Box.3 赤銅の男
「その声は――!」
ヒナタが影を睨みつける。眉を寄せ、続きを叫ぼうとして、
「誰だ?」
首を傾げた。相手がこけた気配がした。
「シィイィィィィィィィィット! おめえのちんちくりん頭に何度名乗ってやったと思ってんだァァァアアアアア! アアアアンン!? 仕方ねェ、ゴースト、霧を払ェ!」
濃霧が左右に割れ、隠されていた姿が露わになる。橙の身体のポケモン、リザードン。ニヤニヤ笑うゴースト。リザードンの背に朱色の外套がはためく。外套の頭部を脱ぎ去り、相手は声を張り上げた。
「てめェの宿敵! 天才的バトルセンスを持つ超弩級天災トレーナー! 未来のラチナチャンピオン! 俺様こそ須らくトレーナーの頂点に立つべき相応しい男! 赤銅のノロシ様だァ!」
「知らん!」
「ぶっ殺すぞてめえええええええええええええええええええ!」
ノロシが顔中に青筋を立てて怒鳴った。名乗りの通り、赤銅色の髪の凶悪な顔つきの男であった。吊り上った眼の瞳孔が開いている。血管の浮き出た顔で怒鳴り散らす。
「何度てめェに挑戦しに行ってやったと思ってんだァ! この俺様がよォ! 脳みその代わりに海藻詰めてんじゃねーぞォ!」
「ごめんな!」
ヒナタは素直に謝った。ノロシの目がカッと開かれる。
「死ねぇ! リザードン、フレアドライブ!」
「オニキス!」
炎を纏ったリザードンが弾丸のように迫り、サザンドラが紙一重で避けた。火の粉が舞い、直近に燃え猛る炎に喉が焼ける。2匹が距離をとった。ノロシが手を下す。押しのけられた濃霧が再び視界を覆った。
「イイ事教えてやろうかァ? この下に、何があるか」
ヒナタは言葉を返さなかった。神経を集中し、相手の出方を窺っている。
リクは目を回していた。あっちこっちへ振り回され、心身共にオーバーフロー寸前だ。だが、ノロシの言葉だけは不思議と耳に届いた。目を逸らした好奇心が顔を出す。
「馬鹿なテセウス、愚かなテセウス! 火は神のものだというのに、自分の力を過信した! ひゃはははははははは! かの大空洞の地下には、大いなる愚か者が眠っていやがる!」
また、神話だ。
ヒナタが語ったものとはまた別の、だが本質は同じものを、ノロシは高らかに謳った。テセウスとプロメウ。プロメウはホウオウの別名があると、ヒナタはリクに語っていた。
「火だ! 焔だ! ラチナ全土を焦土にできるほどの炎を持った伝説の愚か者! ここにあるのは濃霧なんかじゃねぇ水蒸気だ!」
人を心底馬鹿にした嗤い声がキンキンと耳に響く。
「そして此処がてめぇの墓場だヒナタァ!」
ヒナタは待った。霧が視界を塞ぎ、ノロシの居場所は判然としない。ヒナタが合図をすると、サザンドラは口に黒い波動を収束させた。
ノロシの影が濃くなった瞬間、ヒナタは即座に指し示した。
「竜の波動!」
「ゴオオオオオオオオオオオオオ!」
サザンドラのあぎとから黒い波動弾が放たれる。敵の方向が正確に分かる攻撃ぎりぎりの瞬間を、ヒナタは的確に読み取っていた。
しかし敵もそれは予想済みだったらしい。ノロシは臆さず獰猛に笑った。
「突っ込めェ!」
「グゥルオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
リザードンは避けるどころか、真正面から悪の波動へと突っ込んできた。波動弾がリザードンの頭部を大きく抉った。だが、止まらない。欠片もためらいのない行動にヒナタは驚愕した。
「な――ッ」
「かみなりパンチ!」
「グォォォォオオ!!!!」
帯電する拳がサザンドラの頭部を強打した。サザンドラが2人を離した。反射に近いトレーナーへの忠誠心。直後に全身を走り抜けた電流に、サザンドラが叫喚した。
「ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
電流を逃れたリクとヒナタは、中空に放り出された。浮遊感の刹那、熱い濃霧の海へと落下する。リクの全身から血の気が引いた。地に足がつかない。掴むべきものがない。悲鳴を上げる余裕さえもなく、体中の力が指先から抜けていく。ヒナタはサザンドラを呼んだ。
「オニキス!」
ヒナタもリクと同じように落下していた。だが眼に恐怖はなく、まっすぐに上空のサザンドラを呼んでいた。
「来い!」
“信頼”というただそれだけで。
