Box.57 カザアナタウンにおける兆域調査報告
水面に戻るとサザンドラが出迎えた。ぐったりと体を預けたトドグラーを落とさないよう、慎重に陸地へと連れて行く。サザンドラの腕にはずぶ濡れのリュックサックも抱えられていた。気絶したリクを彼は見やり、もはや主は入っていない事を理解した。目に陰りが覗いたが――死んではいない。
着地したサザンドラが、鼻先を兆域の一点へと向けた。「ききっ!」エイパムが真っ先に駆け寄り、トドグラーをモンスターボールに戻す。サザンドラはずぶ濡れのリュックサックとギルガルドを押しつけ、さっさと退けとばかりにホムラを放り出した。サザンドラの手元には、気絶したリクだけが残った。少しだけ迷い、エイパムへと更に押しつける。エイパムはリュックサックとリクの重みで、ぶぎゅ、と潰れそうになった。「きーっ!」不平を聞き流し、サザンドラは自身のモンスターボールへさっさと戻ってしまった。
ホムラは躊躇いがちに小猿へ手を貸しかけたが、別の手がリクを攫う。遅れて駆けつけたソラだ。
「生きてはいるみたい、だな」
ソラが胸元に耳を当て、拍動を確認する。一緒に来たコダチも胸をなで下ろした。
「ホムラ君は大丈夫?」
「気にしないで」
ソラが揺れる兆域の天井を見上げた。
「コダチちゃん、リクを背負うからちょっと手伝って」
「うん!」
細かな欠片に混じり、大きな岩も落下し始めている。ぴく、とコダチがある方向へ顔を向けた。先ほど、サザンドラが気にしていた場所と同じだ。
「コダチちゃん?」
「……リーダーだ」
パッと顔が輝き、コダチが手を大きく振って叫んだ。
「カイトリーダーだ!」
一瞬の出来事だった。轟音が耳をつんざき、土煙が風とともに吹き抜ける。土壁を破壊し、眼前に現れた岩の巨躯がくねり動き、二人のレンジャーが飛び降りた。片方はがっしりした体つきに岩のような顔の男。もう片方は藍色の髪を高く結い上げた男だ。コダチが跳ねるように駆け寄っていく。
「リーダーリーダー! カイトリーダー! コヤマせんぱーい!」
コヤマと呼ばれた岩のような顔の男が片手をあげ、もう一人のカイトと呼ばれた男が視線を巡らせる。
「ホムラとリクは何処だ?」
「はい! リクちゃんはあっちでぐったりしてて、ホムラ君は一緒にいる子です! もう一人のあの子はソラ君でむこうはリマちゃんとキプカさんで――」
「分かった」
「コダチちゃん、乗ってくれ。みんな乗せて脱出するから。リマルカさんにキプカさんもこちらへ!」
コダチが手をぶんぶん振った。
「みんなー! 乗ろー!」
カイトが足早にホムラ達へ近づく。
「君がホムラか?」
ホムラが頷く。抵抗の意志がない事を認め、カイトは捕縛はせずに言った。「私はサイカタウンジムリーダー兼レンジャーのカイトだ。これ以後、同行してもらう」次にソラの方を向いた。「そちらの少年がリクか? 渡してくれ」ソラの藍色の瞳が丸まり、見つめ返した。言葉もなく、背負ったリクを差し出す。カイトはリクを軽々と担ぎ上げ、淡々と告げた。
「安全な場所まで連れて行く。着いてこい」
カイトの腰元にはリーシャンの入ったモンスターボールがあった。ポケモンセンターで回復していたポケモンはリーシャンだけだ。最初にあちらに立ち寄り、その後こちらへ向かったらしい。エイパムがそちらを気にかけつつ、ソラ達と一緒にイワークに乗った。一応、ギルガルドも引きずっている。
コヤマは残りの二人を連れて戻ったが、キプカだけはイワークに乗り込まずに立ち止まった。なんのつもりだ、とカイトが咎める。
「……野暮用がある」
「ぴきゅー!」
カイトのそばにいたエイパムの背後から、ロトムが顔を出した。驚くエイパムを尻目にリュックサックに侵入し、素早く探し回る。大きな尻尾が後を追うと、嘲笑うようにすり抜けた。ロトムの体にはサニーゴのモンスターボールがくっついていた。
「きゅりらりら!」
逃げようとしたロトムを、カイトが目にも止まらぬ速さで掴んだ。
「きゅあ!?」
