第十四話 孤独な二人
暗澹とした世界。どこまで広がっているのかも、どこまで深く続いているのかも分からない。目や耳や鼻、ヒトが持つ五つの感で物体を認識することを、無限に懐を広げる闇が許してくれない。まさに虚無の世界。
他を認めることを禁じられたヒトがこの虚ろな空間に放り込まれた時、自らの心にどんな感情を抱くだろう?今は何も感じないけれど、どこからか得体のしれないものが出てくるかもしれないという不安か。或いは、不純物を一切含有しない静かな空間が作り出す、一種の奇妙な安らぎか。
少なくとも、この空間の中をひた走る彼は、状況が少し異なっていた所為でもあるか、どちらの感情も抱いていないようだった。
「は、はぁっ……、……っ!」
いつから自分はこの世界にいるのか、そして自分はどこに向かっているのか。満足に理解できていないまま、リュウはただひたすら走り続けていた。
急いて前に出した右足が自分の左足をかすめ、危うく転びそうになる。前につんのめる体勢を元に戻そうと、片足一本にあらん限りの力を込めた。なんとか転倒は免れたものの、おかげで痺れが混じった重い痛みが足を蝕む。しかし、そんなことには微塵も意に介しない。いちいち神経を配る余裕さえ、今の自分にはないのだから。唯一神経を野放しにしている耳に入るのは、乱れかすれた自分の呼気。そして、
青黒い炎を身に纏った、六つ足の化け物の足音だった。
この暗い空間の中で、青を少し混ぜたその炎は異様にはっきりと見えた。リュウを睨む目も、とって食らう口もない、のっぺりとした顔。頭と胴体の区別もない。べきべきと折れ曲がった太く長い腕を動かすというより引きずらせながら、一切速度を緩めることなくこちらに迫ってきている。
闇の中に迷い込んだ瞬間、突然眼前に現れたその化け物に対し、誰だと問うこともなければ立ち向かう気など全く起きなかった。目も鼻もないのっぺらな顔を見て脳が第一に発した指令は、「このままでは消される、逃げろ」。それだけだった。
自分の脳に命令されるがまま逃げている間、リュウは必死に叫んでいた。何度も助けを求めた。誰にでもない。この恐怖を誰かに伝えて、あわよくば救ってほしい。この闇の中では決して叶わぬ願いを、ただただ叫び続けていた。
―――オレ達も、行きます。
逃げるという言葉だけに埋め尽くされていたはずの頭の中に、声が響いた。その拍子に、切羽詰まって縮こまった心に少しゆとりができ、何かを考える余裕が生まれる。
―――オレ達も救助に行きます、ガニメデを助けに。
あぁ、これは紛れもない自分の声だ。ガニメデが攫われたあの日、フォルテ達の前で、自らの意思で発した言葉だ。ただ自分が救助隊であることを胸に抱いて、実際はそれを成せるほどの力など少しも兼ね備えていないことすら知らないまま。
「ひっ……!」
自分の言葉に心を奪われている間に追い抜かれたのか、乃至は予めそこで待ち受けていたのか、気が付くと六つ足の化け物はリュウの前に立ちはだかっていた。自分が恐怖していることをそのまま表したかのような言葉なき声を出したが最後、これまで必死に動かしていた足が石化したように動かなくなってしまった。化け物が、あるはずのない眼でリュウを睨む。あるはずのない口でリュウを飲み込もうと、六つの足の一本を高々と挙げて、振り下ろす。
―――「マスター」、危ない!
