ポケットモンスターインフィニティ



















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第十二章 残された七日
第97.4話 墓標は泥濘に沈み
 暗く冷たい雨の中で僅かも濡れない紫の長髪を掻き分けて、外套を打つ前に弾け散る露、刃の穂先のごとく鋭い眼がおもむろに瞬く。その隣には強靭な鋼鉄の四肢で地を踏み締める、巨大な兵が佇んでいた。
 エイヘイ地方の最北端、一帯が立ち入り禁止区域に指定された巨大なクレーターの底に聳え立つ廃墟群を眼下に仰いで、青年と鋼鉄兵が、降り頻る雨の中瞼を伏せて立ち尽くす。
 此処は……かつてある研究が行われていた研究施設。古代の城に聳え立つ最終兵器“終焉の枝”の発見後、調査の結果その兵器は生体エネルギーを吸収し、超高効率で焔に変換出来ることが判明した。

「リュウザキ主任、かつての同胞達よ。もう間もなく……エイヘイ地方は、我々皆で突き詰めた研究の成果によって終焉を迎える」

 リュウザキ氏とヴィクトル・ローレンス……ツルギの父と首領の主導で、失われた技術を現代に蘇らせ永遠なる平和の為に利用する計画『プロジェクト:オルビス』が発足し、収集したデータを元に再現と応用が試みられた。
 だが……それはヴィクトル様にとっては建前に過ぎなかった。彼は“終焉の枝”が発見された時から既に平和になど興味は無かった……あの方はポケモントレーナーだ、求めるのは飽くなき進化なのだから。
 彼は待ち続けていた、簒奪の時を。そして十三年前、連日雨が降り続けていたある日に自身の存在を含めた全てを灰塵へ還した。

「ああ、懐かしい、忘れる筈が無い。あの日も……冷たい雨に降られていたな」

 憂いを帯びた彼の呟きは降り頻る雨に冷たく溶けて、泥濘んだ大地へ悲哀の色が染み込んでいく。
 今でも鮮明に脳裏に焼き付いている……克明に思い出せる。自らの手で終わらせた無数の命を、エイヘイ地方の未来を、人々の願いを受けて背負った多くの希望を。その全てを……自らの意思で奪ったのだから。
 水面下で進行していたオルビス団による計画、それを隠匿する為に資料を複製し原本は研究施設と共に焼却。施設を封鎖して出口を閉ざし、逃げ惑う人々、立ち向かってくる者……事故を装う為に、丹念に一人ずつ手に掛けていった。
 リュウザキ・ミツバ……ツルギの御母様、彼女は最期に儚く笑っていた。まだ自我の芽生えたばかりの幼子に怖れを抱かせないように、彼が創り出す未来を信じているかのように。とても優しく、最期まで気丈な女性だった。

「……メタグロス。私は何故、此処に居るのだろうな」

 彼女だけではない。研究員達は皆エイヘイ地方の未来を信じて、共に助け合い励ましながら真摯に物事に向き合う素晴らしい人物ばかりだった。
 今でも時折迷いが生じる。頂点に立ち続けたまま空虚に枯れていく恩師の背を見るのは辛かった、しかし……あのお方が道を踏み外すことを見過ごして良かったのか、と。

「ヴィクトル様には心より感謝している、あの方が私を救って下さったのだから。だが……」

 私はかつて両親に、虚栄心を満たす為の装飾として“造り”出された。どれだけ努力しようと、励もうと、妬まれ恨まれることはあれど私もダンバルも誰かに認められることは唯の一度たりとて無かった。
 ヴィクトル様が、初めて“私”を見てくださった。救い上げてくださった。今でもあのお方は誰よりも深く感謝し、心より敬愛している。

「……だが、ヴィクトル様を止めてさえいれば、数え切れない犠牲者が生まれることも無かった」

 このエイヘイ地方は水面下で少なくとも数千、数万人もの犠牲者を生み出している……この罪は如何に贖おうと赦されることは決してない。無辜の犠牲者を、ヴィクトル様のことを思えばこそ、今でも時折“もしも”が脳裏に過ってしまう。

