第114話 運命の贖い
深く抉れた幾つもの陥没穴と無数の亀裂が口を開け、一面が溶け爛れ凄惨な傷跡に荒れ果てた広大な戦場。光すら呑む純黒の壁面には夥しい蒼紋が煌々と脈打ち、先程まで全霊を賭してぶつかり合っていた二人の少年と幼馴染の少女がそんな光景に向かい合う。
これから何が起こるのか。一見辺りと何も変わらないただ蒼光が流れるだけの壁にハンチング帽をかぶった少年レイが握ったカードを振り翳せば、突如蒼き光芒が駆け抜けていく。
二人が呆気に取られている内にも忽ち光条が扉を象り、音も無く開いていくとその先に十六畳程の広さの個室が現れた。
「す、すっごーい……!?」
「ハイテクノロジーだ……!」
「いやここ驚くとこじゃないし。これだから田舎者は」
夜よりも黒く塗り潰された戦場から打って変わって白く広がるその部屋からは清涼な風が吹き込んで来る。まさか罠ではないだろうかと恐る恐る踏み込もうとすれば「そういうの良いから」と怒られてしまい、肩の力を抜いて緊張を吐き出す。
決戦に火照る身体を冷ますにはちょうどいい肌寒い程の空調、壁一面の液晶が広がるテレビ。全身が灼け付く緊張に呑まれた戦場から程遠い快適さに唖然としていると、ふとレイに呼び掛けられた。
「ほらこれ使いなよ、この先に進むなら休ませた方が良い。一応言っとくけど騙してるわけじゃないぜ」
言いながら少年が手を置いた壁際には六つまで球を嵌め込める穴の空いた大型の機械、ポケモンセンターに備えられる回復用の機器によく似ている。まさか回復まで出来るなんて、この部屋本当に快適ですごい。
「……信じるぜ、レイ」
彼はここまで来て人を騙すようなやつではない、善意で言ってくれているのだろう。ベルトに装着された紅白球を全て機械に収めて、振り返った瞬間に何かを放り投げられて咄嗟に受け止める。
「うわ、冷たい!?」
わけもわからず掌で握り締めていたのは水色のラムネのボトルにストローが刺さった炭酸ジュースのサイコソーダだ。自分はこれなのか、と焦りながらノドカへ一瞥をくれれば、彼女はストライプの缶を握り嬉しそうに微笑んでいて。
「ほら、二人とも飲みなよ」
「ミックスオレ! 私好きなの!」
「オレサイコソーダ飲めない……モーモーミルクない?」
「このお子様舌、しかもわがまま!」
ラムネボトルを突き返して、代わりに牛乳瓶と数個の氷が鳴る冷えたグラスを受け取ったジュンヤは満足そうに頷いた。
話せば少し長くなるかもしれない、疲れているのに立ちっぱなしもなんだからとのことらしい。部屋の中央に佇むシルクのテーブルクロスが敷かれた長方形の白机へサイコソーダを置くと二人に長椅子へ掛けるように手で促して、彼自身も向かい合うように腰を下ろす。
「でもすごいな、こんな良い部屋……お前の部屋なのか?」
「まさか、戦場と直結した部屋なんて休めるわけない。此処はあくまで観戦用さ」
言いながら指を鳴らせば突如瞬間移動で現れたオーベムが手に持っていたバスケットを開いて渡してくれた。タマゴやフルーツ、チョコに野菜などのサンドイッチが目の前に現れ、疲れた身体には豊潤な匂いだけで染み渡っていく。
特にノドカが目を輝かせて、ジュンヤとレイが苦笑しながらも三人で「いただきます!」と一声まずは少女が食べ始める。少年は余程喉が渇いていたのだろう、一気にモーモーミルクを飲み干して深い嘆息を吐き出すとおかわりをもらった。
「このサンドイッチおいしいなあ、いくらでも食べれちゃうかも!」
「本当だうまい! なあレイ、これ誰がつくったんだ?」
「キミは会ったことないかな、クリスって子だよ。それにしても敵の前なのに緊迫感の無い」
