ポケモン救助隊 エルドラク=ブレイブ ―緋龍の勇者―







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第三章 前途の光か、後背の影か
第十五話 笑顔の先に
 結局、さらに七つの月日が過ぎていった。
 身体の傷は癒え、二週間ぶりに自宅で生活することが許された。病院という殺風景で閉鎖的な空間から解放され、やっと自分達の居場所に戻ることができた。これでまたもとの生活に戻れる―――はずだった。しかし、キトラは救助基地を訪れることはなく、リュウも外に出ることはなくなってしまった。ポスト一杯にたまった救助依頼の手紙がそれを物語っている。
 その手紙たちの中には、「ポケモン救助隊連盟」からの警告書も何通か紛れていた。封を開けていないのでリュウ達は知る由もないのだが、内容は端的に言えば「救助隊報告書が二週間前を最後に提出されていない。これ以上この状態が続くのであれば救助隊の職務を放棄したとみなし登録を抹消する」というものだった。
 もともと救助隊は原則、現在の隊員の状態やその日にどんな依頼をこなしたかなどを簡単に記した救助隊報告書というものをリーダーが提出しなければならないという決まりがある。しかし、「エルドラク=ブレイブ」のリーダーは事実上空席であり、残った隊員も実際救助活動を行っていない。本人達の知らないうちに、いつの間にか「エルドラク=ブレイブ」は解散の危機に追い込まれていた。
 仮に知っていたとしても、今のリュウ達には何とかしなければと思い立つ気力さえなかったことだろう。リーダーを失って、残された隊員はすれ違いを起こしてばかり。こんな状態でいつも通りに救助なんてできようか。しかし連盟はそんなこと知ったこっちゃないと言わんばかりに、今日も七度目の警告書が基地のポストに投函される。
 もはや連盟だけではない。「エルドラク=ブレイブ」がこんな状態でも、リュウたちの周り、そして世界はいつも通りの日々を過ごしていた。相変わらず自然災害は随所で頻発しているし、それでも「サルベージタウン」のヒトびとは災害の恐怖に負けじと彩り豊かな賑わいを見せている。一つの色に別の色を一滴足したところで元の色が変わることはないように、身内でどんな変化があろうと、そしてそれがどんなに良かろうが悪かろうが、世界はこれっぽっちも変わることはないのだ。
 そう、だからこそ、自分達のことは自分達の手で変えなければならないのに。


 そんなことは分かっていても、きっかけを作ることもできないまま、キトラは今日も自宅でぼんやりと一日を過ごしていた。ところどころ土がむき出しになっている地面からあふれ出てくる、“ほたるび”のような光の玉を眺めながら。
 キトラの住むこの森は、「元気の森」と呼ばれている。サルベージタウンの東に位置しており、温暖で良好な気候もさることながら、住むヒトや訪れるヒトを名前通り元気にする作用があるエネルギーが森一帯に満ち溢れている。そのおかげかこの森を住処にするポケモン達は個性豊か、性格も明るく活発な者が多い。
 このエネルギーの効力もあってか、ここに戻ると、張りつめていた心の糸が少しだけ緩むような気がした。病院にいた時はリュウをこれ以上刺激させないように、見舞いに来てくれるヒト達を心配させないように常に神経を尖らせていた。サジェッタのことで一番堪えているのがキトラであると皆が分かっている以上、自分が泣いたら事態は余計悪い方向に向かってしまう。そう考えると、受け入れ難かった幼馴染との別れも、実感としてようやく心に迎え入れることができた、そんな気になっていた。
 いつまでもくよくよしてはいけない。しっかりしなきゃ。行動に出ずとも、キトラはずっとそう思い続けていた。街に出たら、会うヒトみんなを心配させないように、いつも以上の笑顔を見せよう。そうしてみんなを安心させたら、リュウとちゃんと話をしよう。そうすれば、サジェッタはもういないけれど、きっといつも通りの生活に戻れる。

 ―――いつも明るく、笑顔でね。そうすれば、みんなが元気になるのよ。

 自己暗示に耽る脳裏に、ふと懐かしい声と言葉がよぎった。もう何年も聞いていないけれど、けっして忘れることのなかった声。

「母さん……」

 ほぼ無意識的に、声の主の名を呟く。二度と聞けるはずのない声に優しく撫でられながら、キトラはゆっくりと目を閉じた。









 最後にあの言葉を聞いたのは、いつだっただろう?

