Box.5 迷いと選択
自らに降りかかった出来事のすべてを話し、リクは暖かいお茶を飲んだ。ふむふむと頷き、何事か考えていたホトリに問いかける。
「あの……オレは、どうしたらいいんでしょうか」
いろいろなことが一気に起こった。誕生日を祝ったのが、もう随分と前のことのように感じる。嵐のように災難は自分の身に降りかかり、そして一応は去っていった。今は、空白のような時間だ。指針が欲しい。どうしたらいいのか、指示して欲しい。
だが、ホトリから返ってきたのは問いかけだった。
「君はどーしたいの?」
「え」
リクは戸惑った。どうしたい。その答えがないから困っているのに。
地下大空洞であった事を思い返した。流されて、死にかけて、ずっと暗闇を彷徨って。もうあんな目にあうのはごめんだ。それだけは間違いない。
『諦めなければ帰れる。俺が保証する』
唇を噛みしめた。帰れる。保護された自分は、帰れる。けどヒナタは? 彼の帰還は、誰が保証してくれるのだ? やりたいこと、したいこと……ヒナタを、助けたい。けどそれは口にできなかった。
どうせ無理だ。怖い目にあっただろう? 恐ろしい目にあっただろう?
リクはヒナタを助けたかった。だが同じくらい、下手したらそれ以上に。
――もうこの事に関わりたくないと、思ってしまった。
「……オレはそんなに、つよくない、ですし」
視線が膝に落ちた。ホトリと目を合わせたくなかった。
「ヒナタ……さん、はチャンピオンなんだから、そうそう負けないと思うし、大丈夫なんじゃないかと思います」
ヒナタは強い。あのとき見た限りで確信できるほどに。リクなど足元にも及ばないくらいに。
だから大丈夫だ。きっと大丈夫だ。
自分はきっと助けにならないから。きっと失敗するだろうから。
「だから、その……」
自分の考えは間違っていない筈だった。
でもなぜか、リクは言葉を紡ぐごとに後ろめたいような気持ちになっていた。
「リク君」
ホトリが名を呼んだ。怒られた訳ではないのに肩が震えた。恐る恐る、目を泳がせながらも顔を上げる。ホトリは怒っていないし、笑ってもいなかった。ただ、探るような目で此方を見据えていた。
「本当に、そう思うのかな?」
呼吸が止まった。はくはくと、酸素を求めるように口を開いて、閉じて。慌てたように、舌が勝手に動いた。
「そ……そうです」
言葉が続く。
「オレと違うから。ヒナタさんはすごく強いから……絶対、大丈夫です」
だから、自分が助ける必要はない。
「そう」
ホトリが言った。無感情な返答だったが、すぐににっこりと笑顔を作った。
「ヒナタ君強いもんね。あたしもそう思うよ」
「あ……そ、そう。そうですよね!」
ホトリが明るく同意し、リクはホッとした。室温はちょうどいいはずなのに、知らず流していた汗を拭う。
「リク君をマシロタウンに帰さないといけないんだけど……今ちょっとごたついてて。時間がかかりそうなんだ。ごめんね」
先日の崩落でラチナの主要交通を担うトンネルのいくつかが塞がってしまった。リクの祖母がいるマシロに行くには非常に遠回りな道か、非常に危険な道の2つしかない、とホトリは説明した。
「リク君を危険な目にあわせるわけに行かないから、遠回りな方しかないけど。ちょいと遠すぎるね、2週間はかかるよ。ラチナはどーにも特殊というか、険しい自然が多いというか……」
2週間。予想よりもだいぶ長い。それでも帰れるという事実に、リクは安堵した。
「今夜は良く休んで、明日にでも出発だよ。ジュンサーさんにはあたしから話を通しておくね」
「あ、ありがとうございます」
リクが礼を述べると、ホトリは鷹揚に頷いて席を立った。「じゃあ、あたしはこれで」立ち去ろうとするホトリに、リクは急いで残りの疑問を投げかけた。
「あの! オレのリーシャンとオニキスはどうなりますか? ヒナタさんは?」
ホトリが振り返った。
「リーシャンはカザアナジムリーダーに保護されたらしいから、その内帰ってくるよ。オニキスとヒナタ君の事はポケモン警察に伝えとく」