ここに来て初めて、自分のものではない声が耳に入る。次の瞬間には、リュウの身体は化け物とは別の何かによって横に大きく吹っ飛ばされていた。突き飛ばされた衝撃もさることながら割と強く地面に叩きつけられたはずなのに、不思議と痛みは感じない。それほど、今しがた耳に入ったぐしゃりという音の方が強く印象に残ったのだろう。
「あ、あぁ……サジェッタ……!」
重力に従ってひらひら舞い落ちる羽根達の隙間から、見知った者の変わり果てた姿が垣間見える。一本だけ長くはねた赤い鬣に、大きく広げた茶と薄黄色の翼。自分を突き飛ばしたのは、他ならぬサジェッタだった。化け物の攻撃から守ってくれたのだ。リーダーとして、仲間として。しかしそれは同時に、目を背けることのできない事実をもリュウに突きつけることとなった。
自分を庇ったせいで、サジェッタが命を落とした、という事実を。
「嘘だ……サジェッタ、死んじゃったの?」
また別の声が聞こえた。いつの間にか傍らにその声の主は佇んでいた。耳の先端を染める黒と背に走る二本の茶色の線を除けば全身黄色の、これまた見慣れた姿。友人且つチームメイトであり、サジェッタとは幼馴染という絆を持つ、キトラだった。
「どうして、どうして、サジェッタは死ななきゃならなかったの?」
今まで向けていた横顔が、ゆっくりと真正面のものになる。その顔は涙でぐしゃぐしゃに崩れていると分かった瞬間、リュウは固く目を閉ざした。避けようのない現実であることは心のどこかで分かっているはずなのに、見たくない、知りたくないと、瞼が悲鳴を上げるほどに力を入れる。
しかし、閉ざされたはずの瞼の裏で、キトラの顔がぼんやりと浮かび上がった。どうして?見えないはずなのに。何故こんなにもはっきりと彼の泣き顔が映る?
見まいと必死になっているリュウに、瞼の奥のキトラが容赦なく言葉を浴びせる。
「サジェッタが、キミを庇ったからなの?キミを庇ったせいで、サジェッタは……!」
キトラの言っていることは紛れもない事実であるはずなのに、ただ認めたくなくて、リュウはただ否定の言葉を口にしたかった。違う、違うと叫びたかった。否、何度も叫んだはずだった。しかし、耳に入るはずの自分自身の声が何故だか聞こえない。今いる闇とは違う、自分が視界を封じたことで作り出した闇の中に、「リュウ」はいなかった。キトラだけがそこにいて、涙を流していながらも驚くほどに淡々と声を発していた。
「キミが、サジェッタを―――」
―――ソウダ。オレガ、サジェッタヲ、シナセタンダ!
「っ、うわああああああ!」
まるで自身が弾になって砲台に打ち上げられたかのような勢いで、リュウは叫びと共に身を起こした。黒という一色に慣れかけた視界に様々な色が入り乱れ、目がチカチカする。とろりと重くなった瞼、靄のようにぼんやりとする頭。これらによって、今までいた闇の世界が夢であったということがおぼろげながらも実感できた。あの時全速力で走った反動が今になって、息切れという形でリュウに襲いかかる。弾む息の中、とりあえず夢の世界から脱却できたという実感を更に得るため、辺りを見回す。
そこは見慣れた、自分の家の光景ではなかった。床も壁も天井も木の板が張られており、ドアの向かいに位置する壁には大きな突き上げ窓が開けられている。隅に並べられた樽と木の実がたくさん詰め込まれた木箱が、窓から差し込む朝日に照らされている。反対に日光を避けるように置かれているのは、干乾しになった漢方薬のそれとよく似た草の束と、[頭痛薬]や[傷薬]と書かれたラベルの貼ってある瓶の数々。一通り遠方を見渡したところで傍らに目をやると、きれいな四角に畳まれた白く清潔な布―――シーツが積まれている。そして、今述べた道具のほぼ全てに、「ポケモン病院・サルベージタウン」という文字が書かれていた。
そう、人間世界のそれとはまるで違う、どちらかというと山小屋のような印象が強いが、ここはまさしく病院だった。
