Box.75 祈り
――ラチナリーグ、湖。
アカの述べたように、上に大きな置き石が一つ。すなわちオキイシ山を指す。要石が上に一つと下に一つ。下はホムラが破壊し、上は――シラユキ襲撃から忙しなくも不平を垂らしていた男が、石とリーグに残っていた四天王を撃破した。
バシャーモは、ガーディと一緒にテレポートで逃走を図った。逃がすまいと端を掴んで跳んだまでは良かったが、落ちた場所が問題だった。ラチナリーグの湖上だったのである。
ほのおタイプは全般的に水に弱い。ガーディは何を考えていたのだろうか。刻一刻と酸素と力が失われていく水中で、ガーディは引きずり落とすようにバシャーモの足にしがみついていた。バシャーモはしがみついたガーディを蹴り落とすわけにもいかず、しかし自力では浮上することも叶わず、ゆっくりとだが確実に水底へと命尽きようとしている。
ルカリオは苦悶の顔で力なく水を掻くバシャーモ――あまり、意味のない動きに見える――の腕を掴んだ。バシャーモは瞠目し、泣きそうに顔を歪めた。その嘴から酸素が幾らか零れる。ルカリオはそのまま力を振り絞って浮上し、水上へと顔を出させた。
『――げ、げほげほッ!』
ぜいぜいと、涙目でバシャーモが呼吸をする。ルカリオはその下に潜ると、ガーディを引き剥がしてやった。ガーディの顔を水上へと持ち上げたが、ぐったりとして反応しない。死んでないことを祈るしかなさそうだ。
カイトは一般トレーナーとポケモンを守る役目を持っている。
ルカリオもレンジャーの一員である以上、ガーディはもとより、敵とはいえ裁定を待つ身であるバシャーモを見殺しにすることは出来なかった。人命ならびにポケモン救助は、レンジャーの基本倫理である。
岸に上がるとルカリオはガーディの水を吐き出させたが、意識は戻りそうにない。その時、ぽっぽっと炎を出そうと苦心していたバシャーモが、轟、と大きな炎を吐き出した。いつ逃げられても追えるように、ルカリオは構えたが、とうのバシャーモからは敵意がまるで感じられず、心配そうに言った。
『ガーディを貸してください』
ぽ、ぽ、ぽ、とバシャーモが体内に炎を練り上げる。手首から煙が燻り、その内にチラチラと赤く灯りだし、バッと空を裂くように炎があがった。抱き上げたガーディを包み込むように、自身の残りわずかな炎を燃え上がらせる。
ガーディの性質はもらい火≠ナある。その性質を理解していた、というよりは、ほのおタイプ同士の本能なのかもしれない。ガーディの濡れた毛並みが乾き、心臓が動く気配をルカリオは感じ取った。ガーディが小さく鳴くと、バシャーモが顔を明るくした。裏表のない嬉しそうな気持ちが、波動を読み取らずとも伝わってくる。
殺気。身構えると同時に、悪の波動がルカリオの横っ腹にぶつかる。バシャーモの叫び声。湖へ派手な水柱をあげて吹っ飛ばされた。即座に岸へあがろうとするルカリオへ、悪の波動の追撃が飛ぶ。ルカリオは舌打ちした。
敵性の波動が二つ。岸に黒い影が一つ。バシャーモの両肩を掴み、空へと舞い上がる影が一つ。
――ヘルガーとファイアロー。
『ルカリオッ! は、離してくださいっ!』
なりふり構わずバシャーモがファイアローを振り切った。ヘルガーが反応する暇もない早さで、今助けます! と叫ぶと湖へ飛び込んできた。
直後、自分がほのおタイプであり、泳げないことを思い出したらしく泡を食った。
『るかり……! たすけっ! いまたすけ……ッ! ごぼっ!』
半分溺れかけながらバシャーモが叫ぶ。臨戦態勢に入っていたルカリオとヘルガー、両者ともなんとも言えない顔をした。ヘルガーの前に集束していた悪の波動が、影響を受けてパチンと弾ける。よろよろと立ち上がったガーディが、その隙に飛びかかった。
『グッ!? ――死ねッ!』
『ぎゃんっ!』
ガーディが蹴飛ばされる。地面を擦り、ことりと動かなくなった。わずかにまだ、生命の波動は残っている。――耐えてくれ、と祈りながら、ルカリオはバシャーモを助けた。ありがとう、ありがとう、とバシャーモが繰り返す。
――目的はバシャーモか?
