あの戦いはベアトリスか、もしくは何者かが意図的に仕組んだものである可能性がうんと高くなる。いや、同一人物でなくても、リュウとキトラにそれぞれ別の者が干渉してきた可能性もあるか。考えれば考えるほど様々な仮説が出てきて、こんがらがってしまいそうだ。
姿は決して見せることなく、声だけをリュウ達に届け、互いを争わせた存在。自然災害の元凶という疑いも晴れて、無事この旅を終えることはできたけれど、霊峰での戦い、ひいてはこの旅の裏には必ず何かがあると感じずにはいられなかった。
「あー!リッくんが起きてるぅ!」
こちらのシリアスな雰囲気を盛大にぶち壊すように、ハルジオンが真上から勢いよく飛び降りてきた。体長二メートル重さ百キロの図体が落下してきたが故にまずキトラが着地の衝撃波で吹っ飛ばされ、何故か翼をばたつかせながらこちらに突撃してくるものだからその風圧でリュウもゴロゴロと転がっていった。
「は、ハルジオン……!うわわ!」
「やっと目が覚めたんだねリッくぅん!“テレポート”で麓まで下りた途端急に君がぶっ倒れてるからさぁ!僕もう心配で心配で心配でどわっはぁ!」
もはや止めを刺すかのようにのしかかってくるハルジオンだが、突然割り込んできた横殴りの風が彼を吹き飛ばしてくれたことで激突は回避できた。一陣の風でありながら思いの外遠く高く吹っ飛ばされたようで、墜落した先では砂煙が立ち込めている。誰かの悲鳴のような声が聞こえたようだが、気のせいだろう、たぶん。
「これ以上安静期間を延ばすな、阿呆」
小さな竜巻の名残を身に纏いながら、エルリオがのっそりと歩み寄ってくる。「氷雪の霊峰」ではリュウ達と同じく満身創痍であったはずだが、やはり戦い慣れしているからか、その身体には傷も焦げ跡も見る影もなく消え失せていた。
「エルリオ。ここは……どこなんだ?」
「『樹氷の森』から少し南下した岩場だ。『チーム・FLB』とともに霊峰を下山したはいいが、貴様が気絶してしまったからな。介抱のためにここまで運んできたのだ」
それから三日も寝たきりになるとはな――と呟きながら、そばで伸びているキトラを助け起こすエルリオ。キトラも特に気後れすることなく朗らかな笑顔でお礼を言っているあたり、リュウが寝ている間の三日間でエルリオ達とも打ち解けたのだろう。もともとキトラは社交的な性格だから、あまり心配はしていなかったのだけれど。
「そっか。それで、フォルテさん達は?」
「向こうでハルと口論している」
えっ?と思って振り向くと、かすかに向こうから言い争う声が聞こえてきた。手前側に墜落から生還したハルジオンと、対するは何故か全身痣だらけのレバント。そして彼等の口論を、フォルテとバチスタがギャラリーのように呆れ顔で眺めていた。
「いやだから、なんでお前が突然上から降ってくるんだよ!危うく死ぬとこだったんだぞ!」
「僕だって好きで頭からダイブしたわけじゃないもん!文句ならエルに言ってよぉ!」
これだけでだいたい口論の原因は察することができた。ついでにハルジオン墜落時に聞こえた悲鳴の正体も。
「ようやく目が覚めたか、リュウ」
背後から声がしたかと思うと、ついさっきまでハルジオン達の大乱闘を観戦していたフォルテが、いつの間にかリュウ達の近くに立っていたのだった。なんという素早さと思ったが、そういえばこのヒトは“テレポート”を使えるんだっけ。
「はい。フォルテさん、霊峰からの脱出と手当、ありがとうございました」
ヒトに対して素直に礼を述べられることに、リュウは不思議な懐かしさを覚えた。ついこの間までは、ほぼ全てのポケモン達が敵といっても過言ではなかった。さらに言えば目の前のフォルテ達は自分にとって最大の脅威だった。だが疑いが晴れた今、もう命を狙われる危険はないし、このヒト達もかつてと変わらず頼もしい先輩救助隊だ。