「リュウ」
唯一目を向けていない方角から声がかかる。あまり顔は見たくなかったが、声をかけられた以上は仕方がない。返事の代わりに顔だけ声の主の方向へ向ける。
キトラもまた、あまり生気の宿っていない目でこちらを見つめていた。頭や腕に巻かれた包帯がなんとも痛々しい。そんな姿を見ていると「あの日」のことが思い出されてしまいそうで、やはりリュウは反射的に顔を伏せてしまった。藁葺きベッドをシーツでくるむという衛生面を考慮された布団と、同じく白い掛布団が目に映る。寝ている間に汗をかいていたのか、ぐっしょりと湿って重く感じられた。
これ以上考え事はできればしたくないのだが、こんな時に限って目と脳は容赦がない。窓際に開いて置かれた日記帳が風に吹かれて頁を戻すように、リュウの脳裏に記憶の一瞬一瞬を事細かに、且つ鮮明に思い浮かばせた。
「ライメイの山」でサンダーと対峙してから、今日で七日目。
あの後、酷い傷と精神的ショックで意識を失ったリュウとキトラは、この病院へ搬送された。だから本人達は、「ライメイの山」からここに至るまでの経緯をよく知らない。
小耳にはさんだ話だと、サンダーに連れ去られたガニメデは、雷による酷い傷を負っていたものの命に別状はなかったようで、リュウ達より先に退院したらしい。「ライメイの山」におけるリュウ達の目的はガニメデを救出すること。その救助が成功したのだから喜ぶべきなのだろうが、今のリュウとキトラにとっては、正直そんなことなどどうでもよかった。救助隊としての使命を今回も果たせたという喜びよりも、大切な友を失った悲しみの方がはるかに大きいからである。
サジェッタは病院に搬送されず、今は自身の故郷である「飛翔の森」で永久の眠りについている。サジェッタの件は「サルベージタウン」でも大きなニュースとなり、トーチをはじめ多くのポケモン達が見舞いに来てくれた。が、当然のことながら、リュウ達の負った心の傷はその程度では癒えない。
粗方思い出した後のリュウを待っていたのは、「ライメイの山」での出来事と先程見た夢との重複だった。夢では六つ足の化け物となって出てきた、サンダーに取り付いていたどす黒い炎。あれはリュウの命を狙っていた。だからリュウに向かって攻撃をしてきた。あの時は抗う力はなくとも、避けることはなんとかできたはずだ。しかし、どんな心情を抱いていたか覚えていないが、リュウはそうしなかった。だから、サジェッタが身代わりになって―――
―――サジェッタが、キミを庇ったからなの?キミを庇ったせいで、サジェッタは……!
夢の中で聞いた言葉が、キトラの声そのままで再生される。自分の無力が、不注意が、弱さが、このような悲劇を生み出してしまった。どうしてあの時、大見得切ってガニメデ救助に行くなんて言い出した?あんなに大きな、伝説と称されるポケモンに適うわけがないなんて子供でも分かることじゃないか。自分の力を過信したばかりに、キトラを傷つけて、サジェッタを失って。
「リュウ、あのさ」
自責で閉ざした心の扉を、キトラが開けて入ってくる。今のリュウにとって、一番来てほしくない相手だった。その口から出てくる言葉なんて決まっている。キミがガニメデを助けるなんて言わなければ、サジェッタが死ぬこともなかったのにって、そう言うのだろう?頭の中がそうだと決めてかかっていた。
「何だよ?本当はオレと話したくもないくせに」
だから、こんな突き放した言葉しか出てこない。ますますキトラを傷つけるということも考えずに。
「ち、違うよ!ボクは……」
「オレのせいなんだ!キミから幼馴染を奪ったのも、サジェッタが命を落としたのも、全部、全部!サジェッタは……オレが殺したも同然なんだよっ!」
