第97.5話 零の始まり
空は変わらず暗い雨雲に覆われて、篠突く長雨は鋭く冷徹に頬を射つ。黒いハンチングを目深に被った少年は、乱れた白銀の髪が風に弄ばれて、困ったように磨硝子の瞳を瞬かせた。
隣に佇むのは闇のように黒い一匹の化狐、彼は喜怒哀楽のない交ぜになった瞳で柵の中には影一つ無い、がらんどうのポケモン育て屋を仰いでいる。
遠い目をして彼方を望む少年とその相棒に降り注ぐ冷たい雨は、身体を芯まで冷やし切っていて……。
「……ああ、懐かしいなあ。九年前のあの日も、こんな雨だったね……ゾロアーク」
ラピスタウン。かつてジュンヤが全てを失い安息の地が劫火に包まれ崩れ落ちた、絶望の地。長閑で安穏に時の流れる田舎街に……二つの影が立ち尽くしていた。
黒を基調として、胸元に大きく紅円の描かれた上着を羽織った少年……レイが、透き通った声で呼び掛ける。
その隣に佇む妖狐……朱殷の鬣を靡かせ、紅く縁取られた蒼眼を瞬かせる影の如き漆黒の妖狐は、同じく朱殷の爪を鳴らしながら徐に頷いた。
「今でもはっきりと覚えてる……そうだ、ボクが殺したんだ、ジュンヤ君のご両親を」
広げた掌を見つめ、確かめるように強く握り締める。
見えたのは、影。触れるもの全てを飲み込み、更に苛烈に燃え盛っていく炎に照らされた影は儚く崩れ落ちて行く……瞼に焼き付いて繰り返され続ける、闇に葬られた遠き日の悲劇。
深い悔恨が、消せない罪が圧し掛かる。あの日時計の針の巡りは止まり、運命の輪が廻り始めた。錆び付いた鍵は永く失われ……ボクらは抗いようのない大きな渦に飲み込まれてしまった。
「懐かしいなあ。あの日彷徨い続けていたボクらは道標を見付けて、本当の戦いが始まったんだ」
相棒は苦虫を噛み潰したような顔で零れた過去を振り返り、少年は己の無力に、背負った咎に穢れた掌を血が滲む程に強く握り締める。嗤うように吹き遊んでいた風がふと口を閉じて……哀哭に似た雨音が、いやに近くで反響する。
絶望の果てに見たものは、今にも消えそうな儚く灯る希望だった。何度も慟哭した、取り戻せない光に己の罪を幾度と糾弾し、藻掻き続けた果てに暗闇に射す答えを選び取った。
そして決意した。一つでも多くの命を護る為なら……ボクらは自身の力と立場を最大限に利用させてもらうのだ、と。
「……今まで希望を奪った人達のことも、忘れられないね。目を閉じれば鮮明に思い出せるよ」
怯える人も居れば気高く睨み付けてくる人、事態が飲み込めず惑う人も居て……オーベムの力で記憶を書き換える寸前に見せる表情は、深い絶望は寝ても覚めてもこびりついている。
『仕事だからしかたない』、『一つでも多くを護る為』……いくら自分にそう言い聞かせても、忘却に沈めた悲劇はどこまでも付き纏ってきて。
過去から現在を弾劾するように。赦されない罪を突き立てるように。決して離れることなく伸びている、それはどこまでも在るこの影のよう。
降り続く雨は矢のごとく。冷たく少年達を射続けていて……何を言うでもなく、ただ空に身を委ねている中で、不意に「よお」と荒っぽい声で呼び掛けられた。
……ああ、ずっとボクらを見張っていた。振り返れば、相棒を隣に侍らせる少年達が睨み付けてきている。挑んで来なければ何も仕掛けなかったのに、……しかたがない、気分を切り替えて、迎え撃とう。
「見付けたぜ、お前がオルビス団幹部のレイだな」
「私達はこの地方のポケモントレーナーじゃないけど……悪い人は許せないわ!」