「手当に関しては大したことはしていないがな。全員そこまで酷い怪我ではなかったことが幸いだった」
フォルテも短く笑うと、手近にあった石に腰かけた。よく見ると右手に得物であるスプーンが二本握られており、空いた左手には一通の手紙が握られていた。読んだ後なのかすでに開封されており、封蝋には[救助隊バッジ]を模した刻印が使われているあたり、おそらく救助がらみの内容だろう。
「バチスタ、そろそろレバント達を連れてきてくれ。リュウも目覚めたことだし、これからのことを話しておかねばな」
「へいへい」
げんなりした顔色だが、特段嫌がることもなくバチスタがハルジオン達の仲裁に向かう。多分、「FLB」内でこういった苦労役は彼が一手に担っているのだろう。
「さて、ベアトリスによってお主の無実は証明された。これでもう全国の救助隊から命を狙われることはなくなる――のだが、現状その事実を知っているのは我々とお主等しかおらぬ」
リュウも頷く。
それが一番の課題だった。いくら無実が証明されても、ヒトびとにそれが知れ渡らなければ意味がない。本人やその場に立ち会った者が濡れ衣だったと何度叫んだところで到底信用してはもらえないだろう。かといってラジオもテレビもないこの世界では、「アナザー」全土に周知させる方法も限られてくる。
「皆にこの情報を知らせるにはまず我々が先行し、『ポケモン救助隊連盟』に報告することで触れを出すことができれば周知が行き渡るが、少しばかり厄介なことになってしまってな」
「厄介?」
「これは連盟から我々『FLB』に宛てられた指令書だ。読んでみるがいい」
フォルテは左手に握っていた封筒をリュウに手渡した。確かに端に「ポケモン救助隊連盟」と小さく書かれている。封を開けて紙を取り出すと、キトラも中が見たいのかひょいとリュウの肩に飛び乗り、エルリオも横から覗き込んできた。
「えっと、『この指令書の到着を以て、リュウ討伐を一時中断。新たにグラードンの討伐を命ず』……って!」
思わずリュウは面を上げてフォルテを見た。その視線の意味を察したのか、フォルテは無言で一つ頷く。
「そうだ。我々『FLB』は、グラードンの討伐に向かうこととなった」
「そんな!だって、グラードンといえば伝説のポケモンでしょ?いくらフォルテさん達がゴールドランクだからって、討伐だなんて」
「FLB」の実力が如何程かは、片鱗しか見てはいないもののリュウもキトラも知っている。それでも伝説と謳われるポケモンの討伐を命じるなんて、無茶振りという軽い言葉で済まされるものではない。
「しかし、随分とタイミングのいいことだな」
一方で、エルリオはリュウ達とは違う感想を述べていた。顎に片手を当てて、何か考え込むような仕草で。
「どういうことだよ、エルリオ?」
「我々が地殻変動とグラードンの関係性を知ったのはつい三日前のことだ。しかもリュウが自然災害の元凶ではないと判明した直後にこの指令書が届いた。偶然と呼ぶにはいささか都合がよすぎるのではないか?」
フォルテにそんな疑問を投げかけたエルリオの目は、かすかに連盟に対して牙を向けているような色をしていた。だがフォルテもその様子に慄くことはなく、むしろ顔色一つ変えることなく口を開いた。
「グラードンの討伐に関してはかねてより連盟から指令は出ていた。これまでも我々以上の実力を誇る救助隊が討伐に向かったが、いまだに成功の報を持って帰ってきた者は一人もおらぬ。それに我々もベアトリスからあの話を聞いた以上、この命に背くつもりは毛頭ない」
「つくづく元を叩くのがお好きなようだな、連盟は」
不味いものをペッと吐き出すような口調で言い放ち、エルリオはそっぽを向いた。連盟に対して個人的に恨みでもあるのだろうか。
「とにかく、この指令書が出された以上我々が連盟に向かうことはできない。
そこでリュウ、お主が直接連盟へ行って報告してもらいたいのだ」
――え?
