第三十三話 風纏う恩人
一歩、一歩。ボロ布を羽織ったヒト影は歩み寄ってくる。リュウは立ち上がって身構えようとしたのだが、毛布を退けて立った瞬間、身体が何かに押さえつけられたような心地がし、再びうつ伏せに倒れそうになってしまった。その時、
「――っ?」
突然ヒト影が目の前に現れ、倒れ行くリュウを受け止めたのだ。肩をしっかりつかんでいるその手は、外で降り積もる雪のように白い毛に覆われていて黒い三本の小さな爪が伸びている。ついさっきまでこのヒト影、五メートルほど前に立っていたはずなのだが。
「……座れ」
その一言は、リュウに対して言っているのかわからないほど、独り言に近い命令だった。とはいえ、身体がこんな状態では抵抗もできない。渋々、ヒト影の命令に従うことにした。
リュウが座ったことを確認すると、ヒト影は一歩退き、フード状にかぶった布をはぎ取った。
ようやく表情がはっきりしたと分かった途端、ヒト影の紅玉色の瞳と目が合い、リュウは思わず身を引いてしまった。人間と獣の中間のような顔立ち。黒い顔を除けば、頭部は先程リュウを受け止めた腕と同じく純白の毛に覆われている。左目を含めた顔の半分は頭から一際長く伸びている毛に隠れて見えない。何より目を引くのは、顔の横から伸びている鎌のような形状をした角だった。
「お前は、誰だ?」
向こうが一向に口を開かないので、痺れを切らせたリュウが問いかける。それでもヒト影は即座に答えることなく、半ば傍観するようにぼんやりとリュウを見つめていた。
ややあって、ヒト影は溜息を吐いたのち、僅かに口角を釣り上げた。
「随分気色ばんだ声を出すのだな……『人間』」
その後も何か言おうとしたようだが、遮るようにリュウはヒト影に向けて無数の火球を吐き出した。
抵抗しようと思ったわけではない。第一、そんな心はとっくに消えてしまっている。ただ、腹立たしかった。ヒト影の怜悧なその瞳が、こちらの現状を嘲笑っているかのようで。
不意の攻撃にヒト影は驚くこともなく、あれだけリュウと近距離だったにもかかわらず、地面を、壁を、天井を蹴って、全ての火球を避けた。なんという瞬発力。そして最後に足元に向けて放った一発に関しては、
「洞穴を満たす静謐、一陣の飄風となりて揺らぐ炎を凍てつかさん!」
まるで軍隊の司令官のように、ボロ布の袂から腕を突き出して言い放つ。
すると、余程のことがない限り洞窟の中では起こり得ない、突風が辺りを駆け抜け始めたのだ。四方八方から吹きつけるそれは、渦を巻きながらリュウの放った火球を包み込み、霧散させてしまった。
火球を消したと思った瞬間、あれほど強かった風が役目を終えたかのようにぴたりと止んだ。驚きで見開かれたリュウの目に、ひらひらと舞う何かが映る。先程の風で、ヒト影が纏っていたローブがはぎ取られてしまったのだ。その時になって、ヒト影が「ヒト型」のポケモンではなく、四足歩行だということが判明した。
「今の貴様の炎は灯同然。風に煽られるだけで消えてしまう、儚く脆いものだ」
怒りに任せて再び火球を放とうとするリュウに、ヒト影がぴしゃりと宣告する。癪に障るが、今しがたの光景を目の当たりにしてしまっては向こうの言うことこそが真実だ。リュウは仕方なく身構えを解き、攻撃の意思がないことを示した。
「我が名はエルリオ。アブソルのエルリオ。この星の理を知るべく、旅をする者」
アブソル。聞いたことのない種族名だ。
エルリオと名乗ったその者は、リュウが警戒しているのを知ってか知らずか平然とこちらへ歩み寄ってくる。二歩歩みを進める度、リュウは半歩だけ慎重に後退した。
「随分と嫌われたものだな。命を助けてやったというのに」
そんなリュウの反応を面白がっているかのように、エルリオが口元を歪ませる。それもまたリュウにとっては業腹ものだった。
「助けたって、アンタがオレを?」
「氷の使姫と称されるフリーザーの放つ一撃必殺の技“ぜったいれいど”。あと五秒救出が遅れていれば無事では済まなかっただろう」
どうやら、このたき火と毛布による看病はエルリオの仕業で間違いないようだ。
脳裏にフリーザーとの戦闘がよみがえる。心まで凍りつきそうな冷気と、足元から氷に侵食されていったあの時の感覚。一瞬のうちに意識まで吹き飛ばされてしまったので痛みも何も全く感じなかったけれど、確かにそれは一撃必殺の名にふさわしいほどの威力だった。
「とりあえず、助けてくれたことには感謝するよ」
これまでの人生で、これほど味気のない感謝の言葉を口にしたことがあるだろうか。というのも、
――助ケテクレナクテモヨカッタノニ。
心の奥底で、そんな言葉がゆっくりと通り過ぎていったような気がしたからだ。
「礼には及ばない。目の前で死にかけている者を見捨てられるほど薄情ではないものでな」
歯を見せてニヤニヤしながら言うセリフではないだろう、それ。
助けてくれたとはいえ、目の前のアブソルは善良な一般人というわけではなさそうだ。旅人という身分もどうも怪しい。
