Box.8 朱の襲撃
飛んでくる火の粉と、悲鳴と、逃げてくる人々と。人だかりの外から見たポケモンセンターから、高く炎が上がっていた。怒号。水ポケモン達が必死に消火活動をしている。
「オ――オニキス!」
人だかりをかき分け前に出る。皮膚がチリチリと焼けた。消火中のトレーナーがぎょっとした顔で手を伸ばしてきた。
「君、危ないから下がって!」
「オニキス! オニキス!」
引き留める手を振り払い、狂ったように名を叫んだ。いまだ衰えの見えない炎が喉を焼く。人だかりから数人の手が、リクの腕を、服を掴み引っ張った。彼等の目には、リクは炎の中に飛び込みかねないように見えた。そしてそれは、確かに時間の問題だった。人だかりを藍色の三つ編みが駆け抜ける。伸ばされた手がリクの首根っこを引っ張った。
「リク!」
「うぐっ!?」
「落ち着け! オニキスは中にいない!」
「うぐー! むぐー!」
「あ、悪い」
パッと手が離れ、呼吸が楽になった。ひゅう、と息を吸い込む。振り返り、見覚えのある顔に拳を振り上げた。
「首、を、つ か む な !!!!」
「待て待て待て緊急事態だ不可抗力だ許せ」
首ねっこをつかんだ相手――ソラが冷汗を流して両手を上げた。前といい今回といい、毎度毎度首を絞められては死んでしまう。ヒナタを助けた? 時も首が絞まった。この地方の人間は人の首を絞める習性でもあるのか。リクは喚いた。
「どうしてお前は首ばっかり掴んでくるんだ!」
「まだ2回目だから許して」
ソラがへらへらと笑い、リクは気の抜けた顔に脱力した。この、切迫した、状況下で! よくもそんな顔が出来たものだ! だが芯から冷えていた指先に、温度が戻ったような気がした。脱力したせいで落ち着いたリクから、引きとめる手が離れていく。消火中のトレーナーが二人を押した。
「下がって下がって!」
二人は押し流されるように人だかりの外に出た。かなりの人が集まっているが、火の勢いは弱まりそうもない。延焼を防ぐので精一杯だ。
「オニキスは――」
「ここだ」
周囲を窺い、ソラはポケットからモンスターボールを取り出した。サザンドラはまだ眠っていた。
「ただ、オレも必死だったから……お前の荷物とかまでは」
「大したものは持ってないからいいよ。それより、お前の荷物は?」
リクの荷物は全て、すでにトラックごと谷底に落ちた。ヒナタから預かった荷物はポケモン警察が回収していった。
リクが心配すると、ソラは背中の荷物を見せた。そこは抜かりないようだ。
「ちょうどお前待ちだったからな」
「なん――」
リクの問い返す言葉は爆発音にかき消された。悲鳴。強い風が人々をなぎ倒した。火の粉混じりの熱風に押し出され、人だかりの黒い波が、鈍く蠢きながら逃げていく。黒い顔の人々が逃げていく。振り返った人々の、赤く照らし出されたその顔。
不愉快な、だが聞き覚えのある哄笑が鼓膜を貫いた。
「ひゃはははははははははははははははは!」
ナギサの夜空にオレンジ色の巨躯が身を躍らせる。その背に乗る男は朱色の外套を着ていた。地を這う人々を嗤い、見下し、芝居がかった口上を述べる。
「レディース&ジェントルメン! あほ面の皆様に今宵、一世一代のショーをお見せしましょう!」
突然のノロシの登場に人々はポカンとした顔をしていた。リクも、ソラも、目が離せない。モンスターボールの中、耳触りな声にサザンドラは目を覚ました。
ノロシが指したのは水路だ。封鎖の影響で今は一匹も水ポケモンがいない。これがなんだというのか。静まり返った観客の耳に何かが聞こえてきた。それは耳を指で塞いだ時のような、くぐもった音に似ていた。だが耳奥ではなく、遠く、港の方から聞こえてくるのだ。目の前の水路はせんえんとして次第に強く、連想される事態もまた、観客の足もとからじわじわと沁み渡っていく。
