Box.68 ジムリーダー以上の許可なき入室は厳罰とする
その声は鳥の鳴き声に似ていて、ふとすると嗤っているようにも聞こえる。
タマゴを抱えて資料室に飛び込んだ。もう報告書を書き終えたコダチはいなかった。タマゴの残骸は走る内に零れていき、大きな欠片だけ残っている。汚れた上着を脱ぐとソラは大事そうにタマゴの残骸を包んだ。とても温かく、まだ拍動がある気がする。あの人は間違っている、と呟くと、そうだ、と応えるように動いた。
資料室のトイレで顔と腕を洗い、包んだ残骸を抱えて外に出ると別のレンジャーとぶつかった。
「うおっ! ごめん! あぁ、なんだ、君か! コダチを知らないか? 女性のレンジャーなら誰でもいい」
コダチはいないと告げ、どうしたのか尋ねると「いやさぁ、拘留中の子が……ブランドなんて分かんないし……あ、やっぱりなんでもないよ!」と慌てて立ち去った。
拘留されている人物はもう一人いる。ホムラとは対照的に落ち込みの気配もなく、化粧品を要求する始末だとレンジャーがぼやいていた。
話して見るのも悪くないんじゃないか? それもそうか、と頷いて歩き出す。カイトやリアン、レンジャーが手間取っている相手でも、年齢の近い自分なら話せるかもしれない。留置されている彼女とは決して初対面というわけでもない。レンジャーから聞き出せる話はもう限界が近かった。
朱色の外套集団の残りは二人。リーグは今、四天王たるリマルカの祖父が守っている。シラユキを守り、片方を捕虜として捉えた四天王は疲弊して動けない。その代わりに誰一人として死者を出さなかったのは四天王の面目躍如だろう。
留置所出入口の部屋には女性レンジャーが待機していた。話すのは初めてだが、彼女のことは知っていた。ソラを見るなりひゃっと立ち上がり、彼女は見る間に頬を紅潮させた。
「お疲れ様です」
「ソソソ、ソラ君、どうしたの? あっモーモーミルク飲む? あああ違うか初めましてだもんねそうだよね。はひっ」
「はい、初めまして。モーモーミルクは結構です。兄がお世話になっています」
「はへぇ……お世話に……お世話に……えへへへへなってます、はい」
「今日は仕事で来ました」
「お、お、お……お仕事?」
部屋の小型冷蔵庫に手をかけつつ、彼女は視線の彷徨う赤い顔を傾けた。机の上には書類が整理されて積まれ、写真立てが席の正面に置かれている。誰の写真か見るまでもない。彼女はカイトの大ファンなのだ。コダチから聞いたが、カイトの個人情報を死ぬほど持っている。
「留置所の彼女と話をさせてください。俺は彼女と知り合いですし、あの人より歳も近い」
「ええ……ご、ごめんけど留置所に入るには許可がないと……カイトさんに許可はもらっ……た?」
「当たり前じゃないですか」
「そう……そう……でもぉ、か、カイトさんにも、確認しないと……」
そわそわと自身の髪を触りながら彼女は視線を彷徨わせた。――反吐が出る。
困ったように笑みを浮かべ、ソラは上目遣いに見つめた。そっくりな翠の双眸にますます彼女の目が泳いだ。
「兄は忙しいですし、邪魔したら怒られますよ。最悪嫌われるかも。そんなに俺を信用できませんか?」
「ひぇっ」
「中に入ったって鉄格子があるんですよね? それはジムリーダー以上でないと解錠できないはずです」
上着で包んだ残骸から擦れたような鳴き声があがった。彼女の目がくるくると踊る。温かい包みに女の手が触れている。
「そうだね……そうね……待ってね……」
カチャカチャと留置場への扉を解錠すると、女は鍵を渡してくれた。短くお礼を述べると、「はうぅ……カイトさんに声も似てるねぇ……」と、とろんとした目で彼女は言った。
本当に、反吐が出る。ソラはまっすぐにその部屋へ向かった。
重い鉄の扉を開くと、鉄格子の向こう側に見覚えのある少女がいた。どうにかして手に入れたらしいマニキュアを塗っている。化粧はしていないので、初見より地味だが整った顔立ちだ。どうでもいいが美人の類には入るだろう。解錠の音に気がついているはずだが振り向きもしない。ソラは冷ややかな笑顔を貼り付けた。
「こんにちはイミビちゃん」
「あんたダレ?」
「ナギサではお世話になったね」
「あ、あ〜……あ。あの時の鳥ッスか」
マニキュアを左手の爪に塗り終わり、乾くのを待っている。金の髪は肩に流され、艶はないがたっぷりとしていた。風もないのに肩口の髪が動いた気がして眉を寄せる。
数秒の沈黙に、イミビがハァ、とため息をついた。
「いつまでここにいるんスか?」
「君はどうしてこんなことを?」
イミビがちらりと横目でソラを見た。最初は怪訝そうに、やがて眉を潜め、パッと目を開いた。
「オマエ――ジムリーダーの弟ッスか」
瞬く間にソラの笑顔が崩れた。包みを抱える手に力が入り、硬質化した声を槍のように差し向ける。
「質問に答えろ」
「はァん? アァそう……その面見るに、お兄チャンと仲良しこよしって訳じゃあなさそっスね。どうやって入ってきたかはシラねーっスけど、おっと。そうキレんなって。褒めてるんス」
イミビは唇を舐めると、興味深そうにソラを見つめた。マニキュアの蓋を閉め、体をくるりとこちらへ向ける。急に柔らかくなった態度は願ったりのはずだったが、仲間だと囁かれているようで虫唾が走る。
