第二十一話 過去へ至る道
うだるような熱気が居座っていた夏が過ぎ、木の葉が赤く色づく季節になってきた。春と並んですごしやすい季節である秋の始まりである。
古来よりヒトは秋という季節に様々な言葉を冠してきた。清々しい秋空と涼しい気候で運動が捗ることからスポーツの秋、彩り鮮やかな山々の風景が芸術家の画欲をくすぐることから芸術の秋、そして多くの作物が実を結ぶことから食欲の秋、などとも呼ばれている。
今年も自身が営む果樹園にたくさん実った木の実の一部を籠に詰め込んで、バタフリーのルースは「エルドラク=ブレイブ」の基地に向かっていた。
本来果樹園で採れた木の実はそのまま「サルベージタウン」の市場で売られるのだが、その中には小さな傷がついていたりサイズが小さかったりするいわゆるワケあり商品もある。売り物として出せず、かといって捨てるのはあまりにも量が多いしもったいないため、ルースはこれらを差し入れとして週に何回か「エルドラク=ブレイブ」基地に届けているのだ。息子が二度も世話になった御礼とルースなりの彼等への応援である。リュウもキトラも遠慮しつつも貴重な食料確保としてありがたくルースの厚意を受け取っていた。
そして今日も、いつものようにドアを開けてお邪魔しようとしたのだが、
「リュウさん、キトラさん、今日も木の実をお届けに……ってきゃあああ!」
突然大量に積まれた紙束が目の前に飛び込み、反射的にルースは飛び退いてしまった。その拍子に、背負った籠に入っていた木の実が何個かコロコロと転がり落ちる。
「エルドラク=ブレイブ」基地は現在隊員がいない代わりに、山のような大量の書物に埋め尽くされていた。先程ルースが正面衝突しそうになった書物の山なんか今にも崩れ落ちそうに不安定である。いつもとだいぶ(というか格段に)違う基地の光景を呆然と眺めていると、紙の山の奥から声が聞こえてきた。
「あれ?その声、もしかしてルースさんですか?」
リュウの声だ。ルースはその声で我に返ると、慌てて落ちた木の実を拾い集めながら答えた。
「はい、ルースです。えっと、リュウさん、これは一体……?」
「ごめんなさい、今ちょっと調べものしてるんです!ひょっとしていつもの差し入れですか?」
「え、えぇ。調べものにしてはまたすごい量の本ですねぇ……」
「自分も正直びっくらこいてます!あとうんざりしてます!」
心中お察しします、とルースは心の中で呟いた。なんだか本達と会話している気分である。
「そ、そうですか。では、木の実は玄関のところに置いといてもいいでしょうか?」
「申し訳ないですけど、そうしていただけると助かります!すみません、お茶も出せなくて」
「そんな、いいですよ。それでは、調べもの頑張ってくださいね」
「ありがとうございます!」
一連のシュールな会話と光景に未だ苦笑いを浮かべたまま、ルースは基地をあとにしたのだった。息子へのお土産話には……しない方がいいだろう。彼等のためにも。
「……なんだか悪いことしちゃったな」
「これ以上迷惑かけないためにも、早く目当ての本見つけなきゃね」
傍らに聳える書物でできたバリケードを隔てて、キトラの声が返ってくる。無論このバリケードは意図的につくったものではなく、読み終えた本を無造作に積んだ結果出来上がったものだった。互いの姿すら見えないほどこの基地は本に浸食されていたのである。
「ところでリュウ、今何の本読んでるの?」
「ん、今?えぇとなになに……『昔のことです。わたしは道に迷ってこの家にたどりつきました』……」
「……。ってそれ『怖い家』のお話でしょ!怪談の夏はもう終わったんだからやめてよぉ!」
うず高く積まれた本の向こうからお化け嫌いなキトラの半泣き声が聞こえてきた。ハイハイごめんねと返し、「怖い家」という題名の本をもとの場所に戻す。本と言ってもこの世界の「本」というものは人間世界のように分厚い紙や布で綴じたものではなく、文字が綴られた何枚もの紙に小さな穴を開け、そこにひもを通して綴じるというファイルに近い形となっている。おかげで読んでいるうちにページがずれたり、紙が古いと破けて台無しになったりと散々だった。
小さい上に未だに慣れないポケモン文字を、穴が開くほど見つめていたおかげで視界がチカチカする。リュウは気分転換と目を休めるために天井を仰ぎ大きく伸びをした。周りにはまだ読んでいない本が塔を作ってあざ笑うかのようにこちらを見下ろしている。明らかに読了した本で作ったものよりも高いと思うと、正直脱力する。
