Box.4 暗闇の前進
荒い息が聞こえる。
自分の息だ。
暗闇。
無数にひしめくポケモン達の鳴き声は、ささやかに。地べたに這いつくばり、泥に塗れ、前後もつかない暗闇を惨めに這いずり進む。
いつまでこうしていなくてはならないのだろうか。
いつからこうしているのだろうか。
「は、ァ」
――あの後。
リクは一人で、地下トンネルをひたすらに進んでいた。
サザンドラはトンネルに転がり込み、倒れた。背後の交戦の音はすでに遠く、濃霧の底だ。戻る事は出来ない。リクにできるのは、ヒナタに言われた通り地上を目指す事だけだ。
それは並大抵の事ではなかった。進むべき方向は分かっていたが、心がついていかない。
暗闇は、簡単に人の心を蝕む。
一寸先は闇だ。自分の伸ばした手すら見えないような暗闇で、リクは風を聞き、サザンドラのモンスターボールを抱えて前へと進み続けた。
その内に、一つずつ消えていった。
前後の感覚が消えた。
上下の区別がつかなくなった。
手足がどこにあるのか分からなくなった。
そもそも今考えているのは本当に自分なのか。自分自身の存在さえも揺らいでいく。もし自分がそこにいないのならば、違うのならば、そこには闇しかない。地面に倒れこんで死ぬまでそこで眠ったとして、何処で思考が途切れるのだろう。
――闇。
リクの心を、じわじわと“思考の闇”が侵していく。
どこまで行けばいい。
どこにも行けないのなら、ここで歩みを止めたとしても同じだ。
「――ァ」
声が出なかった。いつから水を飲んでいなかっただろうか。最後に光を見たのはいつだ? ふらりとその場に倒れこみ、目を閉じた。もう、諦めてしまいたかった。全てを投げ出して、ここで眠ってしまいたい。思考を、疲れ切った体を、後悔を。すべてを闇が包み込み、覆い隠し、そして――
「グルォ」
ひとりでにモンスターボールが開いた。紅い瞳がリクを見つめる。サザンドラはリクの服を咥え、這いずるように進み始めた。トンネルは狭く、岩壁が体を擦った。
「グォ……グォォ!」
サザンドラの目は闇の先を見据えていた。歯を食いしばって、リクを引きずり前へ進む。歯は小刻みに震えていた。ひゅぅひゅぅと細い息を吐きながらも、トンネルを這いずり進んだ。
歯から服が滑り落ちた。倒れかけ、必死に前足を出す。ギリギリで倒れこみはしなかったが、リクを落としてしまった。地面に倒れたまま、リクは薄く目を開けた。暗闇で見えないはずの紅い眼と視線がかちあった気がした。
「……かえりたい」
ぽつりと言葉が落ちた。
「そとに、でたい」
渇いた喉を震わせて、リクは言った。両手で顔を覆う。
「だれか」
リクの服をサザンドラが引っ張った。ぼんやりと目を向ける。サザンドラは再びリクを引きずり歩きだしていた。
「グル」
細い息が聞こえる。
リクと同じように、這いずり、惨めに前へ進む。
倒れる。起き上がる。進む。その繰り返し。
進んで、倒れて、起き上がって、進めばいい。ただそれを繰り返せばいい。それだけの事が、辛くて仕方がない。
「もういい」
乾いたはずの瞳から、僅かな涙が零れた。
「オレは、もういい、から。……いって、くれ」
サザンドラは決してリクを置いて行かなかった。落とすたびに咥え直し、引きずり進んだ。諦めるなとでも言いたいのか。ヒナタとの約束を守ろうとしているのか。どちらにせよ、リクにとってそれは苦痛だった。
心が死んだ者にとって、生を叫ばれる事は苦痛だ。
「……」
サザンドラは何度目かリクを落とした時、リクを睨んだ。サザンドラには暗闇を見通すことができるのかもしれない。しかし、リクの、人間の目ではサザンドラを見返す事は出来ない。
だから、サザンドラは吼えた。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
リクの全身が、心臓そのものが震えた。
魂を揺さぶるような力強い咆哮だった。
サザンドラは荒く息をついていた。渾身の咆哮は体力を大きく削ったが、いまだギラギラとした荒い生命が、存在がそこにあった。