ルカリオは助けながらも警戒を続けていたが、ヘルガーもファイアローも仕掛けてこない。ぜいぜいと肩で息をしながら、バシャーモが言った。
『ヘル、ヤヤ。ルカリオは俺を助けてくれたんです。良いポケモンなんです。殺さないでください』
二匹の臨戦態勢は解けない。
当然か、とルカリオは思った。良いも悪いもない。互いに譲れない立場や事情がある。この場に感情論を持ち込むバシャーモは酷く未熟で、それだけに純真だった。岸に上がったバシャーモはルカリオから離れ、ぶすぶすと全身から煙を出し始め――それは、盛る炎へと変わっていく。キッと二匹を睨んだ。戦う気らしい。
つまるところ、このバシャーモは馬鹿なのだ。
ルカリオは結論づけた。
ヘルガーはしかめっ面をしている。ファイアローは真顔だった。澄んだ鳴き声を響かせる。
『ホムラが死にますよ』
ビクッとバシャーモが顔色を変えた。みるみる内に炎が萎み、ガクガクと震えだす。ヘルガーが愉快そうに目を眇めた。ファイアローが淡々と告げる。
『主を守りたいなら、余所見などおやめなさい』
バシャーモが両手を下ろし、ファイアロー達の方へ歩いて行く。
振り返らず、しょぼくれた背中をみせて言った。
『……ごめんなさい、ルカリオ』
嘆息すると、大きな子供の背中が震えた。
『構わん。私の仲間が、必ずお前達を止める』
重態だろうとなんだろうと、カイトは必ず追ってくる。そうでなくとも信頼できる誰かに必ず託す。
ファイアローがバシャーモの両肩を掴んで飛んだ。それを見送る暇もなく、ヘルガーの悪の波動が間髪入れずに放たれる。飛び退るルカリオがすかさず応戦した。
バシャーモの耳奥でルカリオの言葉が木霊した。
信頼できる仲間。
自分がいなくても、次の誰かが繋ぐ祈り。
『……仲間』
バシャーモはウミを守ってきた。それは、誰もウミを守ってはくれないからだ。
アカやノロシ、イミビ、ファイアローを始めとするポケモン達は信頼できる仲間、だろうか。
信じているはずだが、ウミを預けることは出来ないと本能的にバシャーモは感じていた。理由は分からないが、危険だ。
では、信頼できる仲間、とは。
……バシャーモは急に怖くなってきた。
◆
柱の間からファイアローと一緒に入り、バシャーモはすぐにウミを見つけた。アカがいて、バルジーナがいて、ウミは倒れ伏していた。朱色の外套は鮮やかな赤色をしていた。滴り落ちる鮮血は同じ色をしている。傷一つないバルジーナの翼には血しぶきが飛んでいた。
バシャーモはウミへと駆け寄った。朱色の外套は風の刃で引き裂いたようにぱっくりと割れており、傷口も同じだった。大きく胸元を引き裂き、血はそこから流れでてくる。バシャーモは外套で強く抑えつけ、血を止めようとしたが止まりそうもなかった。赤色が濃くなっていく。
浅い呼吸音がした。
まだ生きている。かすかな息づかいで言葉を吐き出す口元にバシャーモは祈るように耳を寄せた。
逃げろ、と囁く声がした。
「シャ……!」
アカが肩を叩いた。人間であるはずの掌から炎がぽ、ぽ、ぽ、と燃え上がる。
触れた部分から炎を注ぎ込まれていくように、バシャーモの体の熱量がどんどん膨れあがっていく。全身を巡る熱。行き場をなくした炎がバシャーモの手首から噴き出しそうになる。バシャーモが慌ててそれを抑え込むと、アカが目を丸くした。
「シャモ。君が炎を抑えるなんて、どうしたの?」
ぎゅうっと堪え、バシャーモはアカの手を払いのけた。血まみれで浅い呼吸をするウミを抱き抱え、その場を飛び退く。
距離を取ったのは本能だった。
アカが払いのけられた手を眺めた。
「……同じことでも、君にされると傷つくなぁ。まだ途中だからこっちにおいで、シャモ。ホムラを助けたいんだろ?」
「……?」
「おいでよ」
ね、とアカが穏やかに両手を開いた。バシャーモの中に籠められた熱が、磁石のようにその身を惹く。蕩け合う炎の帯が半身を求め、バシャーモの体内を巡り回る。酩酊に近い陶酔感が理性を侵すほど、無限の泉ともいうべく炎が湧き上がるのを感じる。