フォルテの言った意味を理解するのに時間を要したわけではないが、気がつくと周りの空気は時が止まったかのように静まり返ってしまった。
「ぅえええええ?何それ何それちょっと待ってよぉ!そもそもリッくんが自然災害の元凶だって決めつけたの連盟のお偉いさんなんでしょぉ?だのにそんなところにリッくん本人が行っちゃったら即刻お縄頂戴になっちゃうじゃないかぁ!」
当の本人に先立ってハルジオンが小鼻を膨らませながら抗議してきた。結局それはフォルテの“リフレクター”によって物理的に阻まれた挙句エルリオの蹴りによって沈められたわけだが、彼の言っていることだけはリュウにも異論はない。
「アナザー」は人間世界のように国を治める王もいなければ行政制度すら確立していないのだが、この世界の平和を守る役目を救助隊が一手に担っており、その救助隊を統括している「ポケモン救助隊連盟」こそが実質この世界で最も権力があるといっても過言ではない。リュウがこの世界の現状を知るのに随分と世話になった[ポケモンニュース]を発行しているのも連盟であり、現にその情報通達力は皮肉にも「キュウコン伝説」の件ですでに証明されている。しかし「FLB」が行くのならともかく、元お尋ね者であるリュウが真実を伝えに連盟へ向かうなど下手をすれば口を開く前にその場で御用となりかねない。
「無理を言っているのは重々承知している。しかし、何も手ぶらで行けというわけではない。真実を伝える際は、これを渡すといい」
フォルテが道具箱から取り出したのは、手のひらより一回り大きいサイズである白く濁った壺のようなものだった。自然か人工か定かではないがダイヤモンドカットのような加工がされており、白い霧のようなものを纏いながら仄かに青い光を放っている。
「わぁ、何これ何これぇ?すっごく綺麗!」
「これは……形状は少々違うが、フリズムと呼ばれるものだな。氷雪地帯の限られた場所でしか手に入らないものだ」
「流石によく知っているな。では、これがどんな機能を持つかも知っているか?」
フォルテの問いかけを挑発と受け取ったのか、エルリオは一瞬だけムッとしたような表情を見せた。博識故のプライドだろうか。
「フリズムは本来青色をしているが、その中に向けて言葉を発すると、声が凍りつき今のこの状態のように白く濁る。フリズムを包み込むように握って温めることで、溶けた声が先程吹き込んだ言葉となって再生される、そんな代物だ」
「そうそう、こんな風にな」
いつの間にか、バチスタがエルリオに向けて別のフリズムを向けていた。先程の説明を飲み込んで白く濁ったフリズムを、リュウに手渡す。凍っているだけあって、まるで氷そのものを持っているかのように冷たかった。しかしそれも、リュウが両手に持っただけで瞬く間に常温に戻っていく。そして、
「うわ!え、エルリオ?」
一瞬だけ目の前の景色がぐにゃりと歪んだと思うと、なんと目の前にもう一人のエルリオが現れたのだ。半透明でおぼろげなその見た目は、先程までフリズムを包んでいた白い霧を固めて作ったようにも見える。不機嫌そうなその表情もつい三十秒ほど前のエルリオと瓜二つだ。リュウ達のように驚きの声こそ上げなかったが、当の本人も文字通り目を丸くしている。
――フリズムは本来青色をしているが、その中に向けて言葉を発すると、声が凍りつき今のこの状態のように白く濁――
半透明エルリオが口を開くと、まるで先程本物がしていたようにフリズムについての説明をし始めた。言葉どころかスピードも口調も全く同じだが、声質までは流石に再現できないのか、分厚いガラスで仕切られたように少しくぐもって聞こえる。説明がひとしきり終わると、エルリオを形作っていた霧は崩れ、周りの空気に溶け込んでいった。どうやらこのフリズム、人間世界におけるボイスレコーダーのような性質を持っているようだ。
