暗闇より


















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カジノの街
Box.36 Reverie ―夢―
 ムシャーナにとってツキネの夢は食事でしかない。けれど今回だけは、夢≠ノ変換したエネルギーを口内に押し留め続けていた。爆発したツキネの記憶と感情は伝えるべき多数の情報を含んでいる。爆発の瞬間、ムシャーナはツキネが長く昏睡に至る事を予期していた。長い付き合いだ。ツキネが疲れて眠り込むと、笑って背負っていた男はいない。
 夢の煙は過去の記憶をイメージのまま再現する。ムシャーナの口内に収められた頭部に、強烈な感情や記憶、映像がそのままぶつけられる。網膜を覆い尽くす黒が視神経の奥へと這い寄り、穴という穴から侵入する煙が現在にない映像をリアルタイムで放映する。普段からツキネの念波に当てられているゴルトではあったが、意識をわしづかみされてオイル漬けの中に突っ込まれて揺らされるような感覚に、こりゃあ二度とごめんだな、と思った。自分でなければ気が狂っていたかもしれない!
 夢の煙は追体験を強制してくる。ヒナタの驚く顔、コーラル、と口が動くのが見えた刹那、胸を貫く嘴に痛みが走る。戻らなくては、と意識に繰り返す。まだ戦える、まだそばにいられる、まだ、まだ、まだ――あの場所に私≠ヘ居たい!! サニーゴの痛みに共鳴して、ツキネの怒りが伝わってくる。膨れ上がる憎悪と悲しみが、強制的なシャットダウンをかける。
 染み渡ってくる記憶は更に遡る。疲れ切った少年の顔から、濁流のような記憶を遡っていく。

『僕は役に立ちます!』

 赤い服の大人達が、値踏みする目で見下ろしている。声を張り上げて、自身の利用価値を主張する。

『僕の父はアクア団の研究者です! 僕は、貴方たちの役に立てます!』

 必死に言い募り、知っている限りの事を駆け引きし、部屋の片隅で沙汰を待つ。やってきた大きな手が肩を叩いた。『君は理想を理解するかね?』そんなものどうだっていいと内心毒づき、頷く。アチャモを手渡される。価値あり≠ニ判断された褒美だった。
 更に視点が下がる。冷たくて小さな手に身を引かれる。『……どこへ行くの。危ないよ』かすかに震える腕は、夜のとばりに怯えていた。そっとシーツの中に戻った。強く抱きしめてくる小さな腕に、暖かい羽毛を擦り寄せる。
 視点がぐんと高くなる。ジュカインのリーフブレードがブレイズキックを打ち破った。目を見開く。白と黒の帽子を被った少年は、鮮やかな新緑のジュカインと渦中へ駆けていく。その背を見送って、赤の団服を纏った少年が崩れ落ちた。
 マグマ団は終わりだ。
 消えない炎は終わらない。

『ふふふ……君はさぁ、そのお友達が羨ましかったんじゃないかな? 君はアチャモを助けたんじゃない。奪ったんだ』

 白髪の男はバシャーモの炎に目を細めた。『お友達は君を許しはしないよ。でもそんなこと、どうだっていいじゃない。――……こんなにも、美しい炎を咲かせたのだから』男の声は不思議なほどに透き通っていた。紡ぐ言葉が縫いつけられる。

『君の名前は? ……その名前、似合わないなぁ。今からホムラ≠チて名乗りなよ』

 その人は綺麗に微笑んだ。口の中で転がした名前は、今の自分にすっかり馴染むように思われた。けれど名乗ってしまえば、本当に取り返しがつかなくなるような気がした。不安を隠すように、既にホムラは居ると言う。彼は悪びれなく再び笑った。

『君があまりにも沈んだ顔をしているもんだから、いっそ彼みたいになったらいいんじゃない、と思ってさ。あはははは。良いじゃないか。××よりずっと良い名前だよ』

 赤い瞳が覗き込む。ビー玉のように美しい瞳を通して、無数の火が揺らめいているのが見える。

『――強い大人になれるといいね、ホムラ』

 同じ名前のあの人は最後まで、選んだ相手と道を同じくしたと知った。
 口を動かす。女の声が違った調子で聞こえてくる。混ざり合う記憶はぴったりと寄り添っていたのに、ここにきて独りになる。