「僕らだって、このエイヘイ地方をそう簡単には渡さない。最強になる為に鍛え続けて来たんだ、負けないぞ」
「やあ、これはこれはモブの皆様。フフ、自分から部下になりに来てくれるなんてね、嬉しいなあ」
黄色い上着を羽織った、ニョロボンを連れた短髪の少年。ラフレシアを繰り出す赤いシャツの女の子、それにキュウコンやドレディアにレントラーまで繰り出していく少年達。敵意を露に立ち向かってくる五人に囲まれて、しかし幹部のレイはその到来を待ちわびていたと言わんばかりに高らか笑う。
「わけのわからないことを言うのはやめるんだ! 行くぞレントラー、かみなり!」
「うわあ、危ないっ?! ……なーんてね」
瞬間積乱雲が眩く閃き、空から夥しい雷の束が降り注ぐ。それは黒きたてがみを靡かせる蒼獅子レントラーの放った電撃だ、レイ本人を直接狙ったが……妖狐が影を纏いし爪で稲妻を切り裂き、火花は眩く弾けてしまう。
「参ったなあ、ボク達はポケモントレーナーなんだからさ、バトルで白黒つけようよ?」
「……良いぞ、相手になってやる。行こう、レントラー」
「それじゃあボクは……このままキミに任せようかな。さあ行こうか、ゾロアーク!」
ハンチング帽のつばを下げ、呆れたとわざとらしく肩を竦めて優しく微笑み掛ける無彩色の少年レイ。
……どのみち、ポケモン達を倒さない限り幹部を拘束する術は無さそうだ。レントラーのトレーナーである橙色の上着を羽織った少年が、諦めて相棒と対敵を睨み付ける。
一対五という不利な状況に立たされて、なお貼り付けたようなわざとらしい笑顔を振り撒く少年は幻影の妖狐を繰り出した。
ゾロアークは周囲を睥睨すると、久し振りの闘いに舌なめずりをして……振り返り、主とすぐに片付ける、と頷き合った。
悪意に満ちた紫黒の波動の間隙をすり抜けて、稲妻を纏い撒き散らしながら躍り出たレントラー。次こそ逃がしてなるものか、「行くぞレントラー……ワイルドボルト!」沸き立つ闘争心のまま獰猛に吼え牙を立てんと襲い掛かるが……妖狐の眼は紅く閃き、紫電の一閃は嘲笑うように容易く躱される。
「今だ二人とも、行こう! レントラー、残された力を振り絞ってくれ……ワイルドボルトォッ!」
「おう、任せとけ。行くぞニョロボン……ハイドロポンプ!」
「行こうキュウコン、オーバーヒートだぁっ!」
「絆の力で最後の賭けに出るなんて、感動させてくれるねえ。だけど残念だったね……キミ達じゃあ、束になっても勝てやしないさ」
ラフレシアとドレディアは既に倒れ、残された三匹は満身創痍になりながらも必死に微かな意識を願いで繋ぎ、巨悪の幹へと立ち向かっていた。
前後真下から全身全霊を振り絞って放たれた渾身の一撃が、踊るように宙に舞う妖狐に迫り。……底知れない影の輝きが、全てを飲み込む漆黒の光がゾロアークという存在に収束していく。
「そろそろ終わりにさせてもらうよ、……ナイトバースト」
そして……眩く拡がる闇の天蓋が解き放たれた。燃え盛る炎も、迸る雷光も、逆巻く激流も、その全てが影の天球に掻き消され……闇が全てを喰らい尽くした。
……刹那の攻防は、結局悪の幹部の勝利で終わった。幾重に迫り来る攻撃を容易く躱し、重たい一撃で次々に沈め……最後に、ナイトバーストで全てを吹き飛ばしての呆気ない幕引き。
「アッハハ……あっけなかったね。でもしかたないか、だってボクらってば強いもん!」
傷一つ無い妖狐は呆れたように瞼を伏せると濡れた身体の毛繕いを始め、少年は黒いハンチング帽を指で弾いて泥濘に転がる挑戦者達へ高らか嗤う。
