Box.78 生存の為の3つのヒント
「――おい!」
倒れ込んだウインディへと駆け寄った。階段に滴り落ちる血の量は尋常ではなく、踏みしめた足も触れた手も真っ赤に染まった。
体にはまだぬくもりがある。しかし、彼女はすでに命を終えたのだとはっきりと分かった。鼓動が止まり、ごわごわとした毛並みの下のまだ暖かな体に触れた。動かない彼女の内部は崩壊を始めている。
最後に聞こえた声は……ポケモンが喋るはずがない。
だが勘違いだと断じるには、あまりにもその出来事は生々しかった。
「行こう」
ウインディに頭を下げた。チリーンは短い黙祷を捧げ、エテボースはリクに習った。トドグラーだけはボールの中で不思議そうな顔をしていたが、リク達の真似をして勢いよく頭を上下させた。意味は分かっていなさそうだが、彼女なりに何か感じるものがあったらしい。
最後の階段を上がる。
真っ赤な場所だった。
揺れはあの1度だけで、今は嵐の前のような不気味な静けさだけが取り残されている。正面にはプロメウを模したステンドグラスが鈍く輝いていたが、あの揺れでひびが入っていた。
「くけへぇ」
ステンドグラスへと血濡れの身を引きずって、灰色だった鳥が鳴いた。羽根や体の食い千切られた箇所から血が溢れ、ごぼごぼと喉で血を泡立たせながらステンドグラスを仰ぐ。
「けひっぃ」
ごぼっ、と血を吐いた。満身創痍なのは灰色の鳥――バルジーナだけではない。大理石のフィールドには激しいバトルの痕跡が血によってまざまざと残されていた。
血だまりに伏す赤い鳥――ファイアローは、朱色の外套の誰かに寄り添い倒れていた。遠目には誰だか判別がつかないが、おびただしい血の量から生きてはいないだろう。
それがウミではないかと心配する必要はなかった。
「リ!」
「シャモ、ウミ!」
うつむき、座り込んでいるバシャーモが小さな誰かを抱えていた。チリーンが真っ先にすっ飛んでいき、バシャーモへと必死に話しかける。
彼は泣いていた。
抱えている誰かは、誰かではなく、人の形をした灰だ。
「リ……」
チリーンが恐る恐る、灰に触れようとした。生命の鼓動の感じられない存在へ、それが誰≠ナあるのか、恐れながらも確認しようとしていた。
エテボースが鋭く鳴いた。
「シャン太ッ!」
瞬間、バシャーモの全身から青い炎が乱れ咲く。寸前で引き戻したリクとエテボースによって、チリーンは間一髪で火傷を逃れた。チリーンが息を呑んだ。エテボースが背中にチリーンを庇い、すぐに臨戦態勢をとる。狼狽えたチリーンが灰を凝視し、リクへと泣き出しそうな目で訴えた。
ウミは、どこに。
「シャモ」
声をかけるが、バシャーモは静かに泣いているばかりで返事もしない。炎のような苛烈な感情表現はなりを潜め、悲しみだけがバシャーモの姿で固まっている。
炎はあの一瞬だけだったが、再び触れようとすれば同じことの繰り返しになるに違いない。バシャーモへと近づこうとしたリクの腕をエテボースが引き止めた。
「……頼む。任せてくれないか」
危険は承知している。
バシャーモのトレーナーである自分がやらなくてはなるまい。
エテボースの尻尾が離れる。リクはチリーンへと手を差し出した。
「癒やしの鈴を」
「……リ!」
ふわり、とチリーンが浮かび上がり、リクの手をとった。体を揺らし、穏やかで優しい鈴の音色が響かせる。進化したことで音色が少し変わった。より高く、澄んだ音へと。
チリーンの音色には、穏やかに染みこんでいく想いが籠もっていた。必ず届くように、心の底まで届くように。リクの想いも乗せて、りぃんと広がっていく。
閉じた心へ祈りを込めて、願いを込めて、癒やしの鈴が謳われる。
「シャモ。オレだ、リクだ」
バシャーモの涙に濡れた顔がゆっくりと持ち上がった。それは彼がアチャモだった頃、大きな失敗をしてしまった時の情けない顔にそっくりだった。あの時は互いにまだ子供で、腹立ちをぶつけてしまうことほとんどだったが、その後は決まって母に叱られた。