『ボールマーカーを壊せば、お前は自由になる。どうしても嫌なのですか?』

 首を横に振る。そうですか、と残念そうな声が沈んでいく。大切なものは、天秤にはかけられない。
 古いプレートへと指を滑らせる。限界が近い。記憶の旅も、サイコメトリも、精神のギリギリまで搾り取るように続けられる。もう少し追いかけよう。白く細い指が、無数の手垢のついたプレートを撫でた。刻まれた文字は擦れて読み取れない。しかしそこに刻まれた人々の、ポケモンの想いは、読み取ることが出来た。
 ――かつて、テセウスという若者がいた。
 彼はプロメウから火を盗んだ。火さえあれば、皆が寒さに震えることも、暗闇を恐れることもないと信じ、火を抱えて走った。森を越え海を越え山を越え、火を同胞に分け与えようと走り回った。森が燃え海が燃え山が燃え大地が燃え空が燃え、人もポケモンも皆燃えた。
 呆然として火に焼かれるテセウスに、灰茶色の翼を震わせポケモンが嗤った。

『馬鹿なテセウス、愚かなテセウス! 火は神のものだというのに、自分の力を過信した! 火が神のものであるように、地上も神のものであるべきだ!』

 眼下に燃え広がる炎が、かつて友と呼んだポケモンを、人間を、愛した大地を飲み込むのを見つめ、テセウスは涙を流した。きっと多くを救えると信じた炎が、多くの命を食い殺していく。なおも燃え上がる火を抱きしめ、火を盗んでしまったポケモンに許しを請う。プロメウは祈りを聞き届け、地下へと潜りなさい、と告げた。

『ラチナの大地の奥深く、そこなら何も傷つける事はないでしょう』

 虹色の光が身を照らし、みるみるうちにテセウスは四つ足のポケモンへと変貌していく。盗んだ火を抱えて、テセウスは暗闇の奥深くへと潜った。
 無数の営みが灼け果てた地に芽吹き、再び歴史は流転する。生きているのだからと、新しい命を続けていく。虹色のポケモンは、残された彼らに自らの炎の一部を預けた。人とポケモンの手から手へと、静かに灯る火は約束≠ニ呼ばれ、理由さえ忘れるほどに長く、守られ続いていく。後悔の言葉も、悲しみの言葉も、謝罪の言葉も、全て地の深くへ沈んでいくほどに。
 白髪を纏め上げ、ピンと背を伸ばした老婆に手を引かれる子供。彼は次だ。次の次の次の次の――次だ。灯火を守るもの。幼い双眸が揺らめく約束を映し出し、問いかけた。

『いつ許されるの?』
『――が、消えるとき』

 子供が目を見開いた。それは途方もない時間に思われた。暗闇の奥底で、いつ来るとも分からない時を待つポケモンの事を想った。

『可哀想に』





 ノック音に現実へと引き戻され、「入れ」と告げる。記憶の旅は終わりだ。ゴルトはムシャーナの口から頭を引っこ抜いた。ぼさぼさの頭で振り向くと、ドン引きしているリクと相変わらず無表情の部下がいた。

「リク様をお連れしました」
「あン?」
「挑戦権をお持ちだそうで」

 リクが慌てて自身のポケットを探り、引っ張り出したカードを印籠のように掲げる。

「オニキスとタマザラシに会いに来たか」

 頷く。「ほれそこだ」顎で指し示すと、弾かれたように視線が向いた。視線の速さとは違い、すぐには近づかなかった。大きな窓辺から差し込む夕闇が長い影を作っていた。岩のようにピクリともせず、翼を畳んだサザンドラが座っている。外界を拒否する瞼は固く閉じられていた。迷いのある細い足が、ゆっくりと、躊躇いがちに近づく。その足下に遅れてエイパムも続く。見覚えのある風呂敷にゴルトは片眉を上げた。ヒナタに誘われても、ツキネにたびたび説得されても、あのカジノを去らなかったゲイシャがとうとう動いたらしい。喉の奥でゴルトはクツクツ笑った。

「――オニキス?」

 心細げなリクの声が、物言わぬ岩に投げかけられる。手を伸ばして触れられるかどうかという距離で立ち止まった。どうするつもりかな、とゴルトは眺めた。泣くか喚くか怒るか。リクは言葉を失っているように見えた。リーシャンはリクの頭上で沈黙していた。エイパムはというと、一匹だけリクより先にサザンドラへ触れた。「ききっ!」
 (そういやこいつ、サザンドラとは一応顔見知りだったな)ヒナタはツキネに会いに来るついでに、スカイハイのカジノにも出入りしていた。エイパムはヒナタをパンツ一丁にひん剥いた事もあれば、ヒナタが偽名で出場している賭けレースにヒナタ全賭けで荒稼ぎしたこともある。チャンピオンの出場は禁止しているので、バレたヒナタは逆さ吊りにされていた。(「なーツキネー……いい加減降ろしてくれよ〜……」)(「馬鹿はしばらく、そこで反省するのです」)

