Box.73 迷いなき前進
医務室は無事だが混雑していた。ベッドが10床と少し。ジョーイが素早くトリアージタグをつけて捌いていく。軽傷から中等症のポケモン達はまとめてモンスターボールへ戻して回復装置へ。人間は歩けるものから軽傷程度なら自前で手当てをしてもらい、中等症から重症程度も治療が終わり次第、ほらほら帰ったとほっぽり出される。ベッドには限りがあって、高度な治療が出来るスタッフにも限りがある。ベッドでは、呻くことすら出来ない重態のポケモンやレンジャーが優先して治療を受けていた。
「どいたどいたぁ! 重体患者を連れてきたぞユキシロォ!」
「離せ歩ける自分で歩けるから離せ離さんか馬鹿者!!」
怪我人も多い廊下をサザンドラで突っ切るのは、流石に良心が痛んだらしい。途中で降りたヒナタが凄まじい力で暴走車のようにカイトを引きずり突っ走り、割れていく人の波が通過のそばから閉じていく。閉じた道を掻き分けて、そのあとをリクは必死に追いかけた。半死半生とはとても思えない悪態が人波の向こうから聞こえてくる。サザンドラはリクの腰のモンスターボールに戻っていた。もちろん追いかけるだろう? と、モンスターボールから無言の圧力を感じる。
開きっぱなしの医務室へ人にぶつかりながら入り込む。独特の匂いが鼻をついた。清潔だが、死臭に臨するものが混じっている。はち切れんばかりの生命に溢れるヒナタとカイトの声は、場違いなほどによく響いた。そこだけ酒場の馬鹿騒ぎのような明るさだ。
それでも、カイトの火傷が重度なのは変わりない。チリーンを守り抱きながら、赤毛の頭を目印に近づく。カイトはベッドに仏頂面で座っていた。ヒナタが「うわー痛そう」と上から眺め、白衣に桜色の髪の人物がカイトの火傷を診ている。女性にしては低い声で言った。
「あーらら。こりゃ無茶したな……V度熱傷を無理矢理治癒してんじゃねーか。ハピナス! いのちのしずく≠セ! キュワワーはこれ」
緑色の宝石を渡されたキュワワーが、小さな口に入れて砕く。ラチナで使うトレーナーはあまりいないが――技の威力を一時的に高めるジュエル≠ニ呼ばれる道具だ。緑の燐光が立ち上り、煙のようにキュワワーにまとわりつくと、アロマセラピーの匂いが一段と濃くなった。ちょっと外せと白衣の人物が告げ、キュワワーがカイトの腕から離れると、ハピナスが命のしずくを振りかけた。白衣の人物はその上から塗布剤を塗り込み処置を終えると、キュワワーをもう一度巻きつかせた。そのままカイトの反対の腕を持ち上げたとき、リクは視線を感じて顔をあげた、白衣の人物と目があった。
桜色の髪に白磁の肌。息を呑むような美女だ。美しさに目が眩むとはこの事を言うのだろう。彼女? はリクの抱いているチリーンに目を止めると、「何ぼさっとしてんだ。ボールに戻して回復装置!」と言った。
「ボールがない」
「はぁ?」
「シャン太は事情があって、ボールマーカーはあるけどボールは手元にないんです」
「そいつの言っている事は本当だ」
カイトが言い、美女のように見える白衣の男――ユキシロが「おいユキノ!」と間髪入れず言った。腕まくりをして髪を振り乱したユキノが半ギレで飛んでくる。
「バカヤロー今度はなんだ!! 包帯!? ガーゼ!? バイタル!?」
腕にはボールペンでのメモ書きに医療用テープの切れ端がひらひらついていて、片腕に抱えたトレイに医療道具が山ほど乗っている。その場しのぎの手伝い、という馴染み方ではない。ユキシロが顎でチリーンを指した。
「そいつに癒やしの波動だ。ついでに点滴の準備」
「回復装置にかけりゃいいだろ……ってお前かよ! ハァ!?」
「らっきー」
ぶつくさ言いつつもトレイを置き、手慣れた様子で新品のトレイに点滴の準備をする。ユキノと一緒にやってきたラッキーがぬっとチリーンを覗き込んできた。「らっきぃ」柔らかな癒やしの波動がチリーンを包み込む。
