第三十八話 正しき罰
「あれ?」
雷塊が大地に着弾し、数多の稲妻が方々に弾けて消えた後。雪が吹き飛ばされてできた大きなクレーターの中央で、ふらつきながら立ち上がったキトラが、素っ頓狂な声を上げた。
リュウの姿が、いつの間にか消えていたのだ。“10まんボルト”に“でんこうせっか”、加えてあの突進さえまともに受けた状態で、避けられるとは到底思えない。吹き飛ばされて崖下へと消えてしまったのか、それとも跡形もなく消し飛んでしまったのか。
「!いつの間に……」
気配を察知して振り向いたキトラのみならず、この場にいた全員が驚愕した。
霊峰の洞窟の出口である洞穴。その前で、リュウが二の足で立っていたのだ。身体のところどころに電撃による焼け焦げや痣が残っているにもかかわらず、まるでそんな傷などなかったかのように、平然と立ち尽くしている。
「“10まんボルト”!」
皆何が起こったのか理解できていない状況で、キトラだけはまるでロボットのように再びリュウに攻撃し始めた。空気を引き裂いて襲いかかる二対の稲妻。普通ならそう簡単に避ける余地すら与えないのだが、
「うわっとっとっととと!」
稲妻が今にも突き刺さるギリギリのところで、リュウはひらりと身をかわして避けた。鮮やかなバック宙まで決めて飛び退いたのに、着地は何ともおぼつかず、二、三度踏鞴を踏んで遂には尻餅。そしてすっくと立ちあがったと思ったらまるで酔っ払いのようにふらふらしている。先程の深刻な光景から一転したこの滑稽なシチュエーションを、攻撃を続けているキトラ以外は全員呆然として観ているしかなかった。
「(か、身体が……勝手に?)」
一方のリュウ自身が一番、何が起こっているのか理解できていない状態だった。視界が稲妻による光で真っ白になったその瞬間、身体中の神経が波打つような感覚がし、気が付いたら横に転がってキトラの突進を難なくかわしていた。それからというもの、まるで全身を見えない腕でつかまれているように自分の意思とは関係なく勝手に身体が動いていたのだった。
「(くそっ!どうなってるんだよ!)」
試しに手足に力を込めて止まろうと試みるが、腕も足も自分のものではなくなってしまったかのような心地がして力が入らなかった。おまけに声も出すことができない。まるで脳と感覚だけ機能している人形になってしまった気分だ。
――ほう、あれほど攻撃を食らったのにまだ抗おうとするとは。
気ばかり焦るリュウの脳内に、不思議な声が聞こえてくる。思えば、聴覚も支配されているのか外界の音は完全にシャットアウトされており、変に心地よい静けさがリュウを包み込んでいた。その中で響くこの声――リュウの知る限りでは誰のものでもない、初めて聞く声色だ。
「(誰だ……アンタは?)」
――貴方にとっての「救世主」。
届くかどうか分からないまま脳内で問いかけてみたら、思いの外早く返事が返ってきた。
――そう暴れるな。貴方だけでなくこちらにも余計な負担がかかる。
どうやらこいつが現在リュウを操っている張本人で間違いないようだ。負担がかかると言っている割に声の調子は腹が立つほど落ち着いているし、動きを封じているその力に衰えなど全く感じられない。
それにしても「救世主」ときたか。エルリオやハルジオンといいこの声の主といい、どうして最近出くわす輩はこうも気質的に面倒な奴等ばかりなのだ。
「(救世主って、どういうつもりか知らないけど、オレは助けなんか呼んでないぜ?)」
――それはそうだろう。私が勝手に名乗っているだけなのだから。貴方に死んでほしくないためにこうして呼びかけているのだから。
あぁ、ここにもいたか。オレにこれ以上生き恥を晒させようとする奴が。
万民に死を望まれているこちらの気持ちも知らないで。最も信頼していた友を裏切り、怒りを叩きつけられたこの痛みも知らないで。沸々とこみ上げる苛立ちと憤りを、声に出してぶちまけられない分頭の中で爆発させた。
「(どうして……)」
――……?