――今すぐ死ぬわけじゃないんだ。まだ時間はあるさ。
リクは、ヒナタの言葉を思い出した。
「いきてる、のか」
手を握った。
膝に力を込め、よろよろと立ち上がる。失われていた感覚が帰ってきた。
「そうだ。まだ、生きてるんだ」
リクの目に光が戻った。前を見る。闇がある。
だがそれは、限界のない闇ではない。諦めなければ、必ずいつかは終わる闇だ。
サザンドラと一緒に、リクは前へと歩き出した。
◆
――海辺の町、ナギサタウン。トンネル付近。
封鎖されたトンネル前に、女性は立っていた。日に焼けた小麦色の肌に蒼銀のショートカットが揺れる。普段は好奇心に開かれる碧眼だったが、今は厳しい目をしていた。
ナギサタウンは街中に水路が走っており、主要道のひとつとなっている。海から港、街、そしてトンネルへと。
先日のラチナ大空洞の崩落事件は朱色の外套集団が主犯とされているが、まだ捕まっていない。
「厄介なことしてくれたわね」
女性は荒れ気味に吐き捨てた。事件のせいで水脈の流れが大きく書き変わった。使えなくなったトンネルも一つや二つではない。ラチナ中が混乱に叩き落されたのが数日前のことで、海辺に近いナギサタウンもかなりの被害を被った。
街自体は良い。問題は水路だ。もともといくつかの水路はトンネルの中に入り込むこともあったが、必ず外へ戻ってきた。
書き変わった今、帰ってこなくなってしまった。
水路にはたくさんの水ポケモンが生息している。このまま放っておけば流されて大空洞の底へ落ちてしまう。水路を封鎖して、水ポケモンを回収して、水路の整備を行って……この先の事を考えるだけでも頭が痛い。
現状の対応だけでもいっぱいいっぱいなのに、街の顔役どもが更に騒ぎ立ててくる。
「対応が遅い」「こういった事態を想定していなかったから」「犯人はまだ捕まらないのか」「水ポケモンが」
最後には、いつもの決まり文句だ。
『これだから、経験の浅い小娘をジムリーダーに据えるのは反対だったんだ』
女性は思い出し、イラッとした。封鎖されたここは、また崩壊が起こるかもしれない危険な場所だ。だから自分の身が可愛い奴らは絶対に近寄ってこない。思いっきり悪態をついた。
「言われんでもあたしの街はあたしが守るってーの!」
「ピュリピュリ!」
シャワーズも一緒に叫ぶ。目が吊りあがっているところを見るに、女性と同じ気持ちのようだ。ふんす、と胸を張った。
「主犯は見つけ次第ぶっ倒す! 絶対ぶっ飛ばす!」
「ピュリ!」
「ありがとね、シャワーズ」
「ピュゥ」
女性はシャワーズの頭をなでた。水路は岩と氷で封鎖されている。シャワーズの冷凍ビームで補強を終え、最後の確認をした。
「よし、よし……一応、追加の崩落がないか確認しておこうかな」
水路のないトンネルへと足を向けると、少し先に人が倒れているのを見止めた。女性はサンダルのまま器用に岩を降りていく。シャワーズもそれに続いた。
倒れていたのは少年だった。黒髪を大きな布で一つにくくっている。駆け寄って呼吸を確認すると、僅かに呼気が手のひらに当たった。脈もある。大きな外傷は見当たらないが、手足が冷たくかなり衰弱していた。少年を背負うと、女性は急ぎ街へと戻った。
背負われた少年――リクの手には、しっかりとモンスターボールが握られていた。
◆
リクは病室で目を覚ました。
「あ……ッ」
久方ぶりの光に目が慣れない。またすぐに目を閉じたが、それでもくらくらする眩しさだった。何か光を遮断するものが欲しい。被れるものを手探りで探した。ちょうど手に触れたサブバッグを掴み、被った。何故そのチョイスだったのか。同タイミングでドアが開く。
「失礼します。リク君、点滴取り換えの時間――」
入ってきたジョーイさんが、サブバッグを頭から被ったリクに視線を止めた。
「まだ病み上がりですからね、眠っていた方が良いですよ。リク君」