「……大丈夫、ですよね?」
ポケモン警察に伝えて、それで、終わりなのだろうか。リクは眉を下げた。ポケモン警察だけではなく、ジムリーダーも動くのが普通なのではないだろうか? 少なくとも、リクのいた地方ではそうだ。
だが、ホトリはこてりと小首を傾げた。
「さぁ?」
あっけらかんとした、投げやりな言葉だ。呆然としているリクに、ホトリが言葉を付け加えた。
「正直、ポケモン警察の手には負えないだろうね。どこのジムリーダーも街の対応に手を焼いてるだろうし。住民の生活とヒナタ君を天秤にかけたら、今は少なくとも前者に傾く。ヒナタ君を探しに行く奴がいるとすれば、サイカの監視者かゴートの眠り姫くらいじゃないかな」
「じゃあどうするんですか?」
「だから言ったんだよ。「さぁ?」って」
ホトリが薄く笑った。
「でも君がヒナタ君の事を気にする必要も、心配する必要もないよ。君は“巻き込まれただけの被害者”で“ラチナ地方の部外者”だからね」
突き放すような言葉に、リクはぐっと黙った。自分は助かった。そして、“もう関わりたくない”と主張した。ホトリの言葉は間違っていない。だがその言葉は、心に刺のように突き刺さった。
「お休み、リク君。明日は気をつけて帰ってね」
ホトリが病室を去った。リクは何とも言えない気分で、その背を見送った。
◆
暗闇の中に立っていた。
「ひ、ぃ」
暗いのは怖い。
独りは辛い。
誰もいない。
伸ばした手が何かに触れた。泣きそうになりながら縋りつく。大きな体だ。凶悪だが、強い光をもった紅眼がリクを見返す――サザンドラだ。リクの肩を誰かが叩いた。振り返ると、ヒナタがいた。
「よ!」
大きな手が、震えるリクの背をバシバシ叩く。
「大丈夫だ、信じろ!」
彼は笑った。1人と1匹が闇の中、リクの手をひいて歩き出す。闇の中を、迷いのない足取りで。
「リー!」
「あ……」
闇の向こうに光が見えた。懐かしい声に、リクは駆け出した。
「シャン太!」
「リーリリリ!」
光の中から飛び出したリーシャンを抱き留めた。リーシャンが嬉しそうに鳴く。
「リー!」
「良かった! シャン太! あ、ありが――」
振り向いた先には、誰もいなかった。
サザンドラも、ヒナタも。
視界が朱く染まった。何もかも焼き尽くすような熱気が、炎を伴ってリクの視界を埋めつくした。焦燥感が全身をざわざわと侵食していく。
思わず、ヒナタの名前を呼んだ。
「ヒ――ヒナタ!」
どうして。
きっとすぐに返事があるに決まっている。だってさっきまで、笑ってたじゃないか。大丈夫だって、背中を叩いてくれたじゃないか。オニキスだって、引きずってでも自分を助けてくれて、だって、だって、だから――
「オニキス! ヒナタ!」
足が動かない。彼らの消えた先には焔が燃え盛る。
リクの震える足では、進むことが出来ない。進むだけの勇気など、どこにもなかった。
ヒナタは強くて、オニキスも強くて、自分は弱くて。彼らが自分を助けてくれるのは、彼らが強いからだ。自分は弱い、から、強い彼らがいなくなってしまったら、どうしたらいいのか、分からない。途方に暮れるしかない。
違う。見捨てたんじゃない。
違う。自分だけ助かりたかった訳じゃない。
「ヒナタ!」
声の限りに叫ぶ。喉が裂けるのではないかと思うほどに、繰り返しヒナタとサザンドラの名を呼んだ。叫ぶほどにリクの喉を炎が焼いた。呼吸をするほどに炎は勢いを増した。
ヒナタ達の声は、最後まで返ってこなかった。
◆
飛び上がるように布団を跳ねのけた。
「は……っ、は、ぁ……」
嫌な夢を見た。
心臓がどくどくと暴れまわっていた。全身汗びっしょりだ。
悪夢を見たのは久しぶりだった。目が覚めたら忘れているなら良かったのに、どんな夢だったのかはっきりと覚えていた。
ベッドの上でうずくまり、リクは頭を抱えた。
「オレに、どうしろっていうんだよ」