「(どうして、どいつもこいつも、オレを生かそうとするんだよ!もうこれ以上、苦しみたくないのに!誰からも疎まれたくないのに!誰も傷つけたくないのに……!)」
言えば言うほど、自分が惨めに思えてくる。でもこれは自分で選んだ結果だ。自己愛に溺れた末の罰なんだ。ならば受け入れなければならない。たとえ死を以てしても。
――随分と潔いというか、諦めが早いというか……
「(いいんだよ。どうせ今この世界では、誰もがオレの死を望んでいるんだ。キトラだってオレのせいで深く傷ついたんだ。こんな奴なんか傍にいるべきじゃないだろ?)」
――だから死を受け入れると?
「(あぁ、そうさ)」
――親友の手を、貴方の血とヒト殺しの罪で汚してでも?
その言葉が、微睡みに囚われていたリュウの頭にショックを与えた。
「(まさか!オレは、ただ……)」
――自分が裏切った相手に鉄槌を食らう。確かにそれは仲間の思いを踏みにじった貴方にふさわしい罰だろう。
殺意をその顔と稲妻に込めて、光の弾丸となったキトラがリュウの脇腹をかすめる。
――だがその後キトラはどうなる?散々暴れて我に返れば目の前にあるのは貴方の亡骸。己の手を見れば貴方の血に塗れている。誰がどう見ても薄汚れたヒト殺しの姿だ。下界の者共からすれば自然災害の元凶を消したのだから、瞬く間にキトラは英雄視されるだろう。だが当の本人からすれば、最も忌み嫌っていた孤独の底へ自分から飛び込むことになる。ヒト殺しの罪のおまけつきでな。
もう一度、問おう。まるで諭すように、声が頭と心に浸透する。
――本当に、それでいいのか?
また、何も考えていなかった。
今のキトラは明らかにリュウに対して殺意を向けている。そんな状態なら何の躊躇いもなく止めを刺してもらえるだろう。結局のところリュウはそこに甘んじていたのだ。自ら命を絶つよりも、その方が何より手っ取り早い。友を裏切った者の末路に相応しい。
だがそれは客観的に見れば、キトラがリュウを殺すのと何ら変わりはない。リュウにとってはただの罰で、死んでしまえばその後のことなど無関係。だがキトラは、友を殺めた罪をかぶったまま独り遺されることになる。そんなことなどリュウはもちろんのこと、何よりキトラが一番望んでいないことだ。
「(じゃあ……じゃあオレは、どうすればいいんだよ?)」
自ら命を絶つことも許されず、かといってキトラも死なせるわけにはいかない。そんな制約を課されたでこの場を切り抜ける選択肢なんて、ほぼ無に等しいものだ。しかし、
――それは、貴方自身が決めることだ。貴方が正しい罰を見出すまで、この拘束は解かない。
身も心も縛った上で、肝心なところは丸投げにしてくる声。
だがリュウ自身、心のどこかでは分かっていた。誰かに答えを教えてもらうのではない。この決断だけは自分で下さなければならない。
――とはいえ、もうあまり時間は残されていない。今キトラが連発している技“ボルテッカー”は、威力が高い分使う度に反動で体力が削られる技だ。もたもたしていては貴方が決断する前にキトラが倒れてしまうぞ。
言われてようやく気付いたが、確かにキトラの身体には無数の痣のような傷跡が刻まれていた。リュウは一度もキトラに攻撃を加えていない以上、声が言うようにあの突進技による反動の表れだろう。
その光景を見た瞬間、リュウの中で一つ、灯が燈った。これまで考えもしなかった新たなる選択肢だが、ともすれば最悪の結末になるかもしれない、危険な賭け。
だが、恐れるわけにはいかない。
「キトラ!」
これまで開きもしなかった口から、思いの外あっさりと声が出た。キトラは相変わらず臨戦態勢をとっているが、すぐには飛びかかってこない。しっかり声は届いているようだ。
「この旅に出る前、オレのことを信じると言ってくれて、すごく嬉しかった。自然災害の元凶だと言われて、みんなから白い目で見られて、そんなときでも、信じてくれる親友がいるんだなって、改めて思った。でも同時に、オレは怖かったんだ。この旅でもし、キミがいなくなってしまったら。サジェッタの時みたいに、オレがふがいないせいで、キミを死なせてしまったらって。だからオレは……一人で旅に出たんだ」
あの時書いた手紙の内容そのまま、まるで反芻するように口にする。あの時はああするしかないと思った決断。だがキトラの怒りを受けて、そしてあの声に諭されて、今ならばはっきりと分かっていた。
