Box.80 盲目で敬虔なお前への通告
終わったと誰もが思った瞬間の、気の緩みであった。
バシャーモは気絶し、エテボースは満身創痍で、チリーンは少年二人の静かな声に耳を傾けていた。ヒールボールはしっかりと抱きしめている。ウミとリクの傍に行きたい気もしたが、今はこの2匹も心配だった。エテボースに終わったことを告げると、やれやれだ、と応えるように彼は息を吐いた。
ステンドガラスの下で息絶えたように見えていた、血濡れの鳥がぐらぐらと体を持ちあげた。血走った瞳が周囲を見回し、ヒールボールを抱きしめるチリーンに目を止めた。バルジーナは全てを聞いていた。
バルジーナは翼を広げて飛んだ。羽音に疲れ切った少年達は気がつかなかった。いち早く気がついたのはチリーンだったが、狙われていたのもチリーンだった。風を切って飛び込んできた骨がチリーンの小さな体を弾き飛ばした。
「――リゥ!?」
ヒールボールを抱いたチリーンを、バルジーナの嘴が捕えた。身を引き裂かれる痛みに悲鳴をあげ、チリーンは必死にヒールボールを抱きしめた。エテボースが立ち上がろうとするが走り出さない内にガクンと前のめりに倒れた。気がついた少年達が振り返り、同時にチリーンの名を叫んだ。
ぐんと速度をあげて、血を振りまきながらバルジーナが喉奥で哄笑する。リーグ前の湖へ飛び去った。
◆
時間は少し戻る。
リクを最上階――チャンピオンの間へと送り出した後、とうのチャンピオンであるヒナタはノロシと相対していた。とはいってもヒナタにノロシを倒すつもりはない。あくまで彼の目的はウミとバシャーモの保護°yびアカツキの捕獲≠ナあった。ノロシが退くならよし。必要なら倒すが、一番は投降してくれると話が早い。
そこがノロシとは意見が食い違う点であり、不幸にもヒナタは両者の間に深い溝があることを理解していなかった。有り体に言ってしまえば、相手のことが眼中になかったのである。
竜の波動がリザードンの胴を直撃した後、それでもリザードンは倒れずによくノロシの指示に従った。このクソが、ふざけるなよ、死ねや、などと罵倒のオンパレードを繰り広げつつ指示だけは的確なのは、ヒナタのライバルを自称するだけはあった。縦横無尽に飛び回るサザンドラの背中でヒナタは声を張り上げた。
「ノロシ! お前はどうしてアカツキに従ってんだ!? あいつの目的知ってんのか!?」
「てめぇをぶっ倒すために決まってんだろうがよ! 火炎放射ァ!」
「ゴォ!」
罵倒と炎が返ってきた。
壁沿いに滑るように飛ぶサザンドラが「話し合いの余地などない」とばかりに吠える。ヒナタが唸った。やはり戦うしかなさそうだが、そうも時間はかけられない。ヒナタは腰の三つ目のモンスターボールに手をかけた。
「オニキス、リザードンに近接できるか?」
「……ゴォ!」
呆れ混じりの返事だった。ガッと壁を蹴り、サザンドラが頭からリザードンへと突っ込んだ。ノロシが歓声をあげる。
「フレアドライブだァ!」
「グォウ!」
全身に炎を漲らせリザードンが迎え撃つ。朱色の外套――耐火性能のあるポケモンの羽で織られた特別製だ。トレーナーの身を守る外套が無茶な技の行使を可能にする。
サザンドラが紙一重でリザードンを避け、ヒナタがすれ違いざまに相手へ飛び移った。リザードンの速度は落ちない。腰のモンスターボール、3つ目の中身は空。
ヒナタの顔面に裏拳が飛んだ。
「読めてんだ――よォ!」
「ぐッ!」
同じ手は2度は喰らわない。裏拳と同時にリザードンが急旋回し、掴まり損ねたヒナタが落下する。リザードンの羽根の付け根に腕をかける人影ひとつ。落ちるヒナタが笑みを浮かべ、ノロシの鼻先を綿毛が掠めた。
「わたほうし=I」
リザードンの速度がガクンと落ちる。舌打ちするノロシの目にノクタスが映った。ぶわっと広がるわたほうしの群れが視界を遮った。
