ポケモン救助隊 エルドラク=ブレイブ ―緋龍の勇者― - 第四章 不可視の予兆
第二十五話 刻まれし伝承
 翼を広げたフェルガナがこの後何をするのか。二度身を以て経験したことでそれを察することができたリュウとキトラは、咄嗟に耳を両手で塞いだ。

「クワ――――――ッ!」

 日が完全に沈み切り、すでに寝静まっているであろうこの峡谷の住人など知ったことかと言わんばかりの雄叫びを上げるフェルガナ。予感が当たったとはいえこんな近距離で叫ばれてはたまったものではない。耳を塞いでいても容赦なく入り込んでくる甲高い声に、リュウは思わず目を閉じてしまった。

「あれ?」

 心なしかこれまでより少し長いフェルガナのシャウトも終わったところで、リュウは恐る恐る瞼を開けた。固く閉じていたせいで起こった視界の明滅が治まっても、目に飛び込んできたそれをすぐに認識することができなかった。
 草だ。先程まで赤土の大地の上に立っていたはずなのに、眼下に広がる地面には隙間を埋め尽くすように芝生が生えている。風など吹いていないはずなのに、日の光を照り返して皆一斉にさわさわと揺れていた。
 そして日の光で気付いたのだが、時刻までもが変わっていた。先程まですっかり夜の帳が降りていたはずなのに、振り仰いだ空は雲一つない快晴だ。澄みきった蒼天に、見渡す限り広がる草原。リュウとキトラとフェルガナは、そのど真ん中に立っていた。まるでどこか別の世界に瞬間移動したかのようだ。

「うえぇ……耳がぁ……キンキンする……」

 傍らでキトラが、長い耳を引っ張りながらふらついている。ヒトより何倍も性能のいい耳は、ヒトより何倍もフェルガナの叫び声を拾ってしまったようだ。ブンブンと頭を振って酔いを醒ますと、辺りを見回したキトラは数分前のリュウと同じような驚きの声を上げた。

「フェルガナさん、ここはどこなの?」
「貴方達の立っている場所はこれまでと変わらぬ『精霊の丘』だ。今は超能力を使って貴方達の視覚を操作し、別の世界の映像を見せている」
「し、視覚を操作って……」

 平たく言えば幻覚を見せているということなのだろうが、それでも他人の五感を操作するなんて常識ではとてもではないが考えられない。今更だけど、超能力って本当に何でもありだな、とリュウは思った。

「ひゃあっ、何あれ?」

 突然キトラが悲鳴を上げたかと思うと、リュウ達の頭上を何かが飛び去っていった。赤色の円盤状の物体が、回転しながら宙を滑っている。「アナザー」では見慣れないが、人間世界では馴染み深い、遊び道具の一つ「フリスビー」だ。とりあえずリュウは、まるで未確認飛行物体でも見ているかのような顔をしているキトラにフリスビーのことを簡単に説明してあげた。
 そのフリスビーの後を追うように、今度はリュウ達の横を小さな黒い影が通り過ぎた。灰色と黒の毛色を持つ子犬のような容姿をしたポケモン、ポチエナだ。キャンキャンと吠えながらフリスビーを追いかけ、地面を蹴って鮮やかに飛び上がると、その口で赤い円盤を見事にジャンピングキャッチ。思わずリュウもキトラもおぉっ、と感嘆の声を上げていると、

 ――よし!ポチエナ、ナイスキャッチだ!

 三度背後から今度は少年の声。次は誰だよと振り返ってみると、二人とも今日一番といっても過言ではないくらいの絶叫を上げた。
 ポチエナを追って駆けてきたのはこの「アナザー」の住人――ポケモンではない。かつてのリュウと同じ生き物、人間だったのだ。短めの黒髪にTシャツと半ズボンといういかにも少年然とした風貌で、フリスビーを加えて飛び込んできたポチエナの頭をくしゃくしゃと撫でていた。もちろんこれは映像であるため、リュウ達の存在には気付いていないようである。