しかし、あえて気を持ち直し、リュウは新たに本を一冊手に取った。弱音を吐いていられない。これも、自分の過去を知る上で重要な作業になるのだから。
読書の秋とはいえ、なぜ現在リュウ達は貪るように本を読んでいるのか。その理由は先日――「キノコの森」の火災が起こったあの日に遡る。
「お主等に聞きたいことがある。ついて来い」
フォルテにそう言われて連れてこられた先は、さらにヒト気の少なくなった森のはずれだった。そう遠くないところにまだ少しだけ赤々と燃えている「キノコの森」を遠く望むこの場所にいたのは、今しがた到着したリュウ達を除くと「FLB」の残るメンバー――リザードンのレバントとバンギラスのバチスタだけだった。
「やーっときたか。待ちくたびれて危うく立ち寝しちまうところだったぜ。フォルテ」
「ほう、そんな芸当ができるなら是非見てみたかったものだな」
冗談を軽くいなされ、すこぶる苦い顔をするレバント。そんな彼を気にもせず、さて――とつなげて、フォルテは改めたようにリュウに目を向けた。表情自体は全くと言っていいほど感情を映していないにもかかわらず威圧感を感じるその眼光に、リュウは思わず身構えそうになる。
「以前、『サルベージタウン』で会った時にも薄々感じていたのだが……お主、もしやポケモンではないな?」
中途半端に燃え盛る森を背景に、この場の空気が一瞬にして凍りついた。フォルテ以外の全員が驚きを露わにする。「エルドラク=ブレイブ」の二人に至っては焦りの色も出始めてきていた。「ポケモンではない」――あまり確信をついた言葉ではないけれど、フォルテはほぼ間違いなくリュウが普通のポケモンではないことに気付いている。
リュウは返答の内容を必死で考えつつ、意見を求めるつもりでさりげなくキトラの様子を窺った。案の定、彼も心底困っているような表情を浮かべている。こうなってしまっては自己判断でなんとかするしかないだろう。意を決して一つ息を吐き、リュウは口を開いた。
「そうです。オレは、今でこそポケモンなんですけど……元は、人間だったんです」
キトラが目を丸くしてリュウの顔を仰ぐ。今にも「言っちゃっていいの?」とでも言いそうな顔だったが、リュウは無言でそれを禁じた。ただじっと向こうの反応を待つ。
「FLB」の表情は変わらない。といっても、レバントとバチスタは相変わらず驚いているし、フォルテも驚いているというよりは「やはりそうだったか」というような言葉が、口から出ずとも顔に現れていた。
「に、人間だと?」
「あり得るのか、そんなことが?人間といえばはるか昔に絶滅した種族だろう?」
「自分でも、よく分からないんです。気が付いたらポケモンになってて。しかも、人間の頃の記憶をすべて失くしているんです。覚えているのは名前と、『元は人間だった』ということくらいで……」
レバントとバチスタは驚きの表情のまま、互いの顔を見合わせる。その間で、フォルテは先程からずっと、腕を組んでリュウを見降ろすように眺めていた。まるで、さらにリュウに関することを見透かそうとしているように。その様子を見て、キトラが思い出したように前に出る。
「そう言えば、フーディンっていう種族は、世の中の出来事をすべて記憶できるほどの知能を持っているって聞きました。フォルテさんなら、リュウがなんでポケモンになったかが分かるんじゃないですか?」
リュウにとってはフォルテにそんな能力があるということがまず驚くべきことであったが、同時に少しだけ稀に見る好機に巡り会えたような気がした。ポケモンになった理由とまではいかなくとも、世の中の出来事をすべて記憶できるという能力を持っているのなら、ひょっとしたら自分より前に、人間からポケモンになったという事例があるのかもしれない。とにかく何らかの手がかりは欲しいところだった。
しばらく時間をおいた後、フォルテが首を横に振りながら答えた。
「いや、私でも分からぬ。今記憶している事柄の中にも、人間がポケモンになったという事例は存在しない」
時間をかけた割にはあっさりとした返答。半分予想はしていたが、リュウもキトラもがっくりと肩を落とした。ポケモンになった原因はおろか前例もないのでは、どこからとっかかりをつかめばいいものか。すると、
