第三十一話 業火渦巻く炎の化身……後編
先手必勝を決め込もうと、リュウはファイヤーに向けて“ほのおのうず”を放った。紅蓮の火柱は標的を定め、空を泳ぐ大蛇さながらに牙を突き立てようとする。
しかしその寸前、ファイヤーは小さくのけぞったかと思うと、その口から巨大な火球を吐き出してきた。螺旋を描くことで勢いを増していたはずの“ほのおのうず”はあっけなくかき消され、まるで巨大な隕石のようにこちらへ向かってくる。何が起こったのかわからずリュウは呆然と立ちつくしていたが、火球の熱気で我に返ると間一髪のところで前方に身を投げてかわした。
何なんだ今の技は。火球が地面に直撃してさらに広がった火の海を見ながら、リュウは愕然としていた。リュウ自身も火球は幾度となく放ったことはあるが、それとはまるで比にならないほどの威力。ポケモンが持つタイプのほとんどは同じタイプの攻撃に対して耐性を持っているとは学んだけど、あんなものを食らったらいくら同じ炎タイプとはいえただでは済まないだろう。
仕方ない――前転でファイヤーに接近していたリュウは、そのまま駆け抜けて背後に回り込んだ。自らが広げた黒炎の海が焼け焦げた木々の色に入り混じっているせいで、向こうはリュウを見失っているようである。
リュウは両足に渾身の力を込めて飛び上がると、身をよじりながら左手の鋭い爪を振り上げた。狙いはファイヤーの首の付け根。炎に包まれていない箇所ならダメージを与えられる――はずだった。
「うあつつつつつっ!」
“きりさく”がヒットした瞬間、焼かれるような痛みが爪から腕へと伝わってきた。
炎が燃え盛っている箇所だけではない、この鳥は体温自体がまるで炎でできているかのように高いのだ。さらに思わずとはいえ叫び声を上げたせいでファイヤーに見つかってしまい、炎の翼で思い切り地面に叩きつけられた。
「ヒ、リュ……ウ……ノ……」
半開きになったファイヤーの口から、炎とともに呻くような声が漏れ出ている。ヒリュウノ?何を言っているのだろう。深く考えることもできないまま、リュウは痛みに耐えながら必死に立ち上がろうとしていた。タイプのおかげで火傷こそ負わなかったものの、相性の不利などものともしないほどに今の一撃は重い。
ギャアアアアアァァァァ――ッ!
やっと二の足で立ち上がると、咆哮に次いで黒一色だったこの広場に場違いな光が差し込んだ。
いつの間にかファイヤーが空高く舞い上がっており、その身は激しい金色の光に包まれている。光に打ち消されるかと思いきや、亡霊のように憑いているどす黒い炎はむしろファイヤーの輪郭を縁取るようにいやにはっきりと映し出されていた。そしてその眼は虚ろながらも明らかにリュウに狙いを定めている。鳥ポケモンが使う、激しい光を身にまとう技――リュウの記憶にそれが引っ掛かった瞬間、糸が切れたようにリュウは逃げ出した。
次の瞬間、身を切るような衝撃波にあおられてリュウはなすすべもなく吹き飛ばされた。爆風の音、木々が折れる音、ファイヤーの雄叫び。様々な音が入り乱れて頭の中で反響し、戦いの最中だというのに気が遠くなっていくような心地がした。
案の定、数秒ほど気絶していたらしい。気が付くとリュウは、無残に折れた木々の隙間に倒れ伏していた。相変わらず地面は熱を帯びていたが、よく見たら木々を覆い尽くしていた炎が跡形もなく消えている。ファイヤーの技による風圧で吹き飛ばされてしまったのだろう。
今しがた繰り出したファイヤーの技、リュウには見覚えがあった。確か「大いなる峡谷」を探訪し始めて間もないころ、巨大な梟のようなポケモンが同じ技を使ってきて、キトラが慌てて警告していた。あれは飛行タイプの技の中でもトップクラスの威力を誇る“ゴッドバード”。光の鳥となって相手に突進を仕掛ける危険な技だって。
あの時は大技ゆえにチャージに時間がかかっていたようで、技を繰り出される前に倒すことで何とか事なきを得た。だが今回は違う。溜めている間に倒せるほど軟ではないし、一歩間違えれば直撃を食らうこと必至だ。
やっぱり、敵うわけがない。
戦いが始まってから必死で押し隠していたこの思いが、足元に縋るようにずるずると這い上がってくる。“ほのおのうず”なんて半減どころか無効に等しいし、“きりさく”でこちらがダメージを負った以上、同じ物理業である“にどげり”も繰り出したところで結果は変わらないだろう。こちらの技はほぼ全て効かず、逆に相手はただの火球ですら圧倒されるほどの破壊力。格が違いすぎる。どんなに鍛えたところで、やはり神と称されるポケモンには勝てないのか――
