ポケットモンスターインフィニティ

















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第十三章 決戦
第110話 時の止まった宙に
 轟々と降り続ける幻影の雨は終わりなき慟哭に頬を掠め、戦いに火照った熱すら錯覚させる暗夜は冷たく泥濘に蔓延り続ける。
 かつて全てを失った悲劇の一夜に立ち尽くす彼らは思い思いに宙を仰いで嘆息を吐き、意を決して夢幻が覆う現実へ向き直ると相剋の決戦が待ち侘びたように聳えていた。

「ありがとうライチュウ、お前のおかげでルカリオの技構成が分かったよ」

 必死になって戦い抜いて、劣勢を覆す為の道を繋いでくれた電気鼠へ感謝を伝えると後続を繰り出さんと握り締めたモンスターボールへ視線を落とす。
 赤いカプセル越しに見つめられた仲間はこの局面へ及び腰にふと視線を逡巡させるが、トモダチの奮闘に意を決したのか剥き出しの歯をぎらつかせて戦いへ構えた。

「この状況を覆せるのはお前しか居ない。頼んだぜ、一緒に頑張ろうゲンガー!」

 渾身の力で投擲された紅白級は泥濘に一筋の影を落とし、色の境界から二つに割れると溢れ出した光が大地に暗い水溜りをつくる。
 一層空気が冷え込み、影からぬるりと腕が突き出せば続けて全身が這い出して来て……現れたのは影のように黒い身体、赤く不気味に輝く瞳の霊。裂けたように大きな口に無数の牙をぎらつかせ、短い手足を広げたシャドーポケモンのゲンガーだ。

「ハハ、トレーナーがトレーナーならポケモンもポケモンだね。ホントにキミ達は似たもの同士だ!」
「よく言われるよ、自覚はあるさそれくらい。今更否定したりはしないぜ」

 肌が焼けつく様な凍える緊張が心を震え上がらせる。元来臆病な性格の彼のゲンガーはこの緊張に押し潰されそうになり……しかし、どれだけ傷付いても果敢に立ち向かったライチュウの雄姿を思い出せば、虚勢を張るくらいの勇気は出て来た。

「へえ意外、キミでも自分を客観視出来たんだ。まあそうだよね、相変わらず臆病なクセにかっこつけてんだから!」
「……ああ、今だって足が竦んじゃいそうだよ。もし負けたらどうなるんだろう、オレ達は本当に勝てるのかなって」

 相手は幼い頃から何度も刃を交わして、しかし今までたったの一度も勝利を奪い取ることが出来なかった親友レイだ。
 後の無い負けてはいけないこの局面において、どうしても嫌な想像ばかりが浮かんでしまって心が竦んで指先が震えてしまう。けれど。

「だけど……それ以上に怖いことがあるんだ。お前だってそうだろ、レイ」
「やれやれ、まあ否定はしないけどね。ボクだって護る為に戦ってるのは確かなんだし」

 お互いに掲げて来たのは“まもる”という夢、それは裏を返せば失いたくないということでもある。少なくとも自分はずっとそうだった、また大切なものを失ったらって思うと何よりも怖くて、そんな“もしも”を思うと心の芯まで凍り付きそうで。
 だからずっと、ずっと──強さを求め続けて来た。もう二度と大切なものは奪わせない、守る為にって手を伸ばし続けて来た。だからレイも、きっと……。

「無理やりにでもこの道を通してもらうぜ、全力で行くぞレイ!」
「さあて出来るかな、一度も勝ったことのないキミ達が。悪いけどボクらから行かせてもらうよ、はどうだんで攻め立てよう!」
「来るぞゲンガー、シャドーボールで迎え撃て!」

 霖雨に降られたままに再び戦いが動き始める。ルカリオが両掌の先に波動を集中させると波打つ蒼炎が弾丸と解き放たれて、二つの凶弾が左右から雨を切り裂き迫り来る。
 ゴーストタイプを持つゲンガーにかくとうタイプのはどうだんは効果が無い、本来ならば身体をすり抜ける為避ける必要はない。
 だが恐らくレイの狙いは直撃させることではなく、決して近寄らせてはならない。翳した掌に影を集中させ弾丸を形成すれば、渾身の力で解き放った。

「流石察しが良いね、褒めてあげるよ、よく出来ました。フフ、多分前にも同じようなことをされたんでしょ?」
「はは、悔しいけどその通りだよ。でもそう簡単には負けられないからな!」
「……そっか、ルークさんとのバトル!」

 蒼炎と黒影の衝突で大地が抉れて爆風が覆い、しかし息をつく暇など与えられない。相手は波導の力で位置を捕捉してきて「まだまだ行くよ、はどうだん!」視界を覆う爆風を突き抜けた波動の砲弾が瞬く間に眼前へと躍り出る。

「っ……かわせ!」

 怒涛の攻勢にゲンガーの心に焦燥が浮かび、必死の叫びに咄嗟に身を捩れば眼前で炸裂し弾け飛ぶ土砂が頬を掠める。
 少しの手傷も負うわけにはいかない、幽霊が緊張に息を呑めば「精々頑張って避けなよね、大事なきあいのタスキが潰れちゃわないようにさ」と対峙するレイはくつくつと笑い、……この立ち回りから、既に持ち物は割れてしまったと言っても過言では無い。