「……ふ、それも過ぎた話か、私は多くの同胞を手に掛けた。ならば……前へ進む他道は無い」

 広げた手のひらに染み付いた罪を見つめて自嘲気味に嗤い、降り頻る雨になお流されぬ穢れた手で相棒の頭を優しく撫でた。
 もう後戻りは出来ない、あの日……自ら退路を断ってしまったのだから。この身は最期の刻まであのお方と共に、鉄の忠義を貫いてみせよう。
 目の前には厳重に夥しく立入禁止線が交錯しているが、メタグロスの眼光が蒼く瞬くとひれ伏すように道を広げる。青年は相棒に礼を告げて、眼下に佇む己が犯した罪の残骸へと迷いなく足を踏み出した。


****


 降り頻る雨は次第に勢いを増し、少年の肌は冷え切って……しかし、その胸に宿る光は穏やかに熱く瞬いていた。

「……もう間もなくだ。貴方達の希望を簒奪した組織との長き戦い、全ての因縁に決着がつけられる」

 今となっては声も、顔も、共に過ごした日々すら思い出せない。光届かぬ記憶の深淵に沈み、霞んで見えない大切な人達を想う。
 彼らは世界の為に、未来への希望を信じてかつて戦争に終焉を齎した兵器の研究を続けていた。
 だが……オルビス団は、己が我欲で彼らの想いを踏みにじった。足跡を辿らせない為だけに、全てを一夜にして灰塵へ還した。

「案ずるなフライゴン。俺は決して奴らを赦さない、だが……己の果たすべき使命は忘れない」

 翠緑の精霊竜はいつかに憎悪に呑まれ冷静さを失った主が脳裏に過ってちら、とツルギの横顔を見遣り、彼は決意を秘めて短く返す。
 母から託された、最初にして最期の願い。俺は永く憎悪の刃を胸に掲げて戦ってきた、だが……今ならその意味が真に理解出来る。
 『私達の出来なかったことをやり遂げてほしい』。それは父の研究を結実させることだけではない、エイヘイ地方の未来へ永遠なる平和を齎すこと。
 その為ならば俺は、己の感情を殺して向き合おう。胸に今もなお煌々とぎらつく……復讐に染まる、怨嗟の刃を鞘に収めて。

「……それで、何の用だ。お前では俺に勝てない」
「流石、察しが良いわねツルギさん、エドガー様が警戒するだけのことはあるわ。気配を殺していたつもりだったのだけれど」

 己の決意は変わらない、未来の為に剣を振るい続けるのみだ。隣で眼を細めて、眼下に立ち尽くす廃墟と化した施設群を哀しげに眺めていた相棒を軽く撫でると、先程から幽かに背へ突き立てられていた殺気へと鬱陶しげに振り返った。
 背後に佇んでいたのは、漆黒の外套に身を包み真紅の円が描かれた制服を纏う、フードで顔を隠した白髪の少女。冷徹に覗く氷の瞳、鋭利に洗練された気配……恐らく、オルビス団の中でも上位に位置する構成員だ。尤も……所詮最高幹部には及ばないが。

「侮られたものね。わたしも幹部の座をいただく者、そう易々と勝てるとは思わないでちょうだい」
「ああ、だからこそ理解しているだろう。余程奴には会わせたくないようだな」

 最早エドガーは姿を隠すつもりもないらしい。眼下に広がる廃墟の中から溢れ出す圧倒的な力の奔流が、悪の大樹の最高幹部に君臨する力が、ただ在るだけで空気を凍らせ肌を刺す。
 彼女が差を理解していながら立ち塞がるのは、大方上司の手を汚させたくない、だとか下らない理由なのだろう。今は戦う必要の無い相手だが……。

