第33話 ステュクス
『ヒトカゲ――!!』
まるでタイミングを見計らったかのように全員の“かなしばり”が解けた。それと同時にヒトカゲは頭から地面に倒れ、ゼニガメ達はすぐさまヒトカゲに駆け寄った。
「ヒトカゲ! 起きて!」
半泣きしながらチコリータがヒトカゲの体を揺する。だがチコリータはヒトカゲの体を触った瞬間、自分との温度差に驚き、血の気が引いた感覚に陥った。まだほんのり暖かみはあるものの、生き物にしては冷たい体温だった。
その横ではドダイトスが自分の前足をヒトカゲの首元に当てた。そのまま無言状態が続き、しばらく経つとドダイトスはそっと自分の足を離した。
「…………」
ドダイトスは無言のままゼニガメ達の方を向くと、瞳を閉じて首を横に振った。もう言葉を出すもの辛くなっていた。全員が目から沸きあがるものを抑えきれず、その滴は1つの筋を作って頬を伝っていった。
「……じゃねぇ……」
体を震わせて、自分の中から込み上げてくるものを抑えようとしているゼニガメが口を開いた。
「……冗談じゃねぇ! ヒトカゲが、こんな所で死ぬわけがねぇだろ!!」
そのくしゃくしゃになった顔を真剣な表情に変え、ゼニガメはヒトカゲを抱え上げた。
「すぐ病院へ連れて行こう! 可能性はゼロじゃねぇ!」
半ば諦めかけていたチコリータとドダイトスも、藁をもすがる思いでゼニガメと共に走り出した。――“生きてくれ”。ただそれだけを思いながら――
その頃、ヒトカゲ、いや、幽霊の体と化したヒトカゲの魂は目を覚ました。目を開けた瞬間に入ってきたのは、黄色く輝いている空と、辺りに立ち込めている霧。体を起こすと、自分が木製のボートに乗っているのがわかった。
「……どこ?」
周りを見ても、霧が深くて何があるかわからない。わかったのは、ボートを動かしているのが川であることだけだった。その川幅は広く、ゆったりとした流れを保っていた。
「ゼニガメ〜?」
ヒトカゲは自分の仲間がいないとわかると、名前を呼び始めた。
「チコリータ〜? ドダイトス〜? みんなどこ〜?」
だがいくら名前を呼んでも、返事一つ返ってこない。川の流れる音だけしか耳に入ってこなかったことが不思議でならなかった。なぜならこの時、ヒトカゲは自分が肉体を有していないことに気づいていなかったのだ。
騒いでも意味がないので、ヒトカゲは誰かが来るのを黙って待つことにした。その間にもヒトカゲを乗せたボートは淡々と川を下っていくが、一向にどこかに辿り着く気配はない。
《……やって来たか……》
突如、空から声が聞こえた。ヒトカゲはその声に気づき、空を見上げた。すると何処からともなく「それ」は現れた。眩い光を放った、ヒトカゲの顔の半分程の大きさのある球体がヒトカゲの目の前にやって来たのだ。当然、この未知の物体にヒトカゲは驚いた。
「な……何これ!?」
目を丸くしているヒトカゲに、「それ」は構わず語り始めた。
《嫌な予感はしたが、現れたのはやはりお前だったか》
「あの、どちら様? もしかして、また『海の神様』のテレパシー?」
これもポケモンの一種なのではと、ヒトカゲは思いながら訊ねる。「それ」の表情を窺うことができないため、ヒトカゲは答えが返ってくるのを黙って待っているしかない。
《今はお前に我が名を告げる時ではない。が、これだけは言おう。我は『海の神』ではない》
「それ」は曖昧な返事しかしなかった。口調からでも窺うことができるが、明らかに『海の神』ではないようだ。そして「それ」はヒトカゲにある事を告げた。
《お前、自分が体を無くしたということに気づいているか?》
「えっ?」
思わず自分の両手を見てみるヒトカゲ。だが指は自分の意思で動くし、そのオレンジ色の体もしっかり見える。どこがおかしいのかが全くわからなかった。そんな様子のヒトカゲに「それ」は、手を合わせてみろ、と言った。
次の瞬間、ヒトカゲは妙な感覚に陥った。両手を合わせようとしたが、何とすり抜けてしまったのだ。しかもよく考えてみると、ボートに座ってはいるが、板からの圧迫感というものがまるで感じられない。
《お前は、死んだのだ。今あるのは、ただの幽体だ》
無情にも、「それ」は何も知らないヒトカゲに死の宣告をした。計り知れないショックを受けたヒトカゲは体の力が抜け、放心状態となった。
「え、じゃあ、ここは……あの世……」
頭の中が空虚と化したヒトカゲは、現実を確かめるように呟いた。だがそれは違うようで、「それ」はヒトカゲの発言を正した。
《正確に言えば、ここはあの世ではない。ここは“ステュクス”。この世とあの世――つまり顕界(げんかい)と冥界の境界を流れる大河だ》
どうやら、完全にはあの世に行ってないようだ。それがわかると、ヒトカゲの目の色が変わった。放心状態から一気に目に活力が入る。
「……もしかして、この川の岸に着けば、僕また蘇ることができるの!?」
ヒトカゲは必死になっている。まるでその必死さを窺っているかのように、「それ」は微動だにせず話を聞いている。
「生き返って、『海の神様』を助けなきゃいけないんだ! こんな所にいるわけにはいかないんだ!」
強い調子で熱弁する。このままでは今までやって来た事が水の泡になるばかりか、ヒトカゲの生きていた世界の運命の歯車が狂ってしまう。