辺りにはキュウコン、ドレディア、ラフレシア、ニョロボン、レントラー……倒れて動けなくなったポケモン達とそのトレーナーが地べたに這いつくばり、圧倒された屈辱、敗北の痛み、沸き上がる無力感に掴んだ地面は容易く崩れ去ってしまう。
「てめえ、どうしてそんなにつえーのに悪の組織なんかに居んだよ……!」
倒れていた一人、黄色い上着の少年が怒りを露に糾弾する。自分達とそう変わらない歳で、それだけの強さを持って“護る”と言いながら悪に与する理由が理解出来ずに。
「それはね、強いからだよ。ボクはなるべくして悪の組織の幹部になったんだ、そうなる運命なのさ」
幹部の少年は、ゾロアークを後ろに下げて一歩前に踏み出すと友に語り掛けるかのような親しげな声で朗らかに答え始める。
「ボクらだってホントならこんなことはしたくないよ。だけど……ヴィクトルは運命を掴んだ勝者なんだ、しかたないじゃんか……!」
「……お前……」
だが……僅かに声に感情が混じり。その顔には暗く深い影が差して、眉間に皺を寄せ次第に声を荒げていく。それだけあの男が強大なのか、抗えない程の強さなのか……そう、倒れ伏す少年達が息を呑んだ瞬間に、その顔は穏やかで人懐っこい普段の笑顔にうって変わって。
「……フフ、これで満足かな? でもごめんね、ボクがポケモンを奪ってるのはさ……ボクがやりたいからなんだ!」
「……この野郎……!」
「どうしたの、まさかボクの心配でもしてくれたのかな。優しいなあ、ありがとね!」
あっけらかんと言い放った言葉に、少年達は一瞬でも憐れんだことを深く後悔する。レイの磨硝子の瞳に一切の迷いはなく、ただ深い闇だけを湛えていたのだから。
「よおく分かったぜ、お前が救いようのねえ外道だって。お前ら悪党は……絶対に許さねえ!」
「アハ、それは怖いなあ。それで、惨めに這いつくばるだけのキミ達に何が出来るのかな?」
くすくすと悪戯っぽく小首を傾げて見下ろしてくる少年に、何も言い返すことが出来ない。圧倒的な数的優位にも関わらず敗北し、地に伏すしか無い自分達に……出来ることなど、無いのだから。
隣で倒れ伏すニョロボンの無力感に満ちた瞳に、遣る瀬のない怒りが込み上げる。違う、おれがもっと強ければ……と。
「さて、じゃあムダっぽいけど一応聞いておこうかな! キミ達、オルビス団に入る気はないかい?」
「ふざけんな、誰がお前達なんかの仲間になるか……!」
「分からないなあ、終焉はすぐそこなのに。キミ達の大好きな相棒と一緒に居られるんだ、本望だろう?」
瞬間、激しい爆轟と共に視界の端が赤く閃き一陣の風が吹き抜けた。悪戯っぽく見下ろす悪の幹部と、それに立ち向かう少年達の間を切り裂く突風がやがて収まり……果たして其処には、爆炎を纏いし朱き獅子が悠然と立ち尽くしていた。
「フフ、思ったよりもお早いご到着だね、流石はエイヘイ地方が誇る四天王様だ!」
「茶化すのも大概にするが良い、馬鹿げた妄言で拐かすのも其処までだ。貴様らの働く悪逆、此処で儂等が食い止めよう」
「グレンの言う通りですわ。貴方のその貼り付けた薄気味悪い笑み、すぐに歪めて差し上げます……にほんばれ」
遅れて現れたのは頭を丸めた老人と、世界最大の花弁を赤黒く咲かせる毒花ラフレシア、着物を纏った気品ある初老の女性。
花弁が輝けば頭上を厚く覆っていた乱雲は瞬く間に退けられて、天に穿たれた大穴から眩い陽光が熱く苛烈に降り注ぎ始める。