自分でこんな言葉を言い放つのも辛ければ、これ以上キトラの声を聞くことも辛かった。心の暴走に身をゆだねたまま、リュウは掛布団をはねのけて病室を飛び出した。自身も包帯だらけで身体一つ動かすだけでも激痛が伴うはずなのに、考え事ばかりで痛覚がマヒしているのか容易く走ることができた。途中何度も看護師と思しきポケモンとぶつかったが、謝ることなく足を進める。
一人で入院するにはあまりにも広すぎる病室に、キトラだけが残された。
幼馴染を失ったことで空っぽになってしまった心に、先程のリュウの表情が刺青の如く刻み込まれる。鮮やかな緋色の瞳に宿っていたのは、怒りと憎しみという二つの感情だった。言葉を放った対象はキトラだったが、内容を察する限り、その感情の矛先はずっと自分に向けていたのだろう。
リュウは自分で自分を傷つけているのだ。キトラを、サジェッタを思うあまり。
キトラも、心のどこかではそれを分かっているのだ。だからこそ、その誤解は自分が解かねばならないことも理解していた。だけど、リュウの目を見る度に「あの日」のことが呼び起され、一歩進もうとする足に枷をはめる。サジェッタを失ったことも未だに心が完全には認めていない。こんな状態で言葉を出してみろ。上手く言葉に出せなくて、余計にリュウが思いつめるだけじゃないか。
「リュウさん、キトラさん、起きてますか?」
開けっ放しで放置していたドアの影から、幼げが残る声と共にキャタピーのトーチが顔を出す。身を起こしているキトラを見つけると、お邪魔しますと丁寧に前置きして病室に入ってきた。遅れて母親であるバタフリー、ルースも木の実が入った籠を手に息子の後に続く。この病院に入院してからというもの、「サルベージタウン」の知人は何度か足を運んできてくれたが、とりわけこの母子は毎日と言っていいほど見舞いに来てくれていた。
「おはようございます、キトラさん。具合はどうですか?今日もお二人の大好きな木の実、持ってきましたよ。確かリュウさんの好物は[ゴスの実]で、キトラさんは[オボンの実]がお好きでしたっけ」
「あれ、キトラさん。リュウさんは……?」
いつものように、二人が話しかけてくる。せっかく来てくれたのだ。笑顔で答えなければいけない。なのに、腹の底から込み上げてくる何かがキトラの喉を塞いでいた。口を開こうとする度に、「あの日」のこと、リュウのこと、サジェッタのことがごちゃ混ぜに再生されて、心に様々な感情が鍋で沸かした湯のようにぼこぼこと泡立っては弾けて。吹きこぼれないように必死に蓋をして押さえつけていた。
「リュウは……」
やっと声らしい声が出せた途端、つかえが取れてしまったようだ。落とすまいと思っていた涙が、目からボロボロと頬を伝っていく。これ以上涙を見せちゃだめだ。相手に心配をかけたくない。そう強く思えば思うほど、涙も嗚咽も量を増していく。
「ちょ、ちょっとキトラさん!どうしたんですか?」
目敏くキトラの様子に気づいたトーチが慌てふためく。ルースも何かを聞こうとしたようだが、大人故キトラの心中を察したのだろう。木の実の籠を床に置いてトーチを促し、静かに病室を出ていった。
また、一人になる。周りには誰一人としていない。この思いを理解してくれるヒトも、分かち合ってくれるヒトも。誰も。
リュウもキトラも、同じ一つの存在を失い、同じ悲しみを抱いているはずだった。二人が仲間なら、信頼し合える友ならば、その思いを分かち合い、心への負担を軽減することができるはずだ。しかし今の二人は、互いを思うが故に互いに反発し、分かち合うどころかすれ違いを起こしていた。抱えているものがあまりにも大きすぎて、最も近くにいるはずなのに、互いの顔も、姿も見えない。不可視故の孤独に囚われていた。
闇はいつでも、そんな負の感情に捕らわれた者達の心を拠り所にする。あの時確かに消え去ったはずのどす黒い炎の残滓は、リュウもキトラも気が付かないほど小さく、それでいて確かに黒い灯となって、二人の心の中で燻っていた。