すれ違うように影が走り、サニーゴのモンスターボールをバトンタッチでかすめ取る。ロトムを掴んだカイトが舌打ちした。かすめ取ったヨマワルはキプカに、うやうやしくモンスターボールを差し出す。
怒気を孕んだ声がカイトから発せられる。
「返せ」
「きゅあー!?」
握力にロトムがひしゃげそうになる。キプカはサニーゴの、真っ白に変貌した姿を見て言った。
「……こいつはゴーストポケモンだ」
「どういう意味だ?」
「……だったら最後まで連れていってやらんこともない」
兆域が大きく揺れ動いた。ガクンとイワークの体が折れ、一瞬キプカから視線が外れる。カイトは急いで顔をあげたが、キプカの姿はもう、崩壊する闇の向こうへ消えていた。ロトムをますます強く握りしめ、奥歯を噛みしめた。
深追いを諦めたカイトが険しい顔つきで指示を下すと、イワークの巨体が動き出す。バランスを崩しかけたソラの腕をコヤマが掴んだ。
「大丈夫かい」
すみません、とソラが小さく謝る。視線はカイトに張りついている。カイトは振り返らず、片腕にリクを抱えながら、すっかりしょぼくれたロトムをポケットに突っ込んだ。ソラからの視線ではなく、リーシャンのモンスターボールを気にしているエイパムへ顔を向けた。
「お前はゴートにいたエイパムか。ボールに戻っておけ」
「ききっ」
エイパムがつんと顔を背けた。互いに顔見知りではあったが、それはカイトがヒナタに無理矢理引っ張ってこられたり、ツキネに無理矢理呼び寄せられたりした際に、ちらりと見た程度だ。信頼出来る相手かどうか、判断は出来ない。カイトもエイパムの心境を理解しているらしく、表情を変えずに言った。
「その警戒心は称賛に値する」
「き?」
「が、今は休んでおけ。この先こいつにはお前が必要だ」
強い光のある瞳が、エイパムを射貫く。ゴートでこの種の瞳を見る事は少ない。昏睡状態の眠り姫の瞳や行方不明のチャンピオンに近い光だった。
信頼は出来ないかもしれない。だが、耳を貸す価値はある。エイパムは荷物とギルガルドを渡し、モンスターボールへ戻った。
彼らの後ろで、コダチがリマルカに近づいた。リマルカの周囲を固めるゴーストポケモン達はみな、お通夜のような面持ちだ。
リマルカは、どんどん遠ざかっていく暗闇を見ていた。
「良かったの?」
こく、とリマルカが頷く。暗闇を見てはいたが、もう、来ない人を待つ顔ではなかった。コヤマが頭を掻いた。
「あの人も、不器用だからな」
くねるイワークのトンネルは、通り過ぎた後から崩れていく。
「カイトリーダー……」
コダチが助けを求めたが、カイトはしっかりと進路を見つたままだ。
「親子だからと言って、理解を求めるな」
「あうう……」
しおしおとコダチが引き下がった。リマルカがため息をつき、前を向く。不意に、ソラが視界に入った。
――彼は険しい顔で、振り返らないカイトを見つめていた。
◆
リクが目を覚ましたのは清潔な部屋だった。部屋のそこら中にポケモンが転がっている。大人用のベッド下部を占領しているのはトドグラー。ベッド下のクッションで寝ているのはエイパム。壁際にどっしりと場をとるサザンドラが薄く片目を開け、大あくびをしてまた寝た。リーシャンの姿だけない。
病室に担ぎ込まれたことは数あれど、今回は違う様子だ。整理整頓の行き届いた、誰かの部屋という雰囲気だった。幅広いジャンルの本がびっしりと並んだ細い本棚。その横にクローゼットが立っている。小型冷蔵庫まであった。デスクにはリクの荷物がまとめて置いてある。リクも病衣ではなく、無地のTシャツに短パンを着せられていた。
ベッドの頭側にカーテンの閉まった窓があった。カーテンの裾から頭を突っ込むと、窓は閉まっていた。ぷりっとした尻が窓ガラスの外にくっついており、リクは瞬きした。尻の上部が180度回転し、両眼が振り向いた。
びっくりしてベッドに尻餅をついた。
リクの心臓が激しく鳴っている。「ウォ?」寝ぼけ眼のトドグラーと目線を交し、カーテン越しに窓を見つめた。
――今のは、なんだ。ポケモン? ポケモンだ。間違いない。そう。
予想を確認するべく、もう一度カーテンに頭を突っ込む。
「いない……」