リュウが絶望感に打ちひしがれている間にも、ファイヤーは相変わらずその羽ばたきと火球で新たな炎の海を広げていた。どうやら向こうの中ではリュウはすでに倒したものと認識しているらしく、こちらには目もくれず次の標的へ首を向けている。
その方角にあるのは、「シラヌイ村」だった。
黒い炎に取りつかれている以上、ファイヤー自身にその意思があるのかどうかはわからない。しかしあのまま放っておけば、村もまたここと同じく瞬く間に炎の海に飲み込まれてしまうだろう。三年前と同じように。
――それだけは、絶対に避けなければ!
「うわ!」
諦念を打ち破って気を奮い立たせた瞬間、今度は足元から発せられた光に目を射抜かれた。ファイヤーの放つ光と比べればずっと弱いけれど、それでも暗みがかった心を照らし出す強靭な光。
左足につけている足輪が、三度緋色の輝きを放っているのだ。「電磁波の洞窟」でも、「群青の洞窟」でも、危機に陥る度にこの足輪は緋色の光を見せてくれた。まるで本来の持ち主が、隣にいて叱咤してくれているかのように。
しかし折れかけた心を立て直してくれた一方で、この光はあまりにも強すぎた。ファイヤーもまたその光に気付いたようで、まるで光を拒むかのように威嚇の咆哮を上げる。もともとこちらに気を向けるつもりではあったけれど、正直全くと言っていいほど心の準備はできていなかった。しかしリュウに考える隙も与えるはずもなく、ファイヤーはその身に再び激しい光を纏い始める。“ゴッドバード”だ。
この短い時間で考えなければ。リュウの持つすべての攻撃技が封じられている中で、確実にファイヤーを倒すことができる方法を。自棄半分で足輪の元持ち主にも心の中で問いかける。サジェッタ、キミならこの状況、どう切り抜けるんだ?
その時、リュウの記憶の一欠片が閃いた。
あの技ならもしかしたら、逆転の一手になるのかもしれない。いやでも、その技は見たことはあるとはいえ一度たりとも繰り出したことはないし、そもそもまずあの鳥の“ゴッドバード”を避けなければ元も子もない。
ギャアアアアアァァァァ――ッ!
勝ち誇ったような金切り声が、静寂に包まれた森をざわめかせる。金光に身を包んだ火の鳥が、今度こそ息の根を止めんとこちら目掛けて突進してきた。
考えている暇はない、一か八かの賭けだ。リュウは咄嗟に、手近にあった木の枝にひらりと飛び乗った。次いでそれよりも高い位置にある別の木の枝へ、なるべくファイヤーの頭上を取るように上へ上へと上り詰めていく。
二度目の“ゴッドバード”はまたしても、標的に命中することなく地面に激突する末路となった。しかし、強力な技ほど一度避けられただけでは終わらない。大地との衝突が巻き起こした不可視の衝撃波が土埃や木片を纏い、ドーム状に広がっていく。
一通り高い木を登り切っていたリュウは、最後のダメ押しでさらに上空へと身を投げ出していた。支えも何もない中で、周りの木片さながらに衝撃波に巻き上げられ、吸い込まれるように星一つない夜空へと舞い上がる。ぐるぐると視界が空を映したり地上を映したり、衝撃波の切り刻まれるような痛みと熱風の焼き尽くされるような痛みを堪えながら、それでもリュウはファイヤーから目を離さなかった。
地上に見えるファイヤーが硬貨大の大きさにまで縮んだところで、上昇の勢いが止まった。この身が引力に捕らわれるまでの一瞬が、スローモーションで再生される。ここまでは目論見通りだ。あとは信じるしかない。この状況を打開できる唯一の可能性を。
足元で瞬いていた足輪の緋光がうねりだす。それがぶわりと膨らんだかと思うと、瞬く間にリュウをすっぽりと包みこんでしまった。形状は炎のようだが、熱は感じられない。ただ視界に緋色のフィルターがかかっているようだ。リュウの心にある一つの確信が生まれるのを待っていたかのように、落下が始まった。
ただ落下しているのではない。緋色の炎に包まれたリュウの身は明らかにファイヤーに狙いを定めていた。一対の翼のように両腕を伸ばして、落下の勢いをその身に乗せて。まるで緋色の巨鳥が彗星の如く空を切るように、ただまっしぐらに。
グギャアアアアアァァァ!
