第三十二話 動き出す者、立ち止まる者
「サルベージタウン」南に広がるサファリ地帯を拠点とする救助隊「チーム・FLB」の基地。この地域に派遣されてから約半月の月日が流れ、町にも基地にも馴染んできたというのに、たった一枚の紙切れによってしばらくこの地を離れることとなった。
シルバーランクの力を以てしてもこれ以上の追跡は困難と判断。これよりゴールドランクの救助隊にもリュウの捕縛を命ず。
朝ペリッパーが届けてくれた紙切れ――「ポケモン救助隊連盟」の指令を眺めながら、メンバーの一人であるバンギラス、バチスタは基地の中を横断していた。この紙のおかげで朝から基地の中は準備や掃除で軽い騒ぎとなったが、ほとんどを済ませた今はもうだいぶ落ち着いている。血気盛んなリザードン、レバントに至っては
「やっとあのリュウと一戦交える時が来たか!くぅ〜、燃えてきたぜ!」
と言うなり勢いがあり余っているのか突然大空に舞い上がり、曲芸飛行をやったり炎を吹き荒らしたりと暴れ始めた。旅立つ前にこんな調子ではいざ対峙したとき大丈夫なのかと思いがちだが、長年の付き合いからしてまず心配するだけ無駄だ。どうせ気分が悪くなってそのうちどこかに墜落するだろう。
そうこう考えているうちに、基地の一番奥までたどり着いた。
そこでは「チーム・FLB」のリーダー、フーディンのフォルテが座禅を組んで瞑想をしていた。流石にもうすでに旅の準備は済ませているようで、傍らには[救助隊バッグ]と簡素な作りのサブバッグが置いてある。
精神統一しているだけでも超能力が溢れ出ているのか、彼の周りでは二本のスプーンがまるで主を守護するかのようにくるくると円を描きながら漂っていた。しかしバチスタが一歩足を踏み入れると、スプーンたちは驚いたように動きを止め、ただの道具となって地面にポトリと落ちた。フォルテがゆっくりと目を開ける。
「バチスタか」
「わりぃ、邪魔しちまったか?」
「いいや、ちょうど切り上げようと思っていたところだ。……これ以上やっても、もう何も見えぬ」
床に落ちたスプーンを拾い上げながら立ち上がるまでの一連の所作を、バチスタはただ眺めているだけだった。
「キュウコン伝説」が流布されてリュウ討伐が決定したあの日から、フォルテは毎朝毎夕、こうして瞑想にふけるようになった。ただ精神統一の修業をするためではない。「リュウを抹消する」以外の手段で、この世界で頻発している自然災害の根絶する方法を見出すためである。
今はリュウがリーダーとして率いている救助隊「チーム・エルドラク=ブレイブ」。キャリアが一年未満と浅く実力からしてみればまだまだ「FLB」には遠く及ばない。しかし、フォルテはあのチーム、とりわけリュウには他のポケモンとは違う何かを見出しているようだった。もちろんリュウが元人間であるからというのも理由にはあるだろうが、もっと本質的なところに大本の要因があるのかもしれない。それこそあの伝説のサンダーを倒したり、自然界のバランスが崩壊している中で普通では起こりえない「進化」を遂げたり。故にフォルテはあの日リュウにとどめを刺すことなく、この町から逃げるように促したのだ。おかげで連盟を上手いこと騙せる口実を考えるのに二日ほど要したのだが。
「お前達はもう支度を済ませたのか?」
「あぁ。レバントに至ってはさっそく前暴れと洒落込んでいるみたいだがな」
「……相変わらずだな。ではバチスタ、すまんが先に行ってレバントに出発の旨を伝えてくれ。私は戸締りをしてから向かう」
請け負ったが、なぜかバチスタは歩き出す気になれなかった。そんな彼の様子に、目ざとくフォルテが感づく。
「どうした?」
「……いや、こう言っちゃなんだが、これで本当にいいんだろうかと思ってしまうんだ。俺達救助隊はヒトの命を救うのが使命だ。それなのに、災害を食い止めるためとはいえ、ヒトの命を奪うことを課されるなんて」
リュウが指名手配されてからというもの、バチスタはずっとそんなことを考えていた。いつ起こるとも知れない災害から一人でも多くの命を救うという誓いは、救助隊を結成してから一度も揺らいだことなどない。たとえどんな罪に汚されていても、ヒトの命だということに変わりはないはずなのだ。
連盟や世間の目がある以上、この思いはずっと口にしまいとは思っていた。だがその一方で、誰かに聞いてほしいとも思っていた。そしてその相手には、おそらく同じことを考えているであろうフォルテが適任かと思っていた。しかし、
「お主の言う通り、我々はヒトの命を救うために活動している。そして連盟は、我々が滞りなく任務にあたることのできるよう管轄するために存在にしているのだ。故にその命は絶対。分かっているだろう?」
当のフォルテは顔色一つ変えずきっぱりと言い放った。本当は誰よりもこの現状に納得がいっていないくせに、妙に切り替えが早い。