銀髪の少年はわざとらしく空を見上げて目を見張り、その顔に差す影は一層濃い闇で柔らかな笑みを染めていた。
「人聞き悪いねおじいさん。ボクは救ってあげてるだけさ、自分の力だけじゃあ生きられない、どうしようもない人達を」
「選択の自由を奪い、無理矢理道を選ばせているだけであろう。外道め、よくもそうまで平然と嘯けるものだ」
「やだなあ、そんなことないってば、偏見は良くないよ。それに『薄気味悪い』は傷付いちゃうなあ、流石にヒドくない!?」
彼のやり方は以前に中継されていた、圧倒的力による恐怖で心を折り屈服させて服従させる……如何にも悪党のやりそうなこと。それを……よくも救済などとほざけたものだ。
募る苛立ちは烈火の如く。だが冷静さは決して失わずに用心深く睨み付ける。
「……っ、わりい、助かった! ニョロボン、今のうちに逃げるぞ!」
「ふうん、そっか。アハハ、良いよ、尻尾を巻いて逃げ出しなよ!」
四天王の登場でレイの注意はこちらから逸れている、いや……まるで自分達も四天王も見ていないかのよう。その磨硝子の瞳は光無く徐に瞬いて、果たして何を映しているのか。
相棒を紅白球に戻して駆け出し、去り際に背に投げ掛けられた言葉に己の無力を思い知らされながらも、必死に激情を堪えて駆け出した。
脱兎と駆け出すその背へ手を振り笑顔で見送っていると、不意に、老翁に厳かな声で呼び掛けられた。
「貴様、どういう風の吹き回しだ」
「別に、ボクと一緒に来てくれないなら用は無いだけさ。二人してボクをなんだと思ってるのさ!」
「控えめに言って屑、ですわね」
「酷いなあ、ボクは突然襲い掛かられた被害者だよ?」
タマムシの一言に冷たく切り伏せられ、グレンも同意とばかりに頷くと深い溜め息を吐き出した。
「しかし、エイヘイの頂点に君臨する四天王様が二人も来てくださるなんてね。光栄だなあ、ボクみたいな一般人相手にご足労頂いて!」
それでも少年はおどけた態度でからから笑い、対峙する朱き獅子と大輪の花を一瞥すると大袈裟ぶって歓声をあげる。
「悪党が白々しい。貴様と話すことなど何も無い……往くぞ」
「そう慌てないで、勢揃いまで待ってあげても良いよ。それに四人揃ったらかっこよさそうだしね!」
「必要ありません。容赦はしませんわ、お覚悟どうぞ」
「フフ、つれないなあ。でもそこまで遊んで欲しいって言うならしかたないね、それじゃあボクは……炎には炎と洒落混もうかな! 行っておいで、ブーバーン!」
現れたのは巨大な砲台の腕を持ち、全身に炎の紋様が走る巨躯の火男。獅子が身を低くして獰猛に唸り、天を衝く怒号を轟かせると大気が張り詰め宙が震える。対峙する敵を射竦める威嚇の咆哮をあげる伝説の獣ウインディだが……向かい合うブーバーンは、身体を芯まで震わせる“いかく”を受けてなお不敵に嗤い、砲台の腕を突き出した。
「温存しているか、別の物を持たせているか……」
「わあすごい、攻撃が下げられちゃったよ。ああ、危なかった、だってブーバーンは特殊攻撃が主体だもんね!」
運に恵まれたとばかりに少年はわざとらしく仰天してからブーバーンの背を見てくつくつと笑い、火男も掌の先に火花を散らして口元を深く弓形に吊り上げる。
燦々と灼熱の陽が射す中に刻まれた影は深く漆黒を湛えて伸びていて……暗く染まった頬に貼り付けた微笑が歪められると共に、貼り詰めた空気が冷たく爆ぜた。
「往くぞウインディよ、しんそく!」