「い、良いだろお前は友達なんだから!」
敵陣の真っ只中にも関わらず二人して想像以上にくつろいでいて。一瞬呆気に取られた後に微笑んだレイがストローから口を離して鼻で笑えば、ジュンヤは照れくさそうにタマゴサンドを一気に頬張る。
「呆れた、ホントに変わらないよねそういうとこ」
「なんて言いながらレイ君うれしそうだよ。ふふ、そこがジュンヤの良いとこだもんね!」
「ほ、褒められてるんだよな流石に……?」
「もう、心配しなくたって褒めてるよ〜」
自分は友人達にからかわれることの方が多い、半信半疑で見つめればノドカも口元に手を当て苦笑していて……本当に仲が良いんだな、と目を細めたレイは瞼の裏に羨望を隠して。
「さて、じゃあそろそろ良いかなお二人さん」
「……ああ、勿論。話してもらうぜレイ」
咳払いを一つ呑気に揺蕩う空気を切り裂いたレイが口を開けば、これから話すことへの緊張に手が止まりジュンヤ達の表情も固く引き締められる。
「……そうだね、まずは端的な事実だけ話させてもらうよ」
深く息を吸い込んで、吐き出した少年は平素の彼に似つかわしくない真剣な眼差しで眉間に皺寄せ言葉を紡いでいく。かつて自分が犯した過ち、己が戦いに身を投じる理由、両親を殺したという真意……彼を取り巻く真実を告げる為に。
「“あの日”キミ達家族が襲撃されたのはボクの責任だ。最高幹部の席に座しているのも今まで数え切れない程奪い続けたのも全て自分の意思で、ボクは……」
ほんの一瞬その唇を躊躇いが濡らし、しかし意を決して固唾を呑んだレイが苦悶を露わに険しく顔を歪めて…….最も忌々しい事実を一息に吐き出した。
「ボクはヴィクトルの息子だ」
「……え?」
その瞬間二人が絶句し、今までの全てが繋がった。脳内で何度と浮かんでいた“何故”のことごとくに答えが出てしまった。
ノドカが恐る恐る隣に座るジュンヤの顔を覗き込めば、彼は瞳に抑え切れない悲しみを映してそれでも呑み込もうと頷いている。
「血が繋がってるかなんて知らないし興味も無い。確かなのはボクが幼い頃からこの城で育ち、生まれた時から彼の道具として生き続けてって来た事実だけさ」
「……そう、だったんだな。そっか、やっと納得出来たよ」
ずっと疑問だった。レイがどうしてあんなに強いのか、いつどこで悪の組織に染まってしまったのか、何故望まぬ道を苦悩の果てに歩み続けているのか……けれど、ようやく合点がいった。
彼には最初から選択肢など無かったのだ。強く在るべく育てられ、悪逆への道を選ばされ、最高幹部という席に否が応でも座らざるを得なかったのだろう、と。
「ボクはね、物心ついた時からオルビス団として生きてきたんだ。いつからだとかそんな話じゃないんだよ」
紡がれる言葉は微かに震え、その目は暗く深い水底のような冷たい諦観に彩られている。
今でも鮮明に瞼の裏に蘇る。幼き日々を彩った悪夢のような日常も、この手で奪い続けて来た数え切れない誰かの希望も、憧れていた遠き平穏も──自分が生きる為に踏み付け犠牲にして来た何もかも。
「物心ついた頃から戦いの連続だった。負ければ食事にもあり付けない、勝つことでしか生きることが出来ない」
「ひどい、自分の息子にそんなことが出来るなんて……!」
「ヴィクトルは……奴はそういう人間だよ。自分を慕ってくれる者も息子も、等しく駒と見ているんだろうさ」
毎日大勢の幹部や団員を相手に戦い続けた、一太刀を入れられるまで不眠不休で一週間以上エドガー君を相手に戦い続けたこともあった。結局最後は朦朧としながら半ば無意識で戦っていたけど……ようやく一撃を叩き込んだ瞬間の、彼の綻んだ表情は忘れられない。