『崩落で水路の流れが変わったんだ。水ポケモンたちを保護しないといけない』
リクの脳裏にホトリの言葉が蘇る。封鎖された水路の出入り口。巨大な岩と氷。ノロシの得意そうな顔。サッとノロシの手が挙がった。
「さぁ、ショーの始まりだ!」
それが合図かのように、突然の激流が水路を食らい尽くした。
沈黙の魔法が解け、群衆は一斉に混迷の最中に叩き落とされた。混乱は水路を媒体に伝染する。街中に喚き散らす狂瀾怒濤に、ノロシの嗤い声が重なった。
全ての事が同時に動き出した。ぴく、とタマザラシが反応した。ころころと水路へと転がった刹那、激流を誰かが矢のように走り抜けた。それを見たタマザラシは大きく息を吸い込んだ。ソラの手の中でモンスターボールがガタガタと暴れ出した。抑え込む隙を与えず、ボールが勝手に開く。白い煙。一瞬後、黒い翼が視界を開いた。
「オニキス!?」
「グルオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
サザンドラが上空に躍り出る。爛々とした目にノロシが映り込んだ。先手必勝。黒い波動弾が放たれた。ノロシがとっさに反応する。
「っ!? 避けろっ!」
「オオォン!」
リザードンが慌てて右に飛ぶ。紙一重で翼をわずかに掠った。体勢が崩れ、ノロシがサザンドラを睨みつける。
「てめ……ッ」
「――凍ビーム!」
遠く、声がした。ノロシはハッと目を見開く。
「この声――」
「たまー!」
街中のポケモン達が呼応する。大空洞方面から水路が瞬く間に凍りついた。それに応え、タマザラシも冷凍ビームを放つ。流れが止まった。
『水路再封鎖! 動ける奴は全員維持に回れ! 一つでもボールを取り逃がすな!』
拡声器からホトリの怒号が響き渡った。力強い声が混乱を無理やりにねじふせ、トレーナーたちが正気を取り戻す。凍った水路に、数十個のモンスターボールが囚われていた。水路の決壊とともに流された水ポケモンたちだ。人々の顔色が変わった。怒りと共に十数個のモンスターボールが空中へと放り投げられた。
「でてこいオクタン!」「おいで!ゴン!」「キング!」「やるぞアリゲイツ!」「お願いラプラス!」「ヒトヒト! いって!」「スターミー!」
飛び出したポケモンたちが水路へと殺到する。
『冷凍ビーム!』『岩石封じ!』
ポケモンたちが咆哮した。彼らもまた、怒りを禁じ得ないのだ。放たれた岩石と冷凍ビームが、瓦解しかかっていた水路をより強固に凍結した。
『主犯! ぶっ殺す! 待ってろ!』
ブチ切れたホトリの声を最後に、放送が切れる。ノロシが舌打ちした。
「ちっ! 思ったより早いじゃねぇか小娘!」
「グルォ!」
「おっと!」
「お前はこっちだ」とサザンドラが突進したが、リザードンは悠々と攻撃をかわす。
「グォ!」
「飼い主不在のポケモンなんざ、野生と同じだバァカ!」
「グガオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
リザードンは更に上空へと逃れた。サザンドラの目が怒りに赤く染まる。リザードンを追って、こちらもまた上空へと飛んだ。
「3人ここに残れ!」「4番水路の封鎖がまだよ!」「大空洞付近だ! 人回せ!」「主犯を押さえろ!」「朱色だ! 朱色のクソ野郎を探せ!!」
「ソラ! クロバット貸してくれ!」
「ヘァ!?」
それぞれが、今出来ることを。四方に駆け出した人々の最中、リクは危機迫る顔でソラの肩を掴んだ。
「オニキスを助けないと――早く!」
「たまー!」
いつのまにか戻ってきたタマザラシも同じく声をあげた。気合い十分。状況が分かっているのかは謎だが。
「馬鹿お前あんな高速飛行バトルしてるやつらに追いつけるかァ!」
