暗闇より


















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森林の街
Box.67 サイカの森における規則/発見次第、速やかに破壊すること
 リアンが以前、通信の場所にサイカの森を選んだのは自身の庭であるという他に、気がかりなことがあったからだ。サイカの森は災禍≠フ森――サイカのジムリーダーが通称、監視者≠ニ呼ばれる所以を知っている人間が、どれほどいるだろうか。

「うんうん。コダチちゃんはやっぱり勘が鋭いね」
「えへへへぇ」
「るんぱっ!」

 嬉しそうなコダチへ、リアンは拍手を贈った。彼女の長所はこういう場面でこそ発揮される。パートナーのルンパッパは腰の動きだけでフラフラダンスを踊っていた。眠っているレディアンが意識を持ち上げると同時に、ルンパッパが両手をゆらゆら動かす。レディアンは茫洋とした闇の中へ落ちていき、ことり、と再び眠りについた。
 タマゴ、である。
 サイカの樹冠の下、たくさんのポケモンがタマゴを抱えて眠っていた。空を覆っている大樹の根元は、血管のように地面を這っている。根っこに抱かれているポケモン達はみな安らかな顔で眠っていた。愛おしそうに抱きしめているタマゴはどれも同じ模様をしている。リアンの頭上ではキャプチャされたキノガッサと、その胞子を強風で操ったダーテングが警戒を続けていた。

「最近忙しかったからねぇ。その隙にこんなに仕込むなんて舐められたものだ。コダチちゃん、彼らのお母さんは見つからなかったんだよね?」
「いなかったよ! タマゴのお父さんと同じ子達はいっぱい攻撃してきたけど……リアンさん、お母さん早く見つかると良いね」
「うん、そうだね。コダチちゃんはいっぱい頑張ってくれたし、もう疲れただろう? ユニオンに戻って休むといい。あとは私がやっておくから」
「はーい!」

 元気いっぱいに返事をして、踵を返そうとしたコダチが鼻をひくつかせた。ポケモン達の眠る奥へと視線が吸い込まれる。不安そうに眉を寄せたコダチの背中を、リアンがぽんと叩いた。

「大丈夫、心配いらないよ。あとはやっておくから、ね」

 コダチは頷き、ルンパッパと一緒にぴょんと駆けていく。昨日は朝からデスクに貼りつけだったが、森で任務だと聞くと喜び勇んでついてきた。ルンパッパのフラフラダンスもポケモンを傷つけず眠らせるのに一役かってくれた。
 リアンとカイトは、とあるポケモンのタマゴを見つける仕事を定期的に行っている。しかし同行させるのはレンジャー内でも限られた数名だ。理由は簡単で、サイカの――災禍のタマゴは、簡単に心を侵食する。リアンは眠るポケモン達を傷つけないよう、大樹の根元へと足を踏み入れた。ポケモンの黒山を掻き分けると、早々にレンジャーが見つかる。異臭が漂う片腕を引っ張ると驚いた虫達が這い出し散っていく。服が汚れるのも構わず、リアンは全身を引きずり出した。
 自然の営みによって崩れた顔面は窺い知れないが、毛髪には見覚えがあった。この仕事を担っていたレンジャーに同行させて以降、行方が分からなくなっていた者だ。液体と虫の擦りつくタマゴを抱きしめている。

「やれやれ……本当に厄介だよ、まったく」

 サイカの森。
 ラチナ神話の一端を担う森。
 かつてテセウスは炎を盗んだ。各地に散見される神話は少しずつ形を変えて語り継がれ、時には真実以外を語る。そのように変質を繰り返すのは生きとし生けるものの性であろう。恐ろしいことを、ありのままに受けいれられるものは少ない。
 テセウスが炎を盗んだのは、とあるポケモンが関係している。欠けた神話の真実の一部を語り継ぎ、災禍の芽生えを監視する者達の流れの一人としてリアンはそのことを知っていた。

人間は哀れだ。貴方達は火を持たない

 そう発したポケモンはゴートで語られる神話ではテセウスに殺されているが、サイカでは少々事情が違う。
 テセウスはそのポケモンを殺しなどしなかった。言葉を受けてプロメウから炎を盗んだ流れは同じだが、テセウスは迷ったのだ。
 ポケモンは彼に囁いた。