毎日『何故生きているんだろう』と自問自答を繰り返し、それでもいつかはってほんの微かに残された浅はかな冀望を胸に日々を生き続けて、ついにその時が訪れた。──訪れてしまった。
「だからね、ホントに嬉しかったんだ。調査があるからしばらくは休暇だって言われて、束の間だけど自由になって」
刹那視線を逡巡させると意を決したのか左手を強く握り締めた、言葉とは裏腹に今にも脆く壊れそうな声色で嘆息を零して。
まさに晴天の霹靂。ついに願い続けて来た自由への一歩が踏み出せたのだと、父に想いが通じたのだろうかと滑稽にも喜んでしまった。
「今からもう十年も前。まだ六歳の頃だったね、ボクがラピスシティに滞在を始めたのは」
「そうか……その時に」
「うん、キミやご両親、ビクティニに出会ってしまったのさ」
寂しげに目を細めながら呟いて、しかしすぐに眉間に皺寄せると親友と出会ったばかりのいつかを瘡蓋を剥がすように振り返る。
初めて見る景色、初めてゾロアと二人で歩く世界、初めての何にも縛られない己の時間。緩やかに時が流れるその街は傷付き冷え切った心には暖かすぎる……一夜の夢のような時間だった。
些細なことからジュンヤ君と出会ったボクは彼やそのご両親とも交友を深め、暖かな人やポケモン達に囲まれて、皆で慌ただしくも幸せに過ごし……きっと、初めて心の底から気兼ね無く楽しめた。普通の家族とはこういうものなのだろうか、なんて考えながら忙しなく流れる日々に少しずつ痛みが和らいでいって。
「キミやビクティニとは数え切れない程遊んだよね。一緒に日が暮れるまでバトルしたり、近所の遺跡を散策したり、育て屋のポケモン達と過ごしたりもした」
「ああ、毎日本当に楽しかった。今じゃ考えられないよな、あの頃は体力が無限にあったんじゃないかって思うよ」
「案外間違いじゃないかもよ? だっていつもビクティニが一緒だったんだから」
「なるほど、確かにな……」
体内に無限の力を宿すビクティニには、己の力を分け与えその加護でどんな強敵を相手にしても勝利へ導く力がある。あの頃の自分達も、与えられずとも抑え切れずに溢れ出したビクティニの力に自然に影響されていたのかもしれない。
それだけの絶大な力、誰もが欲しがるに決まっている。ある地方では人々に忘れ去られた孤島で一人過ごしていたビクティニが悪の組織に狙われた事件があった程なのだから。
「……ボクだって、ビクティニのことは秘密にするつもりだったさ。幻のポケモンって呼ばれてるんだから」
父の調査は長引いたらしい。意外なことに一ヶ月、二ヶ月、半年が過ぎてもまだ迎えは訪れず、何も言わずに受け入れてくれた育て屋で幸せを噛み締めながら平穏な時間が流れていく。
だが──九年前の夏の日に、ついに運命の歯車が歪な音を響かせ廻り始めた。最も恐れていた最強の男が、ヴィクトルが迎えに現れてしまったのだ。
「あの時はなんで遅くなったのか分からなかったけど、今に思えば期は熟したってことだったんだろうね」
緊張と恐怖で声も出なかったボクに対して父は優しく声を掛け包み込むように撫でてくれた、『余程楽しかったのだな』と。
あれだけ恐れていた父の言葉にも関わらず、張り詰めた緊張がほどけて嬉しいと感じてしまった。父が少しは気に掛けてくれていたのだと、やっぱり家族なのだと滑稽な勘違いに思い上がって。
「だのにボクは、父親にだけなら良いかもしれないって……そう思っちゃったんだ」
その仮面の奥で野望に燃える眼光など露も知らずに、最も言ってはならない禁断の言葉を言ってしまった。『幻のポケモンに会ったんだ』と。