突進が直撃したと思ったのも束の間、またぞろリュウは空宙に投げ出されていた。この期に及んで弾かれたのかと思ったが、宙を舞う中でリュウは見た。
先程までリュウを包んでいた緋色の炎が、乗り移ったかのように今度はファイヤーの全身を覆い尽くしている。鮮やかにうねる炎の中で、ファイヤーはもがき苦しんでいた。どうやらしっかりダメージは与えられているようだ。憑りつくように纏わりついていたどす黒い炎も最後の抵抗を見せるかのように暴れていたが、やがて千切れた紙片がはらはらと散るように端から消えていく。
「……緋龍……マタシテモ……離レテ……、……」
けたたましく木霊するファイヤーの苦鳴の中で、怨念に満ちた声が聞こえたような気がした。
気がつくとリュウは、煤でコーティングされた地面の上に座り込んでいた。
激しい戦闘で木々はほとんどなぎ倒されて、新しい広場ができていた。そこに佇むのはリュウと、両翼両足を大の字に広げて倒れているファイヤーのみ。頭や翼で燃えていた炎はもはや勢いを失っており、蝋燭の火を並べたかのようにちろちろと揺れていた。黒い炎の気配も感じられない。
どうやら、撃退することができたようだ。
「やっぱり、オレでも使えたんだな……“オウムがえし”」
震えを帯びた溜息とともに、天を仰いでリュウは呟いた。
リュウが最後に放ったのは“オウムがえし”でコピーしたファイヤーの技“ゴッドバード”。「相手が直前に繰り出した技」かつ発動までに時間がかかることから、相手の技をギリギリで避けて少しでもチャージの時間を稼ぐという危険極まりない賭けに出る必要があった。相手の技を盗むのにも少々気が引けたけれど、“ほのおのうず”や“にどげり”、“きりさく”といった主力技がすべて封じられた以上、残る手段はこれしか考えられなかったのだ。
思えば「ライメイの山」でサンダーと対峙した時も、サジェッタはこの“オウムがえし”で相手の技“かみなり”をコピーして応戦していた。リュウにとっては一度も使ったことのない技なのに何故かできると思えたのは、あの光景を見ていたおかげなのかもしれない。自棄半分で問いかけて思い出した記憶が切り札となっただなんて、よくできた偶然というべきか――
「あ、兄ちゃん!」
アレフの明るい声が耳に入る。顔を向けると、焼け焦げても形の残っている茂みからアレフが飛び出してこちらに駆け寄ってきた。その後ろからは村長のオボラを始め、村人達もぞろぞろついてきている。アレフが村に戻って助けを呼んでくれたのだろうか。
「無事だったんだな兄ちゃん!すっげー心配したんだぜ!な、じいじ、みんな!」
先程の憂鬱ぶりはどこ吹く風と言わんばかりに飛び跳ねるアレフ。しかしアレフが顔を向けても、オボラ達は頷くどころか皆一様に立ち尽くして唖然としていた。
「た、旅人よ……其方、まさかファイヤー様を……!」
遠目なので表情は分からないが、オボラの声には明らかに怒りがこもっていた。
「アレフ、近づいてはならん!そ奴はファイヤー様に傷をつけた無礼者じゃ!」
「「え、えぇっ?」」
アレフはおろか、リュウですら突然の告発に声を上げて驚いてしまった。気がつけば村人達も皆、リュウに向けて憎悪の目を向けている。
「い、いや違います!ファイヤーがいきなり襲ってきて、それで……!」
「戯言を言うな!我らの守護神たるファイヤー様が理由もなく襲うわけがなかろう!お主が先に手を出したからに決まっておる!」
「そうだそうだ!この罰当たりが!」
「おぉ……ファイヤー様、このような余所者に、なんという……」