『火があれば、人間は寒さに震える事がなくなるでしょう。
 火があれば、人間は暗闇に脅える事がなくなるでしょう。
 可哀想なテセウス。火があれば、貴方はもっと多くの同胞を救えるでしょうに!』
『火は神の領分だ。我々が手にしていいものだろうか?』
『賢いテセウス、利口なテセウス。貴方なら、きっと火を正しく使えます』

 プロメウは火を与えず、再びポケモンはテセウスの前に現れる。

『テセウス、騙されてはいけない。神は火を自分達だけのものにしておきたいだけなのです』

 かくしてテセウスは火を盗み、地下深くへと潜った。テセウスを誘惑したポケモンは神のもとを追放され、荒野を彷徨う罰を背負う。
 一説によると、かのポケモンがそのような真似をしたのはプロメウを愛していた為だそうだ。当時、増える一方だったポケモンや人間達がいずれ神の庭を汚すのではないかと考え、口減らしをしたかったそのポケモンにテセウスは利用された。

「ラチナはみんなのものだ。神の庭の管理も必要だろうけど、それは君の仕事ではない」

 レンジャーの抱えていたタマゴを引き剥がした。タマゴを放るとダーテングがリーフブレードで破壊する。外殻が固すぎるので、生半可な技では破壊できない。眠っているポケモンからもタマゴをひとつひとつ剥ぎ取り、念入りに破壊を繰り返す。
 実際の出来事がどうであれ、神話は真実と虚実を織り交ぜ語られる。はっきりしているのはリアンがサイカのジムリーダーになる遙か以前より、この任務は連綿とジムリーダーとレンジャーに受け継がれてきたということだけだ。壊しても壊しても、母のいない、まったく同じ模様のタマゴを抱えたポケモンが見つかる。ラチナの他の場所では見つからないそれは、決して孵化させてはならない。何年も、何十年も、何百年も守られてきたルール。
 ナギサ。ルーロ―。ゴート。監視者の目を盗んだポケモンは、また別の災禍を呼んだ。
 追放されたポケモンの名はバルジーナ。朱色の外套集団と共に目撃情報が相次ぐそれに、リアンは頭が痛くなっていた。





 眠れたのか眠れなかったのか、ソラにはよく分からなかった。それでも眠った方が良いと分かっていた。悪いことを考えてしまうのは、疲れているからだ。昔からそうしてきた。
 泥の中で這いずり進んでいるが、前も後ろも分からず、岸辺に近づいているのかさえも分からないままでいるような気分は、今回ばかりは眠っても変らない。
 レンジャーユニオンの客室に入る事が出来るのは重要人物か、怪我や病気の程度が重いものが優先される。ソラを始めとした人間やポケモンは、一時解放されているサイカジムに避難していた。カザアナの住民全てを収容しているわけではなく、他の街にある程度分散したり、伝手がある者はそちらへ移動したりしている。残っているのは伝手のないもの、土地を忘れられないもの、行き場所のないものなど。
 ソラが寝泊まりしているのはその一角だ。弟と妹は祖母と一緒に避難していた。リマルカとの約束通り、避難所とはいえ一番良い場所で、食べ物も優先配給されるが、母親は相変わらずいなかった。どうでもいいが、被害の少ない街の愛人のもとにでも避難しているのだろう。
 諦めて目を開くと、テントの天井からは見下ろすように黒いてるてる坊主が浮かんでいた。ロックのかかったモンスターボールを手に起き上がる。黒いてるてる坊主――カゲボウズが音もなく降りてきて、子供が一本の線を引いたような口が左右に伸びていく。横倒しになった滴型の瞳が同じように左右に引き延ばされ、薄くなった。ソラは何も言わず、腕を横に振ってカゲボウズを追い払った。

「お前のトレーナーは俺じゃない」

 街を出たとき弟に預けた。リマルカがジムリーダーを辞めるのならば自分だってジムトレーナーに戻る必要はない。カゲボウズだって必要はない。
 カゲボウズは少し離れたが、距離をとってついてくる。
 どちらかというと母親似で奔放な性格の弟は、カゲボウズが言うことを全然聞いてくれない、勝手にいなくなるとぼやいていた。
 勝手にしろ、と吐き捨て、ソラはキルリアのモンスターボールを強く掴んだ。
 ――どうして、自分が戦いたいなんて言い出したのか。
 昨夜問いかけた。キルリアは答えず、じっと見つめ返した。その目は昨日のリマルカと酷く似ていて、自身の選んだことは間違っていないと主張していた。
 心がざわついた。
 戦ってもいいが、不調を押してまで無理矢理戦おうとしたことについて反省するように。そう告げられたキルリアは赤いツノをふわりと光らせた。濁ったような光り方と心配するような瞳に、苛立ちが募った。
 テントを出て街の人間とは出来るだけ出くわさないようにジムの外へ出たところ、小さな子供の塊を見とめた。その中の一人がこちらに駆け寄ってきた。
 妹だ。

