第三十九話 霊峰の白狐
「エルドラク=ブレイブ」と「FLB」の戦闘に突如乱入し、瞬く間に戦いを終わらせてしまった一人のポケモン。一見ただ突っ立っているように見えるが、その青い瞳から放たれる視線は多分に敵意を含んでいた。この霊峰の住民からしてみれば、外界から来た異邦人達が暴れ回っているのを見過ごすわけにはいかないというところだろう。
「貴様らが何の目的をもってここに来たかは知らぬが、この霊峰の主として、土足で荒らしまわる異邦の者共に鉄槌を!」
朗々とした宣告の後、再び、九つの尾が扇状に展開される。
まるでその尾に吸い寄せられるように、雪を身にまとった風が一点に集い始めた。今まで感じていた吹雪と違う、触れたときに寒さとはまた違った、刺すような痛みが肌を襲う。まるで雪に紛れて妖しげな気が混ざっているような風。どう見ても大技を仕掛けてきそうなその様子に、比較的動くことのできる「FLB」が応戦しようと前に出る。しかし、
「!……緋龍の、子……」
ポケモンが何か小さく呟いたかと思うと、突然風がぴたりと止んだ。青い瞳からも敵意はすっかり失われており、その視線は傷だらけながらも臨戦態勢に入ろうとしていたリュウに向けられている。
「驚いているところ、申し訳ないが」
すっかり硬直してしまったこの流れを動かそうと、フォルテが歩き出す。敵意がないことを示しているのか、両の手に握っていたスプーンがいつの間にかなくなっていた。
「まずは此度の侵入と暴挙、心よりお詫び申し上げる。我々にも目的があったとはいえ、無断でこの地に足を踏み入れ、剰え荒らし回るほどの理由にはならぬだろう」
「貴殿は?」
「救助隊『FLB』のリーダー、フォルテ。察するに其方が、この『氷雪の霊峰』の主とお見受けするが、いかがだろうか」
初対面に加えてあの奇襲があったにもかかわらず、驚くほどフォルテは堂々としている。その佇まいを見て、ポケモンもようやく腰を下ろす。
「いかにも。我が名はベアトリス。はるか古来よりこの地を見守り続けてきた、『氷雪の霊峰』の主だ」
霊峰の主。リュウはごくりと固唾を飲んだ。
――この雪の道をさらに北東へ進んだ先に、『氷雪の霊峰』と呼ばれる聖地があります。そしてそこには……霊峰の主、キュウコンがいます。
この地を訪れる前にフルーラと再会した時、彼女はこう言っていた。つまり、霊峰の主と名乗ったこのベアトリスこそが、キュウコンということになる。
「あなたが、キュウコンなんですか?『キュウコン伝説』で、人間に祟りをかけようとした」
念のために、リュウも問いかけてみる。もともと伝説自体が「アナザー」にもあまり広く知れ渡っていなかったあたり、その登場人物自体も稀有な存在なのかもしれない、事実、エルリオでさえあのポケモンがキュウコンであるかは自信がなさそうだった。
「『キュウコン伝説』……あぁ、下界ではそう呼ばれていたのだったな。千年前のあの日のことを」
問われたベアトリスは一瞬きょとんとした表情を浮かべたようだったが、すぐに察したのか口の端に笑みを浮かべた。白い顔と青い瞳も相まって、不気味な雰囲気を醸し出す冷たい笑み。
「確かに私は千年前、ある人間に祟りをかけようとした。しかしそこへ、当時人間のパートナーであったサーナイトが身を挺して主を庇った。そして祟りを受けたサーナイトが苦しんでいながら、人間は彼女を見捨てて逃げ出した。これはまごうことなき事実だ」
まさか、下界で御伽噺とやらになっていたとはな……と、本格的にベアトリスはクスクスと笑いだした。確かに大きな出来事ではあったけれど、それが俗世ではヒトびとを戒めるための物語となっていたことは本人にとって滑稽だったのだろう。
だがその一方で、リュウは胸の奥がズキズキと痛むのを感じていた。改めてその伝説を聞くと、その人間が自分かもしれないという疑念が、針に、棘に、槍になって心に突き刺さってくる。
「何笑ってるのさ!あなたは知らないだろうけど、その伝説のせいで……!」
思いつめているのが顔に現れてしまったのだろう。リュウの顔をずっと見ていたキトラが、珍しく怒りを露わにしてベアトリスに向けて叫んだ。