ヒナタという男は、サザンドラが「来る」と確信する。
「グォ……グゥオオオオオオオオオオオオ!」
サザンドラは吼えた。麻痺を振り切り、ヒナタに応え、四肢を、翼をはためかせる。
「グゥオオオオオオオオオオオオオオ!」
「チィ! 火炎放射ァ!」
急降下してヒナタたちを追いかけるサザンドラに追い打ちがかかった。炎がサザンドラに猛スピードで追い縋る。サザンドラは速度を上げた。背後の火炎には目もくれず、落下するヒナタとリクを求め、影と声を頼りに駆け抜けた。
リクの視界にそれは霧を引き裂き現れた。黒い翼だ。かっさらうようにリクを掴み、迫る火炎放射を避ける。続いてヒナタがサザンドラの背に着地した。ヒナタは即座に体勢を整え、サザンドラに問いかける。
「まだ行けるか?」
「グゥ」
「し……死ぬかとおもた……」
サザンドラは荒い息をついた。リクは真っ青で息も絶え絶えだった。
ヒナタは濃い霧――いや、水蒸気を見下ろした。落下して地下に近づいた分、立ち上がる熱気は先ほどの比ではない。耳を澄ますと水の蒸発する音がした。ノロシの言葉はまんざら嘘ではなさそうだ。焦げ臭さが鼻につく。
落ちれば、命はない。滴る汗が服を濡らした。無意識に胸元を弄ると、ペンダントが指に触れた。
「……怒りそうだな」
ヒナタはペンダントの送り主を思い返した。
死ぬつもりはないし、負けるつもりもないし、全員生きて返すつもりではあるが。ちょっと難しいかもしれないな、とヒナタは眉を下げた。現状の何一つとして譲れるものがない。
「リク、生きてるかー?」
「かろうじて」
「じゃあ、残りの神経集中させてちょっと聞いてくれ。この先、ずっとひとりで歩くことになるけど……くじけるんじゃないぞ」
ヒナタの顔を見ようと、リクは顔を上げた。ヒナタはサザンドラの背中で、リクは抱えられている。顔は見えなかった。
「ノロシは、どうすんだよ」
「なんとかするさ」
「倒すのか?」
リクは嫌な予感がしていた。力のこもったヒナタの声が返ってきた。
「倒すさ! 俺はラチナのチャンピオンだ。この地方のトレーナーの頂点で、みんなを守るのが役目だ」
サザンドラの肩越しに伸びてきたヒナタの手が、リクの頭におかれた。
「風とポケモンの声に、よく耳を澄ませるんだぞ。諦めなければ帰れる。俺が保証する」
リクは息を呑んだ。まるで別れの言葉のように、きっぱりとヒナタは言い切った。
「俺は残る。お前は家に帰らなくちゃいけない」
「でも」
「……手伝ってくれって言ったのに、ごめんな」
頭に乗せられたヒナタの手が離れていく。リクには引きとめることができなかった。ヒナタは自身のポケナビとサザンドラのモンスターボールをサブバックに入れ、サザンドラの首にかけた。
「オニキス。もうひと踏ん張り、頼む」
「グルォ」
上空を睨んだ。濃霧の先にいるであろう、敵を。
「上へ!」
「グォオオオオオオオオ!」
サザンドラの翼が風を叩いた。濃霧を吹き飛ばし、上へ、上へ。体はまだ痺れている。体力も限界が近い。ヒナタが叫ぶ。
「ハイパーボイス!」
「グルオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
サザンドラの咆哮が轟いた。濃霧の中、こだまの様にリザードンの咆哮が戻ってくる。心底嬉しそうなノロシの笑い声がした。
「ひゃはははははははは戻ってきたかァ! そのまま死んだかと思ったぜェ!?」
「生憎と生きてる! まだ死ぬわけには行かないもんで、ね! オニキス!」
「グォ!」
サザンドラはノロシの声の方向へと突き進んだ。濃霧を越え、はっきりと敵の影を視界に捉えた。サザンドラとリザードン、両者が急接近する。ノロシが歓声を上げた。
「そっちから来るとは嬉しいぜ死ね! かみなりパンチ!」
「迎え討て! 悪の波動!」
リザードンの拳に電撃が篭る、サザンドラの口に漆黒の波動が収束する。
サザンドラの翼が、ばさりと動く。リザードンを無視し、その直近をすり抜けた。リザードンが動揺する。
「グルォオオオオオオオオオオオオ――オ!?」
刹那、ヒナタがサザンドラから手を離し、その背を蹴った。
「帰れる、信じろ!」
「――ヒナタ!」
ヒナタがリザードンへと飛び移った。サザンドラはリクだけを連れて急速に飛び去っていく。戦場が遠ざかっていく。
ヒナタもサザンドラも、決して振り返らなかった。