暗闇より


















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ラチナリーグ
Box.74 炎に魅入られた子供
 アカツキ。
 前トモシビジムリーダーがつけた名前だ。
 暁とは夜明けのこと。暁が夜を払う。暗闇の底で、赦しを待つテセウスにも終わりは来る。
 ご覧なさい、と背のピンと伸びた老婆が示した。
 暁のような少年の瞳に、約束の火が映る。約束の火はトモシビの奥深く、社殿の中で風もないのに揺れていた。
 この火は、時が来るまで決して消えることはない。老婆が言った。
 この火はいつからあるのか。少年が訊いた。揺れる火は美しく、彼は魅入られたように見つめていた。
 テセウスが地下に潜ったときから。老婆が言った。それは神話だが、ただの神話で言い伝えに過ぎないのだとは、聡明な少年は思わなかった。
 これはただの火ではない。彼に流れるトモシビの血が囁く。
 ――お前の守るべきもの。お前の人生そのもの。お前の始まり。
 終わりのない罪の証。

「いつ許されるの?」

 少年は問いかけた。火に魅入られた瞳には、深い悲しみがあった。
 炎に心を焦がしてはならない。魅入られてはならない。炎に近づきすぎた蛾は燃え尽きてしまうだけだ。
 それでも、聡明な少年はそれが分かっててもなお、炎に魅入られていた。
 テセウスの盗んだ火は今なお燃え続けている。約束の火が消えない限り、幾星霜の時を経てなお彼を許さない。
 信じただけだ。
 テセウスは、誰かを救うと信じて火を盗んだだけだ。その結果がこれか。
 老女が言った。

「約束の火が、消えるとき」

 少年は目を見開いた。いつ来るとも、永遠に来ないかもしれないときを、暗闇の奥底で待ち続けるテセウスを想った。

「可哀想に」





 視界が暗転する。強制的なテレポートにぐらぐらと意識が揺れ、伸ばした手の先が感知できない空間の狭間に引き込まれる。ウミはぎゅっと目を閉じた。
 何も見たくない。届かないものを見るのはもうたくさんだ。内臓がひっくり返るような気持ち悪さがスルスルと解けていく。収まるべきところに全てが収まると、耳元に囁かれた。

「もう目を開けて良いよ、ホムラ=v

 優しい声だった。
 とてもチリーンを傷つけ、リクを遠ざけ、地方の人々やポケモンを傷つけたとは思えないくらいに優しい。ともすれば全てを投げ打ち、恐れることはないのだと偽りの安堵に身を委ねてしまいそうになる。
 そっと目を開いた。
 真っ白な場所だった。
 白い石を整然と並べた床には、無数の傷跡が残っている。心地のよい風が頬を撫でた。白い柱が左右に立っており、正面にはプロメウを模したステンドグラスが燦然と輝き、反対側には階下への階段があった。ファイアローとヘルガーが主の帰還を静かに出迎える。
 快晴。
 雲一つない青空が柱の合間から見える。

「ここは、どこですか」
「来るの初めて? ラチナの祭壇だよ」

 アカが手を離すと、ウミはその場にへたり込んだ。ウインディは茫洋とした瞳でアカを見ている。くぇー、と鳥の鳴き声がして、灰色――バルジーナが柱の間から滑るように飛んできた。ウミの隣に降り立つ。
 人を惑わすような目の色の鳥だった。見つめられると、汚泥の底に引き込まれるような不安を感じる。

「今じゃラチナリーグ、チャンピオンの間って言われているらしいけど。そんな風に呼んで過去を隠してしまうなんてね。テセウスが可哀想だ」

 アカが目を伏せ、ウミは彼を凝視した。哀れんで、本気で悲しんでいるように見える。ほのおポケモンを愛する事は彼の本性であるが、この時だけは妙に、その姿に警告のような悪寒を感じた。
 彼の目的を尋ねた事は一度もない。アカも語らずに、ただお願いだけを与えてくれた。
 居場所に疑問を抱いてはいけない。
 終着点を考えてはいけない。
 いつか行き着く終わりが鮮明になるほど、歩き続けるのが怖くなる。

「……何をなさるおつもりなのですか」

 アカは微笑み、しゃがみ込んで目線を合わせた。ビー玉のように濁りのない目に自分が映っている。風が吹くと、彼の半分爛れた顔が露わになる。淵の崩れた眼窩から、皮膚の下に蠢く内奥が覗いた。