「すごいすごぉい!エルの声、面白いねぇ!」
「わ、私を使って実験するな!」
「こういうものは言葉で説明するより、実際にやってみせた方が分かりやすいだろう」
説明しろって言ったの、フォルテさんじゃなかったっけ――という疑問兼ツッコミを、今にも喉から出そうなギリギリのところでリュウは必死に飲み込んだ。
フリズムを包んでいた手を開いてみる。リュウの爪の上で転がっているフリズムは、白い濁りも淡い輝きも失い、青みがかった半透明の色に戻っていた。どうやら、録音した音を再生できるのは一度きりらしい。
フリズムは本来声のみを凍らせて保存するという性質を持っており、昔から伝達手段の一つとして氷雪地帯に住む者達の間でしばしば使われていたという。しかし近年、サイコパワーをあらかじめフリズムに封じ込めることで、声が流れている間の映像もその中に保存できることが判明したのだった。
「じゃあ、このフリズムの中には」
「『氷雪の霊峰』にてベアトリスが語っていた光景が封じられている。彼女だけでなくお主等や我々、さらに霊峰の光景もそのまま保存されているから、手ぶらで弁明するよりはずっと信憑性が増すだろう」
相変わらず抜け目のない男である。しかも、よく考えたらあの時のフォルテはいつでもリュウを始末できるように“サイケこうせん”の構えをしていたはずだ。おそらく空いた手でベアトリスの証言を録音していたのだろうが……想像はしないでおこう。変に吹き出しそうになる。
「じゃあ後はこれ持って連盟に行くだけだよねぇ!本部は確か『アナザー大陸』のど真ん中にあるからぁ、お偉い方に分かってもらったらそのまま『サルベージタウン』に帰れるしほげええぇぇ!」
「阿呆。三年前に連盟本部は大陸南東にある半島に移転したのを忘れたか」
例のごとくハルジオンを蹴り飛ばしたエルリオ曰く、「ポケモン救助隊連盟」は全国の救助隊を統べるというその性質上、「ライメイの山」から少し南下したまさに「アナザー大陸」の中心とも呼べる場所に本部を構えていた。しかし、災害が深刻化する中で本部も竜巻の被害を受けたことをきっかけに、比較的災害の少ない南東に移転されたのだという。
今の位置から本部に向かうならば、大陸西の沿岸に沿って進んでいけばいい。とはいえ、主に三つの山と深い森林地帯を越えることとなるから、逃避行の時と違わぬ厳しい旅路になることは必至だ。
しかし、どんな道のりであってもリュウはこの旅に出ると決心していた。もともと自分の無実は自分で証明する気でいたし、何より逃避行と決定的に違うのは「自分は自然災害の元凶ではない」という確信を胸に秘めていることだった。たとえフリズムがあっても、そう簡単には無実を信じてもらえないかもしれない。だが、確信を得た今ならもう自分自身を疑う必要はない。堂々と前を向いて歩いていくことができる。
「キトラ?」
どうも先程からキトラが黙り気味だったので声をかけてみると、長い耳をだらんと垂らして顔が見えないほどに俯いていた。
「あれぇ?どしたのキィくん、具合悪いのぉ?」
ハルジオンも目敏く気付いたのか長い首を伸ばしてキトラの顔を覗き込む。いつの間にやらキトラも妙な仇名をつけられていたらしい。それはともかく、キトラはハルジオンの質問にも返答はせず、ただ首をふるふると横に振った。そして、
「リュウ。その……ボク、先に『サルベージタウン』に帰るよ」
キトラの呟きにも近い小さな発言に、この場にいた全員は驚きの声を上げた。せっかく再会できたというのに、まさか今度はキトラから単独行動を申し出てくるなんて。
「……霊峰でのことを気にしているのか?」