いとも簡単に論破されながらも釈然としないまま、バチスタは踵を返して基地の入り口に向かおうとした。すると、
「おーい、フォルテ、バチスタ!なんか客が来たみてぇだぞー」
入口の方からレバントの間延びした声が聞こえてきた。まさか向こうから来るということにまず驚いたが、それにしても客とは何だろう。よりによってそろそろ基地を空けなければいけないというこんな時に。
「レバント、引き取るよう言ってくれ。我々はもうそろそろ出立せねばならんのだぞ」
「やー、それがなんというか……ちと難しそうな……」
いつになく言葉を濁しまくるレバント。フォルテとバチスタは顔を見合わせると、ひとまず入口へと足を進めた。たどり着くと、何やら苦い顔で頭を掻いているレバントがまず目に入り、その傍らに佇んでいる者に目を向けた瞬間、フォルテもバチスタも言葉を失った。
時は少し流れて、舞台は「空虚の地」へ。
長らく未開の地とされていた「空虚の地」は、重く分厚い雪に閉ざされた豪雪地帯だった。遥か彼方に青みを少し帯びた白い連峰を臨み、その山々を大将と祀る家来のように木々が乱立している。未開の地故この森には正式名称は名づけられていないが、とある古文書によるとこの地は昔から「樹氷の森」と呼ばれてきたようだ。その由来はもちろん、この森の木々全てが「樹氷」というものになり果てているからである。
すぐ南に位置する「炎の山」とは対照的に、この森は春夏秋冬問わず雪が降り積もっている。永久に花を咲かすことを許されない木々には雪が積もり、時を経てその雪は氷の衣となり、やがてその木は樹氷となる。形は少し歪だが、それは立っている人間を連想させた。まるでこの地にかつて大きな集落があって、吹きつける吹雪で家屋は壊されてしまったけれど、住んでいる人々はみんな凍り付いてそのまま残された――そんな感じだ。
雲に閉ざされた空を除けば、目に映るのはすべて白一色と言っても過言ではないほどの銀世界。見るだけなら心を奪われてしまうかのような美しい光景だが、実際に足を踏み入れてみるとあまりの寒さにこの景色を堪能するどころではないだろう。厳しい気候が故になかなか訪れる者のいない森。
しかし、その「樹氷の森」に足跡をつける者が現れた。自分が何者であるかを知りたい、そんな切なる願いを胸に抱いていた。つい、最近までは。
「樹氷の森」、最深部。
「炎の山」麓付近の森で救助隊に捕まりあわや、というところで謎の突風に吹き飛ばされ、気がつくと雪原の上に寝転がっていた。そんなリュウに、突然猛吹雪が行く手を阻んできたのだ。
いや、もはや今となっては、この猛吹雪も単なる傍観者にすぎない。真に彼の前に立ちはだかるのは、吹雪よりももっと強靭で、壮大な存在だった。
「ほう、まだ立っていられるというのか」
身体のあちこちがすでに凍結していながら未だ二の足で立つリュウを、その存在ははるか天空から意外そうに眺めていた。青く透きとおった三つの氷のような飾り、白く染まった腹部を除けば、顔から翼、足に至るまでの全身は青い羽毛で覆われている。そして極寒の空に現れるオーロラのようにたなびく尾。サンダー、ファイヤーと並ぶ伝説の三神鳥の一人、フリーザーである。
リュウがこの最深部に降り立つや否や、突如巻き起こった吹雪と共にどこからともなくその姿を現し襲いかかってきたのだ。先の二体同様またも黒い炎に憑りつかれているのかと思いきや、その身には炎の気配など微塵も感じないし、目にはしっかりと精悍な光が宿っている。本気でリュウを侵入者とみなしているようだ。
相手にどんな事情があろうと、今までのリュウなら立ち向かったことだろう。自分はまだ果てるわけにはいかない、己が何者なのかを知るために。
しかし今のリュウの心は、そんな意志さえも凍てついてしまっていた。
ファイヤーと戦った後に見た、村人たちの憎しみに満ちた目は、今も目の奥に焼き付いている。今この世界に住む誰もが、同じ目をリュウに向けているのだ。自分たちの大切な存在や居場所を奪ってなお、ヒトびとを脅かし続ける存在。たとえ本当にそうでないとしても、会うヒトみんなにそんな目で見られて、このまま足掻いて生きる意味などあるのだろうか。
もう、味方なんて誰もいない。ならばいっそのこと、自然災害の元凶である方がいいのではないか。今ここで果ててしまえば、世界から災害がなくなる。蔑むような目で見られずに済む。それこそみんなも望んでいることだ。
抗うことなく立ち尽くすリュウの姿が、どうやらフリーザーの目には戦意喪失に見えたようである。
「いいだろう、侵入者よ。余程この地の樹氷と同じ運命を辿りたいと見える」
その望み、即座に叶えよう。翼を一振りして、再びフリーザーは上空へ舞い上がった。
