第二十二話 峡谷の紫烏……前編
がちゃり!
暗澹とした空間の中で起こった、金属の固く冷たい音。しかしその音は幾重にも響き渡ることなく、虚空の彼方へと吸い込まれていった。
「鎖が、はずれた……?」
唯一その音を聞いたのは、途方もないほど遠い昔から、この空間で生きるという運命を課せられた一人の少女。逃げることのないよう自身を拘束していた何本もの鎖が、何の前触れもなく音を立てて切れたのだ。驚きで見開かれた少女の目に、無残にも細切れになった鎖が映る。
何故こうなったのかは分からないが、現在自分は自由の身。うまくいけば、この空間から抜け出すことができるかもしれない。
「……今なら、あの方に逢える……!」
ぐずぐずしていたらまたこの空間に繋ぎ止められてしまう。逸る気持ちに押されるがまま、少女はボソボソと短く何かを唱え、この空間から姿を消した。
「アナザー」南西の果てに位置する「大いなる峡谷」。広大な砂漠と洞窟に囲まれているので訪れるヒトは少なく、そのせいかその荘厳な岩山の佇まいには近寄りがたい神秘性も感じられる。
幾重にも連なる山々に刻まれているのは、砂、泥、小石などの様々な種類の土が堆積してできた地層だった。文字が書かれていなくとも、その様は縦書きの年表のように物言わぬこの地の歴史を示しているかのよう。ほとんどが赤土を基調としたものなので、朝に来ようが夜に来ようが夕日に照らされた山々の間を歩いているような感覚がする。付近に広がる砂漠から乾いた風が吹いているからか、「ライメイの山」ほどではないが木などの植物は見受けられない。
ネイティオがいるのはこの山々の中で最も高く聳えている場所とのことだが、これだけ高いとどれが一番高いのか見当もつかない。一旦手近な山を登り切り、見晴らしの良くなった頂上で見回してみると、悲しいことにというべきかお約束というべきか、最も遠い位置にそれらしき山を見つけた。「サルベージタウン」からここに至るまで約二週間も費やした上に、この峡谷を突破するのにもまず一日では済まない。その上険しいこの場所を住処としていることで自然と鍛えられたポケモン達との戦いも待ち受けている。この程度でヘタれる一見さんはネイティオに会う資格もないということだろう。
さて、リュウ達がこの峡谷を訪れて今日で三日目。真っ赤な外壁の隙間から覗く青空は今日も雲一つない快晴だ。しかし、峡谷の合間を縫うように吹きつける風はいつにも増して強い。足場が不安定な時に襲いかかる暴風はある意味我を失ったポケモンより怖いものだ。
もちろん現れる敵もネイティオのもとへ近づくほど手ごわくなってきたが、登山下山や戦いばかりの二日間を切り抜けてきたリュウ達もかなり鍛えられていた。当初は逃げるしか対処法がなかった闘牛のようなポケモン、ケンタロスの群れの突撃もリュウの蹴り、キトラの電撃によって、見えない壁に弾かれるように先頭から蹴散らされていく。
「そろそろ、その身体にも慣れた?リュウ」
最後の一体を遥か彼方に吹っ飛ばし終え、額に流れる汗を拭いながら、キトラがリュウに問う。その疑問には理由があった。アチャモからワカシャモに進化したおかげで、ようやく両手両足が人間の頃と同じように自由に使えるようになったのだが、いざ両腕を使ってみるとこれがなかなか使いづらく、未だにアチャモの頃の癖で物を口で運んだり、道具をつい足で掴もうとして失敗したりするなんてことが多々あったのだ。
「うん、やっぱり手があった方がいいね。物も普通に使えるし、攻撃のバリエーションも増えたし。おまけに背も高くなったから、こうしてキトラを見降ろすように見ることも……」
冗談のつもりで言ったのだが、余程身長のことがコンプレックスなのだろう。円らな瞳では到底成しえないような目つきでキトラからこれでもかと睨まれてしまった。今にも電撃を放ちそうだ。慌てて軽く謝る。
「あれ?あのヒト……」
もはや電撃よりも威力の高いその視線から逃れたくて顔を上げると、小さな茂みの中に佇むヒト影が目に入った。キトラもそれに気が付いたのか、一旦凝視をやめて背後に顔を向ける。
そこにいたのは、大きなシルクハットをかぶったような頭部を持つ小柄な鳥ポケモン――ヤミカラスだった。この峡谷にもヤミカラスは生息しており、我を失った連中とは幾度か戦ったこともある。
ただこれまで見てきたヤミカラスと明らかに違う点は、体色が烏のような黒ではなく柔らかな紫色なのだ。キトラによると、ポケモンの中にはごく稀に体色の異なる「色違い」という個体が存在するのだという。何か特別な能力があるわけではないが貴重な存在なので、見かけたら稀有な幸運だと思っていいとのことだが、対象が烏であるせいかあまりラッキーとは思えないというのがリュウの率直な感想である。