180度頭部が回転したポケモンは飛び去っていた。リクは窓の留め金を探した。上下に動くタイプの窓で、真ん中の錠を外して、下窓を持ち上げる。
快晴。風にカーテンが緩く揺れる。「ウォ!」トドグラーが背中にくっついた。場所を半分譲り、一緒に外を眺める。柔らかな草笛が聞こえる。視線を降ろすと、木に腰かけたコノハナが吹いていた。耳に黒い機械をつけている。バトルアイドル大会スタッフがつけていたインカムによく似た形状をしていた。
緑が広がっていた。ゴートとは違い、木々の合間に溶け込むように丸い施設が点在している。緑色の服を着た人々が、ポケモンとあちらこちらに動いているのが見えた。南側はのどかな牧草地帯、北側は壁のように森がそびえている。
ナギサ、ルーロー、ゴート、カザアナと4つの街を訪れたが、そのどの場所とも似ていない場所だった。窓から顔を引き戻し、身支度をする。髪を結んでいると、エイパムが飛び上がるようにクッションから走り出した。窓へ。トドグラーの半身が窓の外へ吸い込まれそうになっていた。短い尾をエイパムが掴んだ。小猿の軽い体ごと滑り落ちそうになり、慌ててリクがエイパムの尻尾を掴む。窓の外からウォウォとトドグラーの鳴き声が聞こえた。ピンと張ったエイパムの尻尾が千切れそうだ。
トドグラーの体重は87.6s。エイパムの体重は11.5s。リクの体重は35s前後。二人合わせてようやくトドグラーの半分。まずい、と戦慄した刹那、大きな影がリクの背後から覆い被さった。
ひょい、とサザンドラが全員を引き上げる。
「さ、さんきゅー」
「き」
「ウォウウォウ!」
アホらしいとばかりにサザンドラは尻尾を一振りし、デスクの上のモンスターボールに戻った。リクは反省の気配があまりないトドグラーをモンスターボールに戻――そうとしたが、軽やかに赤い光を躱され諦める。エイパムもモンスターボールを向けられると片手を横に振った。
荷物を確認する。
「シャン太は?」
エイパムが扉の前に駆け寄った。外か。荷物にはあと、サニーゴのモンスターボールが足りない。リクは唇に指を当てた。
「……よし」
扉は隣室に繋がっていた。整頓された道具類やファイルの詰まった本棚が壁際に並ぶ、明るい部屋だ。リクの出てきた部屋とは別に、扉がもう一つある。あちらは廊下へと繋がっているのだろう。
大きな窓の近く、デスク脇に背の高い男が立っていた。
「やぁ」
男は片手をあげ近づいてくる。焦げ茶色のくせ毛が、動きに合せて跳ねる。ひょろ長く育った木のような人物だった。第一印象に違わず、のほほんとした口調で名乗る。
「こんにちは、私はリアン。よく眠れた? リク君」
「……こんにちは」
「お腹空いてない? ずっと寝っぱなしだったからねぇ」
リアンがポケットを探った。緑色の制服はポケットが多い。胸ポケットから取り出したクッキーを差し向けられた。ポケモンOK!≠ニ、美味しそうに食べるポケモンのイラストがプリントされたクッキーだ。足下のトドグラーが目を輝かせた。
リクは首を横に振った。「そっか」リアンがポケットにクッキーを仕舞った。トドグラーが悲しそうな目をした。
「他のみんなは?」
「友達はみんな無事だよ。もちろん、人だけでなく、ポケモンの友達もね」
次の質問を投げかける前に、廊下へと繋がる扉から新たな人物がやってきた。藍色の髪を高く結い上げた男――リクは、初めて会った相手の顔に既視感を覚えた――は、リクとリアンを見留め、眉間に皺を寄せた。細められた目が、リアンの耳元に向けられる。リアンは片耳に黒いインカムを装着していた。入ってきた男に悪びれなく笑う。
「や、先にお邪魔してるよ」
「いえ。リク君、気分はどうだ」
「大丈夫です。――あ、」
リクは男の肩に目を留めた。先ほど見失った尻がそこにあった。ぐるんと首が180度回転し、黒い双眸がかくんと傾く。
「モクローを見るのは初めてか?」
「いや。図鑑でなら」
「そうか。私はカイト。サイカタウンジムリーダー兼レンジャーだ。よろしく頼む」
カイトは片手を差し出したが、雰囲気はよろしく頼むというものではなさそうだった。