「へぇ、初めて訊いてくれたねホムラ。いままで俺の目的なんて気にしたことなくて、いつもシャモや傷つく人々、ポケモンのことばかり気にしていたのに。心境の変化でもあった?」
「アカ様は、貴方は、何をされるおつもりなのですか」

 心臓が破裂しそうだったが、ウミはもう一度問いかけた。彼の眼窩から、自身が底だと思っていた場所よりも更に深い場所を見た。
 底が見えない。

「君も知っての通り、ラチナの民ならテセウスが炎を盗んだ話を知らない人はいない。でも彼は、そんなに悪いことをしたかな?」
「それは……ただの、神話ではないのですか?」
「ただの神話ね。そう。そんなこと訊いちゃいないよ俺は」

 バルジーナが甲高い声で嗤った。アカは不快そうにバルジーナを睨むと、ウインディへと非難がましい目を向けた。

「……君が最初から協力的なら、こんな鳥と付き合う必要もなかったのに。ガーディも置いてきちゃうし。シャモは連れてきてくれたの? テレポートはしたんだろうけど、ここにいないってことは、また中途半端な仕事をしたみたいだね」

 ウインディは一言も鳴かず、ただ茫洋とした瞳でアカを見ている。何の感情も窺えない。アカはむぅ、と頬を膨らませ、ヘルガーとファイアローへ言った。

「ヘル、ヤヤ。悪いんだけどシャモを探してきて。なるべく早くね」

 二匹が頷き、ファイアローは空へ、ヘルガーは階段を下りていった。
 バシャーモも来ていることに、ウミは少なからず安堵を覚えた。彼がいれば一緒に逃げることも出来るかもしれない。
 ――逃げる?
 とっさに浮かんだ考えに、信じられない想いで自身の胸に手を当てた。
 逃げる? どこへ? どうして?
 今までそんなこと、考えた事なかったのに。
 それは嘘だ。
 考えなかったわけではない。目を逸らしていただけだ。帰る場所などなかったから。
 バシャーモにはリクがいるけれど、自分には帰る場所などないと思っていたから。
 独りになりたくなかったから、言い訳を口にしていた。
 アカが途切れた会話の続きを口にした。

「ラチナの地盤沈下はテセウスのおかげで治まったし、テセウスの盗んだ炎は今でも俺達の闇を払っている。でもテセウスは今も独りで地下にいる」
「それはテセウスが、消えない炎を抱いているから……」
「それって本当に、いつか消えるものなの?」

 消えると信じるしかないだろう。そうでなくては、テセウスは永遠に地下から出られず、許される日など来ないことになる。
 ……消えるのだろうか?
 罪が消える日など来るのだろうか。
 彼が自分を許せる日など来るのだろうか。
 彼のやったことの全てが間違いだとはウミにも思えない。しかし、許されないことだろう、仕方のないことだ、と呟く自身の声がする。
 胸にとろとろと鉛を流し込んでいく感情は、酷く重くて、苦しい。テセウスを許さないようでいて、ウミの喉さえ塞ぎ、呼吸も出来なくなるほどに。
 ぽん、とアカがウミの頭に手を置いた。

「だから、俺が消してあげる」

 警鐘が遠雷のように鳴っていた。
 意識の一部は、それをぼんやりと聞いている。

「テセウスの炎が消えたとき、約束の火が消えるんじゃない。誰かがテセウスを救うために、約束の火を消して初めてテセウスの炎も消える。それが答えだ。だから、俺が彼を許すよ」
「その為に街を焼いたのですか」

 アカの手が止まった。
 テセウスは罪を犯した。消えない炎を抱いて潜ったのは、誰も傷つけたくなかったからだ。
 街を焼いた。人を焼いた。ポケモンを焼いた。それらは全て、テセウスを救うためだと言う。
 ――そんなふざけた話があるか?
 ウミは自分の手を見つめ、腕の中にいたはずの小さな姿を思い起こした。
 リーシャンの進化条件は夕方から夜であること、懐いていること。進化条件とは本来、抗えない本能だ。外れることがあるとすれば、ポケモン自身が進化を心底望んだか、進化を拒み続け、その一線をあの瞬間に超えたのか。
 空はよく晴れていた。夕方と呼ぶには早すぎる。
 リーシャンが条件を振り切ってまで進化したのは、自分のためだ。
 進化をずっと拒んでいた。元の姿で自分を待つために。
 ずっと待っていた。
 ――待っていてくれたのに。