「良いだろう、肩慣らしには丁度良い」

 あるいは幹部の情報は後々役に立つかもしれない、それに戦いを始めれば、“既に此方に気付いてる”奴の方から現れる筈だ。少年は左手を構えて、紅白球へと手を伸ばした。

「言ってくれるわね。良いわ、見せてあげる……私達の力を」
「無駄なことを、力の差を見るがいい。まずはお前だ、先陣は任せた」

 幹部の少女が空へと向けて、ツルギが低く放るように、投擲された二つのモンスターボールはかたや雨粒を弾きながら大空高くに舞い上がり、かたや何の感慨もなく低空で色の境界から二つに割れた。
 紅い閃光が迸り、獣の影が象られていく。力強く羽撃たく一羽と大地を踏み鳴らす牛は、赤光を払い顕現する。

「現れなさい、ドンカラス」
「来い、ケンタロス」

 天を衝く湾曲した双角、獰猛に嘶く巨躯の雄牛は、三叉の尾で自身を叩き付け闘争本能を昂らせていく。
 対するは漆黒の帽子を被ったまさしく濡羽色をした大柄の烏。彼は闇の翼を羽ばたかせ、眼下に踏み締める猛牛を見下ろし甲高く鳴いた。

「先手は貰うわ、わたし達の力を見せてあげる。ドンカラス……ゴッドバード!」

 大翼を広げて力強く羽撃たく烏。それはひこうタイプ最大の大技、本来は発動に時間を要するが……パワフルハーブが発動し、すぐさま攻撃体勢に移った。

「ケンタロス、受け止めろ」

 だがケンタロスは其処から一歩も動くことなく待ち構え、かなりの衝撃と共に泥が飛び散り飛沫が舞った。更にドンカラスは雄牛を蹴り付け素早く離脱、ストーンエッジを受けまいとした行動だろう。

「……っ、なんて耐久力なの。けれどまだ……」
「ケンタロス、かみなりだ」

 少女が絶句し、荒々しく蹄を鳴らして佇む雄牛は天へ向かって嘶いた。瞬間空に眩い閃光が迸り、雷の束が降り注いで高く飛翔していた烏は轟音と共に打ち落とされた。

「……っ、特殊技を入れていたなんて、意表を突かれたわ」
「続けてストーンエッジ」

 駆け巡る雷傷は身体が切り裂かれるような激しい痛み、それでも満身創痍の翼で辛うじて身体を持ち上げ、睨み付けた瞬間……峻烈に突き上げた岩柱により、胸を穿たれ吹き飛ばされた。

「……ドンカラス!」
「どうした、次のポケモンを出さないのか?」
「……っ、ありがとう、戻って休みなさいドンカラス」

 ぬかるんだ地面に激突して、泥だらけで転がるポケモンに慌てて駆け寄り抱き上げる少女。だがツルギは何の感情もこもっていない瞳で冷たく吐き捨て、彼女は対する敵を睨みながら紅白球を振り翳した。

「次はあなたよ……出て来て、ガラガラ!」
「戻れケンタロス。出て来いフーディン」

 続けて彼女が繰り出したのは頭蓋骨を被って太いホネを携えた小柄な怪獣。対してツルギが繰り出したのは銀の匙を翳し念動力に長けた空狐。
 ……一切の油断が無い。ツルギはあれだけ圧倒した直後にも関わらず最大限の注意を払って立ち回っている。確かにこれは厄介だ、なおさら負けられない……幹部の少女は強く再確認させられた。

****

 酷く風化して、剥き出しの鉄骨や外壁に走る蔦の目立つ灰錆びた廃墟群に一歩近付くごとに、水底に沈めなお輝かしい記憶が儚い泡沫と浮かび上がっていく。

「私もだよメタグロス、此処で過ごした日々は幸せだった」

 冷たい雨が体温を奪い、名残惜しげに、望郷にも似た色で紅い瞳を瞬かせる相棒のメタグロスを撫でながら、主のエドガーも瞼を伏せて想いを馳せる。
 今でも鮮明に瞼の裏に蘇る。リュウザキ夫妻やまだ赤子だったツルギ、研究所員達と笑い合った日々。共に未来を信じて夢を語り合っていたこと、その時の眩しい笑顔。
 スタンと共にヴィクトル様に師事し、共に切磋琢磨しながら強さを求め無垢に研鑽を重ねていた日々。弟弟子スタンの何度打ちのめされても諦めずに立ち向かう姿は、何よりも誇らしかった。 