「だけどそれは、間違いだった。たとえ危険でも、あの時は一緒に旅に出るべきだったんだ。どんな困難も二人なら乗り越えることができるって、救助活動を続けてきたからこそ分かっていたはずなのに、オレはそれを信じることができなかった」
使う度に反動を伴う危険な技“ボルテッカー”を、キトラは「リュウを助けるために編み出した技」と言っていた。己の身を削ってでも、リュウと共に困難を乗り越える術を編み出してくれていたのだ。しかしそんなキトラの思いから、リュウは目を逸らしていた。信じる心よりも、友を失うことへの恐れが勝ってしまっていたから。
「ごめん。本当に……ごめん」
今更許してもらえるとは思っていないが、それでも言葉にして伝えなければならない。謝罪という意味とともに、己がいかに浅はかだったか、そしてどれだけキトラに感謝しているかを。
気がつけばリュウの目には涙が溜まっていた。込み上げてくる思いに押しつぶされそうになりながらも、嗚咽が声を塞ごうとするのを必死で防いだ。
「ボ、ボクは」
突然、キトラが後ずさりを始めた。両頬から溢れ出ていた火花はいつの間にか消え失せ、二の足で立ち上がって、小さな手で顔を覆っている。
「ボ、ボクは……独りに、なりたく、ない……!」
戦慄く口から、白い息と共に震えを帯びた声が漏れ出る。瞳孔が開いた目も相まって、明らかに様子がおかしい。
「嫌だ……イヤダ……ボク、ボクハ……!」
甲高い叫び声が木霊する中で、この場にいた者達は、見た。
キトラの身体から、どす黒い炎が噴流のように飛び出してきたのだ。それはリュウにとって数々の苦難を与えてきた忌むべき存在。災害で我を失ったポケモン達を、そして伝説と謳われたポケモンでさえも包み込んでいた濁りの炎。慌てて隠れるようにキトラの元に引っ込み隠れてしまったが、リュウの心にはすでに確信が生まれていた。
「キミの気持ちを裏切っておいて、こんなことを言う資格はないかもしれないけど、オレはキミをヒト殺しにはさせたくない。そしてもう二度と独りにはさせない。だから……」
雪が舞う中に映える鮮やかな緋色の瞳に、キトラの姿を映す。
「キミを倒して、救ってみせる」
程なく無数の稲妻が飛んできたが、リュウは冷静にこれらを横っ飛びでかわした。まだ行動を縛られているような名残はあったが、しっかり自分の意思で立つことはできている。
技放出後の隙をついて火炎弾を一発放ち、吹っ飛ばすことで距離をさらに空ける。救い出すと宣言しておきながら技を以て傷つけるとは本末転倒だが、むしろそれが今のリュウにとって正しい罰なのかもしれない。
倒すことで救う。それでいて命を奪ってはならない。一歩間違えればどちらかが命を落とすことになることを承知の上で、覚悟を持って自分の間違った選択の代償と向き合う。傷つくことを恐れて安全な道ばかりを選んでいた以前のリュウでは、決して耐えることはできなかっただろう。
「ふざけないでよ!サジェッタを死なせておいて、挙句にボク自身まで裏切って!」
両手で頭を押さえて振り乱しながら、叫びと電撃を繰り出してくる。
今まで散々心を傷つけてきた。親友だからということに甘んじていた。その結果がこの対決という事実は認めなければならない。だが今なら分かる。間違っていたのは紛れもなくリュウ自身だけれど、罰を与えるのは己の手でもなければキトラでもない。これ以上キトラに重荷を背負わせるわけにはいかないのだ。たとえ傷つけてしまうとしても、止めなければならない。自分自身の手で。
小さな身体から放出される電撃を、“ほのおのうず”で絡めとって相殺する。続けて“でんこうせっか”で突撃してきたが、一足早くリュウは“ビルドアップ”で精神を研ぎ澄ませ、防御力が上がった状態でその突進を左腕一本ではじき返した。
遠距離攻撃と直接攻撃を織り交ぜて連発してくるキトラに対し、リュウはなるべく炎技で応戦し続けていた。さっき見えた黒い炎が今まで見てきたものと同じならば、もしかしたら緋の炎ならば活路を見出せるかもしれない。だが、毎回もう駄目だと思った土壇場で発現していたくせに、来てほしいこんな時に限って放つ炎はいつも見るものばかり。“ボルテッカー”の反動もある以上、あまり長々と時間稼ぎはしていられないのに!
