第四十話 夢境にて二人
夢を見ていて、「今、自分は夢の中にいる」とはっきり認識することなんて、そうそうないと思う。
しかし、瞼を固く閉じて黒一色となった視界越しでも、リュウは自分がどこにいるのか何となく把握できていた。眠っているときのような微睡みに身を包まれながらも、頬をなでる風や鼻をくすぐる草花の匂いに不思議な懐かしさが込み上げてくる。
もう見慣れていたはずなのに、瞼を開けて目に飛び込んできたその光景に、リュウは息を飲んだ。
鮮やかな新緑に色づき、立っていると足に柔らかな感触を残す草の絨毯。一度風が撫でるとその表面を日の光が照らし、まるで波紋のように幾重にも広がっていく。ひとしきり草原の海が織りなす小波を目で追いかけ、ふと上へ視線を向ければ今度は雲一つない澄み切った青空。地平から離れるほど青みが濃くなっており、見上げれば見上げるほど吸い込まれてしまいそうな感覚を覚える。
「フルーラ?」
何度見ても美しい草原と青空を十分に堪能した後、リュウは背後から感じた気配に向けて呼びかけた。
この草原の中でもひときわ存在感を放つ巨大な大木。まるで枯れることを知らぬと言わんばかりにみずみずしい葉をその枝に蓄えている。その下で、気配の主であるサーナイト――フルーラが、いつものように右手にハープを抱えて佇んでいた。彼女の姿を見るのは「氷雪の霊峰」探訪前だから二日弱ぶりくらいだけど、この場所で邂逅したからか数年ぶりの再会にも思えてくる。この空よりもずっと深く青い流麗壮美なる瞳。何の感情も映さず限りなく真顔に近いけれど、その穏やかな表情は見るものの警戒心を瞬く間に消し去ってしまうほどだ。
「はい。この場所でお会いするのは、ずいぶんと久しぶりですね」
どうやら向こうも同じことを思っていたようである。
そういえば、この草原にいるということは、現在リュウは眠っているということだろう。しかし、覚えている限りの最近の記憶といえば、フォルテのテレポートによって一瞬だけ意識が遠のいたことだけだ。つまり本来なら、目が覚めたらキトラ達とともに別のところにワープしているはずなのだ。
「お察しの通り、現在貴方は眠りについている状態です」
こちらの疑問を読み取ったのか、フルーラが口を開く。
「眠ってるって、なんで?」
「テレポートで空間を越えて移動するときに、その負荷に耐えきれずに気絶してしまったのです」
自分でもわかるほどにリュウは目を丸くしてしまった。しかし考えてみれば、テレポートで移動するときはいつも重力に押しつぶされるような感覚を覚えた後少し気が遠くなるような心地がしていた。しかもあの時のリュウは激戦を経て満身創痍だった。そんな状態で意識を手放そうものならしばらく起きられそうにないだろう。
ということは、現の世界のリュウは意識を失って倒れているということだ。無事崩壊する霊峰から脱出できて安心したのも束の間一人気絶しているとなれば、今頃大騒ぎになっていることだろう。今すぐにでも起きて無事であることを示したいところだが、せっかく久々にこの場所に来られたのだし……
「フルーラ、キミにはいろいろ聞きたいことがあるんだ」
「えぇ。私も貴方に、お伝えしたいことがあるのです」
伝えたいこと?皆目見当もつかずリュウは呆然としていると、やおらフルーラは深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」
突然の謝罪に目に見えてリュウは狼狽えた。別にフルーラに何かされた覚えはないし何かあったという心当たりすらないのだが。
