Box.13 きゃっ! こんな短いスカート!
ざわ、ざゎ、ざ、わ、と。
薄い膜を一枚隔てた先で、灰色に塗りつぶされた音達が蠢いている。
『――憐な駆け出しトレーナー、リクの登場だー!!!!』
ひときわ大きく、自身の名前が耳に飛び込んできた。急速に世界は色を取り戻した。
ゆら、ゆら、ゆら、と。
現実感が揺らめいている。床に張りついた足に、タマザラシが頭を何度もぶつけてきた。
「たまたまー!」
少し、ぼんやりしていた。
リクは頭を振った。『おやー? どうやら……恥ずかしがり屋さんのようですね!』司会者が困ったように言った。スタッフが背中を押してくる。「ほら、君の出番だよ」押し出されるような形で、リクはよたよたとステージにあがり、タマザラシはスーパーボールのように飛び跳ね出た。
ステージを見たことはあったが、立ったのは初めてだった。観客席からワッと声が上がった。ステージライトは温度のない太陽のように明るい。眩しさにリクは手を翳した。煌々としたステージは白く輝いていて、観客席は夜の海そっくりだった。黒い水面下で、無数の魚達が期待の眼差しをリクに向けている……。
呼吸が一段と、苦しくなった。
『ミュージックスタート!』
浅く息を吐き、そして戻ってきた空気に聞き馴染みのある音楽が入り交じる。ホウエン地方で大流行した曲だ。歌わなくては。視線を振り払うように、歌詞の後を追って口を動かした。一音たりとも声は出なかった。相手の少女の伸びやかな歌声だけが響く。
「――パッパ、タネマシーンガァァァァン!」
歌声が攻撃指示に変わった。曲に合わせ、タネマシンガンの雨が振る。殺気のない攻撃には、友達同士のバトルのような懐かしさがあった。だから錯覚した。反撃しなくては、とリクは思った。肌にまとわりつく空気は、吸い込む空気は海辺のものだ。汽笛が聞こえる。友達の笑い声が聞こえる。踏みしめた地面は、タイルで出来ていた。舌が滑らかにその名を呼んだ。
「シャモ、砂かけ!」
振り返ったタマザラシの瞳が丸くなっていた。丸いフォルム。青い体。似ても似つかない鳴き声。
「たまっ?」
「えっ」
――違う。
雨あられと、無数の弾丸が全身を撃った。胸元の大きな花がはじけ飛んだ。
――此処はミナモシティではない。
どよめく魚達の声。黒い海は無数の気泡を孕んでいた。黒一色の鮮やかさで、のたくる眼球達が全身を貫いた。違う、違う違う! 否定の言葉が思考を灼いた。踏みしめた足下で、みるみるうちに虚像の街が冷たいステージへと姿を戻した。
「たまー!」
タマザラシの雄叫びだ。周囲に冷気が集約し始める。リクは指示をしていない。目の前で対戦相手が踊っている。あれはコダチだ。ぽっかりと空いた記憶は、ステージに立つまでの行動さえ教えてはくれなかった。
ルンパッパがふらりふらりと踊っている。ぐんにゃりと視界が曲がり、気分が悪くなるようなダンスだ。タマザラシの軸も、合わせてわずかに揺れている。リクはギクッとした。
「見るなタマザラシ!」
「たーまー!」
制止を聞かず、タマザラシは冷凍ビームを放った。凍てつく冷気の一閃は大きく空振り、天井照明を氷漬けにした。反動でタマザラシが後ろに転がった。目がぐるぐると回っている。完全に、混乱状態だ。直後、緑光のエネルギー弾がタマザラシを弾き飛ばした。吹っ飛んだタマザラシがリクの顔面にぶつかる。「あだっ!?」「たまっ!?」タマザラシは床に落ちると「たーまー……」と長い悲鳴を上げながらステージから転がり落ちた。リクは尻餅をついていた。目の前に星が回っている。
『おっとこれは意外な展開だーっ! 場外の為、コダチちゃんの圧勝ー!』
「えっへへー! Vサイン!」
「るんぱっぱー!」
コダチがルンパッパと嬉しそうに飛び跳ねている。ステージの画面いっぱいに、コダチ win/リク lose≠フ文字が表示された。リクは重たい頭で2、3回反芻し、ようやく「負けた」と理解した。
舞台袖に引っ込むと「どんまい!」「頑張ったね!」といちいち声をかけられたが、相手の顔さえ分からなかった。何が? と、頭の中の声がいちいち反論する。リクが感じていたことといえば、重い脱力感。そしてそれ自体も、酷くどうでも良いことだと思った。
廊下に出ようとすると、ドアはひとりでに開いた。ミントグリーンのチャイナ風ドレスが視界に入る。一歩下がって、リクは相手に道を譲った。相手のキルリアがこちらをのぞき込んできた。すぐにリクの方から視線を逸らした。リクの頬に冷たい感触が当たった。