「でも、人間って言ってきたってことは、知ってるんだろ。オレが何者なのか」
「この『空虚の地』に伝わる『キュウコン伝説』に登場する人間。下らぬ好奇心でキュウコンの怒りを買った上、祟りから庇ってくれた相棒さえも見捨てたために、人間からポケモンに転生した者」
その当事者かもしれないリュウを目の前にして身も蓋もない言葉を言い放つと、エルリオはやおら懐に手を突っ込み、一枚の紙を取り出した。その紙には、腹が立つほど適当に描かれたワカシャモの顔が大きく載っている。リュウの指名手配書だろう。下には報奨金なのか目玉が飛び出るほどの桁数の数字が書かれてある。
「そして、その転生が災いの引き金となるとキュウコンに予言されたため、自然災害の元凶であると『ポケモン救助隊連盟』に最上級指名手配犯として認定されている。と、この紙には書いてあるようだ」
「……含みのある言い方だな」
「ありのままを言ったまでだ」
ああ言えばこう言う体で、リュウの言葉に間髪入れず言い返すエルリオ。もうこうなってはらちが明かない。相手の本音を引き出さなくては。
「薄情じゃないにしても、世間で騒がれている指名手配犯の命を救うなんて、はっきり言って正気の沙汰じゃないぞ。それとも、アンタは違うと思ってるのか?」
するとエルリオは、思いのほか意外そうな目をこちらに向けてきた。
「その台詞、そのままそちらに返したいものだな。当の貴様はそう思っていないのか?自分はそんな人間ではないと思っているからこそこの地を訪れたのではないか?」
盛大な空振りに終わった。このポケモン、まるで見透かしたようにこちらの現状も心情も言い当ててくる。
そう、本来ならばまだ決まったわけではない。もしかしたら、リュウは伝説に出てくる人間ではないのかもしれない。その可能性にかけて、この孤独な逃避行に出たのだ。
けれど、分からなくなってきた。会うヒトみんなからは邪険な目で見られ、本来ヒトびとを守るべき救助隊たちを何度も傷つけ、各所で起こっている災害すらも見て見ぬふりをして、ただ明確なあてもなく旅を続けていく――
そんなことをして、一体何になる?仮に疑いを晴らせたとしても、自然災害がなくなるわけではない。またみんなが不安な毎日を過ごすことになるだけだ。
それならば、いっそ旅などやめて、消えた方がいいのではないのだろうか。ここで目覚めてから忘れかけていた思いが、再びリュウの心を侵食していく。みんな、リュウが消えることを望んでいる。自ら命を絶つのもいい、救助隊の手にかかるのもいい。とにかくリュウはもういないということが知れ渡れば、一先ずヒトびとも安心して日々を過ごすことができるだろう。それで自然災害がなくなれば、なおのこといい。
「アンタには、関係ないさ」
こんな思いを、見ず知らずの他人に言ってもどうしようもない。
リュウは立ち上がると、洞穴の出口に向かって歩き出した。途中エルリオとすれ違う時に何かされるのではないかと心の中で身構えていたのだが、相手はまるで石化しているかのように動かなかった。
洞穴から見えた外は深々と静かに雪が降っていたはずなのに、外に出た瞬間またも強い雪風が横殴りに吹きつけてきた。一気に視界が白銀一色になり、今しがた出た洞穴さえもまるで最初から存在しなかったかのように見えなくなってしまった。
「貴様は、まだ消えてはならない」
風音で耳が塞がれていても、エルリオの声は容赦なく耳に入った。
風がやむと、辺りは死に絶えたように一気に静まり返った。
試しに洞穴に戻ってみると、エルリオの姿はおろかリュウをくるんでいた毛布も跡形もなく消えてしまっていた。まるで洞穴での会話や出来事が夢であったかのようだ。
小粒の雪を降らせている空はどんよりとした黒雲に覆われていて、今が昼なのか夜なのかも検討がつかない。それでも日か月の光が雲から漏れ出ているのか、地面に点在している樹氷が光を反射してキラキラと輝いていた。大自然が織り成す美しい光景だけれど、それを堪能する余裕など今のリュウの心には欠片もなかった。
「……あのぉ、もしもしぃ?」
もう、疲れた。
これまで何度も危機に陥っては死に物狂いで切り抜けてきたけれど、今度同じ事態になっても抗える気がしない。どうせ生き延びても何も変わらないのだ。常に命を狙われ続け、居場所なんてどこにもない。
命の恩人であるあのエルリオさえ、余計なことをしてくれたと憎らしく思えてきた。「消えてはならない」と言われたけれど、所詮は赤の他人の言葉だ。あんな奴に分かるわけがない。世界のヒトびとから消えてほしいと望まれている身の気持ちなんて。
「そこのヒトぉ、もしもしもぉし!」
なんだか調子のいい幻聴まで聞こえてきたし、このまま立ち尽くしていればいずれ――
「ちょっとちょっとちょっとぉ!耳元で話しかけてるのに無視しないでよぉ!」
だいぶ白に慣れてきた視界の上から、突然巨大な顔が飛び込んできた。