この村に来た時の歓迎の態度から一転、村人達はこぞってこの騒動の原因をリュウ一人だと決めつけ始めたのだ。三年前村を焼いた張本人であるかもしれないということをすっかり棚に上げて、未だに彼らの中のファイヤーは慈悲深い守護神となっているようだ。神をあまり信じていないアレフですらこんな時に限ってうろたえてばかり。一先ずこれまでの経緯を話して説得しなければと、リュウは立ち上がって口を開こうとした。しかし、
「――そこまで、ですわよん」
ねっとりとした一声で静まり返ったかと思うと、突然リュウは口を塞がれ身動きが取れなくなった。見ると、いつの間にか灰色の触手のようなものが口元と身体に幾重にも巻きついている。
「リュウ確保ぉ〜♪『自然災害の元凶捕縛競争』第一位はワタクシ達で決まりですわ〜ん♪」
触手の伸びている先を目で追うと、そこには三体のポケモンが佇んでいた。
三体の中で一番前に出てくねくね踊っているのは、赤いタコのような容姿をしたポケモン。その隣では大きな二つの赤い水晶が付いた青い笠のようなものを被ったクラゲ型のポケモンが、無数の触手のうち二本を伸ばしてリュウを拘束している。そのまた隣ではイソギンチャクのような頭部をもったポケモンが、タコポケモンの踊りに合わせて頭をぶんぶん振っていた。見たこともないポケモン達ばかりであるが、タコとクラゲとイソギンチャクという危険生物の組み合わせであるせいか、無意識に鳥肌が立ってきた。
「あ、あの、其方達は、どういう……」
突然の介入に呆気にとられている村人達を代表して、オボラが気の抜けたような声で問いかけた。タコポケモンははたと踊りを止めると、ずずいと前に出て一礼した。
「申し遅れましたわん。ワタクシは救助隊『チーム・カラミツキ』のリーダー、バミューダと申します。お見知りおきを」
救助隊。リュウは心臓がずしりと重くなるのを感じた。ファイヤーを倒したことに気が抜けすぎて、本来の脅威のことなどすっかり頭から抜け落ちていた。
バミューダは顔を上げると、その大きな頭を動かして周りを一通り見回した。その視線は、オボラに来たところでぴたりと止まる。
「この近くに『シラヌイ村』という村があると伺ったのですが……察するに貴方が、その村長かしらん?」
「い、いかにも。わしが村長のオボラと申しますじゃ」
「あら、それならちょうどよかったですわん。お喜びなさいませ、今しがた貴方がたの憎むべき仇を捕らえましてよ」
憎むべき仇?憎んでいる当事者であるはずの村人達の頭の上にさえはてなマークが浮かんだ。「この辺りにはまだお触れが届いてなかったのですわねん」と、バミューダが前置きする。
「この村は三年前、突然の大火事に見舞われたようですわねん。原因は判明せず、そこで倒れているファイヤーの天罰であるとも囁かれた。しかし、それは大きな間違い。そこで縛り上げられているワカシャモ――リュウこそが、その大火事も含めた自然災害の元凶でしたのよん!」
えぇっ!とどよめきが沸き起こる。当のリュウ本人も血の気が引いた。
「ちょっと待て!何の証拠もないのにそんなこと――うぐっ!」
「貴方は黙ってなさいな。元凶さん」
すかさず抗議しようとする口を、クラゲの触手が固く塞いでくる。
「この世界の救助隊は今、あるポケモンを抹消しようと奔走しています。ここより遥か北の地に伝わる伝説では、『人間からポケモンに転生した者が災いを起こす』と予言されておりました。今この世界で起こっている自然災害は、すべてその元人間が引き起こしているのです。そしてこのワカシャモ、見た目はこの通りポケモンですが実は元人間でしたのよん。そうですわよねん、リュウ?」
答えさせようとしたのか口を縛る触手だけがわずかに緩む。しかし、リュウは口を開くことができなかった。あの伝説に記されていることが本当なのかどうかは何の確証もないけれど、リュウが元人間であることはリュウ自身が一番よく知っているのだ。だから、バミューダの問いかけに否と答えることができない。視界の隅で、アレフが数歩後ずさった、ような気がした。