「ひゃっ」
反射的に後ずさった。顔をあげると、羽根モチーフの仮面の人物の片手には、原因のミックスオレがあった。強い苛立ちを感じ、リクは相手を睨みつけた。確か、S、とかいう選手だ。仮面Sはミックスオレを投げて寄越した。リクが思わず両手を出して受け止めると、その隙に仮面Sとキルリアは横をすり抜けていった。
「待てよ!」
声を張り上げ追いかけようとしたが、『2戦目ッ! 謎多き仮面――』司会者の口上に立ち止まった。
リクはミックスオレを、ポケットに突っ込んだ。ポケットの中には他に、いつも髪を縛っていた白いハンカチも入っている。サザンドラは大会終了までアイドルキングの預かりだ。短いスカートの裾はふわふわしていて、落ち着かない。
三つの答え。生き残る為の答え。
少なくとも、スカートの中にはなさそうだ。リクは短い裾を下に引っ張った。
◆
二試合目の終了と共に、短い休憩時間に入った。仮面Sは舞台袖に引っ込み、おいしい水を口にする。「お疲れ様!」と声をかけてくるスタッフに混じって、着物風ドレスの人物――ユキノが仮面Sに歩み寄った。
「声をかけて差し上げないんですか?」
今終わった試合相手、ライカの事を言っているのだ。向こうの舞台袖で、ライカが地団駄を踏んでいた。それを見やったユキノが嘲笑する。「まぁ、品のない方」悔しがっているライカに、ショートカットの少女が駆け寄っていく。
「あちらの方も同じように振る舞いそうですわね」
ユキノはショートカットの少女――三戦目、ユキノの対戦相手であるコダチ――を見て、呟いた。だがすぐに興味を無くし、仮面Sへと視線を向け、目を細めた。
「わたくし、あなたとの試合を楽しみにしてるんです」
「そりゃどうも」
仮面Sは素っ気なく答えた。ユキノとは対照的に「はよ帰れ」オーラ全開だ。ユキノは分かっているのかいないのか、構わず会話を続行する。
「あなたもわたくしと同じ、ですよね?」
「悪いけど、俺は趣味でやってる訳じゃない」
受け答えするつもりは一応あるようで、仮面Sはげっそりした声で言った。ユキノは「あら」と意外そうに声を漏らす。
「二度も出場されるなんて、そういうことじゃありませんの?」
「そんな訳あるか。まぁ、君は好きでやってるのかもしれないけど」
「お友達も事情があってこの格好を?」
「友達?」
仮面Sは不思議そうに首を傾げた。ユキノは「開会式の時から、チラチラ気にされてたじゃありませんの」と告げる。
「なんか勘違いしてるみたいだけど、あいつは友達じゃないよ」
「違うんですの?」
「色々と事情があるんだよ。可哀想な奴なんだから、ちょっかいだすなよ」
仮面Sはユキノを牽制した。声が尖っていたが、ユキノは逆に目を光らせた。
「あなたが構ってくださるのだったら、出さないかもしれませんわ」
仮面Sが呻く。顔を隠すように、指で仮面を押しあげる。
「……大会の間だけなら遊んでやる。その代わりにリクに近づくな」
「嬉しい。仲良くしましょうね」
「いいか、近づくなよ。ちょっかいも――おい。お前、呼ばれてるぞ」
舞台にはもうコダチがあがっていた。リクに圧勝したことで勢いづいたのか、余裕綽々、自信満々、投げキッスを観客席にするくらい調子に乗っていた。ユキノは一瞬、可哀想なものを見る目をコダチに向けた。
「エイパムさんが五月蠅いので、失礼しますわ」
「早く行ってやれ。司会者が困ってるぞ」
仮面Sはしっしと追い払うように言い放った。ユキノは意に介した様子もなく、艶然と微笑む。
「約束、守ってくださいね。あなたとたくさんお話しできるのを楽しみにしていますわ」
そして、優雅な動作で舞台へと上っていった。仮面Sは疲れたように息を吐いた。モンスターボールの中のキルリアが、気遣わしげに主を見上げている。ぼそりと呟いた。
「変態ばっかりだな」
それから10分も経たずして、大きな画面いっぱいに『win ユキノ/lose コダチ』と表示された。
◆
――眠らない街、ゴートシティ。
欲に塗れ、身を堕としたもの達が最後に行き着く場所。いっとう高いビルであるスカイハイ≠ヘ、さながら不夜城といったところか。この街の支配者にしてジムリーダー・ツキネの居場所だ。