「それじゃあお次はこんな攻撃でどうかな。はどうだん、連続で放って!」
「だったらこっちは、あと一撃当てれば……シャドーボールだ!」

 波導の勇者の掌に集束した蒼炎の弾丸は矢継ぎ早に撃ち放たれて、円を描くように螺旋の軌道で周囲へ降り注げば泥濘を掬い大地を抉り飛ばしながら、渦を描くように徐に中心へと近付いてきてしまう。
 泥濘の飛沫が弾丸の如く鋭く迫り、ならば、と迎え撃つように解き放った影球が炸裂すれば霰となって降り注いでいくが、鍛え抜かれたルカリオには完全に散弾の軌道を見切られている。弾き飛ばされ躱されて、ことごとくを防がれてしまっていた。

「もう体力もギリギリなのに……ううん、それよりこれって、まさかジュンヤ達がブーバーンにやってた!?」
「そうそう、よく気付いたねノドカちゃん。これはさっきのお返しさ、喜んで受け取ってくれて良いんだよ!」

 そう、この戦法はライチュウが見せた岩柱を利用しての包囲攻撃によく似ている。歯軋りと共に戦場を俯瞰すれば高らかな哄笑が響き渡って、ゲンガーが焦燥を露わに指示を待たんと振り返った。

「悪いけど遠慮しておくよ、お前だって素直に受けてくれなかったからな! 影に隠れてやり過ごすんだ!」

 分かっている、回避により生まれる僅かな隙を狙っていることは。だが多少の危険は覚悟しなければ、レイ達を相手に勝利など掴めない。
 ならば乗ってやるとばかりに指示を出す。ゲンガーが足元の影に身を潜めれば、波動に撒き散らされた泥濘の弾丸は全て頭上を通り抜けて行った。

「さあ、お望み通り続けて行くよルカリオ!」
「させないさ、今だゲンガー、シャドーボールで迎え撃つんだ!」
「なっ、速い……!」

 そして案の定、蒼影が宙へ舞い踊り風を切る鋼鉄の尾が振り下ろされた。だが既に影に隠れて力を溜めていたゲンガーは不敵な笑みと共に這い出すと同時に、鉄槌が届くよりも速く渾身の影球を投擲し……不意に、嘲笑うような一陣の風が吹き抜ける。

「……なーんてね、誰も追い付けやしないのさ。さあしんそくで回り込もうか!」
「……しまっ、後ろだゲンガー!?」

 それは音すら抜き去る超高速、瞬く刹那に眼前の影は掻き消えて、完全に意表を突かれてしまった。ルカリオは眼を見開く霊体を通り過ぎるとそのまま背中まですり抜けて、完全に無防備となった背後で鋼鉄の尾が振り翳された。

「よしよし、この一撃は避けられないよ……アイアンテール!」
「……っ、まだだ、シャドーボールで迎え撃てぇっ!」

 だが敵はきあいのタスキの効果で辛うじて持ち堪えている状態、此処まで距離を詰めるのは諸刃の剣だ。
 あと一撃、それさえ当てられれば……咄嗟にゲンガーが振り返れば視界に白銀の鉄槌が飛び込む。恐怖で竦みかけ顔を逸らしそうになるのを必死に堪えて……しかし、その一撃は届かなかった。
 ルカリオの身体を電流が駆け抜け動きがほんの瞬き程の刹那鈍った、誰よりも臆病なゲンガーだからこそこの刹那の間隙を見逃さない。

「これはマヒ!? そっか、ライチュウ……!」
「このタイミングで……へえ、やってくれるね!」
「……ありがとうライチュウ、お前の思いは無駄にはしないよ。よし、今だゲンガー、行けえっ!」

 ほんの僅かに上回った。構えた掌に集中させた漆黒の弾丸が解き放たれて、胸に突き出す鋼の突起へ直撃し炸裂する。
 己の身体を支える微かな灯火が掻き消され、その瞬間……波導の勇者の脳裏には、レイと出会い信頼し合った泡沫の記憶が走馬灯と駆け抜けていった──。

「……やったあ、ルカリオが倒れたよーっ!?」

 確かに自分はライチュウに実力だけなら勝利していた。だが彼の意思は確かに受け継がれていた、その想いに敗れてしまったのだ。
 そして、意識を失ったルカリオは膝から崩れ落ちて泥濘に徐に瞼を伏せた。それは一種の満足感か、或いは幸せな夢に微睡んでいるのか……口元に微かな微笑を浮かべながら。

「お疲れ様ルカリオ、今までよくボクの為に働いてくれたね……ありがとう」

 心からの穏やかな労いが投げ掛けられて、翳したモンスターボールから暖かい赤光が迸ると波導の戦士は優しく包み込まれて安息の地へと還っていく。
 掌へ戻って来たルカリオを見つめて……レイは、懐かしむように目を細めて小首を傾げ帽子のつばを軽く下げた。

「今でも覚えているよ、キミと出会った時のことは」

 その言葉に、傷だらけで顔を上げたルカリオは満足そうに頷いて視線を合わせ心を交わした。
 脳裏には、遠き日々が今でも昨日のように鮮明に蘇っていく。まだ幼い頃に連れられた孤島へ一人置き去りにされ、必死に瞬間を生き抜く中で出会ったのがリオルだった。
 彼は正義感が強く優しいポケモンだった。慣れない環境に右往左往していた自分の窮地を幾度と無く助けてくれて、いやに星が明るく照らす夜を共に過ごし、ゾロアやブビィ達と次第に仲を深めていって。
 結局、ボクが脱出する時ですら心配して付いてきてくれた程だ。……ボクがこの背に、巨悪の影を背負っていることを知っていながら。

「優しいね、キミには辛い思いをさせてきたのに」

 だが波導の勇者はそんなことないとばかりに首を振る。
 確かに護る為にと望まぬ戦いばかりだった。憎んでいた悪にこの手は染まり、数え切れない程傷付き死を予感したことすらあるが……彼と共に歩む時点で、そんな程度は覚悟していた。
 それでも、彼についていきたいと思えた。だからこそ此処まで共に走り続けて来たのだ。