また問いただそうとするハルジオンを後ろ脚で押さえつけながら、いち早く察したエルリオが問いかける。小さく頷くキトラの顔は、今にも泣き出しそうなくらいに崩れかけていた。
「まだはっきりじゃないんだけど、ぼんやりと思い出したんだ。ボクはあの雪山で、リュウと戦ったんだ。そして、何の躊躇いもなくリュウに攻撃して、怒りに任せて酷いことまで言ってしまった……」
リュウは違うと反論しようとしたが、こんな時に限って思い出したように傷が痛みだし、皆に気づかれないように堪えるので精いっぱいだった。
「リュウだけじゃない!エルリオやハルジオンも傷つけてしまった。『FLB』のみんなにだって迷惑をかけた。リュウの疑いは晴れたけど、このままみんなと一緒にいたら、また知らないうちに攻撃して傷つけてしまうかもしれないんだ!だったら、ボクはそばにいない方が……」
とうとうキトラは小さな声を上げて泣き出してしまった。リュウがそうであるように、キトラもまた己の罪悪感に苛まれていたのだろう。
かける言葉を見つけられずに皆が黙っている中、フォルテが徐に前に進み出た。
「ふむ。確かにキトラはリュウを追うために我々に同行したにすぎぬ。連盟に要請すれば、彼が帰還するためのペリッパーなら遣わしてもらえるだろう。南東も自然災害や『不思議のダンジョン』が多い故、決して易しい道ではないからな」
ヒトが目の前で泣いているというのに、こんな時でもフォルテは無表情だった。
「キトラが我々に同行することを許可したのは連盟だが、流石に今リュウ達と共にいるということまでは把握していないだろう。今から要請すれば、半日と経たずにペリッパーが来て『サルベージタウン』に送り届けることができる。それでいいか、リュウ?」
不意に問いかけられたのでリュウは一瞬だけ戸惑ったが、フォルテの厳かな目つきでその狼狽は引っ込んでしまった。
フォルテの言葉の最後の方は字面だけ見ればただの確認だが、その裏で真に問うていることがあるということは言葉にせずともその目が語っている。だからリュウは即答することはしなかった。
キトラが言うように、またあの時の声によって精神をのっとられ、暴走してしまう可能性もゼロとは言い難い。そうなってしまってはリュウに危害が及ぶのはもちろんのこと、キトラも仲間を傷つけてしまったことでさらに自責の念に苛まれてしまう。そしてそれは、同じく知らず知らずのうちにキトラを叩きのめしてしまったリュウ自身にも言えることだ。お互いの身と心を守るためにも、この先共に行動するよりはキトラだけでも安全な場所で待っていてもらうのが得策かもしれない。
だが、それでは以前と同じことだ。
「キトラ」
キトラの嗚咽が少し収まるのを待って、ゆっくりと立ち上がりながら切り出した。
「改めて言わせてもらうよ。今回の件は、本当にすまなかった」
深々と頭を垂れたのも相まって、キトラは未だ目に涙を浮かべながらもきょとんとした顔で固まった。反論の隙も与えずに再びリュウは顔を上げて口を開く。
「オレがあんな手紙を残したばかりに、キミを独りにして、辛い思いをさせてしまって。全部、全部――オレのせいだ」
「だ、だから、それは違……」
「うん。元はといえば一緒に旅に出ることで戦いや危機に巻き込みたくなかったから、キミには街で待ってもらうことにしたんだ。完全にオレの勝手なのに、それでもキミは手紙のこともわかってくれて、街に残っていてくれて、本当に嬉しかった。でも結局、『氷雪の霊峰』ではオレの心が弱かったせいで、キミを傷つけてしまった」
もし手紙を残さずにキトラと共に逃避行に出たとしても、「氷雪の霊峰」での対峙が起こらなかったとは限らない。実際旅の間は幾度となく命を落としかねないほどの危機に陥っており、もしその時に傍にキトラがいたとしたらと思うと今でも寒気が走る。