「テセウスはそんなこと望んでない」
「……君なら分かってくれると思ったんだけど。そんなことを言うなんて、正直不愉快だよ」

 アカの赤い瞳が冷ややかに細められる。
 怖い。
 この人を敵に回すことが怖い。掌に冷たい汗が滲んでくる。
 本当は、帰るべき場所が自分にもあったのだ。どこかで立ち止まれば良かった。なりふり構わず、みっともなくても良いから――シャン太を迎えに行けば良かった。巻き込みたくないだとか、もう顔向けできないだとか。そんなこと考えずに、寂しいのだと、そばにいて欲しいのだと、一緒に生きて欲しいのだと縋りつけば良かった。
 アカの手を強く払いのけた。せり上がるような動悸が耳元で唸っている。

「テセウスは、本当に後悔していたんだ。こんなことになるなんて思わなかったんだ。貴方のやっていることは、ただの罪の焼き直しだ!」

 何かを犠牲にしなくては許されないというのなら、そんな許しは要らない。
 その為に地獄へ落ちろというのならば、喜んで。

「俺がやっているのは罪の焼き直しじゃない。――神話の焼き直しだよ。リプレイ。ラチナに散見される神話は少しずつ間違っているけど、時には一片の真実が含まれる」

 バルジーナが甲高く嗤った。その意味を考えるよりも先に、風の刃がウミの胸を裂いた。一撃、二撃、三撃、と風が切り裂くごとに血が舞った。
 ……炎は生命の象徴とされる。ゴートで語られる神話にて、テセウスはこう言った。

『私の友をどうしても甦らせたいのだ。どうか火を貸して欲しい』





 炎に魅入られた少年の、その後の話をしよう。
 毎晩、消えない火を守る見張りが寝ずの番に立つ。20を超えた時からアカツキもその一人となった。火の番をすることはトモシビの民にとって名誉なことだ。
 ポケモンと人間が、一対となって一晩中火のそばで過ごす。
 小さな頃、彼は何度も何度も、番の目を盗んで火を消そうとした。あらゆる手段を試しても消えないと悟ってからは、そのようなことはなくなったが、いまだにその事をからかわれる。寝ずの番には、一人二人程度は笑いながら、火を消さないでくださいよ、と言うのだ。

「そう言うのなら、消し方を教えて欲しいよね。君もそう思うだろう、ヤヤ」

 社殿の奥、座敷の間に火が揺れる。一組の布団と衝立。風に煽られようとも、雨にうたれようとも、消えない火をこのように見守る意味があるのかアカツキには疑問だった。どうせ火は消えないのだ。
 いいや、消せない≠フだ。
 ファイアローが温かい羽根を嘴で手入れしている。アカツキはすっと立ち上がり、火に近づいた。着流しを近づけるが、火は燃え移る気配すらない。掌を近づけると熱を感じるが、両手で握りつぶしても意味のないことはすでに知っている。熱さはあるが、火傷すら与えてくれない。そこに本当に、存在しているのか疑いたくなる。
 ――火を消さないでくださいよ。
 幼き頃に初めて見た日から、あらゆることを試してきた。ほとんどの者は、自分はもう火を消すことに執着することをやめたのだと思っている。
 違う。アカツキは諦めてなどいない。
 見つからぬように、目立たぬように試みる賢しさを学んだだけだ。祖母はとうに知っていることだろう。
 自分ごときに消せはしまいと分かっていて放置しているのだろうか。お前は決して、この血から逃れることは出来まいと。――火に魅入られ、火傷を負って死んだ母のように。
 アカツキは火を両手で包み込んだ。
 その昔、盛る炎に両手を差し込み、大火傷を負った。ポケモンの技で傷一つなく治され、こっぴどく叱られた。白い手には痕さえ残っていない。
 母は火傷を負って死んだ。
 それが間違いだったとは思いたくない。
 間違いならば、その結果たる自分はなんなのだ?

「ヤヤ。母は、父は……俺を、愛していただろうか」

 アカツキが微笑んだ。灼ける両手に火を抱く。熱いばかりで傷つくことはない。離れれば火傷一つ残らない。陽炎のような約束の火は決して消えることはない。
 父を知らず、
 母を知らず、
 炎だけが、決して振り返らない彼の父母。
 アカツキの白い肌の上で、暁色の瞳が火を映していた。両手に抱きしめた火へ、紅を引いたような唇を寄せる。
 ――ごくりと火を飲み込んだ。

( 2022/06/19(日) 18:12 )