暗闇より


















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カジノの街
Box.33 Go down―落下―
 ちっとも分からなかった。
 獣の咆哮は声ではなかった。直球、そのままの激情が皮膚表面を貫通し、細胞一つ一つを震撼させる。死が近い。意識どころか魂そのものが吹っ飛びそうなエネルギーの竜巻の真ん中で呼吸が出来たのは、ボルトとツキネのポケモン達のお陰だった。普段からツキネの寝床と化しているメタグロスは金属が強い圧力で擦り合うような警告音を発した。ツキネの目に正気の色が覗く。消える。ついてきたムシャーナがおでこから黒い煙を汽車のように噴出させた。捻れが緩んだ。また捻れる。ボルトが叫んだ。「連れてけ!」スリーパーが音もなくぬっと目の前に現れると、視界いっぱいに広がるのは揺れる振り子だけだった。ワン、と刻む。繰り出されたネンドールがツキネに封印≠かける。ツー、と刻む。メタグロスが捻れを力業で抑え込み、ムシャーナがツキネに飛びつき、ツキネのモンスターボールからマリルリまでもが飛び出した。スリー、と告げる。「――記憶に呑まれるな!」切羽詰まった声がする。
 空間が捻れる。





【テレポート】
:エスパータイプの技の一種で、物体を離れた空間に転送したり、自分自身が離れた場所に瞬間的に移動したりする現象、及び能力のことである。
 物体や自分自身の身体に対して念動力を適用することによって空間を非連続的に飛び越えさせ、文字通り瞬間的に2つの地点の間を移動する能力・技術のことを指す。19××年、ククイ博士の実験により下記の性質が実証された。

・他のポケモンによる空間の強い捻れ≠ェ存在していると、テレポーテーションによる座標移動に歪みが発生する。
・テレポートを使うポケモン/妨害行為を行うポケモンのレベル差と影響レベルは比例する。

 なお、テレポートの失敗により、行方不明となったポケモンが出たため実験は中止となった。

(参考文献:ククイ・××××(19××)「空間性質におけるテレポーテーションの観測実験」.『月刊ポケモン学会マガジン』19××年×月号.p.29.ポケスク出版社.)





 Fate leads the willing and drags along the unwilling.
 (運命は、意志ある者を導き、意志のなき者を引きずっていく。)





 半ば本能的な行動だった。遠のいていく気配に、リクは既に開始された空間の跳躍を拒否した。「嫌だ!」スリーパーを振り払った。そうして、くるくると、自らが落下していく感覚と共に、スリーパー達は一足飛びに空間を超えていってしまった。乗車拒否ではなく、途中下車。捻転する空間を落下し、意識がぐらりと傾く。何処でもない場所へ放り出される気配を感じ取った刹那、耐えがたい恐怖心が臓腑を貫く。何処でもない、何処にも行けない感覚は初めてではなかった。波間を彷徨い歩いたときも、同様の感覚があった。足がつかなくなっていって、何処へ向かっているかも分からない状態で、それでも許されないのだと歩き続けて――そうだ、あの時は、ウミが手招きしていたのだと思い出す。海底の底で静かに、じっとこちらを見ていた。だから安心してそこを目指して、たとえ近づくほどに、本当は恐怖心が肥大し、ひたひたと這い上がってきていたとしても歩いて、そうして。

 落下した。

 悲鳴をあげる。体が楽になった。何処でもない場所から、何処か意識に浮上した場所へ、放り出される。無意識に近い思考の流れが断ち切られ、背中から床に叩きつけられる。呼吸が止まり、リクは毛虫のように身を丸め、げほげほと咳き込んだ。這いつくばる床に両手をついて頭を持ち上げる。
 人の視線を感じた。吸い寄せられるように目はその鮮やかな赤を捉え、敵の色だ、と認識する。ノロシが朱の外套を着ていたことは記憶にまだ残っている。引き攣るような緊張が胃の腑を引き締めた。戦慄く。朱の外套は目深に被られ、その奥から昏い瞳がこちらを見ていた。身じろぎもせず、ぽろりと、それはまるで汚泥の底からはじき出されたビー玉のような素朴さをもってして呟かれた。