それでも、この逃避行は一人で出るべきではなかったのだ。今なら分かる。それがこの旅で身に染みるほど知ったことなのだから。
「オレだってこの世界に来た時よりは強くなったと思っているし、いざという時は緋の炎だってあったから、一人でも困難を乗り越えられると思っていたんだ。でも実際は違った。いつどんな時でも危険と隣り合わせで、今だってエルリオやハルジオンがいなければ、オレはとっくに命を落としていたかもしれない。真実を見つけることすら叶わなかったかもしれない。救助隊のリーダーを担っておいてこんなことを言うのは情けないけど、オレは自分一人では何もできないほど未熟なんだ」
また近しい者を失うかもしれないという恐怖と、特別な力を持っているが故の思い上がり。今回のリュウの選択は、この二つの感情の上に成り立った過ちだった。結果的にその代償は、緋の炎を以て自らの手でキトラを殺める寸前まで追い詰めるという結末だった。これだけは戒めとして、心に強く深く留めなければならない。そして、
「こんな過ちをしておいて、さらに我儘を言うことになるかもしれないけど……これから連盟へ行くまでの旅は、キトラも一緒に来てほしいんだ。キミの実力は良く知っているから心強いし、一人ではどうにもできなかった危機も乗り越えられると思う」
もちろんこれはオレの要望だから、最終的にはキトラが決めていいけど――と言い出しそうになる口を、リュウは力を込めて閉じた。伝えることは伝えきったのだから、それを妨げる蛇足は付け加えるべきではない。
「ボクは……」
涙も嗚咽もだいぶ収まって、息に近いか細い声を上げるキトラ。
「これ以上、誰かを傷つけたくない。けど何よりも、ボクの知らないところで、大切なヒトがいなくなるのは嫌なんだ。だから……」
言葉こそ途中で切れたものの、涙をごしごしと手で拭うと、ようやくキトラは顔を上げた。いつも見せていた明るい笑顔。それを見るだけでもキトラの最終的な答えはおのずと察することができる。
「よぉし、じゃあ決まりだねぇ!キィくんもパーティーに加わるってことで!」
突然ハルジオンが割って入ったことでしんみりとしたムードが音を立てて崩れ落ちた。
「は、ハルジオン?急にどうしたんだよ?」
「えー?だってだってだって、リッくんもキィくんも一緒に連盟行きたいんでしょぉ?お互い謝った上で仲直りしたんだからもう決まりだと思うけどなぁ。ねぇエル?」
「私に同意を求めるな」
今にも蹴り飛ばさんという勢いでエルリオが睨み付けているが、例のごとくハルジオンは気付いていないようだ。
「まぁとにかく、僕達も引き続きボディーガードをやるんだしぃ。四人で行けば救助隊が束でかかってきても余裕だよねぇ!」
「……は?ちょっと待て!アンタ達逃避行が終わってもついてくるつもりなのか?」
「あったり前でしょぉ?もうリッくんのボディーガードは僕達の天職なんだから!」
「まぁ、疑いが晴れたところで貴様の研究が終わったわけではないからな。むしろ真実が分かったことで緋色の炎についても新たな可能性が見出せるかもしれぬ」
リュウは項垂れた。確かにエルリオもハルジオンも戦いにおける実力に関しては心強いことこの上ないのだが……また胃が痛くなる日々が続きそうだ。
「じゃあキィくん、改めてよろしくねぇ!リッくんだけだと不公平な気もするしぃ、これからは君のボディーガードも請け負ってあげるからねぇ!」
「え?あぁ、うん。ありがとう……」
「ふむ。そういえば貴様、その歳で“ボルテッカー”を習得しているとはなかなかの資質を持っているようだな。興味深い……」
「ちょ、ちょっと!怖いから睨まないでよ〜!」