「いつもごめんね、サジェッタ君」
「……このくらい、もう慣れっこですよ」

 あの言葉と同じ優しい声に、サジェッタはぶっきらぼうに返答した。優しい声の主であるライチュウがそんな彼の様子にただ苦笑いを浮かべる。
 そして、当のキトラはというと。

「ほらキトラ、もう十分泣いたでしょ?」
「えぐっ……うぅ、でもぉ……」

 母であるライチュウに頭を優しく撫でられ、キトラが涙でぐしゃぐしゃに崩れた顔を上げる。この頃はまだピチューだったから、この記憶はおおよそ八年前のものだ。
 その頃のキトラは内気な性格が災いしたのか、同じ「元気の森」に住むポケモン達に毎日からかわれていた。宝物を隠されたり、一人で危険なダンジョンに放り込まれそうになったり。そうした所業にキトラが耐えかねて泣き出しては、幼馴染であるサジェッタが文字通り飛んできてポケモン達を撃退する。そんな毎日を送っていた。
 当時サジェッタはキトラとほぼ同い年ながらすでにピジョンに進化しており、救助隊であった両親に鍛えられていたおかげで年に見合わない実力も兼ね備えていた。だからキトラにとっては、幼馴染というよりは兄のように慕っていた。キトラをからかっていたポケモン達に(本人は手加減したつもりなのだろうが)それはもう片っ端から生き埋めにせんとばかりに踵落としを浴びせて成敗すると、大きな背中にキトラを乗せて家まで送り届けてくれた。家では母さんが待っていてくれて、キトラはその姿を見つけるなりその胸に飛び込み、本当はポケモン達にぶつけるはずだった思いを涙と共に吐き出していた。もちろん、この日も。

「しっかりしなさい、キトラ。貴方がそんなんじゃ、母さんもサジェッタ君も悲しくなっちゃうわよ?」
「ぐずっ……母さんや、サジェッタも?」
「そうよ。涙はね、自分だけじゃなく、周りのヒトも悲しませちゃうの。キトラは大丈夫かな、どうしたら泣き止んでくれるかなってね。ほら、サジェッタ君も悲しそうでしょ?」
「小母さん、俺を引き合いに出すのは……」
「サジェッタ君」
「……はい」

 悲しいというよりかは心底げんなりした表情を見せるサジェッタ。幼かったキトラには、このやり取りの意味があまりよくわからなかった。

「じゃあ、ボクはどうすればいいの?」
「簡単よ。笑顔になればいいの」
「笑顔?」

 きょとんと聞き返すキトラに、母さんはお手本のようなとびっきりの笑顔を見せた。

「ほら、母さんが笑うと、キトラもほっとするでしょう?涙と同じで、笑顔は自分だけじゃなく、周りのヒトも安心させたり、元気にしてくれたりするのよ」
「ほっとする……サジェッタも?」
「え?」

 話を振られるとは思っていなかったのか、サジェッタは目に見えるほど狼狽えていた。しばらく反応に困っていたようだが、母さんのものすごく意味ありげな笑顔で色々と察したのか、翼を頭に当ててやれやれと首を振った。

「まぁ、お前の泣き顔を見るよりかは、悪くない」
「ほんと?じゃあ、笑う!」

 まだ涙の名残が残る顔を無理やり引っ張って、笑顔を見せる。母さんも笑ってくれたし、サジェッタも顔を綻ばせていた。本当だ。ボクが笑顔になるとみんなも笑顔になる。それを学んだ最初の瞬間だった。きゃっきゃと喜ぶキトラの頭を、母さんは慈しむようにいつまでもやさしく撫で続けていた。