「伝承を話す前に、この『アナザー』の歴史を、簡単に、説明しよう」

 フェルガナの声で我に返ると、リュウ達は彼女の顔を仰いだ。

「数千年前――『アナザー』にも、人間という生き物は、存在した。人間とポケモンは、互いに言葉を、交わせずとも、助け合い、共存してきたのだ。時に、あの光景のように、絆を育みながらな」

 そういえば「FLB」のバンギラス、バチスタも、「人間はずっと昔に絶滅した種族だ」とか言っていた。かつての「アナザー」では、人間もポケモンも異なる種族ながらごく普通に接していたのだろう。未だ完全にポケモンという存在に慣れ切っていないリュウにとっては、少し奇妙な光景に見えたが。

「じゃあ。ひょっとしたらリュウも、ポケモン自体をすっかり忘れてるだけで、この『アナザー』に住んでた人間だったのかもしれないんだね?」
「まぁ、思い出せないとはいえ、この世界の出来事が記憶にあるらしいからね。……正直、全然実感がわかないんだけど」

 率直な感想を述べていると、急に今まで見ていた景色が暗転し始めた。先程の穏やかな風景の名残は一切ない、真っ黒な、虚無の世界。しかしそれも長く続くことはなく、ぼんやりと白い地面が見えてきた。

「さて。いよいよ、本題の伝承に、移ろう。俗世では、『キュウコン伝説』と、呼ばれているものだ」

 フェルガナが、まるでツアーガイドさながらに説明をし始める。
 次の光景は雪景色だった。雪にコーティングされて青白く輝く地面に強風が吹き付け、粉雪が白い煙となって立ち上っている。もちろんこの雪も風もフェルガナが見せている幻覚であり、寒くもなければ足元も冷たくなかった。空を分厚い黒雲が覆っているせいで、昼なのか夜なのか全くわからない。

「リュウ、あそこ!誰かいるよ!」

 キトラの小さな指の先には、確かに大柄な四足のポケモンが佇んでいた。尖った耳を持つ狐によく似た顔立ち。周りの雪に溶けてしまいそうな白銀の体毛。そしてなにより目を惹くのは、風に煽られて優雅にたなびく九つの尻尾だ。人間世界では伝説上の生き物とされている、九尾の狐。まさにそれをモチーフにしたようなポケモンだった。

「あれこそが、キュウコン。悠久の氷雪に、閉ざされた地に住まう、ポケモンだ。千年の寿命を持ち、その尾には、千年の苦しみを与える妖術が、孕んでおり、触れた者に、祟りをかけると、言い伝えられていた」

 言われてみれば、キュウコンの尻尾には何か黒いオーラのようなものがまとわりついている。その見事な九尾に魅入られ、触れてしまった不届き者に永劫の苦しみを刻むという黒の祟り。

「しかし、その言い伝えを、迷信だと侮り、面白半分で、尾に触れた者が、いたのだ」

 フェルガナの説明に呼応するように、薄暗かった景色が少しだけ明るみを帯びてきた。ここで初めて、リュウ達はキュウコンとはまた違う、別の存在に気付くことができたのだ。ついさっきも見たような、この世界ではあまり見慣れない種族。

「に、人間……?」

 特にそうしようと思ったわけでもないのに、気がついたらリュウはそう呟いていた。
 自らの尾に汚れた手で触れられ、怒りに満ちたキュウコンの目線の先にいたのは、またもや人間だった。先程ポチエナと戯れていた少年よりは少し年上の青年。寒さをしのぐためなのかフードつきの丈の長いジャケットを羽織っている。茶色混じりの長い前髪に隠れてその表情は読み取れないが、きっと目の前の存在に怯えていることだろう。
 そしてリュウもまた、その人間と同じくその心を恐怖の色に染めていた。目の前の光景が恐ろしいからではない。あの人間の容姿が、濃霧に閉ざされているはずであるリュウの記憶の中にある存在と、瓜二つであることを悟ったのだ。そして必死に、「その先」へたどり着こうとする意思を抑えつけていた。そんなはずがない、そんなことがあってたまるか、あの人間が、まさか――
 身の内にある恐怖に抗っていると、光景に変化が現れた。キュウコンが九つの尾を扇状に広げると、人間に向けて黒い波動を放ったのだ。愚かなる存在への千年の鉄槌。人間はなおも逃れようとしたようだが、足がすくんで動けないようだった。その時、

 ――……、危ない!