「……リク?」





 スカイハイは混乱のさなかにあった。ヤヤコマ達の追い風をヒノヤコマ達の火炎放射が飲み込んで、大きく膨らむ。炎の鳥がのたうちながらスカイハイを蹂躙し、劈く。インパクト。煙がもうもうと上がる。
 1コンマ。炎。2コンマ。捻れの中央、マリルリがハイドロポンプを放った。3コンマ。炎が千々に引き裂かれた。火の粉のように霧散し、ヤヤコマ達が次々墜落していく。ヒノヤコマ達の中で耐え抜いたもの達が、すぐに穴を埋めた。整列。解放ステージと化したツキネの居室に突撃。制止を振り切りツキネの目が光る。空間の捻れが急激に収縮する。スカイハイは姿勢を戻したが、ヘッドショットされた頭部は戻らない。巨大な火の鳥の奥の奥まで見通すツキネの千里眼に、白髪の男が映った。高速で移り変わる視界。刹那に割り込むバルジーナの姿もあった。獣の眼光がいっそう厳しくなった。不可視の力が第二陣を堕とそうと蠢くが、ボルトが鋭く制した。ボコボコと身の土塊が変質していくネンドールが封印の圧力を高める。タイミングを合わせ、メタグロスが抑え込む念力を高める。

「抑えろっつってんだろ! 死にたいのか!」

 瞬間、ネジの切れた人形のように、カクンと獣は動きを止めた。ひゅう、ひゅう。細い呼吸を2回。
 ひゅ――けほっ。鮮血を吐き出した。己の血に、ツキネは不思議そうな顔した。ベッド脇の写真立てが床で粉々に砕け散って散らばっている。拾おうと手を伸ばしたが、ボルトの腕に倒れ込んだ。
 炎の群れが再び突っ込んでくる。ネンドールがツキネの力の流れを補助する。メタグロスがマリルリと息を合わせ、ラスターカノンとハイドロポンプを同時に放った。炎の群れを一掃する。墜落と入れ替わりに、狂気さえ感じる意志でヤヤコマとヒノヤコマ達が穴を埋める。ボルトはツキネを抱えたままエーフィを繰り出した。「まりり! お前も手ェ貸せ!」「まり!」

「あまごい=I」
「ふぃー!」
「まりー!」

 エーフィの額の宝石が強く輝き、伸び上がるように夜空へと赤い光が放たれた。マリルリが念の籠もった甲高い鳴き声を天へ捧げる。夜空が躍動し、ざわざわと黒雲が身を寄せ合う。数分と立たず、雨粒が地面を叩き始めた。いずれ土砂降りの雨が来る。
 全ての光景をタマザラシは見ていた。変わってしまったサニーゴを鼻先でつつく。回る火の手に攻撃の応酬に、眩しそうに目を細めた。ぎゅむ、とサニーゴに身を寄せたタマザラシを六枚羽根が覆い、その中に全てを隠した。サニーゴも、タマザラシも、彼自身の表情も。翼の表面に降りかかる火の粉に、石のように身を固くした。
 ボルトはネンドールにツキネを預け、前線へと駆け出した。朦朧とする意識の中、浅い呼吸を繰り返しながらツキネが手を伸ばす。ボルトの大きな背中に、赤い頭髪が重なって映る。変わらないものはない。流転する。失われたものは、過去へ置き去りになっていく。また目を瞑れば、飛ぶように、景色が、時代が、移り変わっていく。
 大切なものさえも、消えたままで。





 悪タイプのポケモンに、エスパータイプの技は効かない。行軍する軍隊蟻がごとくに、阻むのを踏み越え引きちぎる。ヤトウモリ達が床は当然のこと、壁に天井にと張りつき這い回る様は、たとえヤトウモリが嫌いではなくても今この瞬間に嫌いを飛び越えてトラウマになってもおかしくない光景だ。狂瀾怒濤にスカイハイ内部がこれほどまでに蹂躙されたことは久しくなかった。