「キトラ。いつも明るく、笑顔でね。そうすれば、みんなが元気になるのよ」

 覚えている限りでは、これがキトラの聞いた母の最後の言葉だった。


 その日の夜に、すべてが変わってしまった。
 あの後サジェッタと別れて、その後がどうしても思い出せない。いつものように父さんと母さんとキトラ、三人で夕食をとったはずだ。初めて笑顔ができたよと、はしゃぎながら笑顔を振りまいたことも覚えている。それからの記憶が、何かごちゃごちゃとしていて掴むことができないでいた。
 鮮明に刻まれていたのは、その先に待っていた光景だ。
 生まれてからずっと見てきた深緑の森が、真っ赤に染まっている。木々を包み込むように、赤い炎がゆらゆらと這いずり回っている。そして何より、熱い。幼いキトラの感覚では、これくらいしか捉えることができなかった。この現象が「火事」という名前であることは、この後サジェッタによって初めて教えられた。
 数年経って読んだ記事で知ったのだが、この火事は「東の森の大火」として記録に残されていた。キトラの実家がある「元気の森」を中心に火の手が上がり、その日は瞬く間に隣接する「蜻蛉の森」や「樹海の森」、そしてサジェッタが住む「飛翔の森」にまで広がっていき、多くの死者、負傷者を出した。火災の原因は人為的なものとも、自然災害だとも言われており、八年経った今でも解明されていない。
 とにかく、キトラは炎に飲み込まれた森の中で、逃げることもなくただ立ちすくんでいた。目の前には自分の家「だった」場所。すでにそこもだいぶ炎に浸食されており、たくさんの家具が崩れて面影はほとんど残っていなかった。

「キトラ、何をしている!早く逃げるんだ!」

 火の海の中から、父さんの怒鳴り声が聞こえる。今まで怒られたことはないわけではなかったけど、こんなに大きな声で怒鳴られたことは初めてだった。
 父さんは必死に崩れた家具をどかしていた。逃げ遅れた母さんがその向こうに閉じ込められていたからだった。自分も手伝うとあれほど言ったのに、父さんはただ「逃げろ」と怒鳴るばかり。どうしてそんなに怒った顔で叫んでいるの?父さん。ボク、何か悪いことをしたの?

「キトラ!」

 聞き慣れた幼馴染の声が耳に入り、キトラは鞭のように背後の空を仰いだ。
 心なしか、夜であるはずの空までもが燃えているように赤かった。パチパチとはじけて舞い上がる火花が星々のように見えた。その夜空の彼方から、サジェッタが風を切って飛び込むようにこちらに舞い降りてくる。

「サジェッタ!父さんと母さんを助けて!ねぇ、助けてよ!」

 翼をたたんで着地したサジェッタに飛びつくと、キトラはただひたすら助けを乞うていた。サジェッタならいつものように助けてくれると、この時は信じて疑わなかった。小さな手でサジェッタの腹を力いっぱい叩きながら、自分でも知らないうちに目から涙を流していた。
 サジェッタはそんなキトラをなだめるように翼で抱き寄せると、顔を上げてキトラの家を見た。父さんもサジェッタに気付いたのか、家具をどける手を止めて振り返る。

「サジェッタ君、ご両親は……?」

 父さんの問いに対する返事の代わりに、サジェッタは無言のままゆっくりと首を横に振った。

「……そうか。君も辛いだろうにさらに負担をかけて申し訳ないが……どうか、キトラを……」
「分かりました」

 身体のあちこちが焦げて、いかにも辛いという表情で、絞り出すような声を出した父さん。サジェッタはそれに対して顔色一つ変えないまま、一言だけ答えていた。

「二人とも、なんでそんな難しい話をしているの?そんなことよりサジェッタ、早く助けてよ、父さんを、母さ……」

 次の瞬間には、キトラの小さな身体は宙に浮いていた。背中に鋭いものが刺さったような痛みも感じた。サジェッタは二人を助けるどころか、キトラをその足につかみ、再び夜天に舞い上がったのだ。
 何もかもが遠のいていく。深紅に塗り尽くされた森が、住み慣れた家が、父さんが、母さんが―――