「貴方と私が初めて言葉を交わすことができたあの日、貴方は自然災害の元凶という疑いをかけられ、逃避行を余儀なくされてしまいました。わたくしが逢いに行かなければ……貴方に迷いが生じることもなく、辛い思いをさせることもなかったのに」
どうやらフルーラは、リュウの逃避行の引き金は自分の行動によるものだと思っていたようである。
確かにあの時はフェルガナから「キュウコン伝説」を聞いた直後ということもあり、フルーラを見出してからは自分が伝説に出てきた人間ではないかと信じてしまう寸前まで心が揺らいでいた。しかしそれは結局最後まで自分を信じ切ることができなかったリュウ自身の心の弱さが原因であり、彼女に非があるわけではない。今回の逃避行で少なくとも伝説に出てくる人間ではなかったことが証明されたわけだし、たとえそうならなかったとしてもフルーラを責めるつもりなど毛頭なかった。
「い、いいんだよ、フルーラ。全然気にしてないし、この旅に出たおかげで少しだけオレ自身のことを知ることができた。フルーラが自分を責める必要なんてないんだよ。だから顔を上げて?」
目の前で謝っている女性に対してどう言葉をかければよいものかと考える暇もなく、気がついたらほぼ本心をべらべらと喋っていた。フルーラはまだ申し訳なさそうな表情をしながらも、ゆっくりと顔を上げる。
「優しいのですね、リュウさんは」
「は、はは……」
ようやく少しだけフルーラが笑顔になったのを見て、思わず安堵が引きつった笑いとなって顔に出る。どう見ても笑う場面じゃないだろう、オレ。
「そ、それよりもっ!キミにはいろいろ聞きたいことがあるんだ。まずは……そうだな、キミは、どうしてオレの夢の中に現れるんだい?」
もう見るからにはぐらかしている感満載の体で、なんとか会話の主導権をこっちに引き寄せる。
フルーラはすぐには答えず、徐にリュウの横を通り過ぎるような形で歩き始めた。すれ違う時に、その右手に携えているハープがちらりと目に入る。オーケストラでよく見るペダルを踏むタイプのものを小型にしたような形状で、少し赤みの入った金属のような素材でできている。頭部には一対の翼のような意匠がこしらえており、よく見るとところどころに幾何学的な模様も刻まれていた。
「夢……ですか。そうですね。その質問にお答えする前に、まずは私達が今いるこの場所について、説明しましょう」
ハープに見入っていて、肝心のフルーラの返答を聞きそびれるところだった。
「この場所は、実際に『アナザー』のどこかに存在する草原です。清らかな青空の下、遠く連峰を望む草原。そして、まるで生命の象徴であるかのごとく、大地に力強く根を張る大樹」
そう語るフルーラの横顔は、どこか遠い過去を眺めているかのような色をしていた。わざわざリュウをこの地に呼んでいるのだから、何か特別な思い入れでもあるのだろうか。気にはなるが、込み入った事情もありそうだし詮索しない方がいいだろう。
「そしてこの地に、リュウさん――貴方は、意識体となって存在しているのです」
「……へ?」
思わず聞き返してしまった。
聞き慣れない言葉だが、「意識体」という字体から何となく意味は想像できた。つまり今のリュウは意識だけの存在となってここにいるという解釈でいいのだろうが、それってつまり夢の中ということではないだろうか?仮にこの地が実在する場所としても、意識のみの存在であるリュウにとっては夢の中とあまり相違ないのではないか?
誰にそうしろと言われたわけではないのだが、気がつくとリュウは左の頬をつねっていた。漫画とかでよく、これは夢なのだ、あるいは夢ではなく現実だと認識するためにこんな動作をしていたのを見たことがある。無意識に爪に力を入れすぎたせいか、自分でつねっておいて思いの外痛みを感じた。え、痛い?