 凛とした女性の声と共に、キュウコンと人間の間に何か白い影が割って入ってきた。そして人間に命中するはずだったその黒い波動を、甘んじてその身に受けたのだ。
 甲高い悲鳴を上げて、白い影は黒い波動に蝕まれながら蹲ってしまった。うねうねと揺らめくオーラの間から、白いドレスのようなものが見える。最初はまたもや人間かと思ったが、緑色の頭部が見えた瞬間、ヒト型のポケモンであることが分かった。懸命に歯を食いしばって、祟りの苦しみに耐えている。

「あのポケモンは……」
「サーナイト。エスパータイプの、ポケモンだ。主と認めた者が、危機に瀕した時、その身を挺して、守り抜くと、言われている。サーナイトにとって、あの人間は、かけがえのない、パートナーだったのだ」

 今回も例に漏れず、サーナイトは主をキュウコンの祟りから守った。この事態を引き起こしたのが、ほかならぬその主であることを知りながら。

 ――フルーラ!

 男の声、恐らくあの人間の声だろう。サーナイトの名を呼びながらも、その身を案じて駆け寄ろうとはしなかった。自身のパートナーの無事よりも、よほど祟りの方が恐ろしいのか。そんなに自分の身が可愛いのか。

 ――……子よ、汝の相棒を助けたいか?

 キュウコンの口から人間に向けて、エコーのかかった言葉が放たれる。その目にはもう怒りの感情はなく、ただ憐みの色を湛えていた。その先にあるのは祟りを受けて苦しむフルーラか、あるいは恐れおののいている人間か。

「フルーラの姿に、心を打たれた、キュウコンは、最後のチャンスを、人間に与えた。人間とフルーラの絆が、どれほどのものか、それを形で、示すことができれば、見逃してやることも、考慮に入れようと。しかし」

 フェルガナが言葉を続ける前に、人間はすでに行動に出ていた。
 逃げ出したのだ。なおも祟りを受けて苦しむフルーラには目もくれず、キュウコンの傍らを横切って。雪に足をとられて転びかけながら走るその姿は、惨めという二文字があまりにも似ているものだった。
 その光景がまた一回り、リュウの中の恐怖を増幅させた。「電磁波の洞窟」でリュウが危機に瀕していた時、キトラが助けに来てくれた。強敵を目の前にしてキトラがリュウに逃げろと促した、あの時。満身創痍ながらも、当時のリュウにはまだ戦う力は残っていたはずだ。だけど、言われるがまま逃げ出した。無力と罪悪感に苛まれていた状態で、キトラの精悍な顔を見るのが嫌だったから。
 シチュエーションは異なっている。だが、リュウの中ではあの人間と自分がダブっているように見えて仕方がなかった。自分の身を優先して、かけがえのない相棒を残して逃げるその姿が、だんだん自分と重なってくる。それを振り払うように、リュウは強く頭を横に振った。
 逃げる人間を見届けた後、キュウコンはゆっくりとフルーラに向けて歩みを進めた。祟りの苦痛に耐えきれなくなったのか、黒い波動を纏ったまま、彼女はぐったりと横たわっていた。それをしばらく見据えた後、キュウコンは誰に向けてでもなく、ただ天を仰いで諳んじるように呟いた。

 ――いずれ、あの人間はポケモンへと生まれ変わる。そしてその時こそが、世界の均衡が崩壊する時だ……


 寒い。
 フェルガナの幻覚が解けて、最初に思ったのがその一言だった。確かに今まで吹雪の中にいたけれど、あれは映像だ。本物ではない。それなのに、頭から足の先に至る全身が、ガクガクと小刻みに震えていた。今見た出来事だって、偽物だ。そう信じたかったのに。

「……嘘でしょ?」

 伝承を話し終えてから、しばらく誰も口を開かなかった。ようやくその長い沈黙を破ってくれたキトラの声は、今のリュウと同じくらい震えていた。

「まさか……嘘だよね?リュウが、あの人間だなんて。フェルガナさん!そうなんでしょ?伝承とか言うけど、結局は作り話なんでしょ?ねぇ、答えてよ!」

 キトラは糸が切れたように駆けだすと、機関銃のように言葉をぶつけながら、小さな手で何度も何度もフェルガナを揺さぶっていた。フェルガナはまるで置物になってしまったかのように、答えることもなければただ首をぐらつかせるばかり。