「答えられないということは、否定しないということですわねん?どうでしょう、皆さん。この者は災害を引き起こして沢山の命を奪っておきながら平然と過ごしておりますのよん?消してしかるべきではありませんか?現に今だってそのファイヤーを痛めつけたわけですし」
バミューダが言葉巧みに村人たちの心を突き動かしていく。前にもこんなことがあった。この逃避行の原因であるゲンガーのゴラドも、もっともらしく伝説と自然災害を結び付けて町のみんなを納得させていた。あの時はキトラやトーチがいてくれたから、心が折れそうになる寸前で気を強く持つことができたのだ。
しかし、今は誰もいない。リュウの無実を信じて叫んでくれるヒトが、誰も。
「……そうじゃ。そこの救助隊様の言う通りじゃ」
「……!」
「わしらの神ファイヤー様は慈悲深いお方じゃ。先祖代々敬ってきたわしらに罰など下すはずがない。三年前の火事もそこの旅人が原因だとすれば、納得がいきますじゃ!」
「そうだ!俺達の家族や仲間を奪っておいてのうのうと生きてるなんざ信じられねぇぜ!」
先程よりもずっと大きな声でリュウに罵声を浴びせる村人達。ファイヤー様の天罰だなんだと言っていたくせに、原因が別にあると知るや否やころっと旗色を変えてしまった。信心深いのではない。ただひたすらに必死なのだ。バミューダの心理操作もあるけれど、自分たちが信じているものが唯一正しいと思わずにはいられない。
「兄ちゃん……」
足元でアレフの声が聞こえたが、締め上げられているせいで顔を向けることができなかった。その方が、もしかしたらよかったのかもしれない。
「今の話、ホントなのか?あの火事を起こしたのは……父ちゃんや母ちゃんを奪ったのは、兄ちゃんなのか?なぁ、答えろよ!」
ここでもし、口が塞がれていなくて言葉を発することができても、果たしてリュウは「違う」と言えただろうか。
キュウコンの逆鱗に触れ、人間からポケモンに転生すると予言された者が、アナザー各地で起こる自然災害の元凶――その人間は本当に自分なのか?それを知るために、リュウはこの途方もない旅に出たのだ。だから、答えることなどできない。まだ分からないのだから。
分からなくても、ここで「違う」と言えたら、どんなに楽だったことだろう。アレフにとっても、村人たちにとっても、自分にとっても。
「おいバミューダさんよぉ!さっさとそいつを始末しちまえよ!」
「まぁまぁ。気持ちはわかりますがお待ちなさいな。今からこの者は『ポケモン救助隊連盟』に護送されることになります」
一際騒ぐ村人を、バミューダがやんわりと制す。
連盟に護送?なぜわざわざそんなことをするのだろう。この場でさっさと処刑してくれれば、こっちも楽になるのに。
その疑問を察したのか、バミューダは勝ち誇ったように言い放った。
「貴方は一旦、連盟に身柄を引き渡され、そこで処刑されることになります。そしてその様子は、この『アナザー』全土に知れ渡ることになりますわん。長年続く自然災害で、皆の心は恐怖で疲弊しきっている。でも貴方さえこの世から消えれば、その恐怖を煽っている自然災害も消え失せる。そこの村人達のみならず、この世界に住む者達みんなが、貴方が消えるのを心待ちにしておりますのよん」
息苦しさとショックで、目の前が真っ暗になった。
いつ自分の身に危険が及ぶか知れない、大切なヒトや場所が奪われるか知れない。「アナザー」の住人達はずっと、その恐怖に怯えながら過ごしてきたのだ。その呪縛から解き放たれるのであれば、どんなことだって望むだろう。たった一つの命が消えることくらい、何とも思わないのだろう。