呻いた。何か出来るとは思えない。何かしなくてはいけないと思う。頭の中の声が「知らんぷりしろ。逃げてしまえ」とうそぶいた。
窓の外はまだ暗く、ホーホーが鳴いている。もう、眠れそうな気がしなかった。深くため息をつき、リクは病室を抜け出した。散歩でもしたら不安も軽くなるかもしれない。オニキスはもう回復したのだろうか。昼間に見た時は、まだ眠っていた。足を回復装置のある部屋へ向けた。
静かに、音を立てずに入室する。回復装置にいくつかのモンスターボールが収まっていた。オニキスは――いない。
「え?」
リクは自分の目を疑った。もう一度、オニキスのモンスターボールを探した。ニョロトノ、オオスバメ、パッチール――やはり、サザンドラだけいなかった。昼間に聞いた限りでは、回復には翌朝までかかると言っていたのに。
足元に何かが触れた。屈んで拾い上げ、暗い中で目を凝らした。開きっぱなしの窓から風が吹き、月光が手元を照らす。
空っぽのモンスターボールだった。
「――」
予感があった。空のモンスターボールを病衣のポケットに押し込み、窓枠へとよじ登る。焦りのままに窓から飛び出し、盛大に着地に失敗して顔面から地面に突っ込んだ。
「ってぐえ!」
硬いし痛い。舗装された地面だ。吹き出る鼻血を拭い、走り出した。
どこへ向かったかは分かっている。問題は、自分には土地勘がない事だ。見慣れない街並みを走った。変わった町だった。道の代わりに水路が走り、橋があまり見当たらない。急ぎすぎて、スリッパは両方ともどこかで脱げてしまった。水路の両側の道を裸足で走る。
分からない。街の外へ出たい。トンネルへ行かなくてはいけない。
「フィっ!?」
「ぎゃっ!」
急いで角を曲がった時、誰かにぶつかった。リクも相手も尻餅をついた。
「いてて……ご、ごめん!」
「フィー」
急いで立ち上がり、相手を助け起こす。緑の髪に白い体、ぶつかった相手はキルリアだった。トレーナーらしき少年が駆け寄ってきた。
「リア!」
藍色の髪を三つ編みにした少年だ。リクはキルリアの土汚れを払い、少年とキルリアに謝った。
「ごめん、急いでて。ほんとごめんな」
「フィイ」
キルリアは「大丈夫だ」と鳴いた。相手の少年がリクを見てギョッとする。病衣に、汚れた裸足。目を丸くしたのを見て、リクは慌ててその場を去ろうとした。
「じゃ、じゃあオレ急いでるんで!」
「ちょっと待った!」
「フィフィー!?」
「うぐッ!?」
リクの首根っこを少年が、裾をキルリアがひっつかんでいた。キルリアの頭部の髪飾りのような部分が群青に光っていた。強く、深く――薄暗く。少年はキルリアの光っている部分の色をチラと確認し、キルリアと一緒に頷いた。
「えーっとなんだ、お前困ってると見たぞ!」
「うぐぐ!」
「あやしいかもしれんが、ちょっと話を聞かせてみろ!」
「んぐー!うぐぐぐぐ!」
「あ、悪い」
「ぐえっ!」
少年はリクの首根っこから手を放した。咳きこみながら、リクは胡乱気に少年を見やる。
「なんなんだ!」
「通りがかりのお兄さんだ」
お兄さんと呼ぶには、リクと身長も、年齢も、そう変わらなさそうに見えた。わずかに相手の方が背が高い程度だ。
「お前、何歳?」
「11歳」
「同い歳かよ」
リクはがっくりとうなだれたが、少年は「お兄さん」の立場をあくまで譲らなかった。
「オレはソラ。ソラお兄さんと呼ぶように! 何処へ行きたいんだ?」
「……町の外へ。トンネルに行きたい」
この際、リクは少年――ソラを頼ることにした。なんだか怪しいしよく分からない相手ではあるが、一応、悪い人間ではなさそうだ。その証拠に、ソラは嬉しそうに胸を叩いた。
「任せろ。出てこい!」
ソラがモンスターボールを放ると、鳥ポケモンのムクバードが現れる。キルリアをボールに戻し、ソラはその背に飛び乗った。「後ろに乗ってくれ」促され、リクも乗り込んだ。
「行くか!」
「クェー!」
闇夜にムクバードが舞い上がる。静かな夜に、羽音が響き渡った。