(もしそうなったら、ゼニガメも、チコリータも、ドダイトスも……)
ヒトカゲはゼニガメ達を含めた、今まで出逢ってきた仲間全員の事が気がかりで仕方なかった。彼らにはこの世界に来て欲しくない――身をもって知ったからこそこう思ったのだ。
《……川の岸に着けば、か……》
「それ」が言うには、川の岸に着くことで生き返ることは不可能らしい。一旦落胆はしたが、それでも何とかして生き返る方法はないのかとヒトカゲは「それ」に訊ねる。すると、思いもよらぬ答えが返ってきた。
《お前を生き返らせる方法があるとすれば、それができるのは我が力を利用することだけだ》
「我が力?」
思わずヒトカゲは聞き返した。ヒトカゲは「それ」をポケモンだと思い続けているため、ポケモンが命を蘇らせることができるとは考えられなかったようだ。
《お前が生き返るに相応しいポケモンかどうかを調べるために、1つ質問をする》
「それ」は質問の答え次第でヒトカゲを蘇生するかどうかを決めるという。ヒトカゲが黙って頷くと、「それ」がヒトカゲに向かって質問した。
《お前の“生きる意味”とは何だ?》
「生きる……意味?」
ヒトカゲは難問を突きつけられた。誰もが1度は考えたことがあるだろう、この質問。もちろん答えが定まっているわけではない。「それ」はヒトカゲ自身の答えを聞くために敢えてこの質問をしたようだ。
ヒトカゲは悩んだ。そもそも何のために生きてきたのだろうか。そしてこれからも何のために生きるのだろうか。目先の使命が片付いたら、どうすればよいのだろうか。一気に押し寄せてきた疑問に1つ1つ答えることはできなかった。
大分悩んだ末、ヒトカゲはある答えを出した。
「命が与えられた時点で、生きる意味はある。それは――その意味を探すため。多くの仲間と出会うことで、その答えのヒントが得られるかもしれない」
「それ」はじっとヒトカゲの答えを聞き続けていた。
「その意味を求めて、僕達は笑ったり、泣いたり、協力したり、争ったり……そう、僕達ポケモンは『共存』しているんだと思う」
ヒトカゲは自分の思った事をありのままに「それ」に言った。答えを言い終わると、心配そうな目で「それ」を見つめる。しばしの沈黙の後、「それ」は言葉を放った。
《……よかろう、我がお前を生き返らせよう》
「ホントですか!?」
生き返ることができるとわかると、ヒトカゲは歓声を上げずにはいられなかった。その目にはうっすら嬉し涙が浮かんでいる。喜んでいるヒトカゲに向かって、「それ」は話を付け加えた。
《ただし、我がお前を生き返らせるのはこの1回だけだ。次にここへ来ても、我はお前に救いの手を差し伸べることはない。……命とはそれだけ重いものだという事を理解し、これからを生きることだ》
「……わかりました!」
ヒトカゲは今の言葉を聞いて、ぐっと真剣な表情で返事をした。
《それでは、目を閉じろ》
いよいよ顕界へ戻れる時が来た。ヒトカゲは色々な事を思いながら目を閉じる。それを確認すると、「それ」は自分自身から橙かかった黄色の光をヒトカゲに向かって放った。その光は炎のようにも見える。
その光がヒトカゲを取り巻くと、足先から徐々に粒子状になってどこかへ消えていく。その場からヒトカゲの魂が全て消えるまで、「それ」は黙って見つめていた。
「病院はまだかよ!?」
一方、現実世界ではゼニガメ達が病院を目指して走っている途中だった。街中は暗く、街灯も少ない。焦りが募るほど、自分達の運命を呪いたくなるほど悲しくなってくる。
「早く病院につれ……」
その時だった。ゼニガメは異変に気づいた。辺りに明かりがないはずなのに、自分の視界が明るくなったのだ。それに加え、暖かい。ゼニガメは立ち止まり、そっと首を下に向けた。
ゼニガメが見たもの、それは間違いなく、炎が灯っているヒトカゲの尻尾だった。それから直に、ヒトカゲの瞼がゆっくりと開いたのだ。
「……ヒトカゲ?」
その声を聞いてチコリータとドダイトスも急いでゼニガメの所へ駆け寄る。
「……ゼニガメ?」
ゼニガメ達が聞いた声は、まさしくゼニガメが今抱きかかえているヒトカゲから発せられた声だった。ヒトカゲは生き返ることができたのだ。ヒトカゲがゼニガメ達の顔を見た時には、彼らは満面の笑みで大粒の涙を溢していた。
『い、生き返った…………ヒトカゲ――!!』
ゼニガメ達は大泣きした。この奇跡に、この現実に、今あるこの光景に、これ以上の喜びはないと思うほど、号泣した。ヒトカゲが生きている――ゼニガメ達は感極まってヒトカゲを抱きしめた。
「みんな、心配かけてゴメン」
抱きしめられたヒトカゲも泣いていた。これからもずっとこの仲間といられる、そう思うだけで胸が一杯になった。
「俺達、どんだけ、心配したか、わかってるのか!?」
「ホントよ! 私、ヒトカゲが死んだら、どうすればいいかってずっと……」
「……もう、何も失いたくないんだ……」
ゼニガメ、チコリータ、ドダイトスが嗚咽しながら本音を語る。ヒトカゲには痛い程その想いが伝わってきた。
(みんな本当にゴメン。もう絶対に負けたりしない。だから、一緒にいてほしい)
しばらくの間、ヒトカゲ達は互いの喜びを分かち合う時間を過ごした。それは同時に、絆を深め合う時間ともなった。これも“生きる意味”の1つだろうと、ヒトカゲは後から思った。