Box.2 ラチナ神話
予想はほぼ当たっていた。
支流を下り、やや流れが緩んだ辺りに2人と一匹は仲良く引っかかっていた。リクの服が尖った岩に、その足を青年が、青年の手が持ちポケのサニーゴを掴んでいた。リクは酸素不足で苦しんでいた。
「絞まる……首が絞まる……うぐッ!」
「いやー悪いな。助けに来たのに助けてもらって」
「サニー!」
「助けてないわぼけー!」
リクはもがき苦しんでいた。状況は良くなるどころか悪くなる一方だが、青年は朗らかな顔をしていた。
「コーラル?」
「サニ……」
コーラルと呼ばれたサニーゴがしょんぼりとする。現状打破の力にはなれなさそうだ。
「気にすんなって――オニキス!」
青年の腰のボールが開いた。現れたのは6枚の黒い翼に赤い瞳のポケモン――非常に不機嫌そうなサザンドラだ。
「グルオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
濁流さえ震わすほどの咆哮に、リクは顔を青くした。これほどの威圧感を与えるポケモンに出会ったのは生まれて初めてだ。青年は慣れているのか、顔色一つ変えない。
「ちょっと引っ張り上げてくれないか?」
青年の頼みに、サザンドラはすぐには動かなかった。滞空したまま、こちらを恐ろしい目で見ている。青年がいぶかしんだ。
「オニキス?」
返答の代わりにサザンドラが口を開く。周囲の空気がざわめき、収束する。口腔から放たれようとしているのは衝撃波――竜の波動であった。リクは攻撃の気配に真っ青になる。
「え、ちょま……ッ」
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
サザンドラの攻撃が放たれた。リクは死を覚悟して目をつむった。だが、聞こえたのは別のポケモンの悲鳴だった。
『キィイィィィィィィ!』
竜の波動は、天井に潜んでいたゴルバットやズバットの群れを攻撃していた。ボトボトとゴルバットたちが水流に落ちていく。獲物を狙って身を潜めていた気配を、サザンドラはいち早く察知していたのだ。襲われていれば数秒と待たず全身の血を吸われ尽くしていた。
サザンドラは馬鹿にした眼でリクを一瞥し、荒く鼻息をついた。リクはぽかんとしている。青年がサニーゴをボールに戻すと、サザンドラは左右の頭で2人を抱えた。引き上げる足場がなく狭いため、青年が示した方――下流へ向かう。
ようやく首絞めから解放されたリクが、暗い気持ちで呟いた。
「……帰れる、のかな」
地につかない足と、一寸先も見えないような闇。不安が手招きしているようだった。だが青年はそれを吹き飛ばすように、あっけらかんと答えた。
「帰れるよ」
確信しているかのような声音だ。同じ状況だというのに、この青年はどうしてこうも明るいのか。どんよりしているリクに対して、青年は事もなげに続けた。
「ちょっと時間はかかるけどな。お前、名前は?」
「リク」
「俺はヒナタ。しばらくよろしくな!」
ヒナタは快活に名乗り返した。こんな状況で、随分とのんきだ。思考がどんどん暗い方へ転がっているリクは、胡乱な眼をヒナタに向けた。
「帰れるって……どうやって?」
「これから考えるところだな」
にこやかな返答。沈黙が流れる。リクの目が絶望に染まった。
「いやあああああああああああああああああああああああああああ!」
「まーまー落ち着けって。早々死ぬ訳じゃない」
「死んじゃうよー!」
あははは、と笑うヒナタにリクは全力で泣き叫んだ。思う所があったのか、ヒナタは少しだけ真剣な顔で考え、言った。
「人間みんな、いつかは死ぬぜ?」
「嫌だああああああああああああああ!」
リクは本格的に泣き出した。ぐずぐずと泣くリクに、ヒナタは半分くらい諭すように言った。
「ま、今すぐ死ぬわけじゃない。まだ時間はあるさ」