間もなく何度目か分からない吹雪が吹き荒れる。しかし、吹雪はリュウに向けてではなく、なんとフリーザーに呼び寄せられるかのように吹き上げているのだ。雪の一粒一粒が、フリーザーの周囲を守るかのように渦を巻く。森の風景以上に美しい光景だが、感嘆の息を漏らして見られるようなものではない。
「穢れ無きこの地に土足で踏み入ったこと、永久に解けぬ氷獄の中で後悔するがいい!“ぜったいれいど”!」
身に纏う吹雪の隙間から聞こえる、朗々とした詠唱。それが合図になったかのように、今までフリーザーの周囲を走っていた雪塊が、一斉にリュウに向かって襲いかかってきた。
竜巻の中にいるかのような暴風であるはずなのに、リュウは吹き飛ばされなかった。いや、吹き飛ばされなくなってしまったのだ。思わず右腕を目の上にかざして雪が目に入るのを防ぎながら、リュウは少しだけ目を開けて、自分の足元を見、愕然とした。
自分の足が、凍り付いてしまっているのだ。
リュウの足に纏いつく氷は巨木のように地面にしっかりと根を張り、リュウが吹き飛ばされるのを食い止めている。これなら正直吹っ飛ばされた方がいいのだが、フリーザーの猛攻はこれだけでは終わらない。
次の瞬間、足だけを凍らせていた氷塊が、徐々にリュウの身体を侵食し始めたのだ。足から胴体へ、さらには腕へ、瞬く間にリュウの身体の三分の二を凍てつかせた。すべての物体が凍りつくほどの冷気を放つ“ぜったいれいど”。その冷気に捕らわれたら最後、二度と目覚めることはない、ポケモンの技でも数少ない一撃必殺の技だ。
「うあ……く……っ、ぁ……!」
空気に少し音を混ぜたような声を発した口も、ついに氷壁に閉ざされてしまう。息ができない。肺もあまりの寒さに悲鳴を上げている。もともと視界はすでに白くなっているのにこれ以上の白があるのかと思うくらい、リュウは目の前が真っ白になっていくのを感じ、そこで意識が途切れた。
氷点下二七三度の風がようやく静まり、氷のオブジェと化したリュウを、フリーザーは哀れむような目で見ていた。しかし、同情の念をかける気は毛頭ない。そんなことよりも、フリーザーは自身が守るこの地の行く末を案じていた。
「これで、この森が元通りになればよいのだが……」
そう独り言を呟きながら、遥か彼方に広がる樹氷を眺めていた、その時。
「!」
ガシャン!という何かが割れる音が響き、フリーザーは再びリュウに視点を戻した。しかし、彼はもうそこにはおらず、砕け散った氷だけが残されている。まさか、自力で脱出したとでもいうのか。
いや、違っていた。視界の隅で何かがうごめいているのに気付き、今度はそちらに顔を向ける。すると、ボロ布を纏った何者かが瀕死のリュウを背負い、純白の絶壁を駆け下りていくのが見えた。おそらくあの者が、リュウの氷の封印を解いたのだろう。想像以上にすばしっこく、追い打ちをかけようとしても少し遅すぎた。
逃がしたか。フリーザーは臍を噛んだ。追いかけたいところだが、この「樹氷の森」の守護者である以上、ここから動くことは許されていない。きっと、あのワカシャモはまたここに現れる。その時は、再び盾突くことのないよう完膚なきまでに叩きのめすのみ――
――暗い。
あれからどうなったんだろう。凍らされて、意識を失って。こうも暗いと実感わかないけど、ひょっとしたらここは天国なのかな。いやいや、自然災害の元凶なら、地獄の方がお似合いか。
そんなことを考えていると、黒一色だった世界が、だんだんと赤みを帯びていっていることに気が付いた。次いで、パチパチと何かが弾ける音も聞こえてくる。思えば、寒いところにいたはずなのに、身体全体がなんだか温かい。次々と五感が目覚めていき、ようやく瞼が軽くなってきた。恐る恐る、目を開けてみる。
が、すぐに閉じてしまった。
突然、目映い光ともろに目が合ってしまったからだ。目を閉じてチカチカする視界を元通りにし、また目を開けてみる。よく見ると、その光はゆらゆらと揺れていた。
そう、焚き火だ。目が覚める前に聞こえた音は、焚き火の音だったのだ。
リュウは横向きの姿勢だった。仰向けになってみると、岩壁だけの空間から察して、ここは洞窟の中だと認識することができた。流石に雪は降り積もっていないが、ここにも冷気が吹き付けてくるのだろう、壁や天井の至る所に霜が降りていた。
そして、自分に視点を戻す。仰向けになろうとしたときに妙に動きづらいなと思ったら、どっしりとした分厚い毛布で体をぐるぐる巻きにされていたのだった。
焚き火、毛布。この二つのキーワードから推測すると、多分誰かがリュウを看病してくれたのだ。
その時、砂利を踏みしめる音がリュウの耳に入った。
「……永久の眠りのはずが、一日足らずでお目覚めか」
誰かの気配を感じ、毛布を退けてリュウは半身だけを起こし、声のした方向――つまり洞窟の入口を見る。しんしんと雪が降り積もる純白の外の世界と、真っ暗な洞窟の中という白と黒の境界に、ボロボロになった布を纏った者が佇んでいた。