みんなが、オレが消えることを望んでいる。ミンナガ、コノセカイノミンナガ――
「愚蒙もここまで来ればある意味賢人の域を超えるな」
意識が深淵に沈みゆく中で、どこからともなく聞こえたこの言葉だけが耳にこびりついた。
「な、なんですの?今の声は。貴女方が何かしゃべって?」
バミューダが残る「カラミツキ」メンバーに問いかけても、二人は首を横に振るだけ。再びの謎の介入にこの場にいた者達は狼狽していた。皆四方八方に視線を向けるも、声のした方角が見いだせない。そんな彼等を嘲笑うかのように、風がさわさわと波打つ。
「黒の森を駆ける風よ、惑う灯を彼方へ誘う翼に――」
言葉に従い、いやむしろ言葉を具現するかの如く、風がこの場を囲むように渦を巻く。あまりの風圧に「チーム・カラミツキ」や村人達は吹き飛ばされないように地面に身を伏せた。それが後に仇となることも知らず。
「――そして、地を蠢く愚者を祓い清める斎鎌となれ!」
詠唱が終わった瞬間、吹き荒れる風の中で鉄槌のような一撃がリュウを拘束している触手に振り下ろされた。クラゲポケモンが悲鳴を上げ、思わず締め付けていた触手をゆるめてしまう。一陣の風がそこから気絶したリュウをかっさらうと、見えない箱舟のように彼方へと運び去っていった。
残された者達が罰を下す対象であれば、風はもう容赦はしない。羽虫の音のような悲鳴を吸い上げながら、いまだ地に伏せている者はもちろんのこと、逃げ惑う者達にも過たず風の刃を何度も何度も振り下ろし続けた。
「やー、これまた派手にやっちゃったねぇ。エル」
バサバサと大げさな羽音を立てて、一体のポケモンが舞い降りてくる。背後から呼びかけられても、エルと呼ばれた者は返事はおろか一瞥することもしなかった。風圧でまたも外れてしまったフードを被り、まるで身を隠すようにボロ布を纏い直す。
「何の用だ、ハル」
「うえぇ?自分から呼んどいて『何の用だ』って酷くない?君のためにこんなあっついところまでひーひー言いながら来たのにぃ?」
もう一方の声の主――ハルは「ひーひー」の欠片も感じないほどドタドタと走り回っている。ひとしきり走っても反応がないと知るや長い首をもたげてエルの顔を覗き込んだ。
「あららぁ。エルったらいつにも増してご機嫌斜め。またアホの子でも見つけちゃったのぉ?」
「……今回は同じ空気も吸いたくないほどの愚蒙だった」
「うへぇ、でも見た感じきれいさっぱりになってるし、その『ぐもー』さんの顔を拝むことはなさそうだねぇ」
手の代わりに翼を目の上にあてて、ハルは辺りを眺め回した。風がひとしきり暴れて開けた地にはヒトの気配すら残されておらず、しかしファイヤーだけは相変わらず気絶した状態で倒れていた。
「うわぁ!なになにあの子ファイヤー倒したのぉ?ねぇねぇあの緋色の炎とか見れたぁ?」
「あぁ。しかし……」
顔色一つ変えないが、エルの心には少しだけ焦りの色が出ていた。なんとかこの場から遠ざけることができたとはいえ、先程のバミューダとのやり取りからして、このままリュウを野放しにしていたらまずいことになる。
――そろそろ、頃合いなのかもしれない。
エルは音もなくふわりと飛び上がると、そのままハルの背へと降り立った。あまりにも不意すぎたのか、「ふぶぇ!」という謎の声を上げてハルはつんのめる。
「な、なになに突然どうしたのエルぅ?」
「計画変更だ。彼奴と接触を試みる。雪山へ向かうぞ」
「えぇ?でもでも僕寒いところ苦手……」
「さっさと!飛べ!阿呆!」
「ひゃいぃ!」
多分にストレスが入り混じったエルの命令に情けない声で応じると、ハルは翼を一振りして、遥か遠くへ望む雪山へと飛び立っていった。