自分自身に言い聞かせているような口ぶりだった。リクは気がついていなかったが、ヒナタも全く不安を感じていない訳ではなかった。ヒナタはリクよりずっと年上で、隠すのがいくらか上手かっただけだ。
「後でいくらでも泣いていいから、お前も脱出を手伝ってくれないか?」
有無を言わさぬ圧力のある言葉だった。リクは思わずかくかくと頭を縦に振っていた。
うずくまったままでいる事は許さない。縋る事も許さない。一緒にこの状況に立ち向かうことを、ヒナタは求めていた。
混迷を極めた状況だとしても。それが自身で対処しなくてはならないとくれば嫌でも冷静にならざるを得ない。リクは必死に頭を動かした。恐怖を、思考に逸らさなくては。
「……ぐすっ。これ、下ってるけど。大丈夫なのか」
地上に出たいなら上る必要がある。サザンドラはずっと下っていた。
「ラチナ地方の地図は見たことあるか?」
「ラチナ地方?」
「もしかしてお前、他の地方から来たのか?」
「ミナモシティから……」
「あー……」
どこから説明したものか。ヒナタは唸りながら、ぽつぽつと話し始めた。
「えーっと、ラチナ地方ってのはな、こう、ドーナッツみたいに円状につながってる街々の中心に高い山と盆地があって、そこにチャンピオンリーグがあるんだ。何処から旅に出ても、真っ直ぐ進めば一周できる」
随分と変わった地形だ。ぐるりと、何かを囲むような形の地方。
「真ん中のチャンピオンリーグの地下にはでっかい空洞があって、地方全体に広がるトンネルと繋がってるんだ。繋がってない奴もあるけどな。地下水脈のほとんども大空洞と繋がってる」
「ええと……ええと? つまり、一番奥の大空洞まで出て、そっから地上に出るトンネルへ入るつもりなのか?」
「飲み込みが早いな」
リクにもようやく話が見えてきた。地下水脈を上ったとしても、サザンドラが飛べるだけの空間がずっと続くとも限らない。では地上までを破壊してしまったらいいかというと、どれだけの距離があるか分からないし、さらなる崩落を引き起こすかもしれない。現状とれる策として、ヒナタの考えは悪くなかった。
「でもトンネルや水脈が大空洞と繋がってる事とかは、実際に俺が全部確認した訳じゃないし、話として聞いただけだから、細かくどうなってるかは分からないけどな。悪いけど、そこは半分賭けだ」
「そう、か」
それでも希望があるだけマシだ。そのまま下りながら、リクはラチナについてヒナタとしばらく話し込んでいた。ふと、だんだんと自分が汗ばんできている事に気がついた。
「なんか、暑くないか?」
「そう、だな」
ヒナタが同意する。地下と水流が合わさって寒いくらいだったのが、急に暑くなってきていた。ヒナタは考え込むように押し黙った。水脈を下るほどに気温が上昇していく。気のせいではない。得体の知れない熱気が、水脈の先から立ち上ってきていた。
ヒナタが、ぼそっと呟いた。
「……“らちなの だいちの おくふかく。いつしか くずれる ともしらず”」
警句のような言葉に、リクはヒナタの顔を見た。
「それは」
「ラチナ神話だよ。昔から、ラチナに、伝わってるんだ」
ヒナタは額から流れる汗を拭った。暑さに、息が切れてきていた。
「ラチナは昔、地盤沈下が多かったらしい。……あるときから、ピタリと、止まったんだけど。それが、とあるポケモンのおかげだって」
「ポケモンが、地下を支えて、るって?」
そんなに体の大きなポケモン、伝説や幻にだっていやしない。だがヒナタは首肯した。
「そうだよ。溶岩が、身体に流れてるんだ。それが……冷えて固まる事で、ラチナは、崩れずに済んでるんだ。神話、おとぎ話みたいな、もん、だけど」
息が上がってきた。細く長く息を吐き、じわじわと流れてくる汗を何度も拭った。
神話は続く。