「……愛しい日々は、十三年前に私達がこの手で滅ぼした。そして……其処から、オルビス団としての長きに渡る戦いが始まった」

 今よりもなお深い諦感を抱き、怠惰に堕ちたアイクを勧誘しにいったこともあった。勝利して仲間に誘った時に、彼は真底嗤い心からの悦びを浮かべていた。
 まだ幼児であったレイを、虐待にも等しい環境でひたすら文武共に打って鍛練し続けた日々。それでも彼は己を兄のように慕い、一つの事件を切っ掛けに壊れて欠けた継ぎ接ぎの心でなお折れることなく、絶望の中で一筋の希望に縋り立ち尽くしていた。
 浮かんでは消える泡沫の夢、時間は決して巻き戻せない。自ら捨て去った暖かな日々は胸に十字架と聳え続け、翳した力は忠義の槍となり罪を貫き突き立てられる。

「……決して赦されないのは分かっている。それでも私もメタグロスも、ヴィクトル様の為に堕ち続けると誓ったのだ」

 泥濘んだ大地には踏み締めた足跡が刻まれて、しかし篠突く雨に流されて次第に形が崩れやがて何も無かったかのように消えていく。
 振り返れば、辿った道は見えなくなっていた。失われた時間は決して取り戻せない、自身の犯した罪の重さを思い知らせるかのように──。



****


 苛烈に身体を射る矢の雨、どこまでも広がる泥濘は脚を掬い戦いの余波で跳ねる泥は時に視界を奪い時に身体にまとわりつく。
 だが少年とそのポケモンは悪辣な戦場をものともせずに戦いを続け、少女は次々に繰り出していく手を易々と上回ってくる強敵を相手に確実に次の手を潰され追い詰められていた。

「行きなさい……オーバーヒート!」

 戦いによって熱を増し、零れる蒼き燐火は全てを焼き尽くす紫炎となって口元に黎く渦巻いていく。その熱を最大限にまで高めて、更に朱色の宝石“ほのおのジュエル”が炸裂し全てを出し切る程の全霊を込めて……ついに、凄まじい灼熱が放たれた。

「無駄だ、受け止めろローブシン」

 だが少年は眉一つ動かさずに言うと、ローブシンは握っていたコンクリートを己の眼前に二柱立て、身を覆う盾として身構えた。
 降り頻る雨は熱を奪う。灼熱の極大光線に呑み込まれた視界は一切を払う紫紺に覆われ……やがて、冷たい雨の中に暗く晴れていく。

「そんな……」

 果たしてそこには、柱を杖とつき悠然と佇む老練の姿があった。
 天候が雨で威力が減衰してしまったから……否、そんな理由ではない。圧倒的な耐久力を誇り徹底的に鍛え抜かれ持たせる道具も厳選された彼のローブシンならば、天候に関わらず確実に今の一撃を耐えていただろう。

「所詮、そこが限界だ。終わらせてやろう、なげつける」
「シャンデラっ……!」

 自身の持てる最大の力を奮った反動で、シャンデラは動けずにいて……全力で投擲されたコンクリートの柱に対して、思わず眼を引き結んでしまった。
 幹部の少女が息を詰まらせる。だがそんな感傷など興味が無いと冷徹に、真っ直ぐに雨を切り裂き突き進むと燐火を燃やすシャンデリアへと直撃する。
 ……はずだった。

「そこまでにしてもらおう」

 瞬間、全てが静止した。矢となり身体を射貫き続ける篠突く雨も、今にも敵を穿たんと突き進んでいた巨柱も、圧倒的な力の接近に注意深く身構えていたローブシンと安堵に息を吐くシャンデラも……其処に在るもの全てが。
 そして投げ返された柱は持ち主の足元に転がって……徐に、二つの影が悠然と一歩を踏み締め歩んで来る。