「しかし、手がかりが全くない……というわけではない」
続けるように出てきたフォルテの言葉が、リュウ達の俯いた顔を少しだけ持ち上げた。
「『精霊の丘』へ行け。そこにはネイティオと呼ばれるポケモンが住んでいる」
「ネイティオ?」
疑問符をつけて復唱するキトラ。首をかしげていることから察するに、彼自身も聞いたことのないポケモンなのだろう。
「私も直接見たことはないが、エスパータイプのポケモンと聞いている。一日中太陽を見つめ続けたその目で、過去や未来を見通す力を持っているらしい。お主は記憶を失っていると言ったな。その姿になった原因はともかく、お主の過去だけでも見通してもらえれば何か分かるのではないか?」
おぼろげながら進む道が分かったような気がして、リュウとキトラは互いの晴れた顔を見た。
失われた過去を辿り、あわよくばポケモンになった原因を知る。直接的ではないし効果が期待できるかどうかは微妙だが、手がかりが全くないよりずっといい。
ただ問題なのが、その「精霊の丘」がどこにあるかまではフォルテでさえも与り知らぬところなのだという。インターネットはおろかパソコンなんていう便利なものがないこの世界では、何を調べるにしても本しか頼るものがない。そこで明日、キトラができる限り本を集めてくるそうなので、基地で詳しく調べよう、ということになった。
そして、今に至るわけである……のだが、
「キトラ、今読んでるの何冊目?オレはだいたい四十冊目くらいなんだけど」
「やった、ボクの勝ち!ボクそろそろ五十冊目に入るよ!」
「……あぁそう、おめでとう」
はっきり言わせてもらおう。いくら何でも持って来過ぎである。
再び目を休めようと天に移した視界に映るのは、目眩がするほど方々に高く積まれた本の山(というよりは塔)。ほとんどはキトラの私物らしいが、彼曰くバイラなどの知り合いにも頼み込んで借りてきたものもあるのだとか。おかげでキトラの実家がある「元気の森」とこの基地を数えただけでも十往復する羽目になったというのはここだけの話である。
しかし、程度はともかく、キトラがリュウの謎の解明に一層積極的になっているのは紛れもない事実でもある。「親友だから、リュウのためにできることをしたい」と本人は言っていたのだが、やはりその裏には、サジェッタの存在があるのかもしれない。彼の分まで頑張りたいという思いが、キトラを突き動かしているのだろう。申し訳ないという気持ちもあるのだが、リュウは決してそれをおくびにも出さず、ありがたくその頑張りを受け取ることにした。負い目を感じていたらそれこそ失礼だ。キトラにも、サジェッタにも。
「リュウ!あった、あったよ!」
本の山々の間から、一冊の本を持ってキトラが飛び出してきた。
念のためもう一度述べておくが、この救助基地は現在大量の本で埋め尽くされている。そんな状態で今のキトラのように元気よく飛ぼうものなら、少なくともどこかしらの本の塔にぶつかるはずである。事実、彼が飛んだ拍子に尻尾が見事に本の塔にクリティカルヒットし、
「どわああぁぁ!」
崩れて吹っ飛ばされた本が狙ったかのようにリュウのもとに降り注いだ。
「わわっ!ご、ごめん!リュウ、大丈夫?」
……先程の負い目云々を撤回したい気分である。
キトラが見つけた書物によると、「精霊の丘」というのはここから南方へずっと行った「大いなる峡谷」という場所の頂上にあたるらしい。幾重にも連なる山々の彼方へ沈む夕日が美しく映えるこの場所で、ネイティオは絶えず日を見続けているのだという。
ただ問題となるのがそこに至るまでの距離。地図を広げて見てみると、リュウ達が探訪した場所の中では最も遠かった「ライメイの山」でさえ生ぬるいと思えるほどの位置に「大いなる峡谷」が記されていた。ここから「ライメイの山」まではサジェッタの翼で五日かかったから、おおざっぱに計算して「大いなる峡谷」までは七〜八日。しかも空を飛ぶ手段すらない今となっては確実に徒歩で行くことになるため、その二倍くらいはかかるだろう。
一応遠方へ向かう際、「ポケモン救助隊連盟」に要請すれば人数分のペリッパーを用意してもらえる。しかしそれはあくまで救助へ行くということが前提の話。今回はもちろん「エルドラク=ブレイブ」の私事なので申請することはできない。どう足掻こうが徒歩旅行は免れないようだ。無念。