自分が災厄の引き金を引いてしまったのだと気付くのにそう時間は掛からなかった。やがて雨が降り、連日降り続いた豪雨の中で月桂冠の勝者が動き出してしまう。
「そして“あの日”の惨劇が起きたのさ。ボクのせいでキミは全てを失った、キミのご両親はボクが殺したも同然なんだ」
「そんなの……まだ幼かったんだ、しかたないじゃないか!」
ようやく、『キミのご両親を殺したのはボクだ』その言葉の真意が彼自身の口から紡ぎ出された。あの悲劇が起きる切っ掛けをつくってしまい、自分のせいで死んでしまったも同然なのだと。
……確かに彼は、人々から多くを奪って来た赦されざる悪人だ。けれど両親の死に関してだけは彼が自分を責める必要なんてない、そもそも知らなかったのに誰が糾弾なんて出来ようか。
「しかたないじゃあ済まされないんだよ、時間は戻らないんだから。今なら分かる、全て幻を捕まえる為の布石だったんだってね」
「でもそんなのってひどすぎるよ、レイ君の気持ちまで利用してたなんて!」
「……ビクティニは一度取り逃がしたことで相当警戒心が強くなっていた。少しでもそれを和らげることがヴィクトルの真意だったんだろうさ」
それでも彼は己の浅慮を嘲ると、苛立ち混じりに溜息を一つ冷たく突き放すように吐き捨て淡々と過去を語り続ける。
だから自分が“使われた”のだろう。事実ヴィクトルが捕獲に動き出すまで一年という猶予を与えることで、穏やかな時間の中にビクティニの心には付け入られる程度の隙が生まれてしまっていたのだから。
「お前は悪くないよ、レイ。そんなの全部ヴィクトルのせいじゃないか、お前が罪を背負う必要はどこにもないんだ!」
「優しいねジュンヤ君は……だけどね、誰に何を言われようとボクは自分を赦すことは出来ない。あの時父に言わなければって、そんなことばかり考えるよ」
深い後悔は足元に刻まれた影のように暗く、振り返れば何処までも付き纏い伸びている。何の気も無しに翳した掌を見つめるレイの眼差しが遠くを眺めるように細められ、微かに震える唇からは淡く自責の念が零れ落ちる。
己の過ちで全てが失われた事実を認めることが出来ずに、ただ煌々と燃え盛り崩れ落ちて行く楽園を失意の中で雨晒しに眺め続けた。
やがて呆然と泥濘に佇み続けるボクを迎えにエドガー君が現れて、剣の城に帰ってもまだ現実を受け止め切れずに否定し続けて。けれど失ったものは戻ってこない、蘇る記憶とは裏腹に進み続ける秒針を前に少しずつ絶望を受け入れていくしかなかった。
「だからさ、初めてボクは父に立ち向かったよ。『もうこんな毎日は嫌だ、大切なものを壊した貴方には従いたくない』って何度も父に挑んで……くす、擦り傷すら負わせられずに、圧倒的な力の差に敗れたけどね」
嘲笑する彼の眉間に刻まれた悲しみは深く、擦硝子の瞳は幾色を乱雑に掻き混ぜた絵具のように絡み合った複雑な感情に彩られる。
何度も、何度も何度も。自暴自棄の中で最後に残された憎悪だけを頼りに数え切れない程ヴィクトルに挑み続けて、湧き上がる遣り場の無い激情を糧に抗ったが……結局後には、虚しい敗北だけが残響して。
最強の男には誰も勝てない。覆せない現実をこの身に深く刻み付けられ、諦観と絶望にまみれた泥濘の果てに見えた微かな冀望を選び取るしかなかったのだ。
「だから……お前は最高幹部として戦うって決めたんだな」
「そうでもしないと護れないって思ったんだ。父が創らんとする新たな世界では、弱い者は生きられないから」