「やめるんだ、キトラ」

 取り乱していたキトラはもちろん、口を開いたリュウ自身も、今言った自分の声があまりにも冷静すぎることに驚いていた。本来なら起こるはずの激情を、ほとんどキトラが代弁してくれたおかげなのかもしれない。
 キトラの揺さぶりから解放されたフェルガナは、徐にリュウ達に背を向けて歩き始めた。その先は眼下に山々を臨む断崖絶壁、我に返ったキトラが慌てて止めようとするが、フェルガナはまるで足元が見えているかのように崖ギリギリのところで立ち止まった。

「リュウ。何か、思い出したことは、あるか?」

 こちらに背を向けたまま、フェルガナが問いかけてきた。寒気も震えも、だいぶ治まってきた。

「似ているんです」
「似て、いる?」
「あの人間の容姿が……人間だった頃のオレに、似ている気がしたんです。あまりにも見慣れた感じがして……」
「リュウ……!そんな……」

 言葉にすると、余計に実感が湧き起こってくる。「アナザー」で絶え間なく続く自然災害。キュウコンが最後に言った「世界の均衡の崩壊」は、この災害のことを指しているのだろう。そしてその災害を引き起こしているのは、人間からポケモンに転生した者――リュウの知る限り、それはリュウ自身に他ならない。

「今話した伝承は、確かに、貴方の記憶にも、刻まれている。しかし、その人間が、貴方自身であるという、確証は、ない」

 リュウの絶望を感じ取ったのか、フェルガナがフォローを入れるように言い聞かせてくれる。しかし当然ながら、その言葉で割り切ることなんてできなかった。見た目や境遇等が限りなく似ていて、それでも確証がないなら気にするな?現にポケモンに転生したオレが生きているこの世界は、間違いなく均衡が崩壊しているじゃないか。そんな能天気に考えることが出来たら、最初から自分の過去なんて知りたいとは思わないだろう。

「……『空虚の地』」
「え?」

 何の脈絡もなく聞き慣れない言葉が出てきて、思わず顔を上げた。

「今、貴方の未来を、少しだけ、見せてもらった。その未来もまた、深い霧に、閉ざされていた。しかし、その中で、少しだけ、見えた場所――それが、『空虚の地』」
「『空虚の地』……」
「貴方に、この先を歩む意思が、あるのなら、必ずその地に、たどり着くはずだ。そして、その地にて、貴方の運命が、決まる」

 今のリュウには、歩む意思なんて残されていなかった。運命なんて、決まっているようなものじゃないか。未来ですら霧に閉ざされているなんて言うけれど、その霧が晴れたところで未来が明るいものなんて到底考えられない。
 星がささやかながらも燦然と輝いている今、「精霊の丘」に佇む三人が悲痛な面持ちで押し黙っているのを、岩陰から垣間見てほくそ笑んでいる者がいた。



 ここから「サルベージタウン」までは遠いからと、リュウとキトラを超能力で基地まで送り届けた後、フェルガナはしばらくあの二人が消えた後の空間を眺めていた。すぐ近くに、別の気配を感じながら。

「ベアトリス」

 いい加減気にせずにはいられなくなったので呼びかけてみる。すると、今まで眺めていた場所に、その気配の主が音もなくふわりと舞い降りてきた。

「気付いていたか、流石だな」
「……」

 ベアトリスは少しだけ辺りの地面を見回すと、何かを見つけたのかまたも無音でそこまでひとっ跳びでたどり着いた。そこには、キトラが粉々にした[変化の玉]の残滓が転がっていた。

「彼奴等が未熟な救助隊で助かったな」

 [変化の玉]の欠片をいじりながら、ベアトリスが口を開く。

「[変化の玉]は確かにヒトを別の存在へと生まれ変わらせる。しかしそれは使用者でなく、使用者が指定した第二者が対象となる。[変化の玉]と聞いた時、お前をヤミカラスに仕立て上げた私のことも何かしら感づかれると思ったが……『緋龍の子』のみならず、あのピカチュウも気付くことはなかった。幸運なことだ」