「そっか……それなら良かったよ、今まで無理強いばかりでごめんね。本当にお疲れ様、ゆっくり休んでねルカリオ」

 誰にも聞こえないよう、ハンチングのつばを下げて雨に溶けるささやかな声で語り掛けたレイは時を待たんとすぐに口元に笑みを浮かべて、握り締めていたモンスターボールを腰に装着すれば「やー驚いたな、なにより意表を突かれたよ!」と摺硝子の瞳を瞬かせた。
 残念がって大袈裟に肩で息を吐くレイに、少女が跳ねた茶髪を揺らし自慢げに叫ぶ。

「どうお、レイ君! ジュンヤ達はここぞって時の勝負運強いんだよ!」
「ハハ、……いやノドカちゃんは運も実力のうちとか言ってあげなよ!?」
「え、あ……ご、ごめんねジュンヤ!?」

 その言葉に思わず少年はツッコミを入れ、ふと二人でジュンヤに目線を向ければ……何も言わずに帽子のつばを下げているが、その立ち姿からもう伝わってくる。彼が……ちょっとしょげて唇を尖らせているのが。

「うんうん、よおし程良く肩の力も抜けたね。行くよジュンヤ君、次はこうは行かないさ!」
「だろうな、お前達の強さは身に染みてるよ。これでようやく一匹なんだ、まだまだ余力を残してるんだろ」
「良いねえ、ボクらの強さを分かっているようで何よりだね。さて、それじゃあお次は……」

 辿るように腰に装着された紅白球に一つずつ触れていくレイがあるポケモンに触れると彼と過ごした記憶を辿り、納得したように目を細めながら頷くと一つの球を掴み取った。

「懐かしい顔に会わせてあげるよジュンヤ君。さあおいでマリルリ!」

 紅白球が投擲されて、解き放たれた赤い光が雨を切り裂き影を象る。長いセンサーの耳に丸い身体、腹部には白く泡模様の浮かび上が、り伸縮自在なバネの先に脂の詰まった尾を備えたみずうさぎポケモン。
 ……今でも覚えている、共に肩を並べて戦ったこともあれば、光の屈折により透明化して隠れていたビクティニを炙り出されたこともあった。

「はは、本当に懐かしいな。そのマリルリと一緒に不良達と戦ったりしたのを覚えているよ」
「うん、キミのピカチュウと一緒にね。いやあ、良いコンビネーションだったねボク達!」

 傍らのマリルリが懐かしげにジュンヤに手を振り、彼も応えるように軽く振り返して笑う。ノドカも身を乗り出して「ああ、あの子ね。お久しぶりマリルリ!」と勢い良く声を掛けるが、足を滑らせそうになって収まり悪そうに身を引いていた。

「ああ、久しぶりに会ったら何もかも変わってて驚いたけど……優しいところは変わらなくて安心したよ」

 その言葉に虚を突かれたレイは一瞬戸惑いに目を見開いて、しかしすぐさま嘲るように口元を歪めると可笑しいとばかりにくつくつ嗤う。

「くく、ボクが優しいだなんて嗤わせるね。ボクは巨悪を支える三柱、多くの希望を奪って来た最高幹部だ……彼らの嘆きを聞いてごらんよ」

 彼が空へ掲げた指を鳴らせば、その瞬間地の底から無数の“誰か”の慟哭が響いた。返して欲しい、お願いだ、そんなことを叫びながら憤怒や絶望を込めて悲痛に叫ぶ声……それは、きっと今までレイが悪の幹部として浴び続けて来たものだろう。
 思わずジュンヤが眉をしかめて、ノドカが耐えられないと喘いで耳を塞ぐが、地の底から響く憎悪の泥濘は酷くこびり付いて離れない。

「みんなみーんな色んな顔に彩られてたよ、ボクらに深い憎しみを抱きながらね。優しい、だなんて……被害者がそれを聞いたらなんて思っちゃうのかな?」
「レイくん、それは……」

 思わずノドカが言葉に詰まる。数え切れない程の人々が大切なものを奪われて、その悲しみすらも忘れ去られて……彼にどんな理由や背景があろうが、犯した罪は、傷付けられた人々の痛みは変わらないのだから。

「ハハ……なーんてボクが言えることじゃないか。そもそも記憶を書き換えられてるんだから誰も覚えてないんだしね!」
「そうだろうな。オルビス団に人生を狂わされて、それすら忘れた空っぽな人達をたくさん見て来たよ」

 何も言えずに唇を噛み締めるノドカをよそにレイは貼り付けた笑顔でおどけて笑い、ジュンヤも帽子のつばを下げて記憶を呼び起こし神妙に頷いた。
 ……今でも思い出せる、オルビス団に大切なものを奪われた人々のことを。ある街のジムリーダーは消えた記憶に虚に淀み、ある不良は奪われた相棒への失意に沈み、ある少女は偽りの幸福に涙を流し。
 カズキ君達はレイの正体を知っても、相棒を取り戻してくれたからと信じていた。けれど大切なポケモンを奪われた彼らは違う、エクレアちゃんだって自問自答に藻掻き苦しみ、葛藤の果てにようやく「赦せないが向き合えた」と痛々しく微笑んでいて。

「お前達は赦されないことをした、そんなこと勿論分かってるさ。だけど……それでも、やっぱりオレからしたら変わらないよ」
「……相変わらずバカだね、ホントに」

 全て理解した上で、それでもなお彼は大切なものを守らんと手を伸ばしているのだ。バカバカしい、レイが帽子のつばを深く下げて遠くを望むように目を細め、顔が影に落ちた数瞬後に見上げれば柔和な微笑みで呆れたようにため息を吐いた。