「キトラ、やめるんだ」
リュウが腕を伸ばし、それを止める。
「だ、だって!」
「ベアトリスを叱り飛ばしに来たんじゃないだろ?オレ達は」
「その通りだ」
声と共に、リュウの首元に光り輝くスプーンがつきつけられる。さっきまで手ぶらだったはずなのに、どこから出現させたのだろう。そんなことを疑問に思うことなく、ゆっくりと目線でその腕を辿ると、険しい顔でリュウを見下ろすフォルテと目があった。彼は口を真一文字に引き結ぶと、その険しい視線を今度はベアトリスに向ける。
「ベアトリス。この者は『キュウコン伝説』に登場した人間だという疑いをかけられている。其方も感づいてはいるだろう」
「ほう。なるほど……お前を見た時に懐かしさがこみ上げてきたと思ったら、そういうことか」
ベアトリスが半分だけ瞼を閉じた状態でリュウを見る。その目も相まって、リュウはこの場とは違う異様な寒気を感じた。「懐かしさ」ということは、リュウとベアトリスはどんな形であれ一度会ったことがあるのだろうか。
「伝説では、逃げ出した人間がポケモンへと転生したその時こそが世界のバランスの崩れる時だと伝えられている。現に今この世界『アナザー』は、自然災害によって徐々に滅亡の危機に瀕している。そして、ここには記憶を失い、ポケモンに転生した人間がいる」
リュウに突きつけられたスプーンに集う虹色の光が、徐々に強くなってきている。今にもそこから光線が飛び立ちそうだ。
「教えてくれ、ベアトリス。リュウは、伝説に出てきた人間なのか?こやつが存在することで、『アナザー』全体のバランスが崩れているのか?返答次第では――私はこの者を捕らえなければならない」
フォルテが言葉を切ったことで、完璧な静けさがこの一帯を支配した。風は未だに吹いているはずなのに、その音でさえ一切耳に入らない。皆固唾を呑み、一心にベアトリスの返答を待っているのだ。しかし、迷っているのか、ただ単に黙っているだけなのか。ベアトリスはなかなか口を開かなかった。
「ベアトリス。オレは、貴方が祟りをかけようとした人間なのか?サーナイト――フルーラを見捨てた人間なのか?教えてくれ……頼む」
最後の一押しのように、リュウが頭を下げる。
もうここまで来たら、リュウの未来は二つしかない。疑いが晴れるか、元凶と断定されるか。しかしどんな結末であろうと、リュウは受け入れると心に決めていた。それは今までのような諦めではない、これまでの旅路を経て新たに根付いた覚悟だった。
「やはり時は移ろえど、人間は良くも悪くも変わっているな」
からかうような口調だが、ベアトリスの顔は凍りついたような真顔を成していた。徐に前へ進み出ると、前足を差し出し、リュウの顔を上げさせる。雪にずっと触れていたはずなのに、その手は不思議な温もりを感じる。ややあってリュウの顔から手を離し、凍てついた真顔を少しだけ綻ばせて、言った。
「だが安心しろ。リュウ、お前ではない」
この言葉で数秒間、時が止まった心地がした。ベアトリス以外、皆一様に「開いた口が塞がらない」という言葉をそのまま絵にしたような表情を浮かべている。
「い、今……何て、何て言ったの?」
皆が目を見開いて押し黙る中、キトラがようやく声を出した。その声は震えている――いや、キトラの身体自体が震えていた。言われたことはしっかりわかっている。けれどまだ実感がわかないから念のため聞いた、そんな思い満載の声だった。涙だけがフライングしてボロボロ落ちている。
「リュウは伝説に出てくる人間ではない。そう言ったのだよ」
キトラの涙を見て微笑みを浮かべながら、ベアトリスは改めて言葉を発した。
もう我慢が出来なくなったのか、ベアトリスの言葉の中盤辺りで糸が切れたようにキトラは泣き出し、突進するかの勢いでリュウに飛びついた。あまりに不意を突かれたのかリュウはバランスを崩してひっくり返る。倒れた拍子に先程の戦闘で負った傷が疼き出すが、それ以上の痛みは感じなかった。
