暗闇より


















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アイドルの街
Box.21 Stand by me! Stand by you!
「気絶してるだけ。脳に異常もなさそうよ」

 医務室で女医は言ったが、リクの耳に届いているかどうかは怪しかった。乾いた血が黒い粉になってシーツに散っていた。ソラ、と名前を呼んだ。何度目か分からなかったが、相も変わらず返事はない。固く閉じられた瞼はぴくりともせず、藍色の頭部は深く枕に沈んだままだ。ベッド脇の椅子から離れないリクを、足下のタマザラシが心配そうに見上げた。リクはソラの手を握っていた。かすかに震える手だった。

「……ユキノちゃんは、退場にはならないわ。次やったら失格らしいけど」

 ガバッと、リクが真っ青な顔を上げた。どうして、と訴えかける瞳に女医が眉を下げる。
 
「仕方ないわ。元々、トレーナーへの攻撃も許可する大会だもの。それでもリタイア宣言直後の攻撃だから、イエローカードが出たけど……だから危険だってニコニスにあれほど……」

 ぶつぶつと悪態をつき、女医は顔を顰めた。怪我人が出たとしても、大会は終わらない。そういう大会だとリクも認識していたはずだ。ライカもコダチもそれを承知しているようで、ソラを心配はしていたが、自分たちの試合へと向かっていった。リクは再び顔を伏せ、思い詰めるように黙ってしまった。
 
「よう。具合はどうだ」

 ノックもせず、変わらない声音でボルトが入ってきた。「別状は無いけど、まだ起きてないわ」女医はムッと言い放ち、まなじりをあげてボルトに詰め寄った。

「この際だから言わせてもらいますけど、トレーナーへの攻撃も許可する大会なんて危険よ。あなたがプロデューサーなんて名乗らなければもっと文句が出てもおかしく無いわ。そもそもあなたは四天――」
「Pokemon&Trainerは同じFieldにあるべき≠セろ?」

 ボルトは女医の言葉を遮った。女医が苦々しそうに眉間にしわを寄せる。

「限度があるわ。体の丈夫さも、構造も、能力も違うんだから」
「痛みは同じだ。他人の靴を履いて、初めて分かることもある。なァ」

 ボルトはリクの肩を叩いた。返事はない。うつむいたままのリクの横にしゃがみ込み、蒼白の横顔を覗き込んだ。馬鹿にするでもなく、同情するでもなく、頬杖をついて問いかける。

「怖くなったか」

 リクが首を横に振った。意外そうにボルトが口笛を吹く。ゆるりと向けられた少年の黒い双眸は、色を失ってはいなかった。

「バトルがしたい」
「ちょっとあなた……」
「オレに、彼女とバトルをさせてください」

 ボルトが目を細めた。青ざめたリクの顔色は不安を感じるほどに透き通っているのに、その瞳は対照的に鈍い輝きを放っている。
 それは、戦う者の目だ。心に灯る炎そのものだった。

「そうか」

 ボルトが歯を剥き出しにして笑った。「あなたの実力では危険よ」女医の警告に、ボルトはひらりと片手を振った。

「関係ねぇよ」

 勝手に返事をして、大きくて骨張った手のひらをリクに差しだした。もうすぐ、ライカとコダチの試合が終わる。次がバトルアイドル大会最終戦。ふらりとリクは手を伸ばした。離されたソラの手がシーツに落ちる。ボルトの手を力強く握り返し、リクは立ち上がった。タマザラシが短い前足をキッと構えた。勝てるか勝てないか。危険かどうかなんて、関係ない。
 やらなければ、この炎が死ぬだけだ。

「それでこそ、ポケモントレーナー≠セ」





「ええ試合やったわ」
「楽しかったー!」

 ライカとコダチが握手した。接戦を制したのはライカだったが、コダチはニコニコしていた。よほどライカとの試合が楽しかったらしい。フラストレーションが溜まってばかりだったライカも、大会で一番爽やかな顔をしていた。珍しくギスギスしていない試合終了に、司会者が涙を流している。『素晴らしい! これこそバトルアイドル大会ッ! アイドル同士の友情だー!』次の試合までしばしの休憩時間だ。ソラの――というより、死人のような顔色だったリクの様子を窺おうと、二人は医務室に向かった。
 が、いたのは眠り続けるソラと、不機嫌そうな女医だけだった。「リクちゃんなら、自称プロデューサーが連れてったわよ」女医がぶすくれた。コダチはつんつんとソラのほっぺたをつついた。
 