「きゃー! きゃー! きゃー! きゃー!」

 半泣きで悲鳴をあげながら、ゲッコウガのような身のこなしで、ショートカットにミニスカートがひらりひらりとはためく。全てを放り出して逃げ出したいと顔には書いてあるものの、コダチは人の流れに逆らって動いていた。だいたいがヤトウモリ達の流れと同じで、目的は違えど一応スカイハイの頂点を目指していた。いっそ外から壁を伝った方が早いかも――窓から一度覗いたが、ヤトウモリだらけで気持ちは一瞬で失せた。じゃあエレベーター内部のワイヤーロープを伝うのは――そっちもヤトウモリがいっぱいいて、しかも暗中でてらてら光る血痕と奇っ怪な臭いを放つ細やかな肉片が見えたので気持ちは一瞬で失せた。
 そもそも、どうしてこんな場所でこんな目に遭わなくてはならないのかと混乱しながらコダチは自問する。答えはすぐに出た。上司のせいだ。司令内容は至って単純明快で「リクという子供が持っているサザンドラを回収しろ」と。「いえっさー」それほど難しくないラクショーラクショーと口笛を吹いていると、上司が淡々と続けた。「おそらく、今はニコニスが持っている」口笛が止まった。
 「ひえええええんごめんなさいいいいいい回収できませんでしたー!」リクが消え去った後に泣きつくと、続きの指令が泣きっ面に投げつけられ、べしょりと落ちた。「どうせ馬鹿お――ツキネのいるゴートだ」「いや無」「行け」「ひぇん」
 なんでどうしてと問いたい。アイドルキングにツキネにと、サザンドラは強い人ばかりの手元にいく癖に、何故リクが最初持っていたのか。深くは突っ込まないのがコダチの信条ではあるが、疑問は尽きない。それでもあまりよろしくない頭ではすぐにギブアップを宣言し、粛々と任務に向かう。それこそが、ペーパーテストは赤点だったが、類い希なる身体能力でレンジャー入団テストに合格した女の信条だった。

「ひぇ! ひぇー! 」

 切れ切れの呼吸を整えに、コダチはポケモン密度の低い廊下の端に逃げ込んだ。ドドドと押し寄せるヤトウモリの団体はさながら黒い濁流のようだ。一息ついた時、ぐらりぐらりと空間の捻れを感じとり、不安げにコダチは天井を仰いだ。ゴートのお姫様本人がエスパー能力者であることは承知していたが、まさかここまで凄まじいとは思ってもみなかった。あっちに捻れこっちに捻れ、化け物の胃袋の中で転がされている異様な空気を肌で感じ取り、もういっそ全部放り出して本気で逃げてしまおうかしらと脳裏にちらつく。(「でもさァ……、コダチちゃんはレンジャーなんだよね」)仮面Sの言葉がぽんっと浮かび上がってくる。上司と少し似た雰囲気がある彼女の言葉は、まるで本人にお説教されているような恐ろしさがあった。
 
「……ひぇん」

 結局、任務を放り出すことは出来ない。だくだくと涙を流す。今だけはモンスターボールの中に入ってころころ床を転がっていたいなぁと飛ばしていた意識を無理矢理引っ張り戻した。廊下へ戻ろうとした時、影が差した。「ふぇ?」反射的に身を引くと、鼻先を掠めてかなりの重量物がひとつふたつみっつよっつと落ちものゲーのように落下していく。塊はあちこちから人の腕やらポケモンの尻尾やら緑の足先やらを生やしてジタバタと蠢いている。ひとまず人間の腕を引っ張った。黄色くて毛に覆われていてなんだか見覚えがある腕だ。何故これを人間の腕だと認識したのか理解に難航した瞬間、正常の思考回路がスリーパーだと認識した。バトルアイドル大会最後に、腕を掴まれたこと。テレポートしてしまうリク達の傍にスリーパーがいたことを芋づる式に思い出す。「ひぇええええええええええええ!」奇声を発して放り出した。スリーパーは床に座り、ぼりぼり尻を掻いた。わらわらと崩れるポケモン団子から今度こそ本物の人間が解放された。「いてて……ここは、」
 聞き覚えのある声に肩を跳ねさせ、コダチはギギギと顔を振り向かせる。ぼさぼさになった藍色の頭を抑えつつ、頭痛に眉を顰める少年がいた。声の聞き分けには自信がある。同種族のポケモンの群れに隠れた悪ガキケムッソを、鳴き声だけで判別してキャプチャした事もある。少年を指さし、ふるふるとその横で頭を振るキルリアも同定し、コダチは叫んだ。