 「幸運だ」とは言いつつも、ベアトリスの顔はフェルガナに負けず劣らず無表情だった。それでいて、何が楽しいのか未だに欠片をいじくり回している。

「ベアトリス。そろそろ、教えてくれ」
「何をだ?」
「貴女の、目的。何故、『緋龍の子』に、千年前のあの日のことを、話すよう、頼んだ?この峡谷の住人を、利用して、あの子の力を、試そうとした?」
「利用した?何のことだ」

 本当に覚えがないのか、あからさまにキョトンとした表情を見せるベアトリス。またも腹の読めない顔で返されると思っていた分、フェルガナも盛大に空振りをした気分になった。

「この『精霊の丘』に、たどり着く前、私達は、ドードーの群れの、襲撃を受けた。彼等は普段、温厚な性格で、自ら進んで、ヒトを襲うようなことを、しない。外部からの、刺激を受けて驚き、我を失わない、限りはな」

 戦闘中リュウが考察した通り、あの時のドードー達は皆、こちらを襲うというよりは何かから逃げようとしているようだった。恐らくそれよりも前に何者かが彼等を襲撃し、慌てたドードー達は一目散に逃げようとしたのだろう。
 ベアトリスはしばらく考え込むようなしぐさをすると、あぁ、と小さく声を上げてクスクスと笑いだした。

「まさかお前、気付いていなかったのか?」
「……?」
「『緋龍の子』とピカチュウ、そしてお前が会話をしていた時、あの場にはもう一人、来訪者がいたことを」

 フェルガナは目を見開いた。そんな馬鹿な。今日話したことはこの世界の理に関わることであり、遍く知れ渡ってはならないことだ。彼等と話している間も、第三者が割りこんでこないよう常に注意していたつもりだ。それなのに……

「まぁ、気付かないのも無理はない。そいつはゴーストタイプのポケモンだ。エスパーにも気づかれず気配を消すことくらい、造作もないことだろうな」
「……」
「ドードー達の襲撃は、恐らくそのゴーストポケモンが原因だろう。どうやら『緋龍の子』達とも因縁があるようだからな。……さて、協力してくれた礼だ。面白い話を聞かせてやろう」
「……何だ?」
人形(コッペリア)が逃げ出した」

 えっ……!と、思わずフェルガナは声を上げて驚いてしまった。
 あの人形(コッペリア)が逃げ出す。この世界の理を知るものにとって、その事態は昨今の自然災害と同じくらいに深刻なものなのだ。それなのに、そのことを一番よく知っているはずのベアトリスは、慌てるどころか楽しんでいるようにも見えた。

「確かにお前が思っている通り、これは深刻な事態だ。本来ならすぐにでも連れ戻すところだが……一先ず、しばらくは泳がせておくつもりだ」
「な、何故……?」
「きっかけになるかもしれないからだ。お前が見た『緋龍の子』の未来。それを取り巻く霧が風に吹き払われるか、あるいはさらに色濃くなるか……いずれにせよ、事が進展することは確定事項だからな」

 フェルガナは震えていた。いつものように、絶望の未来を見たからではない。ただただ、目の前で笑う存在に対して恐怖を抱いていた。この者は決して邪悪ではない。ただ、世界を動かすことに躊躇いというものを持っていないだけなのだ。それが、何よりもフェルガナにとっては恐ろしいことだった。



 リュウは自宅に戻ってすぐ、藁敷きのベッドに飛びついた。微細な藁の塵が宙を舞い、うち数個は暖炉に飛び込んで引火し、小さな火の粉と化す。
 フェルガナの超能力によって、リュウ達は一瞬のうちに「エルドラク=ブレイブ」救助基地前に帰還することができた。旅立ちの頃と比べても、赤レンガの基地やその周りに生い茂る林は全く変わっていない。あの時と違うのは、時刻が夜であることと、リュウ達自身だった。過去を知ることができるかもしれないと、期待に胸ふくらませて歩み出した彼等はもういなかった。

