ポケットモンスターインフィニティ



















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第十二章 残された七日
第90.6話 小夜に瞬く星々
 既に黄昏を過ぎた宙は光を失い、仰げば一面闇が広がって。風を切る鋭い弦月は流れる薄雲に朧に霞み、冥暗に惑わぬ無数の星々が、煌々と瞬き冷たい夜を柔く照らしていた。

「……もう間も無く、決戦の刻が訪れる」

 かつて己と相容れない一人の少年と激闘を繰り広げた湖畔。静謐を湛える凪ぎの水面には巨大な剣塔と鏡月が夢幻のように淡く揺蕩い……瞼を細める少年の頬を、冷たい逆風が吹き付けた。
 星霜の彼方に置き去りの望郷を眺めるかのように、此処では無い何処へと想いを馳せて鮮やかに煌めく星空を見上げる一人と一匹。
 臙脂の上着を羽織った外跳ねの黒髪、鋭く険しい切れ長の眼をした少年ツルギ。紅いレンズの下に利剣の双眸を秘めた、二対四翼を携えし翠竜フライゴン。

「奴らがどれ程強大な力で待ち構えていようが、俺は勝つ。……決して忘れない、十三年前に、奴らが起こした惨劇を」

 もう長い付き合いとなる己の主の、力強く確かめる呟きに淡々と頷くフライゴン。
 惑わぬ星辰を湛える黎き双眸に映るのは、まだ幼く弱い己に希望を託し、眩く輝きに溢れた未来を永劫閉ざされてしまった女性。
 紅い眼鏡の下に細められる利剣の眼には、最愛の息子の子守りとして己に『ツルギの世話を任せた』と嬉しそうに微笑んでいた夫婦の姿。
 いや、両親だけではない……忘れられない、忘れてはいけない。

「エドガー……奴は世界の未来を裏切った。俺は決して奴らオルビス団を赦さない、だが……」

 ……少年は、眉間に深く皺を刻み、血が滲む程に強く唇を噛み締め……その顔に普段の彼からは想像も出来ない深い憎悪と屈辱、哀しみのない交ぜになった濃い影を刻みながら、しかし平素を装う冷淡な言葉を紡いでいく。
 彼らが幼年期を過ごしていた研究施設はエイヘイ地方の未来を担う一大計画に取り組み、皆が希望の為に日夜研究に明け暮れていた。だが……彼らは誰よりも信頼していた仲間に裏切られ、無念と悔恨に塗れて焔に呑み込まれていった。そしてその痛みも苦しみも忘却の彼方へ霞んだままに時が過ぎたが……漸く、清算の時が訪れる。

「だからこそ、思考を乱す感傷を捨て俺は約束を果たさなければならない。母上に……託されたからな」

 俺は決してエドガーを赦さない。この戦いを終わらせて、俺は……。内に尚尽きぬ逆巻く激情を噛み殺し、漸く彼らしい無感動で冷徹な表情が戻り始めて来た。
 今でも目蓋の裏に焼き付いて離れないその姿は、言葉は、昨日のことのように鮮明に思い出せる。彼女は最期に言った、『私達の、あの人の出来なかったことを成し遂げて欲しい』と。

「俺は一人で戦い続けると誓っていた、目的を果たす為なら何を利用してでも強くなる、俺だけが戦えば良いのだと」

 誰の手も借りない、渦中に飛び込むのが己だけなら誰も巻き込まず、傷付くことも傷付けることもない。だから独りで戦って来た、強いポケモンだけを集めて来た。しかし……結局俺は、サヤの同行を許してしまって。
 今になって漸く理解出来る、何故あの時俺は彼女に慈悲を掛け、同行を許したのか。恐らく……自身に限界を感じていたからだ。

「……奴との闘いは、嫌でも己の弱さを思い知らされた。俺が捨ててきたものを大事そうに抱えるあいつらに……お前が切り崩されたのだからな、フライゴン」

 自身の無力を嘆くように首を振る相棒に、しかしツルギは「いや、弱かったのは俺だ」と端的に己の弱さを噛み締める。
 自分に力不足を突き付けて来たのは……他でもない、赤い帽子を被った、鬱陶しく食い下がってくる彼らだ。
 己の至らなさを自覚していながら身に余る壮語を吐き、現実から目を背けるようにぬるい理想を掲げて楯突いてくる臆病な少年。……だが、限界以上の力で切り込んで来る鬱陶しい奴に、俺のビブラーバが土をつけられてしまった。
 少しは強くなったつもりでいた己の限界を嫌でも思い知らされた。全てを擲ってまで求めた強さが、最も信じる俺の“力”が相討たれて。