「な・な・な……なんでSちゃんがここにっ!?」
「は?」

 Sちゃん――改め、ソラがズキズキする頭を抑えつつも胡乱な目を向けた。こちらにとっても覚えのある顔面と声だったらしく、ギシリと硬直する。彼の脳裏を過ぎ去る様々な思考が最適な回答を弾き出すより早く、プライドが口を開いた。

「ヒトチガイです」
「嘘だ嘘だぁ! ぜーったいSちゃんだもん!」

 ソラがますます頭を抱えた。ヒトチガイです、と繰り返し、咳払いをする。

「そんなことより、君はどうして此処に?」
「えっ」

 あの時と同じ強引な話題転換に、コダチは口を閉じた。明後日の方向を向いて脂汗を流す。ソラが目を眇めた。今度はトイレで誤魔化されてやる優しさはないらしい。「ねぇ、どうして」追撃し、一歩近づいた。

「そそそそそれよりさぁ! りっリクちゃんは!? リクちゃんと一緒に行っちゃったよねSちゃん!」
「リクの事よ――」

 り、と続けそうになって、はた、とソラは気がついた。ポケモンの塊は解体しきったようで、キルリアが大事そうに眠るリーシャンを抱え、エイパムがじっと見守っている。スリーパーは休日のおっさんのようにあぐらをかいて目を閉じている。ポケモンが一匹、ポケモンが二匹、ポケモンが三匹、ポケモンが四匹、人間が――「リク!」ガバッとスリーパーの肩を掴んだ。

「スリーパー! リクは!?」

 スリーパーが片目を開けた。ぼりぼりと尻を掻き、さぁ? と肩を竦める。「一緒にいたはず……まさかお前、別の場所にぶぺっ!」「うわ痛そう」失敬な、とスリーパーがソラの頬を真顔で叩いた。ジェスチャーする。ぎゅっと自身の体を抱きしめた後に、両手を突き出して、うわっとびっくりしたような顔をして、その場に倒れ込むように座り、頬を呆然とした顔をして抑えた。突然夫に暴力を振るわれた妻のような顔だった。「リクちゃん酷い!」スリーパーの小芝居にコダチがぷんぷんと握り拳を突き上げる。ソラは呆れた顔で「いや、最後のはただの脚色だろ」と断じた。やれやれ、とスリーパーが首を左右に振る。
 テレポートに失敗するとどうなるのか、ソラにも分からない。どこか別の場所に転送されるのか、それとも――沈んだ顔で目を伏せた。居場所が分からなくては手の打ちようがない。無事であることを天に祈るしかなかった。廊下向こうの黒い流れを見やって、ソラは神妙な面持ちになる。さりげなく逃げようとしている少女を「ねぇコダチちゃん」と低めた声で呼び止めた。片手で合図を送ると、キルリアはエイパムと目配せして頷き合う。

「ひゃい!」

 背筋をピシッと伸ばし、コダチが元気に返事をした。どうもソラの声に弱い。上司の声に似ている。半泣きで渋々と顔を向ける。微笑む少年の顔つきにも、どこか上司の面影があった。

「一緒に脱出しよう。君がここにいる理由も、後で教えて欲しい」

 がしっとコダチの腕をキルリアが、足をエイパムの尻尾が抑える。コダチは子犬のようにぷるぷる震えながら、いかにして誤魔化すべきか頑張って考えて始めた。

( 2021/02/28(日) 13:55 )