「退きなさい、クリス。君達の実力では彼に届かない」

 研ぎ澄まされたその声は、雨の中で鋭く澄み渡り冷たく喉元へと突き立てられる。
 張り詰めた緊張感に固唾を呑み、憎悪を収めた瞳が強い決意と共に瞬き、双眸は現れた仇敵を確かに見据えた。
 
「待ち侘びたぞエドガー、まさか此処で相見えるとはな」
「奇遇だよ、君も赴いていたとはね」

 冷たく閃く決意の瞳が交錯する。誓った意志が鬩ぎ合う。慎重に身構えるフライゴンとメタグロスも闘志が静かに抜き放たれて……今にも崩れ落ちそうな静穏の中で、エドガーはクリス、そう呼ばれた幹部の少女を振り返る。

「エドガー様……分かっています、しかしあなたは」
「力の差は歴然だ、それは君も理解しているだろう。私は君を、命令を背くような部下に育てたつもりはない」
「……はい。ありがとうシャンデラ、あなたは戻って休みなさい」
「……まあいい、戻れ」

 悲しそうに揺れる氷の瞳は、誰に向けるでもなく瞬くと相棒であるシャンデラを休ませて、己の慕う上司へと深く頭を下げた。そして同時に、ツルギも紅白球を翳してローブシンを戻す。

「お先に失礼いたします、エドガー様。御武運を」
「案ずることはない、無論私は勝利するさ。さあ、帰りなさい」

 宙に固まる無数の雫が、一挙手一投足に反応し弾けていく。彼女は深追いする程の存在ではない、その背を一瞥するとすぐさま向かい合う最高幹部へと視線を戻し、苛立たしげに鼻を鳴らした。

「全く以て苛立たしい。自ら此処に赴くとは、余程心残りのようだな……笑えない冗談だ」
「返す言葉も無い。志を共にした者達をこの手で葬った私には、訪れる資格などないのだから」
「……鬱陶しい」

 少年は苛立ちに僅かに眉を潜め、翠竜は憤怒に拳を握り締めた。
 これで一笑に伏すような相手ならばどれだけ気が楽だったろう。彼は振り翳された怨嗟を真正面から受け止めて、真摯に怨恨に向き合ってくる。それが一層苛立ちを煽る、今更になって戯れ言を口走るなら、何故悪へ堕ちたのか……と。

「しかし驚いたよ、君とは幾度と刃を交えて来たが……見事に洗練されている」
「貴様を倒し、その先へ進む為だ。その度に見逃したこと……後悔するがいい」

 理解している、今なら分かってしまう、彼が己を見逃した理由。それは罪悪感だ、己の犯した罪故に働いた自己満足。だが……生憎逃げ出すつもりは毛頭ない、母と交わした約束がある限り戦い続ける。
 少年は腰に装着されたモンスターボールを掴み、左手を翳すと眼に惑わぬ意思を湛えて睨み付けた。その隣に侍るフライゴンは、腰を低くして睥睨している。

「翳された剣はこの手で払う。戦うと言うのならば容赦はしないさ」
「望むところだ。加減などは必要無い、此処で決着をつけてやる」

 真っ直ぐに突き付けられた闘志に冷淡に返して、青年も腰に装着された球へと左手を伸ばし……掴み取って翳した瞬間、再び時間が動き始めた。
 蒼白の風が頬を逆撫で 、宙に留まっていた無数の雫が一斉に破裂し、零れ続ける冷たい雨は尽きぬ慟哭の如く降り注ぐ。
 だが矢と射続ける雨になお霞むこと無き惑わぬ光は、暗闇の中煌々と閃く。鉄の忠義は泥濘に立ち聳え続ける。二人がモンスターボールを構えて向かい合い……惑わぬ意志が、今激突する。