「ほらよ。つかお前さぁ、ここが落ち着いたら訊くことあるから逃げんなよ。ここにいろ」
「ユキノ君こっち手伝って!」
「ハイハイハイハイ! 行きます行きます! 絶対動くなよどっか行くなよ大人しくしてろよ!」
それは約束できない、とリクが答える暇もなく、ユキノは忙しなく行ってしまった。
「……カァ〜イトちゅわ〜ん。お前ってば点滴の針怖いですぅ≠ネんて言うタイプじゃねぇだろうがよ〜」
「必要ない。つけていると邪魔だ」
「お前さ、自分が重態だって自覚ある? ないよな? 死にたいのかなぁ?」
ガタンとカイトの立ち上がる音にリクは振り向いた。腕の中のチリーンはすぅすぅと健やかな寝息を立てている。ラッキーは満足そうな顔をすると、ぺこりと頭を下げてユキノの後を追った。
ユキシロがトゲのある口調で、青筋を立ててむっつりしているカイトに詰め寄る。カイトはそれを睨み返すばかりだ。時間の無駄だったと言わんばかりに、「治療に感謝する。行くぞヒナタ」とユキシロの脇を抜けようとした。
「そりゃ駄目だな」
ヒナタがカイトの腕を掴んだ。火傷している側の腕だ。包帯にはすでに血が滲んでおり、強く掴まれたカイトが喉奥で呻いた。分かっていて掴んだヒナタは、血の滲んだ腕を目線の高さに持ち上げた。
「お前に死んでもらっちゃあ、俺が困る」
「私はレンジャーだ。一般トレーナーと――」
「悪いな。10年前とは違うんだぜ」
ニヤッとヒナタが意地悪く言った。10年前――コダチの話では、ヒナタがカイトと出会った頃の事を指しているのだろう。カイトの追っていた事件にヒナタが首を突っ込んだことが出会いだと聞いている。カイトはその時も、同じ事を言ったのだろうか? ――言ったのだろうな、とリクは確信を持って思った。
ただ、ヒナタの言うとおりだ。変わらないものはない。当時はもしかしたらヒナタは一般トレーナーだったかもしれないが(それが本当に、普通のトレーナー≠フ範疇に入る程度の一般トレーナー≠ニいう意味だったかは定かではないが、絶対に違うだろう)、カイトがレンジャーの統括者兼ジムリーダーであるように、ヒナタはこの地方のトップだ。
ヒナタは腰のモンスターボールを叩き――そこには、ゴーストタイプと化したサニーゴがいる――同じ事を繰り返すつもりはない、と示した。
「俺が<宴`ナのチャンピオンだ。信じろよ」
出会ったときとなんら変わりのない顔で、自信満々にヒナタが言った。確かな実力に裏打ちされた自信である事は分かっていても、カイトは眉間にしわを寄せ、深々とため息をついた。
「時代は変わるものだな」
ベッドにどっかりと座ると、腕をまくってユキシロへ差し出した。ようやく大人しくなったとユキシロがようやく点滴をつける。火傷は体液をかなり消失するため、早く補ってやらねばならない。呆れ顔で言った。
「お前らの無茶っぷりは変わんねぇけどな。命は一つなんだから大事にしろよ」
「分かっている」
「ほれ終わり。俺も忙しいから次行くわ」
ユキシロが席を外し、別の患者のところへ向かった。せかせかとあっちこっち飛び回っているユキノに軽くちょっかいをかけ、蹴りを入れられている。ユキノは忙しいながらも、こちらをチラチラと気にしていた。あれこれとユキシロが指示を出し、気にする余裕もないくらいの仕事量を押しつけられたユキノが悪態をついている。
カイトがフーッと長く息を吐く。
「テレポート屋をユニオン入り口へ呼んだ。リーグへ行け。リールはお前の波動を知っている。無事ならば波動弾で場所を知らせるはずだ。あいつがいるなら間違いないだろう」
「テレポート屋ってリーグ入れたか?」
「入れないだろうな。付近までテレポートは出来ないか?」
「俺はよく出入りするから知ってんだけど、山一帯全部駄目だったはずだぜ」