「ま、ボクもキミ達が変わらなくて安心だよ。いくらカッコつけても、弱くて臆病で甘っちょろい……あの頃のままだ」
「悔しいけど、人はそう簡単に変われないもんな。だからみんな頑張ってるんだ、お前だってそうだろレイ」
「はあ……我が友ながら呆れちゃうよ。ま、思い出に浸るのもここまでだね」

 そう、それは何より臆病な素顔を帽子で隠して立ち向かって来た少年が最も理解しているはずだ。変わらない為に変わろうとしてきた、そうして歩き続けて来たのだから。
 静寂に雨音が繰り返されて、両親や親友と共に過ごした育て屋が劫火に包まれ滅びていく中で照らされた彼らが張り詰めた空気に見つめ合い……互いに隙を窺い睨み合う中で、不意にレイが哄笑をあげる。

「来ないならこっちから行かせてもらうよ、まずは手始めアクアジェットさ!」
「迎え撃つぞゲンガー、ヘドロウェーブ!」

 マリルリが両腕を掲げると吹き出す噴流を身に羽織り、噴射の推進力で弾き出されて砲弾の如く猛然と迫って来た。
 対してゲンガーは両腕を広げ、溢れ出す夥しい毒液を波濤と周囲へ解き放つと視界一杯の毒に思わず水兎が目を見開く。

「流石にこの技は躱し切れないか……だったらこれはどうだい、アクアテール!」

 正面からでは威力で劣る、ならばと水を弾いて空に踊り、鎚尾に激流を逆巻き縦一線の唐竹割りが振り下ろされた。
 蒼波が紫浪を押し流し、開けた正面を不敵な笑みと共に仰ぐが既に影一つないもぬけの殻。目を見開いて耳を立て、着地と共に辺りを見渡すが音も無く姿も捉えられない。

「今だゲンガー、シャドーボール!」
「流石はゴーストポケモンだ、隠れんぼが得意みたいだね。だけど見えているよ、後ろだマリルリ、アクアテール!」

 優れた聴覚を持つが影を移動するゲンガーはそう易々とは捉えられない。瞬間水兎の背後の影が長く伸び、飛び出したゲンガーが翳した影球を投擲する。
 だがやはりレイの洞察力と観察眼は凄まじい、すかさず出された指示に振り返り様遠心力を乗せた尾槌が激流を纏い薙ぎ払われた。容易く弾丸を打ち返されて一瞬驚愕に強張りながらも「ゲンガー!」己を呼ぶ声で意識を呼び戻し咄嗟に身を捩れば、影球が寸前で頬を掠め思わず胸を撫で下ろす。

「まだだ、今度こそ届かせてやるさ……ヘドロウェーブ!」
「誘っているのかい、良いよ、このままじゃあ埒が開かないからね! 乗ってあげようかマリルリ、アクアジェット!」

 最早互いに躊躇う暇も無い至近距離、この好機を逃さないとばかりにどちらともなく指示を叫んだ。
 溢れ出す毒の波濤に呑まれかけた水兎は咄嗟に水流の噴射を纏い被弾を最低限に抑え、飛沫を掻き分けて中心で構えるゲンガーの背後を捉え突き刺さった……そう、ジュンヤの狙い通りに。

「その攻撃を待ってたぜ! 今だゲンガー、カウンターで倍返しにしてやれ!」

 そして、たった今受けた傷を自身の力に変えて背後へ強烈な影の拳が解き放たれた。この至近距離を避けられない、この戦いで初めてレイは驚愕に目を見開いて、マリルリが咄嗟に腕を突き出すが鉄拳を受け止め切れずに真正面から吹き飛ばされてしまった。
 だが……カウンター、その技は受けた攻撃の痛みを倍返しする強力な技ではあるものの、当然傷が浅ければ浅い程威力も下がってしまう。避けられない至近距離に咄嗟に発動したは良いものの、最大火力を返せなかった惜しさに密かに歯噛みする。

「……驚いたね、まさかそんな技を持ってるなんて。今のは危なかったな、アクアテールなら一撃だったかもだ」
「本当に惜しかったよ、悔しいな今のは」
「くす、受けた痛みが大きい程威力も上がる、キミ達みたいな技だもんね。マリルリ、もうオボンのみを食べて良いよ」

 傷はそこまで深くはない、地面を転がりながらもすぐさま跳ね起きた水兎は、懐に備えていた黄色い果実“オボンのみ”を頬張ってたった今受けた傷をたちまち回復していく。
 自分達みたい、それは自分や皆がこの逆境で急激な成長を続けているからだろう。確かに今まで受けた数え切れない痛みが自分を強くしてくれた、終焉の宣言からずっと鍛錬を続け……うんと強くなってしまった。

「さあこれでもうキミのきあいのタスキは潰れたね、ボクらも全開で行かせてもらうよ! アクアテール!」
「かわしてヘドロウェーブだ!」

 幾度と振り下ろされる水流の鉄槌、しかしその軌道は既に読めている。高速の跳躍で真横をすり抜け背後へ躍り出ると全身から夥しい毒液を噴き出して、迫り来る波濤へレイが不敵に指示を飛ばす。

「そんなさざなみじゃあ届かない、止めてあげるよ、物理的にね。背後に向かってれいとうパンチ!」

 耳で返事をしたマリルリが音で距離を測りながら右腕に凍える冷気を纏わせて、至近距離まで到達すると振り返り水面へ拳が叩き込まれた。瞬間高波は音を立てて一斉に凍結していき、「まだまだ攻め込むよマリルリ、アクアテール!」と瞬間聳える紫氷が砕け散った。