「意識を実体化させている……と申し上げた方が、分かりやすいかもしれませんね」
申し訳ないですがますます分からなくなりました。と、頬をさすりながらリュウは心の中で呟いた。痛みは感じたし頬の感触もあったから、信じられないことだが実体化しているというのは事実であるようだ。夢を見ていながら、まるで現実世界のように触れ、五感で感じることができるなんて。
「夢と現の境界が曖昧となっているこの世界。貴方とこうして会話をする際は、眠りについている貴方の意識を実体化させてここまで誘う必要があります。今の私が比較的自由に行動できるのは、この世界に限られているからなのです」
「限られているって、まさか……」
「えぇ。キュウコン――ベアトリスにかけられた祟りの影響です」
言われずとも、リュウには察しがついていた。フルーラのほっそりとした二の腕。その手首に、光の粒子のようなものでできた腕輪がついている。何も知らぬ者がそれを見れば不可思議で美しい装飾品だと思うかもしれないが、彼女の境遇を知っていると、その腕輪はまるで手枷のように映る。パートナーを守っただけで、彼女自身は罪など何も犯していないのに。
「そもそも、その祟りっていったい何なんだい?」
「肉体と精神が分離されるというものです。私の身体は千年近く経った今も、祟りによって現世のどこかに封印されています。祟りの束縛が薄れている時は、こうして精神だけながらも行動はできるのですが……いわば幽霊の状態ですから、現世に出ることはできても他者に認識されることはありません」
そんなに恐ろしいものだったのか――と、話を聞いている間リュウは寒気が止まらなかった。そういえば「氷雪の霊峰」探訪前に再会した時も、そばにいたエルリオとハルジオンはフルーラの姿を認識していなかった。肉体はどことも知れない場所に封印され、他人と関わることを許されず生き続ける。言い伝えを迷信だと思い込み、穢れた手でベアトリスの尾に触れた愚か者への罰と考えれば相応だろう。その境遇がどれだけ辛いかは、フルーラの寂しげな瞳で容易に察することができた。
だとしたら、なおさらフルーラのパートナーである人間に対しての怒りがこみあげてくる。相棒をこんな目に合わせておいて、助けに行くこともなく逃げ出して、のうのうと生きている人間が許せなかった。伝説に出てくる人間ではないと判明した今となっては、もはや縁もゆかりもない赤の他人なのかもしれないけど。
「フルーラは、恨んでないの?」
「恨む、とは?」
「キミが命を懸けて守った人間は、キミがこんなにも辛い思いをしているとも知らずに、逃げ出して今も平然と過ごしてるんだぞ?せっかく守ったのに……とか、そんな風には思わないのか?」
赤の他人のくせにそこまで踏み込んだ質問をしなくてもと思われがちだが、どうしても聞かずにはいられなかった。少なくともリュウには耐えられなかったからだ。守った側でも守られた側でも。
「ふふ、そうですね。自分でもよく分かりませんが、不思議と恨んでいないのです」
ある意味失礼な質問かもしれないのに、何故かフルーラは小さく笑った。強がりでも皮肉を込めてもいない、本当に純粋な笑顔だった。
「むしろ私は、逃げてくれてよかったと思っているのです。もし私を助け出そうとしたら、あの方にさらなる危険が及ぶかもしれない。そして祟りをかけられた私はもう、あの方を守ることすら叶わない」
「フルーラ……」
「私達サーナイトは、己が身を捨ててでも大切な主を守り抜く種族。私達にとっては己の死よりも、主を失うことが何よりも恐ろしいのです。だからあの方も、私の使命を酌んであえて立ち向かうことなく逃げてくれた。そして、今も無事に生きている。それだけで、私は幸せなのです」
なるほど、そういう解釈もできるのか。性別は完全に逆だけど、その心構えは一国の姫を守る騎士のようだ。
命を賭してまで大切な存在を守るというその覚悟。リュウもキャリアは短いけれど救助隊として幾度もヒトを助けてきたが、果たしていざという時に、その覚悟を胸に戦うことはできるのだろうか。一度「守られた側」の立場を経験している以上、どうしても遺された者達の身と心を案じずにはいられない。
「それに、慣れたからというのもありますが、この姿でい続けるのも嫌というわけではないのですよ?今の私にも、果たすべき役目があるのですから」
「役目?」
「えぇ、生きとし生けるもののみならず、万物にはすべて役目が存在します。この世界の太陽にも、草原にも、この大樹にも、そして……リュウさん、貴方にも」
徐にフルーラは天を仰ぎ、その手でハープの弦を撫で始めた。細くしなやかな弦が小刻みに震えることで、儚くも柔らかな音色が大地に溶け込み、空へと舞い上がる。気づけば木々や草花が、まるでその音色に合わせるかのようにさわさわとその身を揺らしていた。植物の大合唱の中、ハープを手にした弾き手が一人。不思議なコンサートに招待されたような心地だ。