長い間ずっと耐えてきた、疑念や恐れからやっと解放された。その喜びがリュウの逃避行と同じくらい長い旅路を経て、主のもとに来てくれた。本当はこっちだって手放しで泣きたいくらいだ。
「お、おいキトラ、落ち着けって!なんでキミが泣くんだよ?」
「だって、だってぇっ!ボク、ボク……うぅ……」
「うわあああんリッくぅん!僕も嬉しいよぉおおおへぶっ!」
「貴様は黙ってろ、戯け」
感極まったハルジオンまでもが突進してきたが、エルリオの後ろ脚蹴りによる制裁のおかげで激突は免れた。
とりあえず声を上げて泣いていたキトラが落ち着くのを見計らって、ベアトリスが再び口を開く。
「それと、伝説には人間がポケモンに転生したことで『アナザー』全体のバランスが崩れると伝えられていたようだが。昨今から続く自然災害と、人間からポケモンへの転生は関係しておらぬ。『アナザー』の均衡を崩そうとしている自然災害の元凶は、別のところにある」
「なんと……!」
腕を組み、顎に手を当てて聞いていたフォルテが目を見開く。迷いがあったとはいえ、自分達を突き動かしてきたものが根本的に間違っていたのだから。
「ちょっとちょっとちょっと君達ぃ!やっぱり元凶じゃなかったじゃないかぁ!さんっざんリュウを疑ってさぁ!」
蹴とばされてからいとも簡単に跳ね起きたかと思うと、右の翼で「FLB」を指しながらハルジオンが唾を飛ばして怒鳴った。リュウならともかく、何故彼が怒る必要があるのか疑問に思うところだが、ツッコんだところでキリがないのだろう。エルリオも今回は見向きもしないどころかそっぽを向いている。
「い、いや、俺はこう見えてリュウのこと信じてたぜ?リュウみたいないいヤツがそんな自然災害を起こすわけないもんな!」
「嘘つけぇ!僕のこと“かえんほうしゃ”で丸焼きにしようとしたくせにぃ!」
「ちょっと待て!それはリュウ関係ねぇだろ!」
大人げない勢代表のハルジオンとレバントがとうとう取っ組み合いを始めてしまった。子供染みた喧嘩を止めに入ろうとバチスタが頭を掻きながら歩いていく。
「リュウ」
そんな光景を呆然と眺めていると、フォルテが声をかけてきた。これまで見せていた険しさはすっかり消え失せており、街で見てきたような穏やかな表情に戻っている。
「すまなかった。騙されていたとはいえ、お主を心身ともに追い詰めてしまったこと……救助隊を代表して、衷心より謝罪する」
深々と頭を下げられて、リュウは心底困惑した。気にしていないと言ってしまえば嘘になるけれど、この逃避行を通じて実感していた。救助隊だけではない。この世界に生きる誰もが、ただ必死だったのだ。少しでも早く災害の脅威から逃れたいと。
「皆、伏せろ!」
和やかになった雰囲気の中で突如、エルリオの叫びが木霊した。
「え、エルリオ、どうしたんだ?」
「いいから、皆伏せろ!早く!」
いつになく必死な形相で促してくるエルリオ。一瞬だけ、その頭についている黒いコアが薄らぼんやりと赤く光っているように見えた。その時、
「うわっ!」
「な、なんだ?」
「うひゃああ!何、地震?」
この場にいた全員が別々ながらも同時に悲鳴を上げる。
ドンッという大きな音と共に、地面が縦に大きく揺れ始めたのだ。エルリオの警告のおかげで、皆一足早く地面に身を伏せることによって揺れをやり過ごすことができた。もしあのまま立っていたら揺れに耐えられず転倒し、下手をすればそのまま滑り落ちて崖下へ真っ逆さまという事態になっていたかもしれない。
「地殻変動だ。かなり長いな」
こんなひどい揺れにもものともせず、ベアトリスは冷静だった。地響きはこれ以上強まることはなかったが収まる気配も見せないまま、未だに大地を揺るがし続けている。
「しかし地震はともかく、地殻変動とは……」
不意に何かに気付いたフォルテが、はるか遠くの雪山を見やる。そこからはかすかだが白い煙が立ち上っていた。麓からということは、恐らく雪崩が起こったのだろう。エルリオも気付いていたのか、苦い顔をしながら遥か彼方を見ている。
「そこまで自然災害が深刻になっているということだろう。しかし、このままでは……」