「なんで、なんで助けてくれなかったの……?」

 一夜明けた東の森の入り口で、夜の森よりずっと黒く染まった森を傍観しながら、キトラはただひたすら同じ質問を投げかけていた。投げかけられた相手も、キトラと並んで黒く静まった森を眺めている。
 救助隊の水ポケモン達による懸命な消火活動によって、火災は一晩で治まった。しかし、東の森のおよそ九割が全焼。就寝時間であったこともあって逃げ遅れたポケモン達も多数いたそうだ。森の入り口から次々と、担架に乗せられたヒトびとが運び出されていく。遠目からでは、そのヒト達にまだ息があるかどうか判別しづらかった。
 キトラの両親がとうとうあの場から逃げ出すことができなかったという事実をある救助隊員から聞いても、正直信じることができなかった。けれど、あの入り口の光景を見る度―――その担架の列の中に両親がいるかどうかは定かではないが―――少しずつ実感として心に定着してきた。
 父さんにも、母さんにも、もう二度と会えないんだ。

「……すまない。あの時は、お前を助けることしかできなかった。俺にもっと力があれば、小父さんも、小母さんも……救えたかもしれないのに」
「なんで?サジェッタは強いじゃない。ずっとボクを助けてくれてたじゃない。サジェッタの力があれば、父さんや母さんだって、きっと……」

 言葉を続けようとしたが、こみ上げてきた涙と嗚咽に声が負けてしまった。キトラは糸が切れたようにサジェッタに飛びつき、あの夜のように手にあらん限りの力を込めて彼の腹を何度も叩きながら、小さな身体で出せる限りの大声で泣き続けた。
 この時サジェッタは何も言わなかったが、彼の両親もあの火事で命を落としていた。一救助隊としてできうる限りの住人を避難させた後、突如起こった燃え盛る木々の崩落に巻き込まれたらしい。本当は自身も家族を失って辛いはずなのに、彼はキトラに何も言わず、幼馴染の悲しみや怒りを一身に受けていた。そしてキトラもそれを悟ることのないまま、誰も悪くないはずなのにやり場のない怒りと悲しみを幼馴染にぶつけていた。今思えば、かなり自分勝手な行動だったかもしれない。

「キトラ、確かにお前の目に映る俺は強い存在だったのかもしれない。でも実際の俺は、救助隊の息子のくせにヒトっ子一人救えないくらい弱いんだ。だから、二度とこんな過ちを犯さないよう……強くなろうと思ってる」
「強……く?」
「あぁ。キトラだけじゃない、この目に届く限りのヒトびとを救えるように。キトラ、お前はどうしたい?」

 ボクは、どうしたい……?
 サジェッタを叩く手を止めて、その手で涙をごしごしこすって、目を閉じて考えてみる。あの時、ボクは何をしていた?母さんを助ける父さんの手助けもせず、ただ立ち止まって眺めていただけだった。自分では何もしようとせず、いつも誰かの力にすがって、うまくいかなければ誰かのせいにして。
 ボクの方が、サジェッタよりも何倍も何十倍も弱いじゃないか。だから、一番変わらなければいけないのは、変えるべきなのは、ボク自身のはずだ。だったら―――

「ボクも……」
「?」
「ボクも、強くなりたい。これ以上悲しい思いをするヒトを増やさないように、一人でも多くのヒトが笑顔で暮らせるように、強くなりたい!だから、だから……!」
「……そうか」