「奴らの力はお前もよく理解しているだろう。出て来いギャラドス!」
「来るんだミロカロス、此処は君に任せたよ」

 投擲された互いの球は色の境界から二つに割れて、夥しい紅い閃光が空を切り裂き巨大な影を象っていく。
 赤光を払い現れたのは三叉の天を衝く角、長い髭に湖を思わせる強固な蒼鱗に覆われた巨大な水龍。全てを破壊し尽くすと謳われるギャラドスは、地の底から天を震わせ身体の芯まで痺れる程に威圧的で獰猛な咆哮を轟かせた。
 対峙するのは虹色の鱗を煌めかせる長大な麗魚。紅い眼を瞬かせ、尾びれを扇子のように優雅に、華麗に広げてみせる。
 凍り付くような寒気、威嚇の咆哮に思わず気圧されて攻撃に怯えが混じっててしまうが……ミロカロスは特殊攻撃の技をミロカロスは主体としている、さして問題にはならない。

「ギャラドス、アクアテール!」
「ミロカロス、ハイドロポンプ」

 雨によって強大な力を持つ二匹の力は更に昂り、内より迸る水流は凄まじい威力を以て溢れ出す。
 暗天を覆い尽くす程に激しく逆巻く蒼き大渦を纏い、破壊を齎す暴龍の尾が渾身の力で振り下ろされた。対するは開け放たれた口から噴き出す激しい波濤が逆巻いて、二つの技が激突した。
 鬩ぎ合う激流、余波で辺りの大地が吹き飛ばされ……しかし決着が付かずにどちらともなく炸裂して、雨の中滝のような飛沫が降り注ぐ。

「だったらこいつはどうだ、ぼうふう!」
「迎え撃つんだミロカロス、ふぶき」

 ずぶ濡れになりながら叫ぶツルギと、僅かも肩を濡らさず佇むエドガー。暴龍の怒号に此度は大雨を巻き込んで身体を切り裂く暴風が吹き荒れ、迎え撃つ麗魚が透き通る声で高く鳴けばたちまち空が凍りつき、雪花を乗せた極低音の冷気が一陣の風を呑み込んでいった。

「……っ、ギャラドス、かみなり!」
「流石だよ、その威力はただ食らうというのは惜しい、返させてもらおう」

 蒼き龍鱗が余りある威力に次第に凍り付いていってしまう。このままでは行動が出来なくなってしまう……その前に。
 龍の髭が輝くと空が瞬く間に眩く閃き、積乱雲から膨大な雷が束となり未だ冷気を迸らせるミロカロスを貫いた。だが……その主に同様は無い、始まる前から分かっていたように。

「ミロカロス、ミラーコートだ」

 それは受けた痛みをそのまま相手に返す大技。体内に蓄積された紫電を、痛みを自らの力に変換して、夥しい光が泥濘を吹き飛ばし龍の胸を貫いた──。
 刹那の静寂、大きすぎるダメージに静止してしまったギャラドスは、しかし次の瞬間には焼き切れそうになる意識を繋ぎ止めて凶悪な雄叫びを轟かせる。

「成る程、辛うじて耐えることを見越して放ったか、流石だな。だが……」
「これだけの代償を払い与えた傷だ、生憎その技は発動させん……ちょうはつ!」
「ほう……やはり聡明だな君は。このまま戦っても構わないが……」

 相手はミロカロスだ、ミラーコートを警戒していないわけがない。それでもツルギが無理を通したのは此処で確実に仕留める為だ。
 だからこそ回復をされてしまっては戦局が一気に不利に傾く、間髪を入れずにちょうはつによって発動しようとしていた“じこさいせい”を封じて、エドガーは素直に感嘆を呟いた。

「では……戻るんだ、ミロカロス」
「……鬱陶しい。戻れ、ギャラドス」

 このまま無理を通してギャラドスを倒すのは難しくない。しかし相手はあのツルギだ、ミロカロスを捨て駒にしてまで一体倒す程度では優位に立てない。
 それが分かっているからこそ少年も苛立たしげに眉を潜める。引き際を弁えている敵ほど厄介な相手は居ないのだから。
 暫し冷たい雫が降り注ぎ、雨音だけが響き渡っていたが……どちらともなく溜め息を吐くと、冷徹に侍っていた二つの影が動き出した。