瞬間、獅子の姿が掻き消えた。誰にも追い付けない神速の閃き、音に追い付き抜き去る程の超高速は一陣の風を纏って吹き抜ける。
「へえ、流石は四天の将の相棒だ、誰も追い付けない神の速さは伊達じゃないね。だけど……」
単純な突撃ではブーバーン相手に大きな傷にはならない。次の攻撃に繋げる為に背後に回り込んだが……見透かされたかのように、既に眼前には砲台が構えられていた。
「ごめんね、その速さならボクらは見慣れてるんだ。だから通用しないよ……がんせきふうじ!」
背後からの奇襲を文字通り“見抜かれて”しまっていた。振り返り様に翳された砲台の先から放たれた塊球が足元に着弾すると、鋭利な岩槍が峻烈に突き上げ獅子の脚部が穿たれてしまう。
だがウインディは不敵に笑って対峙する火男を見据え、快晴の陽を仰いで瑞々しく広がる真紅の大輪が、「では参りましょうグレン。ラフレシア、ソーラービーム!」眩く照り輝く苛烈な日射しを束ねた極大の太陽光線を解き放った。
「うむ、共に放つぞタマムシよ。ウインディ……フレアドライブ!」
陽光を収束させ解き放った夥しい光線と、猛火を鎧と纏い放たれる炎熱の弾丸。前後二方向から迫るほのおタイプとくさタイプ、それぞれが誇る最大級の大技を前に……しかしブーバーンは余裕の態度を崩さない。
「わあ、すっごい威力だ、こんなの直撃するわけにはいかないね。だからボクらも全力で……ブーバーン、オーバーヒート!」
彼は前後から迫り来る二つの大技に鼻を鳴らして砲台を構え、哄笑と共に全身の熱を二点に集中させて解き放った。瞬間膨大な熱気が迸り、陽炎が揺らめく中に悉くを灰燼へ返す凄まじい劫火が解き放たれた。
余波に泥濘んだ大地が溶解する。一方は夥しい光の束を容易く飲み込み真紅の大輪を焼き尽くし、もう一方の熱線も全力のフレアドライブを忽ち焼き焦がし獅子が必死に歯を食い縛って堪えている。
「ありがとねタマムシさん、アナタのにほんばれのおかげで一撃で倒せちゃった!」
「……何とでも言いなさい。ご苦労様、よく頑張りましたわねラフレシア……戻って休みなさい」
タマムシは苛立たしげに眉をしかめて、しかし溜め息を一つ意識を切り替えラフレシアへ穏やかな声色で労いを送り、真紅の大輪は翳したモンスターボールから迸る閃光に誘われ戻っていった。
「へえ、やるねえ、まさかここまで食い下がるだなんて。でも……」
「ふん、忌々しい程の察しの良さだな、最高幹部とやらは。儂の狙いも読めているのだろう」
「フフ、そうだね、彼らの避難を済ませたアナタ達にもうボクらと戦う理由はない」
「全く以て腹立たしい、認めるしか無い己の弱さが。だが……儂とて己が使命を忘れてはおらぬ、今だウインディよ、解き放て!」
あまりの熱量に、炎を保つことすら難しい。獅子の身を覆っていた鎧が徐々に剥がれ始めていき、次第に剥き出しになりかけていた中で……瞬間、緋色の宝石ほのおのジュエルが砕け散った。
途端に火力を増した炎は激しく昂り蒼く煌めくと、凄まじい熱線に迫る威力で熱く煌々と燃え盛っていく。
絶大な威力を前に、ブーバーンも面白いと言わんばかりに双砲を突き出して、全霊を込めて迎え撃った。高ぶっていく力と力、激しく鬩ぎ合う蒼炎と緋炎。めくるめく火花は苛烈な陽を浴びて辺りを焼き焦がし、舞い踊る炎柱は一帯を溶かして、眩い灼熱の双炎が解け合っていく。
「やるねえ、他の三人とは段違いの強さだ。レンジ君をあと一歩まで追い詰めたんだ、うん、これくらいはやってくれないとね!」