ジョーイさんはかつてないほど優しい声で告げると、速やかな動作でリクをベッドに戻した。いやこれには深い訳がっ! リクは弁解しようとしたが声が出なかった。けほっと渇いた咳が出た。慌ててサブバッグを頭から剥ぎ取る。
光が容赦なく眼球を攻撃した。
「―――――――! ―――――!」
声なき悲鳴をあげて転がる。ジョーイさんはリクを助け起こし、ベッドへと戻してくれた。
「飲めますか?」
水の入ったコップを勧められ、一気に飲み干す。2杯、3杯――ようやくひと心地つき、恐る恐る声を出した。「あ、あ、あー……」無理のない声だ。
「あの、オレ、どうなったんですか」
「此処はナギサタウンのポケモンセンターです。貴方は封鎖されたトンネルの出入口に倒れていたんですよ」
リクは記憶を辿る。ヒナタと別れ、オニキスと共に暗闇をひたすらに歩き続けた――
そうだ。
「オニキスは」
「無事です。今はあなたと同じように休息しています」
「そう、ですか」
胸を撫で下ろし、ベッドに倒れこんだ。それならもう少し眠ろう。安心して目を閉じかけ、
「しょうねーん! おっきろー!」
「うえッ!?」
突然の女性の声にたたき起こされる。驚き開いた視界にへそ、ショートパンツに小麦色の脚が飛び込んできた。
「こらこらせいしょーねん。何処を見ておる」
「あ、あわわわわわわ」
ぽかっと軽く頭を小突かれ、顔を赤くした。視線を持ち上げると、碧眼の女性がこちらを見ていた。
「よし、まずはこれを飲め!」
女性はずいっとコップを突きつけてきた。乳白色の、牛乳みたいな色の液体が入っている。特に危険ではない、と思うが。リクがちらりとジョーイさんを窺うと、碧眼の女性はひらひらとそちらに手を振った。
「行っていいよ。後はあたし看とくから」
「はぁ……ホトリさんが言うなら」
ジョーイさんは碧眼の女性――ホトリにお辞儀すると、退室してしまった。ホトリはどっかりと椅子に腰かけ、「さぁ飲め」と此方をにこにこ見つめてくる。仕方なく、リクは謎の液体を飲んだ。どろりと甘くて、体中に力がみなぎって来る気が――いや、みなぎるを通り越して、
爆発した。
「……これなんスか」
「ホトリちゃん特製元気の塊ジュース」
ぷすぷすと両耳から煙を上げるリクに、ホトリはパチパチと拍手を送った。
「いやーポケモンに効くなら人間にも効くっしょと思ったら予想以上だわ。おめでとう人体実験第一号君!」
「人で実験するなあああああああああああああああああ!」
全力でコップを投げつけると、ホトリは事もなげにキャッチした。非常に楽しそうだが実験された当人はたまったものではない。
「まー細かい事は置いといて。元気にはなったんじゃないかな?」
リクはハッとした。ホトリの言うとおりだ。全身に力がみなぎっている。耳から煙は上がっているが、コップを全力投球できるくらいには回復していた。
「急を要するからね、今は特に。あたしはホトリ。君の名前は?」
「リク、だけど。急を要するっていうのは」
「まず第一に」
ホトリは指を一本立てた。
「君は不釣り合いに強力なポケモンを連れていた。
第二、瀕死に近い状態で封鎖されたトンネルの出入り口に君は倒れていた。
第三、あたしは君の連れてるポケモンに見覚えがある。
で、“本来の持ち主”が音信不通っていうか」
ホトリは机の上に視線を向けた。サブバッグの中身が広げられており、そこにはヒナタのポケナビもあった。
「それは彼のポケナビだ。アホでも何かあったと考えるさ」
心臓が嫌な音を立てた。
自分はどれくらい眠っていた? ヒナタと別れてから、どれだけ経った? 暗闇に時間の感覚を奪われていたとはいえ、一日二日の出来事とは到底思えなかった。
「ヒナタ、は」
「うん」
「戻っていないんです、か」
「あたしの知る限りでは」
ホトリは指折り数える。
「彼が消えてから、君が目を覚ますまで約4日。カザアナタウンのジムリーダーとも連絡は取ったけど、まだ戻ってない」
リクは目を見開いた。
「ヒナタは――」
水を飲んだ筈なのに、妙にひりつく喉を震わせた。
「地下大空洞の、底にいます」