「このままでは、何なのだ?」
ベアトリスの呟き程の言葉に耳聡く反応し、エルリオが問う。
「この地殻変動は『アナザー』の大地の遥か奥深くから起こっている。それが地上まで届くほどとなれば、
大地の権化――グラードンの覚醒を危惧せねばなるまい」
「グラードンだと?」
この場にいた全員が驚愕の声を上げる。いや、例外が一人いた。ポケモンの知識が未だに疎い状態のリュウだけが、場の雰囲気について行けず別の意味で焦りの表情を浮かべている。
そんなリュウを見ていつも通りキトラが察したのか、さりげなくマフラーをちょんと引っ張ってこっそり教えてくれた。
「グラードンは昔、この世界『アナザー』の大陸を創ったと言われている伝説のポケモンなんだ。対となる力を持つもう一体のポケモンとの死闘を繰り広げた後、眠りについたって話だけど……」
「その眠りが、もしかしたら覚めるかもしれないってことか」
言葉にしてしまえば簡単に言えるが、事態が言葉以上に深刻であるということはリュウも理解していた。さらに、グラードンはその対となる力を持つ者との死闘の際、大海さえも瞬時に干上がらせるほどの日照りを生み出したとされているらしい。海を干上がらせ、大陸を創造するほどの力を持ったポケモンが目覚めたら、ただでさえ自然災害に蝕まれているこの世界はどうなってしまうのだろう。
まだ揺れは続いているものの皆が何とか立てるという頃になって、ミシミシと何かが軋む音が聞こえてきた。地面をよく見ると、うっすらとだが幾重にも枝分かれした線が刻み込まれていくのが見える。
「お前達、じきにこの場は崩落する!今すぐ逃げろ!」
あたかもベアトリスの警告のタイミングを狙ったかのように、ハルジオンのいるすぐ近くの地面が大きく欠けて滑るように落ちていった。甲高い悲鳴を上げて飛び退くハルジオン。そこから派生するように、外側から少しずつ、少しずつ絶壁が剥がれ落ちていく。
「お主達、早くこちらへ!脱出するぞ!」
洞穴の方から声がすると思ったら、まだしっかりしている地面の上で、フォルテが足元に巨大な魔法陣を展開していた。「キノコの森」でも見せた、空間転移の結界だ。これで脱出を図ろうというのだろう。
自身は飛べるくせに先程の地面の崩壊が余程恐ろしかったのか、ハルジオンが真っ先に羽をばたつかせて結界に飛び込む。次いでエルリオが、そしてキトラも続こうとしたが、
「リュウ、何してるの?早く!」
キトラの呼び声は耳に入っていたが、リュウは逃げようともせず、彼等に背を向けてベアトリスに向き合ったままだった。ベアトリスもリュウのこの行動に気付いたのか、逃げろと急かすこともせずただじっとその場に佇んでいる。
「何をしている?もたもたしているとこの崖諸共真っ逆さまだぞ?」
「ベアトリス、最後に聞きたいことがある」
「なんだ?」
「どうして、オレにキトラを殺させようとした?」
顔色一つ変えないが、その目が少しだけ見開かれたのは見逃さなかった。
「言っている意味がよく分からないな」
「似ているんだ。貴方の声と、キトラと戦っていた時に頭の中に響いた声が。それに、オレを初めて目にした時、貴方は『緋龍の子』と呟いた」
ベアトリスがその身を現す前から、リュウはあの時の声との一致に感づいていた。故に彼女の声に注意深く耳を傾けていたおかげで、息にほぼ近い「緋龍の子」という呟きにも気付くことができたのだ。
そして頭の中に響いた声もリュウのことを「緋龍の子」と言っていた。聞き慣れないキーワードである以上、偶然の一致と片づけるわけにはいかない。
ほう。と一言、そして薄ら笑いを浮かべるベアトリス。否定をしないということは、あながち間違いでもないということだろう。
「それに、貴方はオレを見て『懐かしい』っていう言葉も口にした。つまり、貴方は人間だった頃のオレを知って」
「リュウ」
質問攻めを自分の名一言で遮られた。無表情から放たれる無の威圧に、続けようとした口が一瞬にして凍りつく。このヒトは何だ?敵意は感じられないのに、何故こんなに近寄りがたいのだ?