「……っ、シャドーボールで受け止めろ!」

 高く跳躍した水兎が激流の逆巻く尾の先端を遠心力に乗せてでたらめに振り回し、縦横無尽、予測不能な軌道で振り下ろされる。
 最初は跳躍や影に隠れることで躱していたゲンガーだが、徐々に回避が間に合わなくなってきた。着地と共に真横から波濤が迫り、咄嗟にジュンヤが指示を叫んだ。
 すかさずゲンガーが束ねた影球を盾に鉄槌を受け止めるが、流石の威力に抑え切れない。影球ごと横殴りに振り抜かれてしまい、マリルリが待っていたとばかりに不敵に嗤う。

「今だマリルリ、はらだいこ!」
「だったら……発動はさせない、これで削るぞ! ヘドロウェーブだ!」

 指を鳴らして飛ばした指示に荒ぶる心に軽快に頷いた水兎は両腕を掲げ、突き出した水玉模様のお腹を太鼓と打ち鳴らし小気味良く意気軒昂な闘いの旋律が奏でられていく。
 その演奏を続けさせれば、ただでさえ険しい逆境が更に劣勢へ追い込まれてしまう。未だ吹き飛ばされ不安定な体勢ながらも、決死で歯を食い縛って紫毒を吐き出せば夥しい波濤が景色ごとマリルリを呑み込んでいく。それでも。

「ウソ、効果抜群なのよ、ひるまないの!?」
「……っ、流石の耐久力だなマリルリ、まだ止まらないなんて」

 なお演奏は止まらない。幾重にも浴びせ掛けられる毒の水流、弾ける飛沫が轟きなお掻き消されぬ力強い太鼓音が高らかに鼓膜を振るわせていて。

「……フフ、これで準備は完了。さあ上げて行くよ、お楽しみはこれからさ!」

 そして、吹き荒ぶ毒渦が視界を覆う戦場で独り舞台の演奏が終わってしまった。皆が息を呑む緊張の中でレイが高らかな哄笑をあげ……一切を押し流す凄まじい水柱が噴き上げれば、滝壺の如き怒涛から興奮に目をぎらつかせた水兎が現れた。

「っ、分かったよゲンガー。頼む、間に合ってくれ……みちづれ!」
「遅いよジュンヤ君、今のマリルリを越えられないさ! アクアジェットで吹き飛ばせ!」

 どうせ倒されるのならば死なば諸共、せめてマリルリも巻き込んで……そう思ってゲンガーはジュンヤを振り返り指示を仰いで、その覚悟を受け歯軋りながら指示を叫んだが伸ばした影が水兎を捉えることはなかった。
 膨大な激流が刹那に溢れ出し、滝波と降り注ぐ鉄砲水が暴威に波打てば瞬く間にゲンガーの決意ごと一切を荒浪へと呑み込んでいく。迎え撃つ何もかもが掻き消され、無駄だとでも言うように決意もその身も容易く押し流されて──。

「そんな、なんて速度だ……無事かゲンガー!?」

 返事は戻らずただ幻影の雨だけが頬を打ち、幾度と繰り返される潮騒の果てにようやく波が引いていけば……後に残ったのは、朧に瞬き倒れ伏すゲンガーと息を切らせて爛然と立ち尽くすマリルリ、そして発動の機会を失ってしまった“きあいのタスキ”が転がるのみだった。

「……ありがとう、お疲れ様ゲンガー。あとはオレ達に任せてゆっくり休んでくれ」

 戦場を見渡せば泥濘に瓦礫が無造作に転がり、肩で息を吐いてモンスターボールを徐に翳せば迸る閃光が希薄に倒れる霊を飲み込んでいく。
 カプセル越しに覗き見れば彼は“はらだいこ”の発動を許してしまった不甲斐なさを嘆いていたが……何も謝る必要は無い。

「そんなことはないよ、お前はよく頑張ってくれた。ルカリオを倒してマリルリも追い詰めてくれたんだからさ」

 対峙する強敵は既に抑え切れない力を爆発させているが、それでもマリルリは既に満身創痍だ。厄介な強敵を倒して後続もあと一撃で倒し切れる、ならば働きとしては十分過ぎる。
 それを伝えれば彼は安堵に胸を撫で下ろす。此処まで皆が魂を懸けて喰らい付いているのだ、ならばきっと戦いの果てに勝利を掴めるのだと……そう信じて瞼を伏せた。

「流石だよレイ、無理やりにでも積んで容赦無く詰めてくるんだから」
「トーゼンさ、本気で行くって言ったでしょ? これでもほんの序の口さ、もっともっと楽しませてよね!」
「……ハハ、相変わらずバトルが好きだよな。そんなに身を削ってまで強くなって、お前は」
「やだなあ、そんなの当たり前でしょ、ポケモントレーナーなんだから」

 かつて、幼い頃に出会った彼も同様にバトルを好んでよく相手をさせられていた。あの頃のレイは黒髪で今みたいにボサボサ跳ねてやいなかったが、良くも悪くもレイ達もあの日から変わらないのだと思い知らされる。
 きっと彼らがこれ程強くなるには余程の研鑽があったのだろう。計り知れない痛みや苦しみに苛まれ、それでも護る為にと譲れない心を掲げて、彼らは笑顔の仮面で嗤っている。だから……オレ達は勝たなければならない。
 マリルリを一瞥すれば溢れ出す力をその身に纏い、意気揚々に昂っている。生半可な技では恐らく容易くねじ伏せられてしまうだろう、なるべく温存しておきたかったが……この状況を任せられるのは、やはり相棒だ。