「ソラ兄さん」

 顔は母親に似ているが、目の色は違うし弟よりも性格が自分に近く真面目だ。どうした、と優しい声音でかがむと、おずおずと抱えているものを差し出した。

「これ……これ……どうしよう……」

 タマゴ、である。
 ソラも見たことのない模様をしている。妹の困った様子を見るに弟に押しつけられたのだろう。タマゴはかなり大きくなっており、触れた先から熱い拍動を感じる。孵化が近い、と思う。そのまま親元で孵化できれば幸運だっただろうに、運悪く弟に見つかったというところか。

「いいよ。俺がレンジャーに渡しておくから」

 ひょいとタマゴを受け取ると、妹はホッとした顔をした。ありがとう、ありがとうと繰り返し、子供の塊の方へ走っていく。グループに戻った妹は小突かれたが、別の子供が小突いた子供の頭を叩いた。カザアナの子供と、サイカの子供と、混ざり合っている。
 羨ましいような気持ちで少し眺めると、ソラはユニオンへと向かった。





 タマゴはちょうどいい口実になった。返す場所の分からないタマゴを見つけたという理由があれば、カイトと話すきっかけになる。憧れと恨みがない交ぜになったような奇妙な感覚をずっと覚えていた。
 今は忙しいかもしれない。
 あの時も忙しかったのかもしれない。だから話せなかったし、何も言ってくれなかったのかもしれない。
 何を話そうか。
 何を?
 なんでも良かった。自分より上の、出来た兄。成功している兄。強い劣等と嫉妬と同時に、安心したような気持ちがある。家族のこと。母親のこと。弟や妹や街の住民のこと。
 ずっと逃げ出さずにやってきたことと、少しだけ逃げ出したこと。
 通りすがりのレンジャーに居場所を聞き出すと、出入口だと言われた。物珍しそうな視線は時と共に、気の毒そうなものが混ざるようになった。だったら何か言えばいいのに。誰も彼もが距離を持つが、それはどうでもいいことだ。もとより、近づいて欲しいとも思わない。
 忙しくなく入れ替わっていく報告していくレンジャーを見送るカイトの隣にルカリオが立っている。去りかけたカイトを呼び止めた。ちょうど一人になったタイミングで助かった。振り返った翠の双眸に自分が映っている。自分とよく似た目の色。
 母親にそっくり。

「あの、タマゴが」

 緊張した口がもつれた。他人行儀に喋りたかった訳じゃないのに、いつも、この人を前にすると上手くいかない。リクや年上のレンジャー、年下のジムリーダーとだって上手く話せるのに。カイトだけだ。それでもカイトは他人行儀で、緊張した様子も親しげな様子もなく、事務的にこちらを見てくる。じわりと自身の中に焦りと苛立ちが募った。
 その目を止めて欲しい。その昔、彼の悪口を大人と話して笑い合ったことを思い出して消えてしまいたくなる。言葉は愛情深いのに、瞳に関心を映さない彼女のことを思い出してしまう。

「タマゴ?」

 カイトが眉間にしわを寄せ、ソラが抱えたタマゴを見下ろした。初めて意識してもらえた気がして、ソラの顔がパッと明るくなる。カイトに見えるようにタマゴを持ち上げた。

「はい。うん、そうなんだ、カイト……にい、さん。その、妹が、弟が、タマゴを押しつけていって、それで困ってて、やっぱりレンジャーの、兄さんに、相談するのが俺は一番良いって思って、」
「他にもあったか? それで全部か?」
「え、う、うん。そうだと思う。探した方がいいなら、俺が探すよ、任せてよ兄さん」