――そうだな、その答えも悪くない。
本格的に焦りが出始めたところで、いきなり声が語りかけてきた。急に話しかけられたので集中力が途切れ、雪に足を取られて体勢を崩しそうになる。
――それならば、「緋龍の子」よ。貴方を少しだけ勇者にしてやろう。
「緋龍の子」?何だそれは……と思った途端、またしても身体中の神経がぞわりと波打つような感覚がした。今回は完全に神経を掌握されたのか、立っていることができず両膝をついてしまう。しかし、リュウの異変はこれだけでは終わらなかった。
足元の雪と吹きつける雪風も相まって震えが止まらないのに、身体の中がまるで煮えたぎっているように熱い。視界もぼやけたり赤くなったりを繰り返している。心拍も不規則になっており、鼓動一つ刻むたびに頭に激痛が走る。呼吸することもままならない。
「……ぁ……っが……あああああああ!」
肺の中の空気をすべて吐き出すような咆哮を上げ、白に慣れた視界が完全に真っ赤に染まるのを感じながら、リュウの意識は途切れてしまった。
「あれは、緋色の炎……!」
一方で、リュウ達の攻防を見ていたエルリオやハルジオン、そしてチーム「FLB」も、眼前で突如起こった光景に肝を潰していた。
突然リュウが苦しみ出し蹲ったと思うと、その足につけてある足輪からにわかに緋色の炎が噴き出し、瞬く間にリュウを包み込んでしまったのだ。周囲の雪が解けて地面が露出しているあたり、本物の炎で間違いないだろう。何が起きているのか把握もほとんどできていないが、ひとまず止めに入らんとフォルテが前に出ようとする。
「お、おいフォルテ!危ねぇぞ!」
レバントの警告で改めてリュウを確認すると、彼を包み込んでいた炎が突然膨張を始めたのが目に入った。このまま破裂してしまうと周囲にいる者達にも危険が及ぶ。フォルテは急いで“めいそう”を使い炎に対する防御力を高めた後、巨大な“ひかりのかべ”を展開させて背後にいるレバント達を守ろうと試みた。
「ぐっ!」
だが、事態はフォルテの予想をはるかに超えていた。
緋色の炎が弾けた瞬間その残滓が四方八方に飛び散り、何発かは“ひかりのかべ”で防ぐことができた。しかし、破片が一発着弾しただけで壁に大きなヒビが入り、第二波が命中すれば粉々に砕けてしまう。破壊される度に壁を重ねがけることで直撃は免れることができたが、“ひかりのかべ”のもともとの性質は特殊技の威力を半減させるのみであって攻撃を完全に防ぐものではない。念のため“めいそう”で耐性はつけたものの、それを嘲笑うかのように緋炎の余波は確実にフォルテの体力を蝕んでいった。
緋炎の波が去った後、最後の“ひかりのかべ”が薄れ消えるのと同時にフォルテは膝からくずおれた。肩で息をしながら首をよじり、背後にいる者達の無事を目視で確認する。
「フォルテ!」
「心配するな。それよりも……」
フォルテは三度前方を見やる。
緋炎のドームが弾けた後の地面は、雪が解けたどころか完全な焦土と化していた。その中央にはリュウがいたはずなのだが、彼の姿はすでに消失しており、ほぼ同じ大きさの一塊の緋色の炎が残されている。
それがぐらりと揺らいだかと思うと、一瞬のうちにその炎はヒトの形を成していた。胴体と同じ、いやそれ以上に長くがっしりとした両足に、細く長い両腕。まるで炎でできた二メートルほどの巨人のようだった。頭からも二対の翼のように炎が伸びている。揺らめきながらもしっかり形をとどめている中、首の後ろあたりから伸びている炎だけは風に煽られて靡いていた。目を凝らしてよく見ると、リュウがいつも身に着けているマフラーのシルエットがうっすらと見える。
マフラーを除けばリュウの面影など何一つ残していない、炎で作られたヒトの形。
しばらく佇んでいたかと思うと、炎のヒト形はおもむろに頭を動かして足元を見た。そこには身体のあちこちが焼け焦げたキトラが、ぐったりと横たわっている。フォルテ達と違い、リュウと距離が近い且つ身を守るものが何もなかった状態で、炎のドームの爆発に巻き込まれてしまったのだろう。
ヒト形はそんなキトラを案ずる様子もなく身をかがめ、片手でつかみ上げた。首を捕まれているキトラは耳も尻尾も力なく垂れさがっており、生気は微塵も感じられない。首を締めあげて今にも止めを刺さんとするその姿が信じられないまま、そして止めることもできないままこの場にいる者達は固唾を飲んで見ているしかなかった。
「ウワアアアアアアアアア!」
キトラが彼らしからぬ低い濁声を上げ、同時にその身体から再びどす黒い炎が噴き上がる。
まるで後を追うように、緋色の炎も瞬く間に形を崩し、巨大な火柱となって曇天へと舞い上がる。雪を押しのけ凍てついた空気を引き裂きながら立ち上る二対の火柱は、互いの首筋に噛みつかんとするかの如く身をうねらせ、果てには頭部から激突しその衝撃で弾けるように消滅していった。
刹那と呼ぶにはあまりにも大きすぎる一連の出来事が終わった後、火柱の名残を残す地面の上では、ワカシャモ――リュウがガクリと膝をついていた。
何が起こった?