「鬱陶しい、認めたくは無いが、奴らの底力は侮れない。此度のフルバトルでも限界以上を引き出して俺の“力”に立ち向かい、……あいつらは、俺に無い強さで食い下がって来た」

 奴は俺が強くなる為に擲って来た全てを力に変えて、戦う度に確実に強くなっている。仲間達に支えられ、大切なものを守る為に命を投げ出す覚悟で全霊を賭して。
 あいつは俺を苛つかせる、弱いくせに諦めずに何度も捨て身で鬱陶しく立ち向かい楯突いて来る。そして此処に至って目覚ましい程の成長を遂げ……或いは、悪の大樹の幹を脅かし得る可能性を見せているのだから。

「……分かっている、俺は一人で強くなれたのでは無い。あのまま独りで戦い続けていれば、今へ至ることなく果てていた」

 この旅の中で……一歩踏み出すのに一年掛かるように漸進的な、己でも気付かぬ間に訪れていたうつろい。自覚した時には既に制御出来ず、……未だ届かぬ星に近付けたというのなら、何よりの契機はサヤとの出会いだろう。
 彼女がゴルドナシティ……ヴィクトル率いるオルビス団侵攻の折に俺に突き立てた言葉、『感傷に流されるなど俺らしくない』……全くもってその通りだ。少なくともあの時に於いてはサヤの方が余程冷静に物事を俯瞰していた、彼女も……同様に、エドガーに全てを奪われたにも関わらず。

「ああ、我ながら情けない。俺がお前達に言い聞かせ続けてきたことを……誰より俺自身が実践出来ていなかったのだから」

 エドガーを前に憎悪を抑え切れなかったのは一度だけではない。幾度と自制を失い、懲りずに何度も叩きのめされ……感情に振り回されていては勝てない、数え切れない程目の当たりにし、味わってきたにも関わらず。
 ……かつて自分は、憎悪の牢に囚われていた。逆巻く激情の渦に呑まれ、数え切れない程辛酸を舐め、幾度と挫折を味わい……サヤとの出会いによって漸く、現在に辿り着くことが出来た。頭では理解していながらも時に激情に呑まれてしまう未熟な自分とは決別を果たし、憎悪は心底に封じ込めた。
 サヤとの出会いが、彼女の愚直な“強さ”が俺に大切なことを思い出させた。俺の戦う理由、俺の戦う意味……それは、父の遺した課題を成し遂げることにあるのだと。

「……俺は何を捨ててでも強くなる、全てを壊しこのエイヘイ地方の未来を切り開く。それが両親の、サヤの……俺自身の願いだ」

 満天に星空に手を伸ばし、闇に輝く銀河を掴み取るように力強く拳を握り閉めた。夜の帳の先には願っている未来がある、かつて両親が望み、俺が切り開かんと誓う永平を湛える世界が在る。
 ……この戦い、必ず勝つ。悲劇の連鎖を終わらせて、俺は……。

「ツルギ、ここにいた、ですね」

 か細く透き通るような淡い呼び掛け。踵を返すと、隣にドレスをなびかせる白騎士を侍らせた小柄な少女が、濡羽烏の髪をつやめかせながらこちらへ向かって駆け出して来た。
 彼女は足元まで来ると気持ち良さそうに深呼吸をして、冷たい向かい風を浴びながらふわりと柔らかな微笑みを浮かべた。

「お前か」

 相変わらず眉一つ動かさぬ壁のような表情、抑揚の無い平坦な声で応えるツルギに、しかし少女は気にせず語りかける。

「……ツルギ、ほんとに、ありがとう、ございます」
「別に、感謝される謂れは無い」

 深々と頭を下げて、これまで幾度と自分を助けてくれた相棒である彼へ日頃の感謝を口にする。少年は呆れたと言わんばかりに吐き捨て興味なさげに視線を外すが……サヤは首を横に振って「いわれはあります」とはにかんだ。
 