腕の中で浅い呼吸を繰り返すウミの動きが緩慢になっていく。傷つけてはいけない。バシャーモはぐぅっと炎を抑えつけた。
カザアナでの過ちは、もう2度と繰り返さない。
「俺が知らない間に何かあったのかな。シャモ、良く聞いて。――その昔、プロメウ……ホウオウ様は自らの炎を俺達に与えられた。その火にはね、怪我を治し、死者を甦らせる力があるんだよ」
それには一つ条件がある。
アカはかつて、同じことを試したことがあった。結果は失敗で、相手は焼け死んでしまった。
ジョウト、カントー、ホウエンと各地の神話を巡り、彼は再度仮説を立てる。
「でもその力は心正しきもの≠ナないと、使えないんだってさ。心正しきものって何だよって感じだけど、少なくとも俺は正しくないらしい。でもね、君たちなら大丈夫だって俺は信じてるよ」
アカが笑顔で、半分焼け爛れた顔を撫でた。飛び退いたバシャーモへと近づく。バシャーモは凍りついたように動けなかった。ウミを抱える腕にアカが触れる。それを振り払えなかった。
「火は生命の象徴とされる。誰かの命の火となることで、約束の火も消え、テセウスが許されるなんて――プロメウ様って本当に、お優しい方だよね」
アカが囁いた刹那、一気にバシャーモの体へと炎が流れ込んだ。
燃えるように熱い! だが不思議と、日向でまどろむような優しさも感じる。澱のような淀みと、聖なる炎のぬくもりが同居する奇妙な炎がバシャーモの中で暴れ回った。
見える。見える。バシャーモの瞳に炎が映る。
それは古より続く約束の軌跡であった。
人から人へ、ポケモンからポケモンへ、人からポケモンへ、ポケモンから人へ。そうやって約束の火は守られてきた。無数の営みが、焼けた大地に芽吹いていく。
闘争の炎が惨禍を呼ぶ。希望の灯が未来を照らす。トモシビの人々はそれを火とともに見てきた。希望も絶望も同じ炎(プロメウ)のもとにある。
畏れるなかれ、次の児ら。脅えるなかれ、ラチナの子ら。
背筋をピンと伸ばした老婆の姿が見える。手を引かれる黒髪の子供が見える。子供の目は暁色であった。彼は次だ。次の次の次の次の――次だ。灯火を守るもの。
『いつ許されるの?』
『――が、消えるとき』
――が、消えるとき。約束の、火が、消えるとき。
ウミが動かなくなった。バシャーモの炎が抑えきれないほどに巡り回る。炎が全身から吹き出すと、大きな青い瞳から涙がこぼれ落ちた。
カザアナで、ウミをバシャーモは傷つけてしまった。そんなつもりはなかった。ずっと守ってきたのに。二度とあのような惨事を起こしてはならないと思ったのに。
(「ウミ、と一緒にいて、後悔しないか」)
後悔などするものか。
(『主を守りたいのなら、余所見などおやめなさい』)
命に代えても守ってみせる。
君が守ってくれたのだから、絶対に守って守って守り抜いて、一緒に――
(「そうしたら君は、帰れる。本当だ。約束する」)
――ウミは?
一緒じゃ、ないの?
身の内から引き裂かれるような叫喚がバシャーモの喉を裂く。全ての約束の火を飲み下した体内で、灼熱は骨の一片までも融解せんと荒れ狂う。
刹那の出来事であった。
赫奕たる炎が、バシャーモの全身から零れるように咲き乱れる。
「――美しい」
アカが蕩けるような眼差しで、ウミを抱きしめるバシャーモの業火を見つめた。至近の炎は姿を変え、火でありながら深海の色を呈する。アカの身の内にあった炎は全てバシャーモへと渡された。
ほのおポケモン達はもう、彼に従わない。それでも構わないと思えるほどに、涙を流すバシャーモの炎は美しかった。
風切り音がして、アカの目の前が暗くなった。生暖かい口腔の奥に熱を感じる。正気を取り戻したウインディに食いつかれたのだと気づく前に、アカは予期していたかのように呟いた。
「やっと消えたよ、母さん」
炎が消える。
トモシビを、彼を、彼の母を縛っていた全てが終わる。