彼女は普段、ほぼ引きこもり生活を送っている。彼女の千里眼をもってすれば、わざわざ足を運ばずともゴートに湧き出る銀蠅共を制する程度、訳はない。サイコキネシス、テレポート、予知夢、サイコメトリー……力の代償に、一日の大半をこの部屋で寝て過ごす。
ここ数日の彼女は普段以上に睡眠を必要としていた。キングサイズのベッドに沈んでいた金茶の髪が、ずるりと持ち上がった。下げたペンダントが首元でちゃりちゃりと鳴る。
目覚めた主に、枕にされていた生き物が身じろぎする。ピンクと紫の身体に、頭頂部から煙をヴェールのように噴き出すポケモン、ムシャーナ。
「ふぃ……ふぃふぃん……」
ムシャーナはか細い鳴き声で、ツキネの周りをくるりと浮遊する。ツキネはムシャーナを優しく撫でた。ムシャーナから噴き出る煙は、暗く、重く、深海のような息苦しい色をしていた。それは少年を、ポケモンを、街を、群衆を、船を、次々と象り、最後には泡沫となって消散した。
ツキネはベッドサイドのパネルを操作した。スピーカーから『おはようございます、ツキネ様』と、部下の挨拶が返ってきた。
「預かったリーシャンは?」
『ツキネ様が倒れられた後、私が預かっております』
「オッサンは?」
『ゴルト様でしたら、ルーローへリク様を出迎えに参りました』
「あいつ……」
ツキネは渋面を作った。
「すぐ連絡を」
『かしこまりました』
数分と待たずして、荒っぽいのに、妙に品のある声がスピーカーから流れ出した。
『よォ〜ツキネ。そろそろかかってくると思ってたぜー』
「うっさいのです。いつまで遊んでいるのですか不良オヤジ」
『あと二日くれぇだな』
「死ね」
ツキネはシンプルに罵った。スピーカーから聞こえてくるBGMには、ツキネも聞き覚えがある。十中八九、ルーローのバトルアイドル大会だ。
『リーシャン視れたか』
「頭痛が痛いのです」
『オーケイオーケイ。土産の優勝トロフィーで手を打ってくれ』
「死ね」
再びの罵り文句は怨嗟が込められていた。スピーカーから相手の爆笑が響き渡る。ベッドを埋め尽くすクッションが、いくつか突然はじけ飛んだ。とばっちりでベッドサイドの写真立てが落ちる。怒りを抑えるために、ツキネは大きく息を吸い、吐いた。
「リマルカの情報以上のものは、何も分からなかったのです。余計なものまで視せられて無駄に疲れたのですよ」
スピーカーの向こう側、ツキネには聞こえない程度の声量で、ゴルトは『だろうな』と呟いた。
『面白いものはあったか?』
「あのモブの事なら――今回の事件の餌になるため、産まれてきたような」
『おーおー、ゴートの姫様にスケープゴート認定とは。お墨付きか』
「良くある悲劇とトラウマに、罪悪感マシマシでのたうってる芋虫とでも考えれば十分なのです」
『イラついてんな』
ツキネの声音は刺々しい。彼女のサイコメトリーは多くの情報をもたらすが、生き物を視ることは好まない。その生き物の記憶の感情に強く引っ張られるためだ。その感情が陰性のものであればあるほど、その生き物にとって衝撃の大きかった記憶であればあるほど――読み取ったときの負担は大きく、桁違いの疲労感を得ることとなる。今回、リーシャンを視たのは、特例中の特例だ。
「いじけ虫は嫌いなのです」
『お前の騎士は太陽だもんな』
「殺すのです」
『照れんなよ』
殺意高めの発言を流され、ツキネは怏々とした顔になる。ゴートの前ジムリーダーでなければサイコキネシスで吊し上げているところだ、とツキネは鼻を鳴らした。
その時、別の音が会話に割り込んだ。
『ツキネ様。至急、千里眼で確認していただきたいことが』
「内容は」
『不確定ですが、朱色の外套の目撃情報です』
「すぐ視るのです」
スピーカー同士でゴルトも『あとで俺にも報告くれ』『かしこまりました』と会話する。
「オッサンも、はよオニキスと付属品を回収してこっち来るのですよ」
『わぁったよ』
ゴルトは緩く返事をし、通話を切った。一人きりになると、ツキネは意識を千里眼に集中した。空気が糸を張ったように張り詰める。主の傍で、ムシャーナがクッションを宙に浮かせた。
「ふぃん……ふぃふぃん……」
壊れたクッションはダッシュボードに吸い込まれ、新しいクッションが飛んでくる。床に落ちた写真立ても浮かせ、もとの場所にそっと戻した。写真には、満面の笑顔としかめっ面。対照的な男の子二人に挟まれた、金茶の髪の女の子が写っていた。