 サジェッタは目元だけで微笑すると、片翼をキトラの頭にぽん、と置いた。朝日に照らされた涙がきらきら光るキトラの瞳。しかし、その中にもう一つ、小さいけれど強い光が瞬き始めたことを、サジェッタも分かっていたようだしキトラ自身も感じていた。

「それならキトラ、まずはお前が笑顔になることだ。小母さんも言ってただろう?笑顔は自分だけではなく、他のヒトも幸せにする力を持っている。誰かを笑顔にしたいなら、まず自分から。そうだろう?」

 言われなくても、キトラはすでに準備ができていた。火災の直後は悲しみや怒りといった負の感情が心を満たしていて、とても笑う余裕なんてなかった。
 だが、傍に心強い友人がいて、これから自分はどう生きていくかを決めた今なら、もう大丈夫。

「うん!」

 この時の笑顔は、母さんのお手本に負けないくらいの輝きを放っていた。


 それからの八年間は、けっして生易しい道ではなかったが、それでも二人で支え合いながら歩むことができた。東の森が元通りになるまで住む場所を転々としながら、時にはヒト助け、時には戦いを重ねながら生きてきた。
 サジェッタの件で少し触れたが、この世界に住む者―――ポケモンの場合、生きていく過程で身につけた経験や実力は、その身体に「進化」という身体的な変化をもたらす。キトラも厳しい暮らしを経てピチューからピカチュウへ進化し、外見こそまだまだ小さいものの戦闘能力はピチューの頃のそれより飛躍的に上昇した。サジェッタもさらに上の段階へ進化できるほどの実力はついているはずなのだが、どういうわけかいくらレベルを上げても変化がみられることはなかった。
 彼に限った話ではない。今から三年ほど前になるだろうか、「アナザー」のいたる所でどんなにレベル上げや道具などの条件を揃えても進化ができないという現象が頻発していた。度重なる自然災害によって世界のバランスが崩れているからだと唱える学者もいるが、原因は未だ解明されていないという。

「まぁ、進化しなくたって今のところ不自由はないからいいけどな。それにこれ以上でかくなったら、キトラと話すのにも苦労しそうだ」
「ちょっと、なにそれー!」

 ある時、こんな他愛もない会話をしたこともあった。
 確かにピカチュウに進化して身長は十センチほど伸びたが、未だにサジェッタと面と向かって会話すると首が痛くなる。背の高さだけでなく、八年間共に暮らしてきたはずなのに、戦闘能力や生きていく知恵などのあらゆる面で彼にはまだ及んでないような気がしてならなかった。
 そのことを話すと、サジェッタは思いの外真面目そうな面持ちで語った。

「何を言ってるんだ。俺よりお前が優れているところなんて探せば沢山出てくるぞ。例えば、笑顔とかな」
「笑顔?」
「気付いてないだろうが、お前はこれまでその笑顔で何十、何百人ものヒトびとを励ましてきたんだ。災害で不安が募っても、お前の笑顔を見る度に皆が笑顔になっていく。俺ではとても真似できない、お前にしかできないこと、お前自身の強みだ」

 ボクの笑顔が、ボクの強み。
 だとしたら、それは母さんやキミのおかげだよと、キトラは心の中で呟いた。母さんが笑顔を教えてくれて、サジェッタがその役割、価値を教えてくれた。姿が変わってもこの笑顔だけが変わらなかったのは、もしかしたらそのおかげなのかもしれない。

 できればそれを、言葉にしてちゃんと伝えたかった。

 だけど、それはもう永遠に果たすことができないものとなってしまった。母さんにも、サジェッタにも、もう二度と会うことはできないのだから――









「……ひ、ぃっく。う、ん……?」

 しゃくりあげた声が、重たい瞼を持ち上げる。心なしか、身体全体が微妙に重い気がするのだが、気のせいだろうか?