その色違いのヤミカラスもまた、リュウ達と同じようにあるものを凝視していた。その視線の先には、直径一メートルを優に超える大きな赤い花が鎮座している。よく見るとその下には手足や丸い胴体など身体らしき物体があり、あれもまたポケモンなのだろう。
「あのヤミカラスが見てるのは、ラフレシアだね」
「ラフレシア?」
「うん。『サルベージタウン』近くのジャングルで見たことがあるんだ」
確かにあの花弁の模様や鮮やかな色はジャングルによくあるものだ。些か峡谷には似合わない。そういえば、人間世界にも世界一大きな花にラフレシアという花があったが、もしかしたらそれが名前の由来になっているのか?いやいやまさか。
そんなことよりも、ヤミカラスが大きな花を凝視しているというこの光景は、あまり穏やかに見ていられるものではなかった。自身より小さいとはいえぎょろりと大きな赤い目にずっと睨まれているせいか、ラフレシアは目に見えてガタガタと震えている。目の前の鳥ポケモンが自分の頭を啄もうとしていると思っているのだろう。その場合、啄まれる側は真っ先にどのような行動に出るのか。
「危ない!」
リュウが思い浮かべた予想は、ぼわんという噴射音と共に見事に的中した。ヤミカラスを撃退するべく、ラフレシアが護身用の花粉を頭の花から繰り出したのだ。技の類なのかどうかは定かではないが、これまでの救助活動の経験上、草タイプのポケモンが放つ粉類は総じて悪影響しか及ぼさないものだ。
咄嗟という言葉が似合うほどにリュウは飛び出すと、ほぼ三段跳びでヤミカラス達のところにたどり着いた。自身も花粉を吸い込まないように息を止め、誠に失礼ながらヤミカラスをひょいと担ぎ上げ、丸太のように小脇に抱えて一目散に逃げた。
「リュウ、こっちだよ!」
少し離れた先の岩陰からキトラが顔を出している。逃げ道を確保してくれたようだ。それにしても抱えているこのヤミカラス、キトラよりも体格は小さいくせにやけに重たい。見た目と体重のギャップに驚きながらも、しつこく纏わりつく花粉を振り切り、リュウは飛び込むように大岩の陰に隠れた。
運んできたヤミカラスを慎重に降ろし、岩陰から様子を伺う。もともと自己防衛で花粉をまき散らしたのだから襲う気は毛頭なかったのだろう。ラフレシアは深追いしようとせず、むしろ慌てて茂みの奥深くへと逃げていった。辺り一面に朦々と立ちこめていた花粉も、峡谷を吹き荒れる風に運ばれて彼方へ吸い込まれるように消えていく。
「なんとかしのいだな」
「うわ、リュウ、マフラーとか粉まみれだよ」
「払えばどうってことないよ。それよりも……」
身体についた粉を軽く払いながら、リュウは先程救出したヤミカラスに目を向けた。ヤミカラスは怯えるどころか感情を全く映さない面持ちで、未だにラフレシアがいた茂みをじっと眺めている。
「あの、さっきは乱暴に運んですみません。大丈夫ですか?」
「……」
「も、もしもし?まさかどこか怪我し……」
呼びかけても全く反応がないので、とりあえず注意を向けさせようとリュウは手を伸ばした。すると、
「クワ――――――ッ!」
「うひゃああああああ!」
突然ヤミカラスの甲高い咆哮が轟き、リュウもキトラも情けない悲鳴をハモらせながらほぼ同時に尻餅をついた。咆哮を上げた張本人は自身の二倍以上の翼を大きく広げ、そのままそこだけ時が止まったかのように微動だにしなくなった。
「毒の風が、流れていく……いずれ、あの風は、赤き花を咲かせ、再び牙を、むくだろう……」
「あ、あの」
リュウ達が腰を抜かしているのを尻目に、まるで吟遊詩人のように言葉を諳んじるヤミカラス。半ば自分の世界に入っているのを阻害してしまうことを承知の上で、リュウは再び声をかけた。ヤミカラスも今度こそ気付いたのか、目を少しだけ見開いて少しキョロキョロしてからこちらを振り仰ぐ。
「貴方達が、助けてくれたのだな?」
「は、はい」
ずいぶんと中性的な声だ。一言一句噛みしめるように放たれるその言葉はどことなく威圧的で、キトラよりも一回り小さいはずなのに面と向かって話すのが躊躇われる。
「私は、フェルガナと申す者。まずは、助けてくれたことに、感謝する。女性を運ぶにしては、少し乱暴が、過ぎていたがな」
「す、すみません。……って」