「じゃ、長旅で疲れたしボクはもう寝るよ。また明日ね」

 そう言ったキトラの声は、驚くほどにいつもの調子だった。
 「また明日ね」。今の彼等にとってはある意味重要な言葉を、キトラはいつもの口調でさらりと言った。リュウの過去の断片を知った今、彼の言う「また明日」が来るかどうかさえも分からないのに。踵を返して家路につくその背中からも、彼の心情を読み取ることはできなかった。
 信じたくない。信じられるわけがない。自分の存在が自然災害の引き金となり、「アナザー」を、ヒトびとを苦しめているかもしれないだなんて。そしてその犠牲者の中には、キトラもサジェッタも含まれている。それが、何よりも一番辛かった。

「……サジェッタ」

 ベッドから半身を起こし、サジェッタのアンクレットにそっと触れた。どんなことがあっても、絶対に逃げないと誓ったはずなのに、目の前に立ちはだかった壁があまりにも大きすぎて、早くも挫けそうになってしまっている。
 ごめんよ、と呟きそうになって、慌てて口を閉じた。苦痛に耐えきれずに口走った言葉を、サジェッタは聞きたくないはずだ。悲愴な思いに打ちひしがれて落ち込んでいるこの姿を、サジェッタは見たくないはずだ。
 だけど。
 その逆接が、立ち直りかけたリュウの心を再び負へと追いやる。自然災害の元凶かもしれないという現実を突きつけられて、明日からどのように振る舞えばいいのだ。どんな心情で救助活動をすればいいのだ。いや、むしろ今の自分に、果たして救助隊の一員でいる資格があるのだろうか。
 耳を塞いで、再び藁葺きベッドに顔を埋めて、リュウは必死に眠りにつこうとした。何も考えたくない。それなのに、頭は今日に限って主より忙しく働き続けていた。



 それから、どのくらいの時間が経っただろうか?
 リュウは三度、草原のど真ん中にぽつんと立っていた。また、あの夢だ。とりあえず眠ることができたことに安堵しながら、しばらく周りの景色を眺めて心を休めていた。今思えば、ずいぶん久しぶりのように思えてくる。柔らかな風も、澄み切った青空も、広大な草原も、あの時の夢と全く変わっていない。
 唯一変わっているのは、やはり立ち位置だった。
 夢の後半に毎回出てくる大きな木。それが今回は、恐ろしいほど近くにその根を張っている。その荘厳な佇まいに圧倒されながらも、リュウの意識の三分の二は別の方向に向けられていた。この穏やかな景色を更に彩るハープの音色。それを奏でているヒト影も、輪郭がはっきりするほど近くに映る。
 リュウはなるべく急ぎ足で、木に向かって進んで行った。ぐずぐずしているとまた夢が終わってしまう。脳で命令していないが――誰かに促されたかのように、リュウがヒト影に向かって呼びかけた。

「……あ、あのっ!」

 琴の音が、止まった。リュウは高鳴る鼓動をおさえ、さらにヒト影に近づいていく。その影の細部がなんとなくはっきりしてきた頃、ヒト影は立ち上がった。あまりにも突然だったため、リュウは足に急ブレーキをかけて半歩退く。
 今度は、ヒト影がゆっくりと近づいてくる。互いの距離が十メートルを切ってやっと、リュウはヒト影の姿を目にすることができた。先程まで座っていた木の葉のように鮮やかな緑色の髪。雪のように純白の肌。同じく純白のドレスのようなものは風に少したなびいている。腕も胴体も足も、何もかもが細い。少しだけ光が差している瞳は、海のように深い蒼色をしていた。
 ……この特徴、つい最近どこかで見たような気がする。

「キミは……誰なんだい?どうして、オレの夢に現れるんだ?」

 リュウの問いに、ヒト影は口を開いて答えようとしたみたいだが、急に吹いてきた風の音がその声をかき消してしまった。心地よいと思っていた風も、こんな邪魔をされては酷く鬱陶しく思える。ようやく風が収まり、再びヒト影は口を開いた。
 その言葉に、リュウは自分の耳を疑わずにはいられなくなった。

「私は……私の名は、フルーラ」


橘 紀 ( 2015/05/31(日) 21:15 )