思わずむごいと怒りを零して震えるノドカを撫で宥めながらジュンヤも瞼を伏せて自分のことのように悲痛に唇を噛み締めて、そんな二人の優しさにレイが寂しそうに微笑を湛える。
それでも、人とポケモンの絆を引き裂く自身の悪行に疑問を抱き続けていた。奪われる者達から突き付けられる悲痛と憎悪に向き合う度に、いくら来たる終焉から護る為だとしても本人の望まない“偽善”に価値があるのかと。
この手で摘み取って来た希望を振り返る度に蘇る奪われた者達の顔に心が軋み、日に日に重くなる罪悪感に押し潰されそうになりながらそれでも“護る為だからしかたないんだ”と誤魔化すように言い聞かせて。
「……そっか、やっぱり。だからゾロアにかわらずのいしを持たせてたんだね」
「へえ、まさかこれにも気付いてたなんてね。本当にすごいなあノドカちゃんは……」
虚を突かれたように目を見開くレイに対してくすぐったそうにノドカははにかむ。ゾロアークはあれ程圧倒的な力を振るっていたのだ、出会った時に進化していなかった理由を考えれば……何度と話す内に、もしかしたらとは薄々思い始めていたから。
「なんとなく、だけどね。あなたと話してるとそんな気がしたんだ」
「恥ずかしながら正解さ、キミの言う通り……ゾロアの進化と同じだよ。ボクはずっと、決心が付けられずに迷い続けていた」
進化した姿に変わってしまえば、もう戻れなくなると思った。かつて親友だった少年達と過ごした思い出の最後の名残り、ただ一人の少年でいられた証までもが消えて、最高幹部として進み続けるしか無くなってしまうのだと……根拠は無いのにそんな気がして。
だからようやく訪れたかつての親友との再会の日までは、ずっと進化を拒み続けてきたのだ。
「だけどね、ジュンヤ君に逢えたことでようやく決意出来たんだ。もう迷ってる暇なんて無いんだってね」
この手で奪う度に突き立てられる感情の刃は揺れる心を鋭く貫き、どうしても迷いは晴れなかった。深海を歩き続けるみたいに暗闇が重く圧し掛かって来た。本当にこれで良いのかと同じ場所を延々と彷徨い続けていた時に……ずっと会いたかった親友と再会出来た。
錆び付いた運命が音を立てて廻り始めた気がした。自分のせいで命を落とした筈の親友が生きていたのなら。今度こそ、もう二度と、そう思ったから。
「大切な親友を二度も失いたくない。強く進化して、キミだけは何があっても護り抜いてみせると誓った」
二度と同じ轍を踏んだりしない、たとえ誰を裏切ったとしても必ず護る──その為なら。自身を取り巻いていた迷いも躊躇いも、何もかもを振り切って。
誰よりも悪を憎んでいた親友にはまだ言えなかったが、いつかは己の口で告げるつもりだった。きっと理解は得られない、それでも自分が巨悪の幹だということはいずれ伝えなければいけないから。
強く握り締めた拳がほどかれて、それでも敗れてしまった己の不様に力無く嗤う。
「ま、後はキミ達も知っての通りさ。悲劇なんて無かったことにしながら、護る為にって誰かの希望を奪い続けて来た」
最強の男には誰も勝てない、終末の時計は加速度的に針を進め世界が創り変えられる日もそう遠くない。だから手段は選ばずに一人でも多くの人を、ポケモンを剣の城へと匿って、ひとつでも多くの命を護ってみせると。
目の前で大切なものが崩れ落ちていくのを眺めることしか出来なかった“あの日”の自分にそう誓い、不要な心を笑顔で閉ざして非情に徹し進み続けてきた。
「そう、だったんだな……」
何を言えば良いのか分からなかった。余りに現実味の薄い親友の凄惨な境遇にすぐには実感が湧いてこず……ただ悲しみと納得だけが、嫌に鮮明に喉元を過ぎて胸に落ちてくる。何故気付いてやれなかったのだろう、という取り返しの付かない後悔だけは飲み込めないまま。