ポケモンがテレポート出来る先は、行ったことのある場所に限られる。基本的にリーグへの挑戦者や訪問者はトモシビから、ウインディと子供達であるガーディのテレポートで連れていく。リーグは特殊な場所だ。過去は祭壇であったとも言われ、その名残か彼ら以外のテレポートを禁ずる特殊な場所なのだ。
カイトがぐしゃりと髪を乱し、胡乱な目を向けた。
「お前らはどうやってリーグに入っていたんだ。挑戦者も零ではなかったし、地震以後はお前以外の四天王が交代でリーグに詰めていたはずだろう」
「そりゃもちろん俺はオニキスで空からだし、他の奴らもたいてい空からだな。でも今は……空からじゃ遅いだろうな」
カイトが舌打ちし、思案するように視線を動かした。リクでぴたりと止まり、閃いたと目を開く。
「……リク。ガーディが残っていたと言ったな」
「ああ、うん」
「――無線を持ってこい!」
カイトがリクが慌てて持ってきた無線を引ったくり、留置所のガーディを確認するようにと指示する。ウミのいた留置所は連絡が取れなくなっていた場所だ。すでに確認したレンジャーがガーディを保護していたらしく、回復の列に並んでいた。「ガーディを優先回復して連れて来い。すぐにだ。予備のスタイラーも持ってこい」応答したレンジャーの声音からして、数分と待たずしてガーディが来ると思われる。
「ガーディは私がキャプチャする。罠かもしれんが、お前には関係ないだろう。リーグへテレポートしろ」
「罠ァ?」
「トモシビの住民はアカツキに従っている。ウインディも例外ではない。何故ガーディだけ置いていったのか、考えてみろ」
ふーむ、とヒナタが唸った。3秒と待たずして答えを口にする。
「うっかりとか」
「阿呆」
「終わったらツキネに通訳頼もうぜ。案外ガーディを置いていったのは、アカツキじゃなくてウインディの方かもしれねーし。考えても分かんねぇから出たとこ勝負だな」
「油断するな」
「任せろってば」
ハハハとカイトの背中を軽く叩き、おっとそうだとヒナタはこちらを向いた。カイトはいつもの事だと不機嫌顔で、それ以上の小言は続かなかった。
「お前、帰らなかったんだな。どうしてだ? オニキスは約束は守る奴だ。だからお前を預けたんだけど」
「オニキスは約束を守ったよ。オレが帰らなかったんだ」
リクはヒナタにオニキスのボールを返した。振り返れば一ヶ月と共にいたわけではないが、長い旅をしてきたようだ。ウミとの繋がりがリーシャンやハンカチだとすれば、ヒナタとの繋がりはサザンドラに当たる。ヒナタは帰ってきたサザンドラのボールへ、「お帰り」と言った。サザンドラはボールの中で鼻を鳴らすと、つんと澄まし顔をする。腰のボールホルダーに収まったサザンドラは、あるべき場所へようやく戻った感じがする。
「ヒナタ。オレもリーグへ連れていってくれ」
「いいぞ」
「ちょっと待て」
あっさりとヒナタが答えると、カイトが即座に起き上がった。ヒナタを鬼の形相で押しのけ、リクを睨みつける。カイトの言葉が飛び出す前に、リクが噛みつくように言った。
「友達が連れていかれたんだ。オレは取り戻しに行く」
「友達というのはウミだろうが、お前は死ぬ気か? お前も馬鹿かヒナタ。ただでさえ危機的状況で、一般トレーナーのこいつを連れていくことを安請け合いするな。だいたいこいつを連れていくなら、私も行くのが筋だろう。死人を増やしたくないんじゃなかったのか!」
「いーじゃねぇか。オレだってお前の事件に首突っ込んだ時は一般トレーナーだったんだし。お前は半死半生だけど、こいつはピンピンしてるんだから」
「足手まといにはならない。リーグについたら置いていって構わない!」
「なるかならないかはお前が決めることではなく、お前の実力次第だ」
「オレはソラに勝った!」
カイトが剣呑な顔をした。この自信過剰が、という言葉が聞こえてきそうだ。大きな声を出したリクに、医務室の数名が視線を向ける。リクの腕の中のチリーンもぱちりと目を開いた。体を浮かび上がらせ、キョロキョロとウミを探す。姿はない。