「うきゃ」

 エイパムはサザンドラへ話しかけた。サザンドラはうんともすんとも言わない。エイパムは声を大きくしたり、なだめすかせるような声を出したり、かと思えば肩を竦める。相変わらずサザンドラは返事どころか微動だにせず、本当にそのまま石像になってしまったかのようだった。エイパムはムッとして、ヒナタに似せて笑ってみせた。「うきゃきゃっ!」
 隙間風のような鳴き声が上がった。細い岩壁の合間から聞こえてくるような――低く、嗄れた声が、かすかに開いたサザンドラの口から発せられる。エイパムはぴたりと動きを止めた。リーシャンがハッとする。「きききっ!」反論するように鳴いたが、それっきりサザンドラは口を開かなかった。納得がいかない、とエイパムは憮然と腕を組む。表情には不安が見え隠れしていた。サザンドラから離れ、ツキネのベッドへと飛び乗る。こちらも固く瞼を閉じており、エイパムが頬を撫でても目覚めない。むいっとツキネのほっぺたを引っ張った。起きない。代わりにすっかり元の姿に戻ったムシャーナが、抗議するようにエイパムの頭に乗っかった。「むー……!」「きき」

「……オニキス、なんて?」
「きっ」

 知るもんか! と尻尾をぱしんと打つ。返事があったなら、死人のようではあったが、一応サザンドラは生きている。リーシャンはふわりと浮かび上がり、ツキネのベッドのポケモン達へと加わった。「リ、リリリ?」「むー……むむ」「リ?」「むむ」ムシャーナと会話する。「きききっ!」エイパムは憤慨している。リーシャンはチラチラとサザンドラを振り返り、二匹に言った。「リリリ、リ」その言葉に、ムシャーナはサザンドラの頭上の空間をちらりと見る。エイパムが顔色を悪くした。「き、ききききき!?」「リー……」
 サザンドラのそばで一人、リクは取り残されていた。わいわいと情報交換するポケモン達に蚊帳の外にされている。(オレもポケモンだったら良かったのに)どう頑張ったって、彼らの本当の事情は分からないし、言いたいことの半分も分かっていないんだろう。気配の薄いサザンドラを見上げ、ふと違和感を持つ。――タマザラシは、どこに?

「たま!」

 サザンドラから可愛らしい鳴き声が上がった瞬間、リーシャンが瞠目し、エイパムがびゃっと飛び上がり、リクは「タマザラシ?」と返事をした。声はすれども姿は見えず。サザンドラの足下からタマザラシが這い出してきた。

「たまま」
「そこにいたのか……」

 膝をついてタマザラシを迎え入れる。「たまたま」返事は良いが、タマザラシの声にもどこか元気がなかった。エイパムがベッド上からそろりと様子を窺う。タマザラシを見留めてあからさまにホッとした。リーシャンはふわふわとこちらに戻ってきた。「リ」「たま?」リーシャンが身を揺らし、癒やしの鈴≠奏でた。柔らかな音色がタマザラシを包み込み、瞳が驚きに丸くなる。「たまま!」「リ」リーシャンがにっこりすると、タマザラシがきゃっきゃと両手を叩いた。声に少し元気が戻っていた。

「たま!」

 タマザラシが腕の中から飛び降り、サザンドラの足下へと潜り込んだ。リクとリ−シャンが小首を傾げている間に、小さな両手で白い塊を引っ張り出す。

「それは――」

 白化したサニーゴだと理解した瞬間、リクは身を退いた。どて、と尻餅をつく。瞬間瞬間でしか目にしたことのなかったサニーゴに、このような形で初めてまともに会っているという事実は、奇妙な違和感があった。彼女はリクが認識していなかっただけで、短い間だがそばにいた。目の前で見つめれば見つめるほど、死んだのだ、という事実を嫌でも突きつけられる。扉も窓もないあの部屋で感じた閉塞感が動悸を伴って込み上がってくる。サニーゴが死んだこと、その小箱を自分が持っていたこと。
 ――いずれ、ヒナタの知るところになる。

(「お前がッ! 息子がああなったのはお前のせいだ!」)