「だから……ここはお前に任せたぞ、ゴーゴート!」

 万が一を考えれば繰り出せるポケモンは彼しか居ない。投擲した紅白球が色の境界から二つに割れれば眩い赤光が迸り、纏わり付く輝きを振り払い顕現したのは再びの草山羊。

「……あれ。ねえジュンヤ、すごい速いファイアローじゃダメなの?」
「そうだなノドカ、確かに速さだけなら上回れる。だけど多分あの激流を貫くのは多分難しいと思ったんだ」

 言われてノドカが先程の戦いを思い浮かべた。凄まじい激流を纏い突撃するその技は“はらだいこ”により大幅に強化されている、相性不利のファイアローでは……確かに逆巻く水の鎧を突破して一撃で決めるのは少し厳しいかもしれない。

「ハハ、また出て来たねゴーゴート。流石は相棒だ、頼りにされてるね!」
「マリルリにはらだいこなんてされたら、もうこいつを出すしかないからな」
「だから最も信頼する相棒で手傷は最小限に抑える。うん、キミ達らしい慎重さだね!」

 一手……この局面はたった一手でも見誤ってしまえば、あっという間に敗北してしまう。
 後に引けない張り詰めた緊張に乾いた喉がいやに渇き、髪を貼り付ける汗を腕で拭って劫火の照らす戦場を睥睨すれば対峙する親友と視線が不意に衝突する。
 彼の眼は未だに景色の映らぬ摺硝子に瞬いて、ジュンヤの眼は微かな光を見失わないようにと力強く惑わぬ希望に萌えて、雨音が延々と反響する夜空に……不意に、哄笑が静寂を打ち破った。

「相変わらずキミは奥手だね、だったらボクらから攻めてあげるよ。邪魔な盾ごとぶっ飛ばそうマリルリ、アクアテール!」
「オレ達はもう壊れないさ、守るっていう思いがある限り! まもるで受け止めろ!」

 高く跳躍したマリルリはその尾に逆巻く渦を纏い、さながら洪水の如き果てしない激流が鉄槌となり振り下ろされた。
 対するゴーゴートは何もかもを吹き飛ばす怒涛にも怯みはしない。低く泥濘を踏み締め身構えて、精神を研ぎ澄ませると光の結晶が宙へと翳され絶対防御の障壁を展開していく。
 二つの技が荒廃した戦場に轟音響かせ衝突すれば、荒れ狂う氾濫が防壁を真正面から打ち砕かんと降り注ぎ続ける。

「流石ここまで来ただけのことはあるねジュンヤ君、キミ達はまだまだ諦めちゃいない!」
「お前のおかげでもあるさレイ、このくらい耐えないと大切なものは守れない、だろ!」

 光盾が余りの威力に悲鳴に軋み、押し流されてしまいそうな世界になお眩く踏み締め聳え立つ。仲間達の想いを背に受けている、果てしない目前にようやく親友に手が届く……だから決して。
 拮抗の果てに光の結晶が露と舞い散り、凌がれ続けた波が弾けて時雨と降り注いだ。

「……やるねえ、まさかこの一撃を防ぐなんて。キミ達の守るって言う強い想いが伝わってくるよジュンヤ君」
「ずっとその為に戦い続けて来たからな。こんなところでやられるわけにはいかないさ!」
「それなら徹底的に攻め立てるまでさ。続けていくよ、れいとうパンチ!」

 奏でた旋律に全身全霊が最大限まで昂って、翳した右腕の先には大気をも凍り付かせる凄まじい冷気が収束していき渾身の力で大地が殴り付けられた。
 迸る凍気が天を衝く分厚い氷柱となって突き立てられて、氷河のごとく巨大な柱が幾重にも折り重なって迫ってくる。

「ゴーゴート!!」

 ジュンヤの絶叫と共に視界が無数の氷列に閉ざされ、中心に取り残された草山羊の姿が見えなくなってしまった。
 だが暫時の静寂を破ったのは鋭い剣閃だ、閃光と共に氷塊に幾筋の切傷が駆けると派手な音と共に炸裂しらに光の刃を翳した草山羊が泥濘へ軽やかな着地を見せる。

「まずいよジュンヤ、このままじゃ……」

 苛烈な猛勢は終わりが見えない、思わず弱気を零しそうになってしまったノドカだが、咄嗟に口を塞いで幼馴染を覗き見た。
 彼の瞳は諦めになど彩られていない。絶対に勝つのだという強い決意、相棒へ抱く全幅の信頼、大切なものを守る希望に萌えていて、その瞳を見ていれば……不思議とどんな困難も越えられるような気さえしてくる。

「ううん、あなたたちならきっと行けるよ! がんばれジュンヤ、ゴーゴート!」
「ああ、きっと勝機はあるはずだ……だからそれまで耐え抜いてみせるさ」

 幼馴染同士で頷き合って、逆境に顔を上げれば光の剣が毀れ落ちていく。
 確かに今のマリルリはとてつもない力で暴れている、それでも脳裏にソウスケのバトルを思い起こせば……必ずこの劣勢にも勝機はある。

「おっとまだまだ耐え切ってみせるか、流石相棒だけあってよく鍛えられているね。でもこの距離ならどうかな!」

 限界を越え身体機能が激しく昂っている今誰にもマリルリを止められない。筋肉の圧縮されたバネの脚で地を蹴れば瞬く間に至近距離へと躍り出て、そのまますり抜け背後を取られてしまう。
 技が撃ち込まれる、そう思った瞬間視界の端に伸縮自在の尾が掠めて「……っ、違うゴーゴート、正面だ!?」嫌な予感に咄嗟に叫んだ。

 強烈な槌尾の一撃は大地へ深く突き刺さり、伸縮自在の尾で自らの身体を手繰り寄せて急降下。泥濘を蹴り付けて落下中の草山羊目掛けて跳躍すると凍気の拳が雨を凝結させながら振り翳される。
 あと一瞬、ほんの僅かでも気付くのが遅ければ間に合わなかった。しかしこれならあるいは……!