「あなたは何度も、助けてくれました。わたし、わかります。あなたがほんとはやさしい人ってこと」
「お前は俺の道具に過ぎない、必要だと判断しただけだ」
「それでも、わたしはあなたに、感しゃしてる、です」

 出会ったばかりの時にオルビス団から助けてくれたこと。うまく喋ることすら出来ない自分を拾ってくれたこと。旅の中でも幾度と自分を助けてくれた。
 ……それ以上に、気づけば置いていかれ時には囮に利用され、数えきれないくらいムシされたりもしたけれど。それはそれ、フツウにやさしくしてくれるツルギなんて、ブキミです。

「……ふふっ」
「なんだ、気持ちの悪い奴だな」
「なんでもな……って、そ、それはちょっと、ひどい、です!」

 ツルギは顔は怖くて実際に厳しく冷徹で酷い扱いはしてくるが、きっと不器用な優しさも持ち合わせていて……そんな彼を想うと、自然と口元が綻んでしまう。
 穏やかな笑顔は今皆と過ごせる不謹慎な幸せに柔く揺れて、二人と二匹は何を話すでも無く天上を仰いだ。
 此処で交わした、鎬を削り合う激闘が白昼夢に思える心地良い静寂が冷ややかに満ちて、蒼白の風が頬を逆撫でる。遍く照らす陽射しを失った宙を果てしない夜が包み込み、闇に輝く星辰は冥暗を照らす希望に瞬いていた。

「……わたしは、気がついた時から、ポケモンに育てられてて」

 ……しかし、混沌を齎さんとする悪の大樹が脳裏を掠めて、不意に暗く濃い影が射し込んでしまう。ふと零した言葉を彼は聞き逃さなかった。

「ヒトのトモダチは、あなたが初めて、でした。オルビス団に、エドガーさんたちに……みんなも、故郷も……」

 夜闇は時に人の内に閉じ込められた感情を顕にしてしまう。それは……普段こそ健気で気丈に振る舞っているが、サヤとて例外では無い。

「でも……。あのとき、ううん、エドガーさんはいつも……悲しい目をしてて。レイさんは、仮面をかぶってるみたいに、ほんとの顔が、見えなくて」
「……下らないな、何が言いたい」
「ええと、それは、その……」

 溢れ出す言葉を感情に任せて流した少女へ、彼は相変わらずの冷淡な調子で応える。問い詰められて、暫しの逡巡の後……ようやくまとまったのか、彼女は意を決して慎重に言葉を絞り出した。

「わたし……分からない、です。今まで、誰にも傷付いてほしくないから……たたかって。でも、みんなが、なんで、たたかわなきゃなのか。止められないのかな、って……」

 一度堰を切った心の濁流はもう止まらない。今まで必死になって逆巻く感情を抑圧し続けていた分、とめどなく涙が零れ続けてしまう。
 ……思えば、初めてだ、彼女が泣いているところを見るのは。どんなことがあっても必死に堪えて立ち向かい、宙だけを見上げてきたサヤが初めて零した涙。
 少女の心に刻まれた深い爪痕を夜闇は如実に浮きき上がらせてしまい……切実に吐き出されていく心に、少年は何も言わずに耳を傾け続けた。

「みんなに、会いたい、です……! もう、サーナイトたちが、傷つけるのも、傷つくのも……いや、です……」

 守る為には戦わなければならない。傷付けない為に傷付けなければならない現実……戦いが厳しくなるにつれ嫌でも突き付けられてしまうジレンマに次第に向き合い始めていたサヤが、此処に至ってその重みに耐え切れなくなってしまったのだろう。二律背反に惑う混濁の感情、なすすべも無い行き詰まりに……しかし、彼女の発言には齟齬がある、一つ大切なことを見落としている。