相手を打ち倒さんと迸る熱線は次第に蒼き炎を喰らい始め、渾身で駆け続ける獅子はそれでもなお食い下がっていく。
世界を焼き尽くす壮絶なぶつかり合いは……結局、緋炎が全てを飲み込みブーバーンの勝利に決着した。巻き起こる爆轟が耳をつんざき、視界が舞い上がる黒煙に覆われてしまい……暫しの静寂が、再びの曇天と共に宙を覆い始めていく。
「ダメダメブーバーン、勿体ないよ」
……今のが最大火力か、ならば下すのは容易いものだ。残念そうに肩を落とした彼は懐に隠していた“しろいハーブ”を頬張ろうとして、呆れた顔の主に制止された。
やがて晴れていく視界の中に、ブーバーンは苛立たしげに眉をしかめる。澄み渡る景色の中には……いくら見回しても、対峙していたポケモン達の姿は無かったのだから。
「アハハ、当然じゃん、彼らは初めからボクらから逃げる機会を伺っていたんだから!」
苛立ち半分に振り返れば、主人はけたけたと愉快そうに言い放つ。ならば何故みすみすと見過ごした、闘いを楽しまんと昂っていた彼の問い掛けるような目線に、少年は徐に瞬いた後に躊躇うように口を開いた。
「キミも覚えてる……いや、忘れられるわけが無いでしょ、ブーバーン。この街が……ボクらの始まりの場所だからだよ」
今でも嫌という程鮮明に思い出せる、あの日崩れ落ちた眩い世界を。自分達の”護る為“の戦いは此処から始まった、未来を賭けた運命の輪は此処から廻り出した……。
真実は闇に葬られ、血塗られた絶望が眠るこの地にこれ以上悲しみを降らせるわけにはいかない。だから、最初からポケモンを奪うつもりはなかった。せめてこの地だけは穏やかなままで……来る日の終末を迎えて欲しかったから。
その言葉に、ブーバーンも不機嫌そうに口を尖らせるのをやめて静かに頷いた。そして柔らかな労いの言葉と共に翳された紅白球から迸る閃光を浴びて、安息の地へと還っていった──。
「……そう思うよね、ゾロアーク」
数瞬間の戦いは終わり、ぽつ、ぽつ、と雫が微かに頬を打つ。光を遮り広がる雲は暗く厚く、隣に佇む妖狐が蒼き眼を遠く細めて静かに頷き、冷たい雨が勢いを取り戻して降り注いてゆく。
無彩色の少年は「じゃあ、行こうか」と嘲るように寂寥に笑い、踵を返すと一つも言葉が口をつかぬままに足早に失われた楽園を後にした。
「……雨、止まないね」
ラピスタウンを出て、背中で遠くに街を仰ぐ。名残惜しげに踏み出される自分の足に惑わされながら、己の大義を胸に掲げて、決して振り返ることはなく。
「きっと最後の日にはエイヘイ全土が包まれる、かつてない程の大雨に。だから……大きな傘を用意しないとね」
あてども無く、ただ徐に歩き続ける。黒く厚い雲が光を奪うように空を覆い、深く暗い影が足元に泥濘み、失われた一条の光を求めるごとく。
もう良いのか。口数の少ない主人を気遣う蒼い視線を傾ける妖狐だが……少年は、自嘲気味に嗤いながら確かめるように頷いた。
「良いんだ、ボクにはあの地を踏む資格はない。だから……もう」
今でも脳裏に焼き付けられている。忘れられるわけがない、橙色の光に照らされた影を、触れるもの全てを飲み込み高く舞い踊る眩い炎を。
あの日悲劇の引き金を引いて、かけがえの無い命を奪ってしまった、大切な二人の友達を失った。そして……随分汚れて、穢れた掌は拭えぬ罪と数え切れない悲劇に染まり。
見上げた宙に光はなく、暗雲を空を閉ざし闇だけがどこまでも続いていく。絶望という名の雨は慟哭のごとく降り続け……終焉へ望む世界に、少年の影は黒く克明に刻まれていた。