「君は自分の立場が分かっていないのかな。ナギサで負けて子供みたいに泣いてたのを俺は覚えてるけど、あれは本当にガキみたいだった。こんなガキみたいな事件を起こしてるのも同じ理由かい?」
ソラの口が細い三日月のように歪み、黒々とした喉奥から嘲笑混じりの言葉が発せられる。イミビはくいっと顎をあげ、目を細めて微笑んだ。顎にマニキュアを塗った指を寄せる。ルーローシティで、今年の流行色だと聞いたことを思い出した。
「いいじゃないッスか、兄ちゃんが嫌いでも。家族だから愛すべきなんて馬鹿らしいッス。――それにオマエ、兄ちゃんのこと言われて泣きそうだったッスよ」
反射的に自身の顔に触れた。
泣いていない。目はまだ少し赤いかもしれないが、暗いから分かりっこない。跡は――洗い流した。しかし泣きそう、と言われてソラは、本当にそうしてしまいそうだった。
嫌だ。もう二度と、泣きたくなんてない。
タマゴの残骸を強く抱える。でも、嫌いでもいい、なんて誰かに言われたのは何年ぶりなんだい? それどころか、言われたことがかつてあっただろうか? 記憶にある限り……ソラは軽く頭を振った。
どうかしている。
「……そうだよ。俺はあいつが嫌いだ」
こんなことを話す機会は、後にも先にも、今だけだろう。
構うものか。相手がどう感じるか考える必要のない言葉は、一度口にしてしまえばすとんと胸に落ちた。
「死んでくれないかと思っている。跡形もなく、いたことさえみんな忘れるくらいに全部消えて欲しい」
「相当嫌いッスね」
ソラは顔を俯かせ、静かに息を吐いた。片手で顔を覆う。掌の奥から投げやりな声で問いかけた。
「君はどうして街を焼いた」
「アカ様がやってほしいって言うからッスよ。イミビもぽに子達と暴れるのは好きッス」
「好きだから?」
「そうっス。他の連中は炎があるから従ってるしノロシもホムラも別の目的でついてってるッスけど、イミビは好きだから協力してるだけっス。だからイミビが一番アカ様を愛してるといっても過言ではないっス」
「悪いことでも好きだからやるのか? そのせいで君はこんな場所にいるだろう」
「いたくない場所にいるより、よっぽどマシっスよ」
「いたくない場所?」
ん、とイミビがマニキュアを差し出した。藍色の髪の間隙から、翠の瞳がイミビを見返す。湿った息を吐き出し、ソラはマニキュアを格子の間から受け取った。イミビは鉄格子まで椅子を引きずり、座ると右手を突き出した。ソラは包みを床に置き、マニキュアの小瓶をイミビに持ってもらって塗り始めた。
「オマエはどこ出身ッスか?」
「カザアナだ」
「陰気な街っスね〜。イミビはルーローで生まれたっス」
「街は好きか?」
「嫌い」
嫌なことを思い出したらしく、イミビが顔を顰めた。
ルーローは過去、掃きだめの街「ゴートシティ」から移住した人間による上流階級御用達の街であった。今はアイドルの街になっているが、当時は落伍者への当たりが非常に強かったと聞く。
生き物に完璧などなく、遺伝が都合良く働くわけもなく、血筋が全てを保証するわけもなく。あぶれるものはどこでも必ず存在する。
「ジムリーダーの事は?」
「前任も現任も嫌い。あのおっさん、見るからに成功者じゃねーっスか。人格者扱いされてるのも気に入らね〜っス。仲良しこよしの成功者も良い子ちゃんも天才も嫌いッス」
「ふふ……っはは……っ!」
ソラが眉を八の字に下げ、ふにゃふにゃと泣いてるような、笑っているような、混じり合った顔で声を立てて笑った。笑いの残渣で震える声で、初めて言葉を話すように呟く。
「俺もカザアナのジムリーダーが嫌いだ。街も人間も、家族もみんな、嫌いだ」
「ふーん。オマエも大変ッスね」
「どうして?」
「そっちじゃあ、オマエはムカついてもぶち殺せないんじゃないッスか?」
ソラの手が一瞬止った。その後、黙って最期の指を塗り始める。終わるとマニキュアの小瓶を受け取り、蓋を閉めた。イミビは艶のある真っ白な爪を眺め、乾くのを待った。
「……アカ様の髪は、もとは白じゃなかったっス」
「俺はアカ様ってのに会ったことはないから、言われてもピンとこないな。君は前の方が好きだったの?」
「どっちでもアカ様はアカ様ッス。アカ様が炎を飲み込んで、顔が半分焼けちゃったことの方がイミビは残念ッスね。綺麗な顔だったのに。……親指、ちょっとよれてるッスよ」
「貸して、塗り直すよ」
差し出されたイミビの右手をとって確認するが、綺麗に塗れている。どこが、と顔をあげるとイミビがぐっと体を乗り出した。ぼそ、と囁いた言葉が聞き取れず、誘われるようにソラは顔を近づけた。鉄格子の隙間で、湿った吐息をかすかに感じる。
「イミビを助けてくれたら、オマエのこと助けてあげるっスよ」
息ができなかった。足下が揺れる。
翠の幼い瞳が途方に暮れるように下がると、白い爪が目に映った。朦朧とした霧の意識の奥で、長く白い指が浮かび上がった。
母親は、たまに気が向くとマニキュアを塗ってくれと言った。利き手は上手く塗れないからと。失敗して怒られたことはないが、上手く塗れて褒められたこともない。自由で残酷で、それが時折、堪らなく羨ましかった。
カイトも、母親も――自分も。殺しても消えてくれないだろうし、きっと忘れられない。最期くらい自分に関心を向けるだろうか?