「どうしようか?」
「まだ日は暮れてないし、準備が出来たらすぐ出発しよう。早く行くに越したことはないだろ?」
「了解!それじゃあ……」
リュウの提案に了承すると、キトラは苦笑を浮かべて周りを見回した。
「とりあえずバイラ達から借りた本だけ返そう」
「また本持って行ったり来たりかよ……」
リュウに至っては笑いの要素もないげんなりした顔で溜息を吐いた。重い本を持って走るのだからいい運動にはなるだろうと楽観的に考える気すら起きない。
一通り本を返し終え、「ポケモン救助隊連盟」宛に二十日間の休暇要請の手紙を送った後、リュウ達はついに「大いなる峡谷」へ向けて旅立った。
これまでの救助のような冒険とはわけが違う、自らの過去を知るための第一歩。長旅のために道具を詰めに詰め込んだバッグは、目的の大きさを表しているかのごとく重かった。
旅立つリュウ達を見送るかのように、手の代わりに頭を振る木々達。木の葉と木の葉がこすれ合って奏でるさわさわとした静かな音が何処となく寂しげなのは、彼等を優しく撫でる秋風の冷たさ故だろうか。
同じ頃、「アナザー」南の果て。
乱立する山々の間にすっぽり収まるかのように、赤く染まった太陽がゆっくりと沈んでいく。黄昏時、火点し頃など、古来よりヒトはこの日が沈む姿に様々な名を充ててきた。
しかし、数多の名をつけられてもこの日が示す意味は変わらない。一日が終わり、生きとし生ける者達が眠りにつく時。今日も無事一日が終わろうとしている。こんな平和な夕日を、あと何年、否何十日こうして眺めることができるだろう。自然災害が活発化してきているこの時代、夕日を見る度そう思わずにはいられない。
「ベアトリス、来ていたのか」
徐々に光が弱まっていく太陽を未だその目に焼きつけながら、そのポケモンはゆっくりと言葉を発した。やがてその声に答えるかのように、ポケモンの背後、何もない虚空から突然ゆらりと白い影が浮かび上がる。
「来ていたのか、とは面白い挨拶だな。私がここに来ることは予知していたのだろう?フェルガナ」
ベアトリスと呼ばれたポケモンは「面白い」と言いつつも、あまり感情のこもっていない声で応答した。夕焼け空とは対を成す青白く光る瞳に、日を眺めるそのポケモン――フェルガナの微動だにしない後姿が映る。
「……二百年前、から」
「流石だな。では、あの『緋龍の子』がこの世界へ来ることは?」
「三年前、から」
「ほう?随分と最近だな。お前のことだ、私の来訪よりもずっと前から知っていたと思っていたが」
「……あの子は、この世界の、ヒトの子では、ない。私の認知では、及ばない、遠い遠い世界の、子」
「確かに此度の来訪は急だったな。……
人形が余計なことをしてくれたものだ」
こうして背を向けていても、背後の存在から発せられる憎悪は嫌というほど感じ取れる。ヒトの感情に過敏な方ではないが、こんな負の感情を肌で感じるのはあまり気分のいいものではない。フェルガナはなお夕日を目に焼きつけたまま、話題を変えるための言葉を選ぶ。
「ベアトリス。貴女が、来ることは、予知できても、貴女が、ここに来た、目的は、知らない。貴女は、ここへ、何をしに来た?」
「……近々、ここに『緋龍の子』が訪れる」
「知っている。己が過去を、知りたいがために」
「その際、あの出来事のことを話してほしいのだ。千年前の、運命の日のことを」
フェルガナは目を見開き、鞭のように背後へと振り返った。背後に佇むベアトリスからはもう憎悪の感情は感じ取れない。それどころか、一切の感情を窺うこともできなかった。今しがたの依頼にどんな意図が込められているのかも。
「なんだ、やはりできないか?」
「……あの子の、未来が、翳る」
「それはどうだろうな。行く先の光を留めるか、再び影が差すか、全ては彼次第だ。どのみちフェルガナ、お前に拒否権はない。分かっているだろう?」
言葉の最後は文字通りの脅迫だ。無駄だと知りつつも返そうと思った時にはもう、ベアトリスの姿は跡形もなくかき消えていた。
目を伏せ、また夕日に向き直る。沈みきった日はもうすでに光を失っていた。目に映る大地が瞬く間に闇に閉ざされる。
「おやすみ、ヒトの子らよ。どうか、今日も、安らかに……」
もう、あの子の未来に安らぎが来ることはないのかもしれない――そう思うことを避けるように、今宵も彼女は世界を寝かしつける。