誰も何も言えないままに、暫時重苦しい静寂が流れていく。何か喋ろうにも口をつく前に言葉が詰まってしまい、視線を逡巡させたノドカが隣で黙り続けるジュンヤの顔を覗き見れば……存外穏やかに目を細めていて。
「……ありがとな、お前に何があったのかを聞かせてくれて。本当にすごいよレイ、護る為にって戦い続けてきたんだから」
「そうするしかなかっただけさ。きっとこんなの、奪われた人達にとっては見苦しい正当化に過ぎない」
「そうかもな、だけどやっぱりオレには責められないよ。言ったろ、オレとお前は同じなんだって」
声が掻き消され目も開かない嵐のような過酷な運命の中に在り、果てしない絶望に押し潰されながらも一筋の冀望を掴み取らんと足掻き続けて──だから決して道を譲れず、あれ程までに強かったのだろう。
素直な称賛はあまりに罪を背負い過ぎた親友の心には届かない。鼻を鳴らして言い訳がましい己を嘲るレイだが、少年は首を横に振り否定しながら穏やかに笑った。
「オレも“あの日”から踏み出せずにいて、結局辿り着いたのが守るっていう願いなんだ。もしお前の立場なら、オレだって同じ道を選んだかもしれない」
だから、自分には親友を糾弾する資格など無い。
飲み干した牛乳瓶を軽く振れば当然硝子の中は空っぽで、僅かに残った水滴が揺れるのを物憂げな瞳で茫と眺める。
純白のシルクが敷かれた机越しに眺める親友の眼差しも共感するように細められていた。結局自分達は、立つ場所こそ違えど見ようとしている景色はそう変わらないのだと。
「……オレもさ、自分が赦せなかったんだ」
ふと少年が頬を掻きながら苦笑を浮かべ、双葉のような栗色の跳毛がふわりと揺れる。
瞼を伏せれば蘇る光景、寝ても覚めても繰り返される全てを失った“あの日”の忌まわしき記憶にオレはいつまでも囚われていた。
「大切な家族も、親友の心も、何も守れない自分の弱さがずっと嫌だった。弱い自分から目を逸らし続けて、思い返せば今でも後悔ばかりだけどさ」
ずっと羨ましかった、遥か遠くを進み続ける強く在れる人達が。守る為にって必死になって足掻き続けても手は届かない、どうすれば強くなれるんだろうって考え続けて。
けれどこの旅の中で己の弱さを知って、色んな人達の強さを知って、ようやく自分の誇れる強さを掴み取れたのだ。
「そんなオレでもみんなのおかげでやっと向き合えたよ。今なら胸を張って言える、『オレもポケモン達も強くなった』って」
今まで支えてくれた二人の幼馴染やこの旅で出会った皆が居たから少しずつ自分を受け入れられるようになって、自分を信じてこんな遠くにまで辿り着けた。
頬を掻きながらくすぐったそうにはにかんでいたら、部屋の隅で指の光を点滅させながら遊んでいたオーベムがやっとジュンヤのコップが空になっていたことに気が付いたのだろう。念動力で牛乳瓶を操り、空っぽのグラスがたちまち白く満たされていく。
「ありがとなオーベム」と感謝を送れば、彼は嬉しそうに指を光らせながら笑みを浮かべる。
「振り返らなきゃ前は見えない、俯いてたら何も変えられないんだ。だからさ……一緒に踏み出そう、“あの日”を越えてその先の明日へ」
「……嬉しいことを行ってくれるね。だけどボクには、その資格は無い」
白光の照明が強く射す程際立つ深い暗影が横顔に差し、翳した掌を憎々しげに見つめ何かを堪えるように眉間にしわ寄せながら自嘲に嗤う。堕ちて堕ちて堕ち続けて……光を望むには遅すぎた、重ねた罪はあまりに重く今にも押し潰さんと圧し掛かってくる。