人を燃やし、ポケモンを燃やし、森を燃やし、そのポケモン自身も燃えた。
困り果てたそのポケモンと人々のもとに、ホウオウが現れ告げた。
『地下に潜ればいい。地下深くで、お前の溶岩は冷えて固まる。
――後に、それはラチナの大地となる』
ポケモンは助言に従い、ラチナの地下へと潜った。
深く、深くへと。
「それって、ハー……“ただの”神話なんだよ、な?」
「さぁ……もしかしたら“ただの”神話じゃなかったの、かもしれない、な」
リクは変な笑い声を上げそうになった。それはヒナタも同じだったらしく、妙におかしくて仕方がなかった。気温は一向に下がる気配もなく、上がり続けている。熱気が全身を覆っているようで、2人を抱えて飛んでいるサザンドラの息も上がってきていた。
「グルォ」
サザンドラが鳴いた。地下水脈の終りが近づいてきた。地下にも関わらず、薄赤く、明るくなっているように見える。
「神話が、本当だったらどうする?」
リクがヒナタに問いかけた。リクの不安を和らげようと、ヒナタは冗談を飛ばした。
「その時は、みんなで溶岩キャンプファイヤーでもしようぜ」
地下水脈の終りに出ると、視界を濃い霧が包んだ。明るく、朱く色づくような霧であった。水脈は滝となり落ちていく。遥か下から濃霧は立ち上がっていた。熱気を含んだ霧に汗が滴り落ちる。
暑い。湿気と熱気の挟間でサザンドラは滞空していた。ヒナタが耳を澄ます。汗でじっとりと湿った感覚を研ぎ澄ました。
「上、だ。もう少し、多分、霧が抜ける穴が、ある」
ヒナタは、かすかに霧が動いているように感じた。
「オニキス、上へ。リク、何でもいいから鳴き声が聞こえたら、教えてくれ」
「グォ」
サザンドラが羽ばたく。今まで以上にヒナタとリクをがっちりと抱え、上へと。耳元に聞こえるサザンドラの息遣いは荒かった。
「ポケモンが、いるってことは、そのポケモンが通れるだけの道があるってことだ。それならオレ達も、外へ出られる」
リクは耳を澄ませた。水の落ちる音が聞こえる。落下の先は分からない。じゅぅ、と、蒸発にも似た音がする気がした。僅かに焦げ臭い香りがする。
リクは眼下の濃霧に目を凝らした。何も見えない。地下にも関わらず、明るい濃霧がそこにある。
この下には、何がいるのだろう。
好奇心が囁いた。ヒナタは呼び止めるようにリクの名を呼んだ。
「下は、あんま気にするな」
「……うん」
濃霧から目をそらした。下手な事は考えない方が良い。再び耳を澄ませるが、ポケモンの鳴き声は聞こえない。その内に天井に行き着いたらどうするんだろうか。サザンドラが力尽きたら?
「……声が」
かすかな音がした。向かう先、何かが近づく音が聞こえた。
――……ゴォォ
「鳴き声、だ」
ヒナタは一瞬顔を明るくしたが、直後に厳しい表情に変わった。
「避けろォ!」
「ゴオ!」
サザンドラが急旋回した。急激な方向転換にリクの呼吸が止まる。全身の毛が総毛立ち、チリチリとした熱を感じ取る。タッチの差で烈火が濃霧を引き裂いた。視界が燃えるような赤に染まる。ヒナタが怒鳴った。
「リク、耳塞げ!」
リクは両耳に指を突っ込んだ。濃霧の上空、姿の見えない敵をヒナタは睨んだ。サザンドラの真ん中の首が大きく息を吸った。
「ハイパーボイス!」
「グルオォォォオオォォォオオオオオォオオオオオオオオ!」
咆哮が濃霧を消し飛ばさん限りに轟く。上空からポケモンの悲鳴が聞こえた。サザンドラが翼を強くはためかせ、上昇する。急上昇に伴う強烈な圧力に、リクの全身がギシリと呻いた。纏う熱気と霧を払いのけ、悲鳴の方向へと。
不愉快な声が聞こえた。
「ひゃは」
濃霧の影が濃くなった。翼をはためかせる姿と背に乗る影。
それはけたたましく嗤いだした。
「ひゃははははははははははははははははは! ご機嫌いかがァ? チャンピオン様よォオォォォォ!?」