「Sちゃんはまだ起きないの?」
「起きたとしても、すぐには立てないわよ」
「ホンマあのクソ女ムカつくわ」

 ライカが吐き捨てた。「そう?」とコダチはきょとんとしている。ライカが鬼気迫る顔でコダチの肩を掴んで揺さぶった。
 
「はぁあああああ!? ムカつかんのかッ!? あんたも脳みそ花畑とかいわれとったやろ!」
「そそそそそんなこといわれれれてないよおおおおおおおおおライカちゃあんんん!」
「そやったっけ?」

 パッとライカは手を離した。目をぐるぐるさせながら、コダチがあははと気の抜けた笑いを浮かべる。

「そうだよぉ。Sちゃんに攻撃したのは駄目だけど、嫌いじゃないよ。昨日、身体能力だけは本物だって、褒めてくれたしねぇ」
「それ、暗に馬鹿にされとるやん」
「ええ!?」

 がびーん、とコダチがショックを受ける。女医が噴き出した。「あなたホント、可愛いわねぇ」生暖かい眼差しを向けられたコダチは、「可愛い!? 可愛いって言われちゃった〜!」と素直に喜ぶ。コダチがにへにへしていると、そのポケットから着信音が高く鳴り響いた。「ほへぇーい!」気の抜けた返事で応答するコダチの耳を、槍のように鋭い声が突き刺した。
 
『間延びした返事をするな。見習いとはいえ、レンジャーとしての自覚を持て!』
「はははははいいいいいい! ごめんなさいすいません許してくださいリーダー!」

 コダチが即座に直角になった。眠っているソラの顔が顰められる。女医が「悪いけど、廊下でお願い」と、扉を指した。ポケナビ片手に、慌ててコダチが飛び出していく。魘されるように、いまだはくはくと動くソラの口に、ライカは心配そうに耳を寄せた。 

「大丈夫か? 何が言いたいんや?」

 小さく呟かれた言葉は、ほとんど意味をなしていなかった。切れ切れの単語。その中でもうわごとのように、繰り返し同じ言葉を口にしていた。

「……に、い、ちゃん」

 辛うじて聞き取れたそれは、悪夢を見ているにしては奇妙な違和感を覚える単語だった。

『まもなく、最終試合を開始致します。ユキノ様、リク様、ステージへお越しください』

 その意味を考える前に、館内放送にライカは頭を持ち上げた。廊下に魂の出たコダチがいたので引きずっていく。通話は終わっていた。最後の試合だけあって、観客席は大賑わいだった。だが、リクとユキノの試合は前座という雰囲気が強い。どちらかというと観客達は、締めに行われるアイドルキングのステージの方を待ち望んでいるようだ。ライカは放心しているコダチを客席に放り込み、自身もどかっと席に座った。リクは――さすがに来ないだろう。会場内が暗くなり、いけしゃあしゃあとユキノが司会者の口上と共に現れる。たいした面の皮の厚さだ。ライカは舌打ちした。

『泣いても笑っても最後の試合! 一矢報いて良いところを見せたい! 初心者アイドルのリクちゃん登場だー!』

 舞台袖に丸い光の花が咲く。柔らかいミルク色のドレスが、暗闇を溶かしたような黒髪が、躊躇いもなく歩み出た。「たまま!」可憐な白いシューズの横をタマザラシが転がっていく。ライカは瞠目し、知らず拳を握った。口中で、あの馬鹿、と小さく毒づく。気持ちは分かる。分かるが……。止めるべきか逡巡している内に、試合開始の合図と共に音楽が流れ出した。
 ポケモンマスターを目指す少年の夢を語った、過去に大流行した名曲だ。先の試合とは違い、ユキノは先手を打ちはしなかった。それどころかリクに歩み寄ると、にっこりと微笑みかけた。

「最後ですもの。良い試合にしましょうね、リクさん」

 リクの双眸がユキノに向けられる。黒い瞳の奥で、反射したステージライトが炎のように揺れていた。

「なんで、ソラを――仮面Sを、あの時、攻撃したんだ」
「あなたに関係あります?」

 朱色の唇から放たれた言葉が、ひりついた空気に小さな波紋を落とす。素早くリクの口が次の言葉を投げかけた。

「リタイアしてた。分かってて、攻撃したのか?」
「もしかしてリクさん。あの時にようやくソラさんだって気がついたんですの?」
「そんなことどうでもいいだろ」
「そんなことありませんわ。だってその方が、よっぽど面白いですもの」