「オレの……役目」
その演奏に心が洗われたのか、気がつくと、ひとりでにこんな言葉を呟いていた。
「キュウコン伝説」に出てくる人間ではないと判明した以上、リュウがポケモンになってしまった理由はまた別のところにあるはずだ。だが、その手掛かりは今のところ何一つ存在しない。もしかしたら特別な理由などなくて、何らかの事故によって偶然こんな姿になったのかもしれない。
しかし、どんな理由があるにしろ、今のリュウの心にはある決意が宿っていた。
自分が何者であるのか。それを見出すまでは何があっても果てるわけにはいかない。逃避行に出るときも同じような決意を胸に抱いていたけれど、この世界の現実を知って、ヒトの心に触れたことでその決意はいつの間にやら消え失せ、一度は死を強く望んだ。だが今なら違う。この旅で知ることができたのだ。こんな自分でも最後まで慕ってくれる友がいる。動機はともかく自分を必要としてくれている者達もいる。
そして――かつてのフルーラと同じように、身を挺して自分を守ってくれたヒトがいる。
リュウは左足に着けている足輪に目を落とした。窮地に陥る度に何度もその身を光らせては心を奮い立たせてくれた形見。これの持ち主のおかげで、自分は今も生きられているということ。そして、二度と同じことが起こらないように強くならなければならない。リュウはこの足輪に、新たにその戒めを刻み込んでいた。ファイヤーと対峙したのを最後にここしばらくはその光を見ることはなかったが、もしかしたらその時からリュウの心情の変化を感じ取っていたのかもしれない。
ふと気がつくと、いつの間にかハープの音色が途絶えていた。先程までハープに合わせるようにして歌っていた大樹や草原も、まるで死んだように静まり返っている。
「リュウさん!その、足輪は……!」
震えを帯びたフルーラの声。見ると、彼女もリュウの足輪を目にし、片手を口に当てて見るからに驚いていた。ただでさえ白い顔がさらに蒼白になっている。
「その足輪、どこで手に入れたのですか?」
「え、え?どこでって……」
「お願いです、教えてください!早く!」
こんなに焦燥しているフルーラの顔を見るのは初めてだ。どう見ても足輪を欲しがっているようには見えないが、並々ならぬ事情があることは明白だ。
「これは、形見だよ。オレ達の救助隊のリーダー、サジェッタの」
特段嘘をつく理由もないのでありのまま真実を話したが、やはり心の奥がズキリと傷んだ。この身の変化とともに乗り越えたとはいえ、あの時の光景は、今も古傷となって残っている。
しかし、リュウの説明が終わっても、フルーラの顔から焦りの色は消えなかった。蒼い瞳までもが小刻みに震えている。焦りというかこの様子はどちらかというと――恐怖に近い。
「サジェッタさん、が……?だから……」
「だから」?
誰かほどではないが、比較的聡いリュウの耳はか細く発せられたこの言葉も聞き逃さなかった。この状況で「だから」という言葉。これだけではすべてを察することはできなかったが、そこに秘められた意味は限られてくる。信じがたいことだけれど、思わず至った仮説をリュウは問いかけた。
「もしかしてフルーラ。サジェッタのこと、知ってるの?」
相手を刺激しないようにごく普通を装って問いかけたつもりだったが、どうやら効果はなかったらしい。
次の瞬間、この空間に存在するありとあらゆるものがざわめき始めた。大樹、草原、そして風。まるで投げかけた本人すら知らないこの疑問に込められた何かからフルーラを守るかのように、拒むように、覆い隠そうと躍起になっている。
「ごめん、なさい……私……」
とうとうフルーラは両手で顔を覆い、よろめきながら後ろへと後ずさり始めた。細長い足がもつれ、バランスを崩して倒れこみそうになるのを見て、慌ててリュウが助け起こそうと手を伸ばす。
そして、あと少しで手が届く――と思った瞬間、フルーラの身体に稲妻のような亀裂が走った。
「これは……!」
フルーラだけではない。これまで騒がしくしていた植物たち、そして平静を装っていた太陽や青空にも、巨大な亀裂が四方八方へと伸びていた。初めてこの夢を見た時もこのように背景が崩壊して終わったが、今回はあの時の崩壊と何かが違う。亀裂がさらなる亀裂を引き起こし、まるで巨大な蜘蛛の巣があちらこちらにできるように、極限まで粉々になってから崩れ落ちていく。まるで最初からそんな世界などなかったかの如く、そこに存在していた名残さえも残さない。
欠片がすべて消え失せて、あとには暗闇だけが残った。自分の両手も、嘴さえも見えない。光の一切を拒んだ闇の世界だ。包み込むような――いや押しつぶすような闇の圧力に押されるまま、リュウの意識は深淵へと沈んでいった。