「まだ間に合う、リーフブレードで受け流せえ!!」

 迎え撃つように翳した光剣を振り下ろしながら身を捩り、音に追い付く程の高速で飛び込んでくる拳へ渾身の力で刃を突き出せば凍気は刀身を這い背後へ突き抜けていく。
 辛うじて凌ぎ切ったが安堵に息つく暇は無い。振り返れば今度はバネの尾がすぐ頭上まで迫っている。

「おっと、一休みにはちょっと早いんじゃない? さあ行こうマリルリ、アクアテール!」
「……っ、もう一度まもるだ!」

 瞼を伏せて研ぎ澄まし、光の障壁を展開すれば直後に激流が鉄鎚と振り下ろされて凄まじい衝撃で叩き付けられた。
 辛うじて着地には成功するが、マリルリの攻勢はまさに縦横無尽、あらゆる方向から迫り来る攻勢に息を切らして対峙する水兎を睨み付ける。

「驚いたね、まさかここまで凌いで来るなんて……ソウスケ君のヒヒダルマで見慣れてるってことかな」
「ああ、ずっとあいつのバトルを見てるんだ、これくらいはな!」
「だったらこの技はどうかな。一気に攻め立てようマリルリ、アクアジェット!」
「っ、この瞬間を待っていたんだ。来るぞ、受け止めるんだゴーゴート!」

 ジュンヤが徐に呟き帽子のつばを下げれば相棒と視線が交錯し、迸る波濤を纏うマリルリが噴射により凄まじい速度で眼前に躍り出た。
 技の発動が間に合わない。泥濘を力強く蹄で踏み付けて身構えたゴーゴートに滝壺の暴威が激しく降り注いでいき、あまりの衝撃に泥濘が撒き散らされ踏み締めた地面が陥没してしまう。
 それでも、脚は折れずに立ち続けている。希望は惑わず萌えている。

「これなら……届く、届かせる! ゴーゴート、リーフブレードだぁっ!!」

 そして、主に呼応するかのような草山羊の高い嘶きと共に形成された光剣を振り翳して、激しく逆巻く激流へと無理矢理刃を突き立てた。
 あまりの威力に軋みながらも降り止まない雨に一層決意は強く閃き、決死のゴーゴートが叫べば極光が縦一閃に振り下ろされた。

「わあ、すっごい強引、無理矢理押し切ってくるだなんてやるねえ!」
「これで……決めてやる!」

 波濤が光の軌跡を境界に岩に堰く滝と二つに割れて、力を失った怒涛が流れ出せば寄せては返す波と溢れて雨音と潮騒が繰り返していく。
 次第に大波が鎮まっていき、やがて収まり始めた穏やかな波間で健闘を讃えてマリルリが笑う。交錯した瞳に映るのは悦び、悟ったゴーゴートが微笑み返せば……寸前で辛うじて持ち堪えていたのだろう。途端に膝から崩れ落ちたマリルリは糸が切れたように仰向けに倒れ込んだ──。

「ありがとう、お疲れ様マリルリ。キミが愉しんでくれたようで良かったよ、後はボクらに任せてゆっくり休んでね」

 泥濘を背に満足そうに瞼を伏せて横たわるマリルリに、安心したように苦笑を零しながらモンスターボールを翳せば解き放たれた赤光が水兎を飲み込んでいく。
 まとわりつく光と共に手元へ還ってきたマリルリをカプセル越しに覗き見れば、彼は満身創痍にも関わらず随分楽しそうに語り掛けてきた。

「うんうん、分かった分かった。フフ、随分愉快そうだけど、余程全力を出し切れたのが嬉しいのかな」

 呆れたように穏やかに微笑めば、そこまではしゃいでいたのかと恥ずかしくなってマリルリがはにかみ……しかし、その笑顔が不意に夜天に陰ってしまう。

「勿論覚えてるよ、キミは弱いからと捨てられていた。だけどボクが断言してあげるさ、キミはホントに強くなった」

 彼と出会った当時はまだルリリで、全然進化もせず使えないからとトレーナーから見捨てられて、雨の中で一人びしょ濡れに佇んでいた時に声を掛けたのだ。
 未だ、その時に浴びた言葉と果てしない無力感が心の底にこびり付いていて。しかし主人の一言に零れた雫は瞬く間に体毛に弾かれて、安堵に目蓋を伏せたマリルリは平穏に身を委ね眠りについた。

「勿論分かってるつもりだよゴーゴート。もしそうなら、オレも気持ちは痛い程に」

 振り返り物憂げに視線を投げかけてくるゴーゴートの瞳に察したジュンヤが頷いて、帽子のつばを下げると口元をかたく引き結ぶ。
 マリルリは惑い無くこの決戦に臨んで思うがままに闘いへ興じ、全力を出し尽くすと満足そうに還っていった。
 きっと彼は純粋にレイのことが好きなのだ。悪に手を染めるなど望んでおらず、主人と一緒に楽しく過ごせればそれで……きっと彼にとっては、それだけで良かったのだろう。

「オレもみんなと居るのが好きで、ずっと……みんなと楽しく過ごせれば、それで良かったんだ」

 勿論あれ程の興奮には闘争の愉悦もあるだろう。けれどそれ以上に、トレーナーと心を通わせ全力で一緒に戦っているからこそ楽しかったのだと思う。
 ジュンヤの呟きにゴーゴートも徐に同意と頷いた。九年前に両親を失って、もうあんな思いはしたくないと守る強さを求め続けて……けれど、本当は大切な仲間達と過ごせれば構わなかったのだから。