「いずれ貴方にも分かる時が来る。それまでは貴方の道を進むのだ。そのままの貴方で、今まで通りに――」
「……!ベ、ベアトリス!」
リュウとベアトリスの間を発つように亀裂が迸り、ひび割れが酷かったベアトリスの方の足場が本格的に崩れ始めた。あっという間に地面もベアトリスも、白く深い奈落へと吸い込まれていく。助けようとしても到底間に合わない――と悟ると、リュウは踵を返してキトラ達のいる結界の方へ走り出した。
走る傍から足場がどんどん崩れていく。自分で思うのもなんだが、どうしてさっきまで平然とこの地面に立っていられたのだろうと思わずにはいられなかった。結界まで残り三メートルほどというところで今踏みしめた地面が沈むのを感じ、一か八かで頭から飛び込む。
「もう、ハラハラさせないでよっ!」
「ご、ごめん……」
前転のように転がり起き上がって早々、キトラの怒声をくらう羽目になった。深刻な話をしていたとはいえあれだけまごまごしていたら心配するのも当然だろう。余談だが、リュウが飛び込み前転した時に偶然その足が腹にクリーンヒットしたのか、バチスタがこちらに背を向けて蹲っていた。
外では今でも地面の崩落による轟音が響いているのに、結界の中は不思議と静かだった。恐らくリュウとベアトリスの会話はここにいる皆の耳には入っていないだろう。そうであってほしい。
「では、行くぞ!」
スプーンを胸の前で交差させていたフォルテが呪文のような言葉を唱える。彼等の足元で展開されていた結界から光が立ちのぼり、そこにいた全てのポケモンを包み込むと一瞬にして光の粒子と化し、舞い落ちる雪に紛れるようにして消えていった。
空間移動に意識が持って行かれるまでの間、リュウは必死に先程の光景を思い出さないようにしていた。
そうだ、きっと気のせいだ。落ちる瞬間、ベアトリスがリュウに向けて「哀れみ」の表情を見せていたなんて。
「氷雪の霊峰」最奥部の崩落は崖下の森を巻き込み、岩と雪の塊によって樹氷が無残にもへし折られてしまっていた。長年かけて衣服のように固くへばりついた雪は呆気なく剥がれ落ち、幹の肌がむき出しになっている。樹氷を土台とし無造作に積み上げられた岩と雪塊を、幸い岩の下敷きにならなかった大きな樹氷の陰からベアトリスが眺めていた。
「まさかあの崩落から生還するとはな」
そこに聞き覚えのある声が耳に入り、首だけを動かして声のした方向を見る。
そこには三メートルもの図体を持つ生物が、どす黒い炎を纏いながら佇んでいた。小さな頭とほっそりとした上半身に比べ、アンバランスなほどにずんぐりとした下半身を持ちそこから六本の歪な足が生えている。不気味極まりないこの見た目には慣れたものの、その身を包み込むどす黒い炎には未だに全身の毛が逆立つほどの禍々しさを覚える。
「この程度で死んでしまっては千年生きてきた意味がありません」
「そうだったな。お前にはまだまだこの世界の者としてやってもらわねばならぬことがある。して、あの者の件はどうなった?」
「仰せのままに、真実を話しました。ですが……」
「?」
「あの者に、少しだけ勘付かれました。貴方の『干渉』を」
別れる間際、リュウに問いただされたことだ。一時的に「緋龍の子」を勇者に覚醒させたあの干渉。この影は万が一リュウがその真意にたどり着くことを懸念し、さもベアトリスが仕掛けたように仕立て上げたのだ。なるほど、と短い返答だったが、黒い影は少なからず驚いているようだった。
「まだ小僧とはいえ、勘の良さはやはり継がれているということか。お前の声色を借りておいて正解だったということだ」
だが、狼狽える様子は全くない。筋は良かったが、彼は疑う対象を間違えた。それならば案ずるに値しないと判断したのだろう。
「何にせよ、すぐにではありませんが、彼にかかった疑いも晴れるでしょう。……しかし、よろしかったのですか?」
ベアトリスの目に、まるでその瞳に宿るかのように黒い炎の揺らめきが映る。
「構わぬ。放っておいてもいずれあの者は死ぬ運命なのだ。わざわざこちらから手を出す必要性はない。あの者がこの世界から消えた時こそが――我が勝利だ」
確信に満ちた高らかな笑い声が、幾重にも連なる雪山へと小波のように広がっていった。