落下したヒナタをサザンドラが床ギリギリでかすめ取り、同時にノクタスが裏拳をノロシの腹に叩き込んだ。ノロシが苦痛の声を嘔吐し、体勢を崩した。纏わるわたほうしにリザードンが低空飛行へと切り替える。
「クソがァ!」
刹那、階段上からの吠え声が場を圧倒した。
リクが最上段へ達し、ウインディと相対していた時間である。赤い群れが視界を切り裂き二人のバトルを覆った。敵味方関係なくぶつかり通過し一目散に飛び去っていくヤヤコマとヒノヤコマ達。壊れたエレベーターの入り口に殺到するも広さが足りず、大広間の窓という窓を破壊して外へと逃れていく。ステンドグラスが澄んだ悲鳴をあげて吹っ飛んだ。
何が。
ヒナタの背中に悪寒が走った時、ラチナが大きく揺れた。
直感的に、間に合わなかったのだと悟った。
サザンドラが竜の波動を放つ。直近でリザードンの火炎放射と衝突する。ハッとしてノロシとリザードンを見ると、フィールドに降り立った――赤の群れに、降りざるを得なかった彼らがいた。ノロシがガクガクとする足を抑え、クソが、と小さく悪態をついた。
腹部からヤドリギのタネが発芽している。
「仕込みやがったなテメェ……!!」
「丈夫だなお前。たいていの連中は、ジェドのそれ一発で動けなくなるんだけど」
ヤドリギのタネが継続的にノロシの体を蝕んでいる。手加減は仕込んであるが、常人に耐えられる痛みではない。
ノロシが脂汗を流しながらニタリとした。蔓を引き千切っていく。本来ならそれくらいで対処できるものではないが、ノクタスが人間相手で手加減したため、蔓がくたりと萎れていく。ヒナタはノロシ達を視界に収めつつ、ノクタスの位置を確認した。
ヤヤコマ達の群れに襲われたとき、ノクタスもリザードンから離脱せざるを得なかった。睨み合うヒナタ達から少し離れた燭台の近くで様子を窺っている。
「へッ! 正義のチャンピオン様とやらが、随分エグい真似するじゃねぇか、なぁ!?」
「正義か」
性に合わないが、善悪で現実を割り切れはしない。
「……むかーし、お前、ノロシだっけ? キラメイジャーって番組やってたの知ってるか?」
「ハァ?」
「宝石戦隊キラメイジャーだ」
ピクピクとノロシの顔に青筋が出たが、一応聞く気がありそうだ。巻きついていた蔦はほとんど千切り終わっていた。体力回復までの時間稼ぎに話を聞いてやろう、という魂胆なのだろう。
「その主人公がレッドルビーで、レッドルビーにかかればどんな敵も改心するし、仲間は必ず守るし、洗脳されても取り返す。俺が正義だってなら、お前、改心すんの?」
「馬鹿じゃねぇの?」
「そーだよなぁ。だったらヤドリギくらいでぐだぐだ言ってんじゃねーよ」
正しい方法なんて世の中にあるものか。自分が正しいと思うやり方があるだけだ。
正義なんてあるものか。
お互いに自分が貫きたい信念があるだけだ。
「最終通告だぜ、ノロシ。退けよ。今だったら忙しいから見逃してやる」
今の揺れ。ウインディの吠え声。
どちらも間違いない。テセウスの封印が解けたのだ。
間に合わなかったのなら、ヒナタがやるべきことは捕まえるか倒すかの二択だ。ここで消耗している時間はない。
ノロシが顔に青筋を立てた。足の震えは収まっている。
そろそろ、来るか。ヒナタはサザンドラを叩いて合図を出す。サザンドラが足を開き、姿勢を低く構えた。反動に備えるためだ。
「テメェは一回俺様に負けてる癖に、何様だってんだ?」
「あの大空洞で俺は、バルジーナの横やりで落ちた。あの鳥と組んでるなら分かるけど、お前、違うだろ」
「バルジーナだと?」
ノロシの顔色が変わった。
「デタラメ言ってんじゃねぇよ。横やりなんぞなかった。あれは俺様の実力よ」
語気が少し弱かった。
「コーラルが技を放った直後のことだった。本当に手応えはあったか? お前のゴースト、首傾げてたんじゃないか?」