ソラは上空を仰ぎ見て悲鳴のように叫んだ。リザードンとサザンドラが戦闘を続行している。2匹の攻撃がせめぎ合っているが、ややサザンドラの分が悪い。誰も手助けはしない。
いや、出来ない。その意味をソラは知っていた。
「サザンドラにはトレーナーがいない以上、手出しが邪魔になるリスクが高すぎる! 分かってんのかお前!」
だがリクはひかない。完全に目の色が変わっていた。
「リザードン100!」
「は!?」
「サザンドラの素早さは……たぶんわずかに低い! クロバット130だ! 理論上は追いつける!」
「何の話――まて、種族値か?」
ポケモンは種族ごとにステータスの基礎値が決まっている。その後の努力によって変化はするが、基本的には進化しないかぎりこの値は変化しない。優秀なトレーナーほど、あらゆるポケモンの数値・特徴・技が頭に叩き込まれているが、リクがそれを知っていた事がソラには意外だった。リクが畳みかける。
「お前、キルリアもいたよな!?」
ソラは言外の意味を察した。理屈上はあの2匹に追いつける。問題はタイミングだが、キルリアには“近い未来を見通す力”がある。条件は揃っている。上手くいけばサザンドラを助けられるかもしれない。
「オニキスを助けないと。でも、オレだけじゃ駄目だ!」
リクは必死に懇願した。怖くないわけではない。ソラの肩を掴む手は震えていた。でもそれ以上に――
「あいつ、このままじゃ死んじゃうよ!」
「グルオオオオオオオ!」
サザンドラの咆哮。ハッとして2人は上空を仰ぎ見た。炎にまかれたサザンドラが、振り払うようにがむしゃらに飛んでいた。
「……くそっ! やってやるさ!」
「ああ!」
「たまー!」
足元では、タマザラシも短い拳を構えていた。
◆
ナギサタウン、港――
「なぁんで、ボクがヤンキーと組まなきゃいけないんッスかね〜遺憾ッスよ〜」
黒い煙が上がっていた。船を包む炎が、海面を夕陽のように染める。愚痴りながらも、少女はぼんやりと炎を鑑賞していた。青い瞳が夜の闇と炎を映して輝く。美しい庭園を味わうように、少女は燃える船を眺めていた。
「キュイイ?」
少女を乗せたギャロップが顔を向けた。負のオーラを撒き散らす主を、健気にも心配しているのだ。
「ぽに子慰めてくれるッスか! 流石お前は優しいッス!」
「キュイ〜」
少女は頬を染めてギャロップに頬ずりした。ギャロップも嬉しそうだ。それに対し、抗議の鳴き声が別の場所から上がった。
「びゅい! びゅいびゅい!」
大きな火柱があがる。完全に崩壊した水路に一気に海水が流れこむ。ついでと言わんばかりに追加で火炎放射が放たれ、倒れていたものが炎上した。ほとんど炭と化したソレを軽快な足取りで踏みつけると、ブースターは少女のもとへ駆け寄った。
「びゅい!」
「ぶい助も頑張ったッスよ! ちゃんと忘れてないッス!」
「びゅい〜?」
「なんスかその疑わしそうな眼差し!」
半眼のブースターに、冷汗を流して少女は弁解した。
『水路再封鎖! 動ける奴は全員維持に回れ!! 一つでもボールを取り逃がすな!!』
突然の大音声に少女は耳がキーンとした。文句を垂れ、耳に指を突っ込む。
「ばかでかい声ッスね〜耳がぶっ壊れるかと思ったッス。心臓に悪いッスよ!」
朱色のフードが滑り落ち、金髪のツインテールが顔を出した。
『主犯! ぶっ殺す! 待ってろ!』
ぶつ。
拡声器からの声が切れた。
「超キレてるじゃないっスか。再封鎖か〜ちゃんとお仕事終えないと怒られそうッス」
少女はうんうんと唸った。面倒くさい、と顔に書いてある。脳裏にボスの顔も浮かんだ。数秒の後、嫌々ではあるが両頬を叩いて気合いを入れる。
「仕方ない。イミビは良い子だから、しっかり働くッス」
少女――イミビは顔を引き締める。ギャロップにブースターも飛び乗った。轟々と赤く染まる港を後にして、1人と2匹が街へと駆け出した。