「やはり此処は君に任せるのが適任のようだ。さあ行きなさい、メタグロス」
「奴らを此処で倒す、分かっているな。来い、フライゴン」

 雨に打たれ続け酷く冷え切った鱗を身に纏う翠竜と、露一つ付かずに金属の身体を鈍く輝かせる鋼鉄兵。互いの最も信を置く最強の相棒が待ちわびたように泥濘を踏み締め力強い一歩を踏み出し、主の眼前へと歩み出た。
 ──ああ。君は本当に、強くなった。全てを奪われた絶望から這い上がり、己が怨嗟すら殺して巨悪の大樹へと刃を突き立てるに至ったのだから……。

「……久しいな、リュウザキ主任が君に御守りとしてつけていたナックラーがこれ程までの成長を果たすとは」
「今でも忘れたことはない、そのポケモンが俺の母親や研究員を手に掛けたのだからな。ようやく本気を出す気になったか」

 時の流れに呑まれて褪せていく遠き記憶の中に、今なお色濃く残り続けるかつての日々に在ったポケモン。忘れられない、忘れられるはずがない。向かい合う敵は彼方の過去を呼び起こし、瞼の裏に克明に映る。

「では行かせてもらおう。メタグロス、ラスターカノンだ」
「迎え撃てフライゴン、ドラゴンクロー!」

 夥しい破滅の光沢を束ねた白銀の螺旋が宙を切り裂き、蒼き粒子を纏い形成された竜爪が真正面から迎撃した。
 余波で一帯を焼き払う光と光。視界は鬩ぎ合う光の波に呑まれて、「フライゴン!」翠竜が空高く飛翔すると、遮るものの無くなった光線は背後で盛大な炸裂を起こした。

「此処で一気に切り崩す、ドラゴンダイブ!」
「迎え撃つんだメタグロス……コメットパンチ!」

 そしてお互いに最大の大技を以て迎え撃つ。宙には蒼き星光を鎧と纏う翠竜が闇を切り裂く一条と閃く。対して全てを滅ぼす白銀の奔流が鉄槌の如き巨大な腕に収束し、眩く輝きを纏い光の尾を引く彗星の拳となり振り翳された。
 二つの大技が激突し、一瞬の閃光が世界を照らすと、直後凄まじい衝撃に天地が震え膨大な光の奔流が溢れ出していく。白夜の眩さで鬩ぎ合う蒼き流星と白銀の彗星、際限無く力を高め四方八方放射状に拡散する光条は泥濘を貫き乱雲を突き破る。
 対する敵を打ち倒さんと噴き出す星光は激しく撒き散らされ続けるが……その一筋が、エドガーの背後に広がる施設を掠めた。

「しまっ……!」
「くっ……!」

 ……あまりに脆く焦点が崩壊し、刹那に世界を覆い尽くしていた光が収縮すると、二人と二匹は狼狽を露に動きを止めた。互いの相棒は足元に戻り、先程までの荒々しさが嘘のように冷徹に泥濘の中に立ち尽くしている。

「本当に強くなったよツルギ、今の君達の刃には確かな勇が宿っている。だが……」
「ああ、分かっている。……鬱陶しいが仕方がない、決着は終焉の日に付ける」
「話が早くて助かるよ」

 最早廃墟と化しているが、それでも敬愛する者達と共に過ごした跡地を自らの手で壊すわけにはいかない。
 紅い閃光が迸り、フライゴンとメタグロス、二匹のポケモンはモンスターボールの中に戻っていった。
 尾を引く光の残滓が露と消え、冷たい雨が肌を打つ。
 静寂が包み、髪が張り付く。瞳を僅かに揺らし、踵を返そうとした時に口を開いた。