「デタラメだっつってんだろ!!」
ノロシが絞り出すように吠えた。怒りで震えている。
否定しきれないことは一目瞭然だった。リザードンを叩いた。お喋りの時間は終わりとノロシが拳を振り上げた。
「うるせぇよ! だったらここで! テメェを! ぶっ殺せば同じ事だ! ――火炎放射ァ!!」
リザードンが上体を大きく反らし、火炎の激流を放った。視界が輝く朱に染まる。
ヒナタはぽんとサザンドラを叩いて駆けだした。
「やっぱ駄目か。――破壊光線!」
サザンドラがぐっと足を踏ん張り、白刃の閃光を放った。白と朱が絡み合ったのは一瞬で、白刃が見る間に火炎放射を貫いた。火炎放射を逆走する閃光がリザードンの頭部を直撃する。余波に燭台がバキンと折れて吹っ飛び、ノロシが両腕で顔を庇った。凄まじい風が体を叩く。
舌打ちして顔を上げかけた時、足下にミサイル針が飛んできた。
「てめ――ッ!」
ヒナタのノクタスが放ったものだ。怒りを露わにノロシが睨むとノクタスはやれやれと肩を竦めた。ノロシは腰の三つ目のモンスターボールを掴んだが、ぞわっと嫌な予感がして振り返った。
拳が飛んできた。
「ぐぁっ!?」
骨が軋む音がした。
破壊光線の隙に近づいたヒナタがもう一発殴ると、ドッとノロシは倒れ込んだ。気を逸らすアシストをしたノクタスが小走りに近づき、ノロシの外套の裾を引き裂いた。ノロシの腕と足を簡単に縛り上げ、その隙間にヤドリギを仕込む。発芽したヤドリギが縄のように腕と足にしがみついた。
気絶はしなかったものの、ぐらぐらと脳が揺れているノロシは抵抗もたかが知れていた。罵倒も口に出来ないくらいの彼に、ヒナタが鼻を鳴らす。
「最終通告だって言っただろ」
「なん……で、たたか……な……!」
ノロシがはくはくと口を動かした。
何故、まともに戦わない。そう言いたそうだった。
知るか、とヒナタが言った。
「俺しか見てないお前の相手してるほど、俺達は暇じゃない。大人しく転がってろ」
ノクタスを戻してヒナタはサザンドラに乗った。リクも気にはかかったが、テセウスが先だ。割れたステンドグラスから飛び出して湖に臨む。
濃い水蒸気が上がっていた。濃縮された獣の唸り声のような音が湖面の底から聞こえてくる。水ポケモンを助けられたら、とヒナタは考えていたが――すでに、遅いだろう。立ち上る熱気だけで息が詰まりそうだ。
水面が下がっている。数刻と経たずして、来る予感がする。
「――?」
風を切る気配にヒナタは耳を澄ませた。濃霧の底ではなく、リーグの最上階からだ。
ボン! とヒナタの最後のモンスターボールが開いた。
「キェアアアアアアアア!」
濃霧の向こうから、鳴き声がした。同時にわずかに混ざった鈴の音――ヒナタが叫んだ。
「チリーン! 俺を呼べェ!」
「リー!!」
濃霧の底へ向かう声がする。少年達の切羽詰まった悲鳴が聞こえる。サザンドラが音を頼りに水蒸気の霧を引き裂き飛んだ。
チャンスは一回。逃せば取り戻しがつかない!
落下する鈴の音に手を伸ばした。手の先を体が掠めた。
「お、とすかアアアアアアアア!」
咄嗟にチリーンの尻尾を掴んだ。ぶらんと下がったチリーンに息をついた瞬間、頭上からエアスラッシュが落下した。振り向く時間も、避ける時間もない。
濃霧の向こうでバルジーナが哄笑する。
「――サンキュー、コーラル」
ヒナタが呟いた。
ミラーコートにエアスラッシュを反射する。
サニーゴはサザンドラに霊体で掴まりながら無言でバルジーナを睨んだ。予想外の反撃にバルジーナの片翼が切り裂かれる。
「ア゛ア゛アァア゛ァアアア゛アァアア!!」
落下するバルジーナがサニーゴを睨み返し、悪の波動を放った。サニーゴが迎え撃つべくパワージェムを放ち、チリーンが反射的に守る≠発動させた。
その時、その場の誰も予想しなかった事が起こった。
巨大なマグマの柱が湖面を吹き飛ばしたのである。