「あ、あら、起こしちゃいました?」
「え?な、うわひゃああ!」

 赤く大きな目ともろに合ってしまい、自分でも本当に情けないと思える悲鳴を出しながらキトラは飛び起きた。反射的に後ずさりしようとした足を、分厚い布がひっつかむ。突然起こった出来事によって混乱した頭でとりあえず認識できたのは、足を滑らせて背中から派手にすっ転んだということだけだった。

「キトラさん!大丈夫ですか?」
「あれ……る、ルースさん!どうしてここに?」

 二人して同時に疑問をぶつけ、非常に気まずい雰囲気になったことはひとまず置いておこう。
 目を覚ましたキトラの目の前にいたのは、トーチの母であるバタフリーのルースであった。街で売り歩いていたのか、果樹園で採れた木の実を入れるための大きな籠を首からかけている。そしてその手には、何故か分厚い毛布が握られていた。見たことのある柄だと思ったら、自分が毎日使っている毛布だった。

「『蜻蛉の森』へ行く途中だったのですが、キトラさんが寝ているのを見かけまして。風邪をひくといけないから、せめて毛布でもかけて差し上げようかと……その、ご迷惑でしたか?」
「い、いえ!そんな、ありがとうございます……」

 そうか、物思いに耽っているうちに寝てしまっていたのか。キトラは先程踏みつけた毛布をじっと見た。寝起きで感じた微妙に重い感じは、この毛布のものだったのだろう。

「それならよかった。キトラさん、泣いていましたから。私ちょっと心配で」

 ルースに言われ、キトラは頬に手を触れた。確かに、目元から頬にかけて濡れていた。確かに夢の中でも何度も泣いていたけれど、むしろそれよりも寝ている間に見ていた夢そのものが、あまりにも輝かしくて、切なくて、懐かしくて……現実でも思いが溢れて、涙となって出てきてしまっていたのだろう。
 だが原因が何であれ、ヒト前で涙を見せるわけにはいかない。キトラは慌てて顔をごしごしとぬぐった。

「ご、ごめんなさい!これはその、たいしたことじゃなくて」
「謝らなくていいんですよ、キトラさん。きっと、素敵な夢を見たのでしょう?」
「素敵な……夢?」
「えぇ。確かに泣いていましたが、すごく素敵な笑顔を浮かべてたから」

 どうも、自分は見た夢が顔に出るタイプらしい。なんだかバツが悪くて、またぞろ新しく出てきた涙を拭おうとすると、徐にルースが小さな手を伸ばして、キトラの腕をつかむことでそれを止めた。

「それとキトラさん、できれば、その涙は拭わないでほしいんです。悲しみだけでなく、いろいろな思いがつまった涙は、心もきれいにしてくれるんですから。我慢しないで、どうぞ泣いて……」
「そ、それは……できません!」

 不意に大声が出てしまった。ルースを驚かせてしまったことも分かっているが、どうしても止めることが出来なくて、次から次へと言葉が出てきてしまう。

「だって、ボクが泣いたら……リュウがまた自分を責めるし、みんなも不安にさせてしまうから!泣いたらみんなまで悲しくなるから、笑顔でいなさいって母さんも言ってた!みんなを安心させるためにも、リュウとまた救助隊をやるためにも、ボクは笑顔でいなきゃいけないんです!ボクが笑顔で振る舞ってさえいれば、きっと……」
「キトラさん」

 自分の腕をつかむルースの手の力が強くなり、キトラの言葉の放流が止まった。

「やはり、無理をしていたんですね。本当は辛いはずなのに、私達のために……」
「……だ、って、ボク……」
「キトラさんの言う通り、私達は今までずっと、あなたの笑顔に励まされてきました。この『サルベージタウン』も、いつ災害の被害に遭うか分からない。そんな不安があっても、キトラさんの笑顔があったから、今日もこの街で頑張って生きていこうって、みんながそう思えるようになったんですよ。だからこそ、今度は私達の笑顔で貴方を元気づけたい。私だけでなく、街のみんながそう思っているんです」
「………」