「君のご両親、多くの研究員達……彼らには赦されないことをした」
「……ああ」

 目の前で斃れていく人々やポケモン達の姿は今でも、克明に瞼の裏に焼き付いている。その声は深い悲しみを湛え、しかし揺らがぬ鋼鉄の決意に満ちていて……。

「この地方の未来を担う筈だった計画は月桂冠の勝者に簒奪され、彼らの生きた証は彼が育んだ幹によって虚無へと還った。もう、後戻りは出来ない」

 身体は雨粒にすっかりずぶ濡れて、青年は貼り付いた長髪を掻き分けて嗤うと、瞼を伏せて言葉を続ける。

「……もう間も無く、全ての因縁に決着が付く。だから私は、最後にかつて共に未来を願った仲間達に別れを告げに来たのだ」
「……大方、そんなことだろうと思っていたよ」
「ああ、君と同じさ、ツルギ」

 どんな言葉を投げ掛けられようと、己の信念は変わらない。サヤから「エドガーの瞳は悲しみを湛えている」と聞いていた、それに奴の性格を省みれば此処に来た理由などある程度想像出来るのだから。彼方が……俺の目的を理解しているのと同様に。

「覚えておけ。俺達は貴様らを赦さない。必ずこの手で悪の大樹を根本から絶ち、その先へ進む」
「君も理解している筈だ、誰もヴィクトル様には敵わない。あの方は生まれついての勝者、運命に愛されているのだから」
「さあな。絶望的な力の差など、俺達は幾度と越えてきた」
「……確かに、君も仲間も、最高幹部に匹敵し得る程に強くなった。最期の刻……どこまで抗っていられるか、心待ちにしているよ」

 そして、紫の長髪を風に吹かれて眼を細め佇む青年が懐から取り出した球を放ると紅い閃光が迸り、光が晴れるとその姿は瞬く刹那に掻き消えた。
 手持ちとは別の移動用のポケモンで、テレポートを使わせたのだろう。其処にはただ一人、止まない雨に降られ続ける少年だけが残された。
 水滴の滴る漆黒の髪は鬱陶しく視界を遮って、頬を逆撫でる蒼白の風は上着を慌ただしく弄ぶと何処か遠くへ吹き抜けていく。

「ああ、そうだなフライゴン。俺達は必ず……全てを壊して、皆の願った未来を切り開く」

 腰に装着された紅白球が軽く揺れて、そこに収められていた相棒が揺るが無き意思を伝えてきた。彼は口元に穏やかな微笑を湛えながら、確かな想いでそれに頷く。
 見下ろせば、かつて希望を求めて始まった計画は虚しい廃墟と広がって、並び立つ希望の残骸は今にも崩れ落ちそうな程に、儚く、脆く、雨中に佇んでいる。
 踏み締めた泥濘は果てが無いかのように続いて、しかし……見上げた宙の彼方には、戦いの余波で欠けた雲の隙間から僅かな光が射し込んでいた──。

■筆者メッセージ
サヤ「ねえ、ツルギ。どこに行ってた、ですか」
ツルギ「お前には関係ない」
サヤ「ある、です。わたしはあなたのアイボーですから」
ツルギ「鬱陶しい」
サヤ「そんなに濡れて…早くお風呂に入って、あたたかくしないと、風邪を引いちゃいますよ」
ツルギ「お前が居なければすぐに入れるんだがな」
サヤ「そっか。待ってくれてるなんて、やさしい、です」
ツルギ「ある意味尊敬するよ、その能天気さは」
サヤ「えっへんっ、ですっ。もっとほめて、ください」
ツルギ「……最早何も言えないな……」

ジュンヤ「なあ、サヤちゃんってやっぱりサヤちゃんが思ってる程好かれては無いよな…?」
ノドカ「えへへ。でも、あれはあれで良い関係だよね!ツルギくんも邪険に扱ってはいても、本気で追い返そうとはしないし!」
ジュンヤ「まあ…そうだな。むしろサヤちゃんはあれで良かったよね、あのくらいポジティブじゃないとやっていけなそうだもんな」
せろん ( 2019/11/15(金) 05:47 )