不安そうな瞳に、涙がぽろりと流れる。リクがチリーンを両手で包み込んだ。チリーンが体を少し退いたが、「大丈夫だ」と微笑みかける。
「ウミは必ず取り戻す。もうあの時とは違うんだ」
彼女が進化したのは、ウミを守るためだ。確信がある。だからここで安心して、待っていてくれないか。そう言おうかと一瞬思ったが、寂しそうにウミを待ち続けていたリーシャンの姿が思い起こされた。
チリーンを抱きしめた。呼吸が止まったように彼女は動きを止め、涙に濡れた小さな瞳が見開かれた。
大丈夫。
大丈夫だ。
もう置いていったりはしない。リクはカイトを見据えた。
「負けるってあんたは言ったけど、オレは勝った。今度だって勝ってみせる。――こいつらと一緒に」
チリーンが震えた。その震えが拒否ではない事は、暖かなオーラが証明している。小さく耳元で、リ、と答える声がした。
水を差すようなカイトの声が追いかける。
「死ぬぞ」
「死なない。絶対に生きてウミとシャモを連れて帰る」
暗闇の洞窟から全ては始まった。何もかも置いていってしまった。
あの暗い場所に、夢も希望もポケモンも友達も。
今度は誰も残していかない。
「ヒナタも連れて帰ってくるって約束する」
「え? 俺?」
「お前に出来ると思っているのか?」
「あんただって、その体でリーグへ向かおうとした。やれるかやれないかじゃない」
鼓動が大きく耳元で打った。手が震える。声が震える。これは恐怖だろうか? ――違う。雷鳴のような強い想いが胸を貫き、リクの足を、意志を突き動かしていた。
ラチナで多くの人々に会った。ポケモンに会った。強い人々。出来ない事もあるけれど、それでも歩みを止めない彼らを見てきた。ヒナタは決して、やれると思ったからリーグへ行くのではないだろう。
恐れもある。現実も見えている。
それでも行くのだ。
「やるかやらないかだ。オレは行く。絶対に行く。約束は必ず守る」
カイトがリクを睨んでいる。目つきだけで射殺さんばかりの威圧感で。やがて、深々と嘆息し、足のポケットに手を突っ込んだ。
「持って行け」
元気の欠片を手渡される。にひ、とヒナタが笑った。
「お前も丸くなったな」
「そこの馬鹿を連れて帰ると言ったな。任せたぞ」
「カイトさん? もしもし? 一応俺がチャンピオンなんだけど……」
「連れて帰る。約束するって言った」
「連れて帰るのは俺の方なんけど……ま、良いか。リクも友達もルカリオも、まとめて連れて帰ってきて、ぱーっと片付けて帰ってくるから任せとけよ」
ヒナタが頬を掻いた。ガーディと予備のスタイラーが医務室へと到着すると、カイトが点滴の棒を持って立ち上がる。ガーディは癒やしの波動を受けると薄らと目を開いた。くぅん、とあげた鳴き声に敵意はないが――チリッと口から吐き出した炎の残渣が、黒く染まっていた。
嘘か真か。罠か導か。医務室の人々やポケモン達、誰もが不安を抱えながら期待や希望の色を込めてヒナタを見る。それらを一身に背負い、ヒナタはリクの背を叩いた。
「気張れよ。友達を助けるんだろ」
「ウミを知ってるのか?」
リクが驚いてヒナタを見る。ヒナタは振り向かず、ガーディを見つめていた。
「カザアナでちょっとな。全部なんとかするけど、あいつだけは俺だけじゃ無理だ。お前の力が要る」
チリーンがリクの肩に掴まる。医務室の一角に空いた場所で、カイトがスタイラーを構えた。
「キャプチャ・オン」
キャプチャ・ディスクが飛び出す。小さな円を描いてガーディの周囲を回る。ボボボ、と浅く呼吸するガーディにあわせ、黒く、赤く、ない交ぜに争うような色合いの炎が小さく吐き出される。ガーディは動かずにじっとその場で座っていた。1分もかからずにキャプチャは成功し、ガーディがコホッと咳き込んだ。
美しい朱の炎が吐き出される。ガーディがすくっと立ち上がり、ヒナタとリクを待つように見つめあげた。
「――こいつらをリーグへ」