 ルースがようやく手を離してくれたが、もうキトラに涙を拭う意思は残っていなかった。ただだらりと両手を下げて、口をへの字に曲げて、大粒の涙だけをぼろぼろと落としていた。

「キトラさん。『小さな森』での出来事、覚えていますか?」
「え?」
「トーチが地割れに巻き込まれたあの時、一人で救助に向かうあなたを見て、まだパニックが収まらない中でしたが、強い子なんだなって思ったんです。あんなに小さくても、一人の救助隊として頑張っているんだなって。そのことを、付き添いで残ってくださったサジェッタさんに話したら、こんな言葉が返ってきたんですよ」

 ―――確かにアイツは強いさ。実力もそこそこ具えているし、その笑顔で周りを元気づける力もある。だが、明るく振る舞う奴ほど、辛いことを隠すのに無意識に躍起になって、心が脆くなってしまう。独りでも生きていけるほど身も心も強そうな奴ほど……傍に誰かがいてやらなきゃいけないんだ。いつか本当に心が壊れそうになった時、それを治してくれる奴がな。

 言葉を発しているのはルースであるはずなのに、キトラの耳にはその言葉の一つ一つが、サジェッタの声で再生されていた。あの日―――「東の森の大火」から一夜明けたあの時、面と向かって強くなると宣言したあの時と同じように。まるで本当に傍らにサジェッタがいて、キトラに言い聞かせてくれているかのようだった。

「それと、私はキトラさんのお母様を存じ上げないので、同じ母親目線からとなってしまいますが……お母様はきっと、あなたが笑顔になることを強制したわけではないと思いますよ。強いられなくてもあなたは素敵な笑顔を持っている。それをただ大切にしてほしい……そう願ったのではないでしょうか」


 ―――いつも明るく、笑顔でね。そうすれば、みんなが元気になるのよ。


 眠りにつく前と同じように、母さんの言葉が頭の中で反復する。だが、その声の色は、今はまるで違っているようだった。この八年のどこかで、この言葉の意味をはき違えていたのかもしれない。あるいは、自分の笑顔に秘められた力を過信していたのかもしれない。
 他の誰でもない、キトラ自身に知ってほしかったのだ。泣いてばかりの毎日では決して知ることのできなかった、笑顔の大切さを。

「私では……私達では、キトラさんを励ますには力不足かもしれません。それでも、あなたが本当の笑顔を取り戻すお手伝いをしたいんです。決してまた励ましてもらいたいわけではありません。キトラさんには、さっきのような素敵な笑顔でいてほしいんです。なによりも、あなた自身のために」

 ですから―――と言いかけたようだが、ルースはそこで言葉を切った。もう言葉にしなくても、分かっているはずだ。そう悟ったのだろう。

「ボ、ボク、ボクは……う、……っく。うぅ……うわああああああ!」

 涙ごと封じていた心の錠が、ようやくはずれた気がした。
 キトラはペタリと地面に座り込み、腹の底から叫ぶように大声で泣き出した。今までも何度か、堪えきれずに声を上げて泣いたこともあったけれど、この涙の流し方はこれまでのそれとは全く違う。長い間ずっと大きな入れ物に溜めていた感情という名の水を思い切り勢いをつけて撒いていた。だから、身体が、心が、どんどん軽くなっていくのを感じていた。

 悲しみだけではない、いろいろな思いが詰まった涙は、心をきれいにしてくれる。
 まさにその言葉を体現するかのように、キトラの涙は、清らかでいて強靭な力をその身に秘めた本流となって、心の内に燻っていた黒い灯を跡形もなくかき消していった。

 それを察知したのか、もう一つの黒い灯はその炎をより一層大きく燃え上がらせた。未だに友のために己が心をすり減らしている者の中で、少しずつ、少しずつ―――



橘 紀 ( 2014/10/22(水) 22:10 )