「泣くな、鬱陶しい。人を傷付けるのは人だ、ポケモンでも道具でもなくな」
「……そう、ですね。ツルギの、言う通り……です」

 サーナイト達は、わたしのせいで……苦しい目に。自分が居なければ戦う必要は無かった、自分のせいで苦しい想いをして戦わされていて……。
 当たり前のことに気付いていなかった。サーナイトは首を何度も横に振って否定してみせるが……サヤは気付かないふりをして遮っていた責任を突き付けられて、言葉に詰まってしまった。
 砕けて散った硝子のように事実が冷酷に突き刺さる、だが……そんなこと興味無いとばかりに彼は口を開く。

「サヤ、奴はオルビス団が奪ったポケモンをどうしていると言っていた」
「レイさん……ですか? レイさんは、そう
だ、『動力げん』として、『都合が良かった』……って」

 中天が照らす白日の下、色濃く刻まれた影の如き少年との対峙の記憶を必死に辿れば……その木陰には残光が霞んでいた。そして……理解した、彼が何を言いたいのか。

「そっ……か。みんなは」
「そうだ、お前の故郷のポケモン達は生きている。父の研究は何かを傷付ける為ではなく、この永平を豊かにする為に始められたのだからな」

 そしてその予測は……以前奴と対峙した際の、奴の 『捕まえたポケモンをどうしているか、でしょ?』『きっとキミの予想通りだよ!』という返答と此度の問答を経て確信へ変わった。自分の予測通りであり、父の研究を簒奪した機構の動力源となっているのなら捕まったポケモン達は皆生きているのだ、と。

「みんなは……。そう、なんですね……」

 わたしは、動力げんにする……どんなことをするのか、分からないです、けど。ツルギが言うなら……信じられます。

「良かった、故郷のみんなは……。生きて、るんですね……!」
「お前が逃げ出すならば一向に構わん。だが、お前はそれを理解していながら逃げ出せる程強くない」

 ……みんなに、また会える。きっと今も苦しんでる、なら。
 サーナイトと顔を見合わせて、腰に装着されていた五つの紅白球の中で静かに話に耳を傾けていた仲間達と頷き合う。

「戦いに意味を求めるな、お前は何も考えずに立ち向かえばいい。所詮お前は……俺の道具に過ぎないんだからな」
「ツルギ……。……ありがとう、ございます」

 まだ、自分の中で……しっかり割り切ることは、できないけど。故郷のみんなを取りもどすためなら、わたしは。
 きっとツルギは……道具に罪は無い。わたしのことを、なぐさめて、くれてるです。わたしが迷いそうになった時は、いつも力強く背中を押してくれて。

「ツルギはやっぱり、つよい、です」
「当然だ、強くなければ此処に居ない」

 ツルギが背負っているものは、きっと、わたしの想像よりずっと重くて。それでも押し潰されずに立ち向かえるのが、ツルギの一番の強さです。

「俺はオルビス団をこの手で壊す。奴らが如何な信念を抱いていようが、その行為は紛れも無く悪逆なのだからな」

 かつて相容れぬ相手と激闘を繰り広げた湖畔。静謐を湛えた水面には鏡写しの弦月が朧に揺蕩い、冷たい逆風が頬に吹き付ける。しかし……二人と二匹が見上げた燦陽無き小夜の天上には、人々を導く道標のように無数の星々が満天に眩く瞬いていた。

■筆者メッセージ
サヤ「ツルギ!それはそれとして、ほめて、くれますか?」
ツルギ「鬱陶しい」
ノドカ「えへへ、えらいねーサヤちゃん。よしよし、かわりに私がほめてあげるからねー!」
サヤ「ありがとう、ございます……!」
ノドカ「かわいいよサヤちゃん!いつもがんばっててえらい!もー、妹にほしくなっちゃうなー!」
サヤ「え、えへへ……。……ツルギ、どうしても、ダメ、でしょうか」
ツルギ「鬱陶しい」
サヤ「でも、やっぱり……」
ツルギ「くどい、何度も言わせるな」
サヤ「ですが……」
ツルギ「……イラッ」
サヤ「だ、だって!」
ツルギ「……もういい、先に戻らせてもらう」
ジュンヤ「あ、あーっ……。なんだよ、ほめてあげてもいいのになあ」
サヤ「でも、あそこまで付き合ってくれて、やさしい、です」
ノドカ「よ、よかったよサヤちゃん……!」
せろん ( 2019/07/20(土) 18:54 )