――失敗したと分かっている子をそれ以上責めてどうする。トレーナーを名乗るのならば、勝った喜びだけじゃなくて、悔しさも悲しさも分け合ってみせろ。
それが、ポケモントレーナーだ。
「来るのが遅れて悪かった。帰ろう」
ぼろぼろと涙を零すバシャーモが、首を横に振った。抱いている人の形の灰に目を落とし、小さく、蚊の鳴くような声で鳴く。
その時、人の形の灰が咳き込んだ。びくっと肩を震わせたバシャーモが硬直している間に、ゲホゲホと体を曲げたその人から灰が落ちる。灰の下から、白い髪が覗く。
白髪の青年――アカを思いだし、リクは少し息を呑んだ。しかしチリーンがせっせと灰を払いのけ始めたので、慌ててそれを手伝った。バシャーモは硬直したまま、自身の腕の中で行われている出来事を見つめている。灰まみれの顔を拭うと、髪の色以外は見知った顔つきの少年が見返した。
「……?」
「リー!」
チリーンが泣きながら少年の頬にすり寄った。驚いた顔で彼は彼女に触れ、きょろきょろと困惑気味に見回す。自身の体に触れた。灰塗れだが傷一つない。
服もなかった。
「お前、あいつに連れてかれてどうなったんだよ」
「……君とシャン太はどうしてここに?」
「あのなぁ! お前を――!」
「僕を?」
あの時は、あんなにも必死に手を伸ばした癖に。
なんとなく癪に感じてリクは言葉を切った。ふいっと顔を逸らし、誤魔化すようにバシャーモの頬をぺちぺちと叩いて正気に戻す。バシャーモは繰り返し瞬きをすると「シャモッ!」と元気に鳴いた。チリーンがホッと胸をなで下ろし、バシャーモへと小首を傾げた。
「リリ……?」
「シャモシャモ!」
「リ!?」
チリーンとバシャーモが何やら忙しなく話し始める。ぬっとエテボースの尻尾が伸びてきて、バシャーモの頭を後ろへ引いた。
「シャモッ?」
「きっ!」
エテボースがチリーンへと朱色の外套を差し出した。血だらけだが着れそうだ。少年が裸であることを彼なりに慮った……と思ったが、一番その点を気にしていたのは、女の子であるチリーンだろう。チリーンが礼を述べると、エテボースは満足そうな顔をした。
「お前なんで素っ裸なの?」
少年はぼんやりとした顔で体を触っていた。特に腹部をなぞるように手を動かし、額を抑える。視線が失われたものを辿るように行ったり来たりしていた。
「わけ分かんないんだけど……。まぁいいけどさ。それ着たら帰るぞ」
がりがりとリクは頭を掻いた。
向こうの死体についてエテボースへ目配せすると、彼はふるふると首を横に振った。服を取りに行ったのではなく、彼はファイアローともう一人の生死を確認したのだ。ここまで来て、アカがいないとなれば肩すかしではあるが……これで事件も収束を迎えることだろう。
少年はもそもそと服を着たが、じっと何かを考え込むように黙っていた。おもむろに乾いた唇が開く。
「どうして火を消した」
静かに問いかける声にリクは首を傾げ、少年を見つめた。バシャーモが弱々しく、ぼそぼそと呟くように答える。――火? 火なんてどこにもなかった。彼らが何の話をしているのか分からず、リクはチリーンやエテボースに、分かるか、と視線で訊ねた。彼らも首を横に振った。
「ウミ?」
「僕は君に逃げろ≠ニ言ったんだ」
少年の目がひたりとバシャーモを見つめ、咎めていた。バシャーモの嘴が戦いていた。
「シャ……」
「なんで逃げなかった。――自分が何をしたのか分かっているのか!?」
少年の声が破裂した。彼が声を荒げる姿を見たのは初めてで、リクもチリーンも唖然としていた。バシャーモは震え上がり、止まった涙がぼろぼろとまた零れ始めている。
「君が、君がせめて逃げてくれれば、火は消さずにすんだんだ! なんで僕を見捨てなかった!? なんでこんなことに火を使ったんだ!」
「シャ……!」
「おいウミ! そんな言い方ないだろ、ちょっと落ち着けよ!」
リクが少年の腕を掴んだが、彼は振り返るとリクを睨んだ。