このヒト、女性だったのか。喉元まで出かかったこの失礼な言葉を慌てて唾ごと飲み干した。
「フ、フェルガナ……さん。さっきは何をしてたんですか?ずっとあのでっかい花、じゃなかったラフレシアを凝視してたみたいですけど」
「ラフレシア?そうか、あのポケモンは、ラフレシア、だったのだな」
「へ?それって……」
フェルガナの反応は些か不可解なものだった。自分が今まで見ていた者をここに来て初めて知ったような言い草だ。それでいて、ラフレシアというポケモン自体は認知しているという反応から伺う限り、リュウのようにポケモンの知識が全く無いヒトが見せるそれではない。ということは――
リュウの考えを見透かしたように、フェルガナは先回りして口を開いた。
「私は、この世に生を受けた時から、視力というものを、持っていない。この目に映るのは、光と影のみ。物体の形状は、私の認識の、範囲内ではない」
「じゃあ、目が見えないってことですか?」
フェルガナはゆっくりと首肯した。だからラフレシアが花粉を放っても、すぐに逃げ出すことができなかったのか。そういえば、リュウ達に初めて気づいた時も少しだけ辺りを見回して何か探すような仕草を見せていた。声は聞こえども、彼女にはリュウ達の居場所が咄嗟に認識できなかったのだろう。
「だったらなおさら、こんなところで何をしてたんですか?目が見えない状態でこの峡谷をうろうろするのは危険じゃ……」
「確かに、な。だが私は、ここに行かなければ、ならなかった。この峡谷の主――ネイティオに、会うためにな」
「ネイティオ?」
思いもよらない情報に対する驚きが過ぎたのか、キトラが1オクターブ高い声を上げた。自分達の旅の目的であるヒトを他のポケモンも訪ねているとは。妙な偶然もあるものだと思うと同時に、ネイティオがこの峡谷を住処にしていることが本当であると分かったことに対する安堵も少しこみ上げてきた。キトラの見つけた本はほとんど御伽話の類である上に相当古いものだったので、正直自信がなかったのだ。
「お前達こそ、こんなところで、何をしている?観光か、何かか?」
「えっと、まぁそんなものです」
「物好きな、ものだな」
「ですよね……」
オレ達もなんですよ、と言いたくなる衝動を抑えながら、頭を掻き苦笑いという何とも怪しい仕草ではぐらかすリュウ。視力がないというのは事実だとしても、先程の突飛な行動もあるし完全に心を許すわけにはいかない。もしかしたら目の件も含めてすべて演技で、信用した瞬間背後から襲われるなんて事態も十分あり得る話だ。
しかし、その確固たる警戒も時にはいとも簡単に揺らぐものである。
「では、そのついでといっては何だが、私を、ネイティオの、ところまで、護衛して、もらえないだろうか?あの者が住む、『精霊の丘』までは、まだ距離がある。お前達の、言うように、何も見えぬまま、うろつくのは、確かに、危険だからな」
「ご、護衛?オレ達が?」
「駄目、か?」
「いや。ダメってわけじゃないんですけど」
上手い返答が考えられなくて、助け船を求めるようにキトラの方へ視線を落とす。キトラもまた困ったような顔をちょうどこちらに向けたところだった。こんな時に限って考えていることは同じか。リュウは溜息を吐いた。
「どうしようか、キトラ」
「うーん、ボク達もネイティオを探してるわけだし、目的が同じなら請け負ってもいいんだろうけど」
「……でも、かなり怪しいよな」
「そうだよね……って、あれ?フェルガナさんは?」
ヒソヒソ話に夢中になっていたせいで、フェルガナが忽然と消えていることにこの瞬間気付いた。慌てて辺りを見回すと、なんとリュウ達よりはるか前方で、フェルガナが平然と歩みを進めているではないか。
しかも、崖に向かって。
「ちょちょちょちょっと!なにやってるんですか!」
ラフレシアの時と同じように、リュウは飛ぶようにフェルガナの元へ走ると、崖まであと一歩というギリギリのところでまたも乱暴に担ぎ上げた。
「なかなか返答が、来ないから、先へ進もうと、しただけだ」
「思いっきり崖に直行してたじゃないですか!目が見えないなら無闇に歩いたりしないでください!」
敬語ながらも、まるで子供を叱るように両手でフェルガナを持ってリュウが一喝する。そんな光景を見、なんか母親みたいだな……と苦笑しながらキトラは小声で呟いた。
「あぁもう!キトラ、とりあえず護衛引き受けるぞ!どっちにしろ放っておけないし」
「う、うん。そうだね」
かくして、見た目も中身も珍妙な依頼人を加え、リュウ達は再び「精霊の丘」へと歩みを進めたのであった。