笑いそうなくらい振り返ってくれないから、その顔の想像すらできない。
「いいや。俺は君を助けることはできないし、君に助けてもらう訳にもいかない」
自分は彼らが嫌いだが、それでもこの世界を壊すことはできない。できもしないことをするのは、馬鹿の所業だ。
馬鹿はリクだけで十分だ。
そう、とイミビが言った。
「残念ッスね」
イミビの両手が伸び、ソラの両頬を掴んだ。たっぷりとした金髪の奥が蠢く。その意味を考えるよりも先に、湿った唇に塞がれた。
一瞬の空白の後、弾かれたようにソラが体を離した。
空白の思考が空転を繰り返し、心臓の音が耳鳴りのように聞こえてくる。イミビは目を細め、嘲るように笑っている。
「嫌いリストに追加ッス。根性なしのいい子チャンなオマエも嫌いッスね」
留置場を出た。出入口の女性が声をかけようとしたが、ソラが一言も発さずに走り抜けていったのでポカンとするばかりだった。ソラの腰ではモンスターボールがガタガタと暴れている。いつから暴れていたのかは知らない。ロックはかけたままだ。
動揺していてタマゴの包みをそのまま置いてきてしまったが、入れ替わりにソラの背中に張りつく小さなポケモンがいた。体長10センチ。金色の体毛に一本、同じ色の主の髪が引っかかっている。ソラがぶつかったレンジャーが、謝りもせずに駆けていく背中を見送って呟く。「ん、あれ、バチュルか?」角を曲がった瞬間、しゅばっとバチュルは背中から壁へとジャンプした。するりと天井へ昇って消える。
ソラは男子トイレに入って顔を洗った。蛇口を捻り、噴き出す水に頭を差し出す。ぼんやりした霧が晴れていくようだ。
どうかしている。
「いい加減森に戻れよ!」
「この私が時間を割いて底辺トレーナーさんに付き合って差し上げてると言うのに随分ですのねバーカ」
「僕トイレ行きたいだけなんだけど……なんでついてくるんだ」
「こいつと二人っきりになりたくない」
「連れションしたいんだろ。リクさんガキですからねぇ」
「お前が嫌だって言ってんだよ!」
騒がしい声が近づき、見覚えのある三人が入ってくる。ほぼ同時に目が合った。ぽたぽたと髪から水が滴っているソラに三者三様の反応を見せる。ユキノは瞬きすると出方をうかがうように目を細めた。リマルカは神妙な顔つきをした。リクは驚き、心配そうな顔をした。
リクの目に心がざわつく。明確に哀れみの色があった。
「お前……だ、大丈夫かよ? どうした」
「明日バトルする相手を心配するなんて、随分と余裕そうじゃないか」
灼けるようにひりついた声。リクが目を見開き、どうしたら良いのかとおろおろしているのが手に取るように分かる。ソラは足早に近づき笑った。リクに弱気が覗いたが、少し目を伏せると見返してくる。強い光の見える双眸はまっすぐで、こちらがたじろぎそうになった。
「当たり前だろ。本調子のお前を倒さないと意味がない」
「俺が不調だとでも?」
「自分の顔を鏡で見てみろよ」
リクが眉を下げ、雨が降り出す前の空を見上げるような目をした。
「酷い顔してるぞ」
リクの胸ぐらを掴んだ。
「そうかそうか。これはな、お前がまた負けるのが可哀想でこんな顔してんだよ」
嵐のような呼吸が胸元で唸っている。ソラは言葉を発したが、飛び出る直前まで言葉になるとは思えないほどにそれは荒れていた。
「俺と今すぐバトルしろよリク。待ちきれないんだろ?」
「ソラ! 約束は明日だって……」
「いい、リマルカ」
反吐が出る。
リクは目を逸らさず、強い風の先を見据えるように目を細めた。
「いいよ。やろう」