感覚が身体に戻った瞬間、頭に思い浮かんだのはこの疑問だった。答えにたどり着く前に重力とともに鉛のような疲労感に押しつぶされ、まだ熱の残る大地に両手と両膝をつく。
謎めいた言葉を最後に意識を失ってから、どのくらい時間がたったのか見当もつかない。緋一色に染まった視界が元に戻って最初に目に入ったのは、焼き尽くされて雪の代わりに煤でコーティングされた地面と、
大火傷を負って地面に横たわる、キトラの姿だった。
「あ、あ……そんな……オレ、は……」
目の前のキトラの惨い有様と、自身の両手に残った緋炎の塵芥が、リュウに避けがたい事実をつきつけてくる。
キトラを救うために倒すことを望んだ。そのために緋色の炎の発現を欲した。だがそれが、少し意識を手放しただけで最も望まない結末と共に形となってしまうとは。やはりまだ迷いがあったから?結局緋色の炎に頼ろうとしたから?あの声は「勇者にしてやる」と言っていたが、これではヒト殺しと全く変わらないではないか。
すぐにでも意識の有無を確かめなければならないのに、感覚を掌握されていないにもかかわらず身体が動かなかった。目の前の事実があまりにも重すぎて。その先へ進むのがとてつもなく恐ろしくて。
「う、うーん……?」
絶望で塞ぎかけた耳に、聞き慣れた声が飛び込んでくる。
ほぼ全身に火傷を負っていて“ボルテッカー”の反動による痣も大量に刻まれているにもかかわらず、驚くほど平然とキトラは半身を起こした。
「あ、あれ?リュウ。ボクは、いったい何を……?」
痛みで少し顔を歪ませながらも、もう怒りを宿していない瞳でリュウの姿を認める。素で当惑しているあたり、これまで何があったか、自分が何をしたかも覚えていないようだ。その様子を見た瞬間、視界がキトラごと滲んだ。
「わわっ、リュウ!どうしたの?」
慌てるキトラをよそに、リュウは顔を俯かせて静かに涙をこぼした。本当は安堵や謝罪など、言葉にして伝えたいことがたくさんあった。だがこれまで感じてきた葛藤と罪悪感がまだ心に残っていて、それらが蓋となって声を出すのを妨げている。
肺の中の空気を絞り出すような声を出しながら、ただただ静かに泣き続けるリュウ。引きつったような声ばかりが耳の中を支配していて、背後から近づいてくる足音にも気づけなかった。
「リュウ、後ろ!危ない!」
キトラが警告するも、一足遅かった。次の瞬間、巨大な何者かに押しつぶされるような重圧がかかり、身動きが取れなくなってしまった。気がつくとキトラの姿も消え失せ、その代わりに短く鋭い爪の生えた黄色い足が目に入る。
「水を差すようで悪いが、これが我々の目的なのでな」
顔を確かめるよりも、この声、そして頭上で瞬いている青白い光が拘束をしかけた主を雄弁に語っている。“サイコキネシス”に抗い顔だけ上げてみると、フォルテが右手のスプーンをリュウにつきつけ、左手のスプーンでキトラを浮かび上がらせ動きを封じていた。
キトラとの戦いを切り抜けても、本来の脅威はまだ去ってはいない。救助隊に捕まれば最後、この旅は終わってしまう。しかもよりによってその相手は「FLB」。素の実力さえ遠く及ばないのに、こんな満身創痍の状態では一太刀浴びせることすら不可能に近いだろう。エルリオとハルジオンもすでに拘束されて身動きが取れない以上、万事休すだ。
「リュウ、諦めちゃダメ!」
圧力に負けて心まで沈みかけたその瞬間、キトラの叫びが木霊した。