 波紋がひとつ、ふたつ、と。リクの目の前でころころ笑うユキノからまろびでる。うねりのような感情が波打った。ステージには女性シンガーの伸びやかで楽しそうな歌声が響いている。なかなか始めない二人に観客席がざわついていた。煌々としたステージライトの下でユキノの白い肌はいっそう映えた。冷涼たる月のようだったが、細められた目の奥には嗜虐的な熱が滲んでいた。

「ねぇ、リクさん。わざわざ試合に来てくださったってことは、敵討ちにいらっしゃったのでしょう? こんなくだらない問答で、わたくしが、もしかしたら、わざとではなかったのではないかと。馬鹿馬鹿しい妄想を補強したかったんですの?」
「ソラが死んだらどうするつもりだったんだ」
「それまでの人だったというだけでしょう?」
「――!」

 リクの右手が大きく跳ねた。白磁の肌を撃つ前に、差し込まれた爪の切っ先の前で、ぎしり、と止まった。マニューラの爪の向こうでユキノが艶然と微笑んでいる。細く長く、リクの口から息が漏れた。沸騰直前で押さえ込まれた感情が、いまかいまかと逆巻いている。ぶるぶると震える拳はマニューラに阻まれたのではなく、リク自身が止めたものだ。仮にユキノが同性であったのならば、マニューラの爪は赤く染まっていただろう。喉奥から、唸るようにリクが声を絞り出した。

「ソラに、謝れ」

 ユキノが鼻で笑った。もう一度、リクは声を振り絞った。

「謝れ!」
「観客の皆様が、お待ちですわよ」
「どうだっていいだろ! それより――」
「だったらあなた、不戦敗ですわね」
「は、」

 客席へ、ユキノが指を差し向けた。無数の瞳が暗がりからリク達を見ていた。苛立ち、不満、期待。ヤジが飛んだ。いつになったら始めるんだ。早くしろ。いいぞもっとやれ。既にステージを見ていない客もいた。司会者が、退屈そうにこちらを見ていた。ソラはまだ眠っているというのに……傷ついたままで。ユキノは悪いとも思っていない。
 それはかつての出来事と酷似しているように感じられた。誰も彼も、そんなことは結局、どうでも良い≠フだ。彼らの事情も、リクの事情も。忘れろと言っていた故郷の人々と同じように、あの時騒いでいた観客も、誰も彼も、きっと明日には忘れるのだろう。
 何も分からなかったあの時から、自分は欠片も変わっていない。何も、何も――。昂ぶっていた意気が萎んでいくように、視線が地に落ちた。
 
「たま!」

 むいっと、足下のタマザラシが小さな手で顔をひっぱってみせた。

 ――バトルは、ひとりぼっちではできません。
 
 リクは目を見開き、そして、かすかに笑った。タマザラシを抱き上げ、ぐいと顔を上げる。射るような眼差しに、ユキノが意外そうに片眉を上げた。

「オレが勝ったら、ソラに謝ってくれ」
「構いませんけど、わたくしが勝ったらあなたは何をしてくださるの?」
「それは……その時は、逆立ちでもなんでもしてやるさ」
「――へぇ」

 花がほころぶような笑顔だった。ユキノが指揮棒のように手を振ると、一気に気温が下がった。きらきらと空気中の粒子が凝結し、みるみるうちに鋭く尖っていく。タマザラシが大きく息を吸った。戦闘態勢に入ったタマザラシを抱えたまま、リクは後ろに飛び退いた。楽しみですわね、と鈴が鳴るような声がして、白く濁った氷柱針の切っ先が一足飛びに飛来する。対抗するタマザラシの胸が躍動し、口中から強烈な風雪を吐き出した。

「たまー!」

 猛烈なこなゆき≠ェ氷柱針と衝突する。風雪に氷柱針は勢いを削がれていく。粉雪の方が威力は大きいが、自力の差で相殺レベルまで落ち込む。「まにゅっ!」氷柱針に紛れたマニューラが接近する。突然動き出した状況に、慌てて司会者がマイクを持ち直し、まるで今始まったと言わんばかりに叫んだ。
 
「しっ、試合、開始ー!!!!」

( 2021/01/02(土) 09:56 )