「……これだけ、希望を奪って来たんだ。そんなボクが……今更、どんな顔で帰れば良いのさ」
「いつも通りに笑えば良いさ、誰も受け入れてくれなくたってオレ達が居る。言ったろ、大切なものを守るんだって」
からん、と溶け始めた氷がこの空気にはあまりに不釣り合いな音を軽快に鳴らす。
唇を噛み締めて瞼を伏せたレイが必死に絞り出して紡いだ言葉に、しかしジュンヤは何でも無いかのように優しい表情で笑ってみせた。かつて幼馴染達がそうしてくれたように、居場所なら自分がつくると言わんばかりに。
「だから……今はまだ自分を赦せなくたって、一緒なら、きっと──」
しかしその言葉が最後まで紡がれることはなく……ふとジュンヤが揺れた途端に力を失った身体は真横に崩れ落ちて、幸か不幸か頭から幼馴染の太股へと倒れ込んでしまう。
「……じ、ジュンヤ!?」
これまでの疲労や緊張、ようやく勝利を掴み取り約束を果たせた安堵……積み重なったそれらがついに限界に達したのだろう。意識が混濁の淵に沈み気を失った少年は、隣に座るノドカの膝の上へ頭を預けて安らかな表情で瞼を閉じている。
二人してまさかと咄嗟に親友を覗き込み、みるみる顔を青くしていくノドカとは対照的に察したレイが苛立たしげに溜め息を吐き出す。
「ま、まさか……」
「はーっ、心配して損したよ! 絶対寝てるだけでしょこいつ!」
「でもジュンヤ、もしかして……!」
「……ぐぅ」
今にも泣きそうな顔で少女が狼狽を露わに見つめていると人の心配も知らずに心地良さそうな寝息が聞こえてきて、彼女は安堵に胸を撫で下ろすがレイは「ほら、心配しすぎだよ」と苦笑を浮かべてストローをつまむ。
「だって……ジュンヤってばいつもムチャばっかりするんだもん」
「くす、まあね。それだけキミはジュンヤ君を隣で見てきたんだもんね」
瞳の底に羨望を沈めて。もし何か一つでも運命が違えば、あるいは彼らと共に笑い合う未来もあり得たのだろうか。
時計の針は戻らない、いくら願っても届かない景色を夢想しながら……少年は、擦硝子の瞳を揺らして遠くを眺めるように穏やかに微笑んだ。
「……ねえ、レイ君」
幼馴染の栗みたいな頭を慈しむように撫でながら、ふとノドカが柔らかな声で口を開いた。
「きっとね、生きていくのに赦しとかっていらないと思うの。誰かが赦してくれなくたって、人はそこにいるんだもん」
そう、かつての自分がそうだったように。誰も私を見てはくれない、たった一人で砂場にうずくまっていたけれど……誰に赦されることがなくても、確かに私はそこにいた。
何にも期待することはなく、コアルヒーと二人で日々徒に時間を潰しているだけだった自分をあの時ジュンヤが見つけて手を差し伸べてくれた。
そう語る少女へ彼は意外みたいに目を見開いて、しかし一呼吸と共に納得したように頷いてみせる。
「自分で自分を赦せなくても、ポケモンたちはいてくれるから。きっと誰かがあなたを見てくれてるから」
「ノドカちゃん、……ありがとね」
「えへへ、うまく言えなくってごめんね! とにかくきっとだいじょうぶだよ!」
「はは、……負けたなあ」
二人で眺めた彼の寝顔は決戦の只中に在るとは思えない程に安らかで、不謹慎にもこのまま戦いが終わるまで目覚めなければ良いのに……なんて願ってしまう。
約束の決戦はジュンヤの勝利で決着した。幼馴染を信じ見届けたノドカは自分が歩めなかった時間への羨望に焦がれるレイへ思い出を語り……ポケモン達の回復が終わるまでの束の間の平穏を惜しんで過ごす彼らを余所に、時を待つことなく針は刻み続けて──。