「お前だってそうなんだろ、レイ。だってオレ達はきっとそう変わらない、同じまもるって夢があるんだから!」
「アハハハ、おかしなことを言うねえジュンヤ君! ボクはとっくに道を選んだ……選ばれたんだ、誰がどう思ってようがそれでも針は廻り続けるのさ」

 迎え撃つ親友を覗き込んでも褪せた瞳は色を映さず、貼り付けた笑顔に照り付ける劫火が不気味な程に深く暗い影を刻み続けて。
 広げた掌からは溜まることなく雨粒が流れ落ちていき、視界は時折霖雨に霞む。仮面の奥底に隠れた素顔へ未だ光が射し込まない、それでも……この決戦で必ず辿り着いてみせる。
 未だ宙は絶え間無く慟哭を唄い続け、煌々と燃え猛る劫火は皮肉な程に眩く夜に輝き二人の影が一層長く黒く足元から伸びていた。

「……懐かしいな。ようやく分かったよ、旅立ちの日に見た悪夢の意味が」

 激しく鎬を削り合う約束の決戦、初めて向き合った本気の親友は未だ隔てる壁が冷たく厚く、必死に叫んでも言葉も声も届いちゃいない。
 束の間の暇に宙を仰ぎ、鈍銀に視界を掠め続ける雨へ身を委ねる中で不意に脳裏へいつかの悪夢が過ぎった。初めてポケモン図鑑を受け取りトレーナーとして旅立つ始まりの朝に、二度と思い出したくないと沈めていた記憶が蘇ったことを。

「オレはずっと向き合うことを怖がって目を逸らしてた。だけどそれじゃあ駄目なんだ」
「ジュンヤ、……そうだね、前に進まないと、だもんね」

 もう二度と見たくないと思っていたこの景色。あの時は『最悪の朝だ』なんて口を尖らせて呟いていたが、この旅の中で嫌でもその夢を見た意味に気付かされてしまった。
 両親を失った“あの日”の夜からずっと自分は目を逸らし続けていた、けれど……きっといつか、こんな日が来ることを予感していたのかもしれない。徐に独りごちる親友にノドカが悲痛な声で噛み締めて、それでも背を押すように必死に言葉を投げ掛ける。

「ふーん、相変わらず言うことだけは立派じゃん! だけどそう簡単に越えられたら苦労は無いさ、それが出来ないからキミ達は今も無様に震えてるんだろ?」
「それでも、見ないフリをしたって過去はいつまでも付きまとい続ける。だからオレはもう逃げないよ、絶対に越えてみせる……克って踏み出すんだ!」

 ずっとずっと、暗く雨の降り続けるこの空に囚われたまま、泥濘に踏み出す勇気も無く佇み雨に打たれ続けていて。だけどそれはきっと……同じなんだ、オレだけじゃあない。
 滲む世界で横切る雫には無邪気だった、幼かった日々が淡い思い出と照り返し、振り返って見つめた幼馴染の揺れる眼差しにはびしょ濡れになった自分の姿が朧に映り込んでいた。

「さあて、それじゃあ続けて行かせてもらうよジュンヤ君。せっかくの檜舞台なんだ、まだまだボクらの決闘を楽しもうじゃんか!」
「ああ、とことん全力で迎え撃ってやるさレイ。今まで本当に遠かったけど……ようやくここまで来たんだからな、今度こそ負けないぜ!」

 軽く指先で弾いて弄んでいた次なる紅白球を掴み取ったレイがハンチング帽のつばを下げると、更に弓形の口を歪めて左手に構えた。対峙するジュンヤも赤い帽子をかぶり直して大きく息を吸い込むと精一杯の虚勢で高らか叫ぶ。
 残された手持ちはお互いに四匹、しかし既に此方は消耗しているにも関わらずレイ達の攻勢は更に苛烈を極めるだろう。

「がんばってジュンヤ、あなたのこと……信じてるからね!」
「……ああ、いつもありがとうノドカ、見ててくれ!」

 不安と緊張に押し潰されそうな心を……それでも絶対に諦めない、大切なものを守り抜くと誓った心で奮い立たせる。
 いつでも隣で励まし背を押してくれる幼馴染、幼き日々に交流を深めた親友、この旅で出会った仲間達、何より自分自身の為に……最後まで魂を懸けて足掻き続ける、光無き空に一条が射し込むその時まで。

■筆者メッセージ
ジュンヤ「…やっぱり強いな、だけどノドカが信じてくれる限り負けないさ」
ノドカ「えへへ、ありがとねジュンヤ!でもやっぱり信じるよ、だって…あなたは、いつも私のそばで助けてくれたんだもん」
ジュンヤ「ノドカ…助けられたのはオレの方だよ。ノドカが居なかったら」
レイ「はいそこいちゃつくのやめてくれない!?」
ジュンヤ「だからいちゃついてないって言ってるだろ!」
レイ「はあ、エドガー君…なんか疲れて来ちゃったよ。これが盤外戦術の一環なら大したやつだね」
ノドカ「ばんがいせんじゅつ?」
ジュンヤ「ほら、賭け事とかで精神的に追い詰めたりみたいな」
ノドカ「レイ君…なにに追いつめられてるの?部下の女の子たち?」
レイ「いやそれも確かに追いつめられるけどさ…はあ、もう良いよ。ボクが悪かったよ!」
ジュンヤ「なんでいきなり怒ってるんだよ」
レイ「キミ達のせいかな!!」
せろん ( 2020/06/03(水) 18:37 )