「まだ、真実は見つかってないんだから!」
見えない念力の鎖に縛られていても、なお抜け出そうとキトラは必死にもがいていた。
その姿を見てリュウもまた、両手足に力を込めて“サイコキネシス”を打ち破ろうと試みる。キトラの叱咤激励もあるけれど、心の中でまだ負けたくない、終わらせないという思いが噴流のように湧き上がってきていたのだった。この旅を始める前に抱いた真実を見つけるという決意が、今となって息を吹き返す。ここに来るまではいつ果ててもいい、自然災害の元凶であってもかまわないと虚偽の覚悟を抱いていたというのに。
両手で踏ん張りながら肘を伸ばして、何とか顔だけは標的に向けることができた。後は炎さえ放つことができれば。威力はこの際小さくてもいい、フォルテの集中力を切らすことさえできれば、まだ逃れるチャンスはあるかもしれない。
「そこまでだ!」
あと少しで炎が放てるというところで、突然黒い影が二人の間に割って入り、巨大な風圧でリュウ達を吹き飛ばした。
思い思いに悲鳴を上げながら四方八方に吹き飛ばされるリュウ達。ほとんどの者は飛ばされる方向が洞窟出口方面だったり爆風の直撃を食らわなかったおかげでさほど吹き飛ばされなかったりと事なきを得たが、肝心のリュウは大きく吹っ飛ばされた上に方向は断崖絶壁。高さからして墜落地点はよりによって崖下だ。
「ハル!」
「えぇっ!僕ぅ?えっと、そぉれぇっ!」
風圧の衝撃でレバント達の拘束が解かれ、倒れながらもエルリオとハルジオンは自由の身になっていた。
エルリオの命令の意味が一瞬分からなかったようだが、ハルジオンは咄嗟という言葉が似合うほどに飛び出し、リュウに体当たりをしかけた。お互いに軽いダメージをくらったようだが、おかげでうまい具合にストッパーになってくれたようだ。
「リュウ!大丈夫?」
「いてて……何が、起こったんだ?」
「ふぅ、どうやら無事のようだな」
「あのぅ、誰か僕の心配もしてよねぇ……」
傷だらけの状態で特攻まで仕掛けたハルジオンが不服そうに頬を膨らませる。しかしその表情も無へと変わった。ハルジオンだけではない。リュウやキトラ、エルリオ。そしてフォルテや彼を助け起こしているレバントやバチスタも、皆して同じものを目に映していた。
突然乱入しこの場にいた全員を吹き飛ばした存在。この雪と同じような白銀の体毛を持ち、頭頂部にはまとまった鬣。雪を踏みしめるほっそりとした四肢。目を惹くのは風が吹いていなくても妖しくたなびく九つの尾。もちろんポケモンのようだが、リュウが人間世界で育んだ知識で例えるなら、伝説上の存在である「九尾の狐」。
実在しない存在だからこそ感じる、この霊峰のように不可思議なオーラ。敵か味方かも分からないのに、この場にいる全員にはそのポケモンの敵意を感じ取ることができなかった。この地に現れた時は戦闘態勢のように身体を低く構えていたが、やがて四肢を揃えてすっくと姿勢を整えるポケモン。
「ここは前人未到の地故に膨大な霊力が集まる私の居城だ。余所者が汚れた足で荒らしまわるのを、黙って見過ごすわけにはいかぬ」
その口から流れた言葉は、男でも女でもない中性的な声だった。トーンこそ違うが、どことなく「大いなる峡谷」で出会ったネイティオ――フェルガナを思い起こさせる。
リュウは至った確信に自信が持てず、思わずエルリオに問いかけた。
「エルリオ、あのポケモン……」
「あぁ、私も見るのは初めてだが……恐らくあれこそが、キュウコンだ」