早速キトラが変な方向に絡まれているようである。
しばらく呆れ顔でその光景を眺めていると、背後で少しだけ足音が聞こえ、リュウは振り向いた。
フォルテだった。先程の厳格な表情は消え、幾分か穏やかさを取り戻している。
「すまないな。厳しい逃避行の直後に、またも無理難題を押し付けてしまって」
「いえ。やっぱり自分の無実は、自分の手で証明したいですから」
「よき心がけだ。我々も一刻も早くグラードンを討伐し、お主等が少しでも早く安全な暮らしができるよう尽力しよう」
その前に、一つだけ聞きたいことがある。とフォルテが身をかがめてリュウと同じ目線になった。
「辛いことを思い出させるようで申し訳ないが、これだけは確かめておきたい」
「な、何ですか?」
「『氷雪の霊峰』でキトラと対峙している最中、お主は突然苦しみだし蹲ってしまった。その後のことを、お主は覚えているか?」
――それならば、「緋龍の子」よ。貴方を少しだけ勇者にしてやろう。
あの声が聞こえた直後のことだ。突然息が詰まり、身体中が沸騰しているような熱さを覚え、苦しむままに叫び声を上げた後そのまま気を失ってしまった。そして気がついた時には、その手に緋炎を纏わせ、目の前には黒焦げになって倒れているキトラが残されていた――
その間いったい何があったのか。「サルベージタウン」から「氷雪の霊峰」に至るまでのキトラのそれと同じく、リュウ自身も気を失って以降の記憶が欠落している状態だった。単に気絶していたわけではない。何かしら手足を動かすなどの行動を起こしていた感覚だけは残っているのだが、いくら思い出そうとしてもぽっかり穴が開いているようにその記憶だけが存在しない。
「実は、思い出そうとしているんですけど、何も覚えていなくって」
「そうか……」
フォルテが徐に立ち上がる。しかし、その目線は未だリュウを見据えたままだった。
「リュウ、確かにお主は他のポケモンにはない特別な力を秘めている。私はまだ片鱗しか垣間見てはいないが、これまでもお主はその力で幾多の困難を乗り越え、救助隊として多くのポケモン達を救ったのだろう」
「……」
「だが、その力が必ずしも善き物ではないということを忘れるな。未知なる力は一つ誤れば、己が身を滅ぼすことになる」
フォルテの言葉一つ一つが、リュウの心の奥底へと深く沈んでいく。
絶体絶命と思ったその時に決まって緋色の炎はその姿を現し、幾度となくリュウを救い出してくれた。だが、その炎で親友を手にかける寸前まで追い詰めてしまったことも揺るがない事実である。力というものは往々にして、仇なすための刃となる。ただその刃が他者に向けられるか、あるいは自身を傷つけることになるか。自分が何者なのかを知ると決めた以上、この緋色の炎と向き合うことも避けては通れない道となるだろう。
善は急げというが、今後の道のりの厳しさを鑑みた結果、一先ずリュウとキトラの傷が完全に癒えるまでこの洞窟に身を潜めることにした。しかし、「アナザー」では珍しくこの洞窟は「不思議のダンジョン」ではないものの、我を失ったポケモンが紛れ込んだり救助隊が侵入してきたりする可能性は少なからずある。一度「FLB」が護衛を申し出てくれたが、彼等には連盟の命令がある以上、ここで長居するわけにはいかない。こちらにはエルリオとハルジオンもいるし、いざとなれば逃げる程度の体力は残っていることを説明した上で先に向かってもらうよう促した。次に会う時はお互い無事で、少しでも世界が平穏になっていることを祈って。
「やけに騒がしいと思ったら……こりゃまた随分なお宝を発見したもんだ。早速お嬢に報告と行くか」
リュウ達からだいぶ離れた大岩の陰で、一つの影がぐらりと揺らいだ。