 誰かを兄さんと呼んだのは初めてで、顔が熱くなった。刹那、パキンと音がした。灰色の小さな嘴がタマゴから飛び出していた。孵化が近いと思ったのは気のせいではなかった。気の抜けた声が自分の口から零れたとき、カイトが強く腕を弾いた。
 痛みよりも衝撃の方が大きかった。弾かれたタマゴが放物線を描いて落下する。その間にも孵化は続行し、バキンと足が飛び出した。カイトが鋭く叫ぶ。

「リール!」

 名を呼ばれたルカリオが弾けるようにタマゴを追いかけ、飛び膝蹴りで蹴り上げる。カイトは険しい目でタマゴを睨んでいた。放射状にひびが入りバキンともう一つの足が出る。ルカリオは深く沈んだ後、飛び上がった。ぐるんと空中で半回転してもう一度蹴りを叩き込む。
 ソラは石化したように瞬きもできず、その光景を見つめていた。タマゴが地面にめり込んだ。いくらポケモンの殻が丈夫とはいえ、あまりの連打に粉々に壊れ、破片の奥から弱々しい鳴き声が聞こえてくる。ソラの手に汗が滲んでいた。
 もしかして、自分は、持ってきては行けない場所にタマゴを持ってきたのではないだろうか。粉々のタマゴの残骸から覗く、小さな瞳と目が合った。
 タマゴが踏み砕かれた。
 鈍い頭を緩く動かし、ソラはゆっくりとカイトを見た。肩で息をしていた。意味が分からない、と痺れた思考にそれだけが分かって、ソラは掴みかかった。騒ぎを聞きつけたレンジャーが集まってくるが、カイトに「問題ない。戻れ」と有無を言わさず命じられると首を傾げながら踵を返していく。
 ソラは彼らと一緒には行かなかった。目の前が滲んできて、いくつも頬を涙が滑り落ちていく。自分でも驚くほど、酷く動揺していた。

「なんで壊したんだ!」

 カイトの胸ぐらを掴むには身長差がありすぎて、引きずるように服を握りしめた。掴んで初めて、自分の手が震えていることに気がついた。カイトは驚きもしなかったし、悪いとも思っていない顔だ。わずかに顔を顰め、ソラの腕を引き剥がした。

「必要だからだ」
「だからって、だってタマゴが、いま、生まれそうで、あんたレンジャーなんだろ! なんで壊したんだよ! 俺がいも、いもうとにお願いって言われて、どうして、どうしていつも、あんたは……!」

 どうしていつも、台無しにするんだ。
 自分自身のわめき声が聞こえる。みっともなくて消えてしまいたくなるような声だった。
 母は最初の男を愛していたらしい。
 次の男はどうだっただろうか。10年も次を作らない程度には、愛していなかったかもしれない。
 ――勝手な期待が、勝手な落胆が。反吐が出る。どれもこれも正しくあろうとしただけなのに、お前は間違っていると突きつけられるばかりだ。
 出ていったのにどうして町の大人達はあんたばかりを褒めるんだ。
 残ったのにどうして自分には不満ばかりをぶつけてくるんだ。
 タマゴを頼まれた。きっともうすぐ、生まれるポケモンだった。壊れたタマゴは誰にも振り向かれない自分のようで、踏み潰したカイトが悠々と歩き去っていく。
 振り向きもしないで。
 カイトに引き剥がされた腕を引っ張るがびくともしない。もう片方の手を握りしめ、カイトの胸元を殴った。ソラの頬が雨に降られたように濡れていく。カイトがもう一方の腕も掴んだ。

「いつも、というのが何の話か分からんが、タマゴのことは忘れろ。いや、違うな。他にも見つけたら近づかずに私に知らせろ。すぐにだ」
「……嫌だ」
「何?」

 ソラの口から零れ出た言葉にカイトが片眉を上げた。
 ソラ自身にも思いがけない言葉だった。心の奥底で汚泥のように濁っていた全てが、とうとう出口を見つけたと叫びだす。強烈な憎悪の籠もった翠の双眸が、互いにそっくりな双眸とかち合った。

「あんたなんか、大っ嫌いだ!!」

 後先を考えない力でソラは両腕を捻った。骨が軋み、折れる気配にカイトが手を離すと、素早くタマゴの残骸を抱えて走り出す。「おい!」背後から呼びかける声がする。追ってこないと分かっているのに全速力で走った。タマゴの残骸はまだ温く、液体が腕を伝う。
 残骸の奥から鳴き声が聞こえた。

( 2022/03/13(日) 08:54 )