「君もシャン太もだ! どうして君たちはここに、ラチナに来た? なんで行く先々に君たちがいるんだ!? どうして危険に首を突っ込むんだ! なんでそんな、なんで……その怪我、どうした」
少年はリクとチリーンの傷を凝視した。ヤヤコマの群れを突っ切ったせいで、エテボースも含めて全員傷だらけのズタボロ状態だった。リクとしてはこっちの地方に来てから怪我なんて数え切れないほどしたし、今はそれどころではない。次はこちらの傷に顔を青くする少年に、だからお前は自分を気にしろとリクは苛立った。
「ごちゃごちゃごちゃごちゃうるせー!! どっちみちアカって奴もいないんだし、終わったんだか――ら!?」
大きく揺れた。
吹き込む風は変わっていないはずだが、どこか熱気を孕んでいる。
「終わっていない」
「……なんだって?」
「約束の火は消えた……テセウスが戻ってくる」
それはただの神話だろうと答えることは出来ない。ぼこぼこと耳慣れない音が聞こえてくる。ひゃはは、と階段の下でノロシが嗤った。
「どういうことだよ?」
「僕は1度死んだ。約束の火を使って、バシャーモが僕を呼び戻したんだ」
「あのなぁ……いやいい。オレもヒナタも一回死んだようなよくわかんないことになったし。もう一度火をつけるっていうか、封印することは出来ないのか?」
「分からない」
リクはステンドグラスを仰いだ。ここまで色々な状況に臨んできたが、今度こそどうしたらいいのかさっぱりだ。先ほどの地震でステンドグラスは硝子が欠けていた。
泣いているバシャーモは黙って俯いている。チリーンが慰めるように癒やしの鈴を鳴らし、エテボースはバシャーモを警戒しつつも静観を決め込んでいた。
(「約束は、果たされた」)
火がなんなのかは分からない。それはきっと重要なものだったのかもしれないが、戻ることはない気がした。
ジョウトで、カントーで、ホウエンで子供達は英雄となった。彼らもまた同じ窮地に立たされたのだろうか。
(「考えること=v)
英雄になりたいとはもう思わない。ただ、この局面をどうにかしないと、きっと多くの人とポケモンが死ぬ。
ポケモンが復活する。
それも神話級だ。放っておけばラチナの全てを焼き尽くすことだろう。
(「諦めずに、止まらずに、考え続けること。Youが考えなくてはならないことです」)
誰かに頼ってもいい。誰かと一緒にやってもいい。
しかし、考えることだけは自分でしなくては。
「……捕まえればいい」
無意識の呟きだった。少年は「は?」という顔だった。
「どんなポケモンでもモンスターボールに入れば周囲を傷つけたりしなくなる。捕まえればいいんだ!」
「そんなこと出来るわけ――」
「いーや出来る! テセウスはきっと悪い奴じゃない絶対そうだ。あいつもラチナを燃やしたくないんだったら絶対に出来る! お前モンスターボール持って……る訳ないよなぁ」
がっくりと肩を落とした。当たり前だがリクも持っていない。こっちの地方に来てからポケモンを捕まえる気がまるでなかったので、ひとつも買わなかった。その肩をちょいちょいつつき、エテボースがヒールボールを差し出した。
「お前いつ買ったの?」
「きぃー」
トドグラーを尻尾で指す。そういえば、彼女がカイトに貰ったヒールボールは気がついたら持っていなかった。エテボースが預かっていたらしい。
「テセウスはどこから? またカザアナの地下大空洞に行けばいいのか?」
「いや……」
少年が白亜の柱の外を見やった。二人で近づいて見下ろすと、湖に点々と何か浮かんでいる。よく見ればそれらは水ポケモンだった。しゅぅ、と湯気があちこちから立ち上り、すでにかなり水温が上がっている。
少年の黒い瞳が水底を透かすように睨んだ。彼の中に残る炎の残渣が語りかける。
「あそこが入り口で、出口だ。カザアナを超えて、あそこから来る」
「だったらあの場所に潜るか、待ち構えれば捕まえられるってことか」
「そうなるな。けど……」
けど? とリクが訝しんだ時、少年は言った。
「君達はここまでだ。テセウスを捕まえる役目は、僕とバシャーモでやる」