(「コーラルが死んだのはお前の――」)
 ざわめく嫌悪感が這い回る。死んだのが自分だったら良かったのに。サニーゴが生きている事をヒナタが喜んで、それでおしまいなら良かった。震える手でサニーゴに触れた。冷たくて、固くて、決して動かない。
 どんなに後悔しても、それでも生きているのは自分で、消えて欲しくないものばかりが先に消える。
 震える拳を振り上げた瞬間、真新しい包帯が目に映った。(「それ以上ぶつけたら使い物にならなくなる。駄目だ、止めろ!」)(――どうして)そんな言葉を言うのか。ベッドの上で何度も考えた。湧き上がる憎悪の影で、あの声を泣きたくなるほどに懐かしいと感じてしまう。ぎゅっと目を閉じる。迷ってはいけないし、立ち止まってもいけない。(『マグマ団・アクア団は罪を悔い、自然保護団体として再出発することになりました』)でも、ウミとアチャモは帰ってこない。(『皆様には本当にご迷惑を――』)(記者のフラッシュが何度か光り、まばらに拍手が上がった)でも、何もかも、決して元には戻せない。
 朱色の外套の少年が昏い瞳で答えた。(「……ホムラ。お前がチャンピオンの仲間だというのなら、私は、お前の敵だ」)目を開く。真っ直ぐにサニーゴを見据え、冷たい体を撫でた。
 やるべき事がまだ、ある。

「たま!」

 タマザラシが跳びはね、ばたばたと手を動かした。その目はリーシャンへと向けられている。「リー……」リーシャンは首を横に振り、困ったようにサザンドラの頭上の空間を見やった。「たまま?」
 
「……?」

 リクは首を傾げた。タマザラシの言いたいことは、うっすらと分からなくもない。彼女は幼い。サニーゴの死を理解出来ないのだ。その証拠に、サニーゴを恐れもせずつんつんとつついている。「タマザラシ、サニーゴに癒やしの鈴≠ヘもう、使えないんだよ」「たま?」不思議そうにリーシャンを見やる。リーシャンはこっくりと頷いた。「リリリ」リーシャンがサザンドラの頭上の空間を指す。タマザラシはじっと目を細めたが、やがて難しい顔で「たまー……」と鳴いた。諦めてサニーゴを鼻先で押し、サザンドラの足下へと仕舞い込んだ。

(何か、いる≠フか?)

 そうとしか思えない行動に、サザンドラの頭上へと視線を移す。何もない。エスパータイプのポケモンは他のタイプより目に見えないもの≠ノ敏感だ。ゴーストタイプの方が目に見えないもの≠フ知覚は得意だが、感じるくらいなら出来る。もし仮にサザンドラの頭上に何か≠ェいるとすれば、もっとも可能性が高いのは――リクの目は自然とサザンドラの足下へと動いていた。

「カザアナのジムリーダーは、ゴーストタイプの使い手だ」

 反射的に振り返った。ゴルトも同じ事を考えていたらしい。「カザアナはソラの出身地だし、ゴートからの地下通路は生きてる」つまり、行こうと思えばいける。
 
「……ゴーストタイプの使い手だからって」
「カザアナのジムリーダーはリマルカって名前のガキなんだがな、いわゆる天才だ」

 子供がジムリーダーと聞いて、言葉が止まった。10歳でチャンピオンになる子供がいるなら、ジムリーダーになる子供がいないとどうして言えるだろう? ゴルトは面白そうに続けた。「お前の嫌いな%V才だ」顔を顰める。「別に嫌いなんて言ってない」「おいおい。同年代にヒーロー役を奪われたガキの言葉とは思えんな」

「あんたに関係ない! なんでそんなこと――……聞いたのか」

 直感的に理解した。ゴルトはあのこと≠知っている。ざわっと不信感が膨れ上がる。それが張り詰めきる前にゴルトはひらりと手を振った。「立ち聞き。次からはもっと気をつけるんだな」病室で会話したときの物音は、気のせいではなかった。(ソラが話したわけじゃない……本当に?)不信感はやや萎んだが、疑惑はなおも霧のように立ちこめている。知ってか知らずか、ゴルトは飄々と話を戻した。

「リマルカは強い霊感がある。ゴーストタイプに限らず、見えないものと会話したり遊んだりなんてしょっちゅうだ」
「だからなんだって言うんだ」

 言いたいことは分かっている。行け、とゴルトは暗に言っている。行って、サニーゴの言葉を聞いてこいと。それが彼にとってどんな意味があるのかは分からないが、少なくともリクにとっては意味がある。そばにいたのにずっと気がつけなかったなんて、きっと納得が出来ないままだ。

「なんだと思う。それ以前の話として、お前はどうしたい。答えろ」

 ホトリと同じ問いかけだ。それはとても答えづらい質問で、谷底を覗いているような気分だった。狂ったように叫んだ言葉を口にすれば、いよいよ戻れなくなる。リクは答えた。

「――ホムラを殺します」

( 2021/03/21(日) 09:33 )